だいじなひとには名前を書きましょう
初投稿です。よろしくお願いします!
生まれて初めて見る、家族以外の男性の下腹部。そこには、彼の妻の名前が書かれていた。
パークス伯爵家のメイドになる事が決まって有頂天だった私に、周りの人たちは皆、口を揃えてこう言った。
「伯爵様は女に手が早いらしいから、上手く取り入って愛人にしてもらえば一生安泰よ」
いやいや、どんなに女好きな旦那様だろうが私に食指が動くとは到底思えないし、そんな甘っちょろい夢を見るほど私の頭は沸いてない。
自慢じゃないけどこの私、ナタリアは15歳とは思えないほど真っ平らな胸、柔らかさなど感じられない精悍な顔立ち、ガリガリすぎて髪を伸ばしていなければ、男の子と間違えられそうな姿形……と、自分で言っていて悲しくなる程、女らしさとは無縁の外見だ。
それに比べて、旦那様のアーロン・パークス伯爵は金髪碧眼の美丈夫で、近隣の女性たちにモテモテだ。更に、奥様のディアドラ様は長い黒髪と紫の目をした妖艶な美女。豊満な胸元と肉感的な唇の側にある黒子がめちゃくちゃ色っぽい。
この完璧美形夫婦の間に割り込む隙間など皆無。旦那様の愛人になるのを想像するだけでも身の程知らずというものです。
私に愛人にしてもらえと言った女性たちは、全員目が笑っていたから、天地がひっくり返ってもそんな事は起こらないだろうと小馬鹿にしていたに違いない。
働き始めて1ヶ月経った。
嫌でも、パークス伯爵家の夫婦仲がめちゃくちゃ悪いという情報が耳に入って来る。
なんでもパークス伯爵家は、ディアドラ様のお父様に莫大な援助を受けていて、アーロン様は頭が上がらないらしい。
そのことが面白くないからか、アーロン様は妻に八つ当たり、家庭内別居状態で浮気しまくっているともっぱらの噂だ。
ディアドラ様はディアドラ様で、夫に干渉されないのをいい事に連日外泊続きで遊び回っている。
すれ違い、冷え切った夫婦仲とは対照的に、パークス伯爵家の使用人達は優しく温かい人ばかりだった。
私は新米ながらも与えられた仕事を懸命にこなし、少しでもみんなの役に立てるように元気いっぱい働いていた。
私のメイド生活は、順風満帆だったはず。
だから今現在のこの状況が、私のちっぽけな脳みそでは全く理解出来なかった。
私は、アーロン様の寝室のベッドに押し倒されて、裸に剥かれていた。
***
暫く経って私とアーロン様が着衣を整えていると、蝶番が外れそうな勢いでドアが開き、パークス伯爵家奥方のディアドラ様が長く美しい髪をなびかせて押し入って来た。
「アーロン、あなたどういうつもり? まだ歳若いメイドの娘にまで手を出すなんて」
「部屋に入るときはノックをしろといつも言っているだろう、ディアドラ」
やばいやばい!これが噂に聞く修羅場と言うやつですね。
生まれてこの方、男女の色恋沙汰に全くご縁が無かったもので、お貴族様の愛憎劇を、目の前の特等席で見られる日が来るとはついぞ思いませんでした。当事者でさえなければ楽しませて頂いたものを。残念です。
部屋から出て行くタイミングを完全に逃したので、せめて2人から安全な距離を取ろうと、じりじりと音を殺して壁際へ後退を開始する。
「先日はクロッツァー男爵夫人、その前はモダンローズ洋装店の女主人がお相手でしたわね。貴方って、まるで見境のない雄犬のようですわ」
「君こそ、先日の外泊の理由が、シモンズ子爵やキャラハム侯爵と一晩中カードゲームをしていたからだって? もう少し信憑性のある言い訳を考えたらどうだ」
「ふんっ、こんな痩せっぽちで貧相な娘相手にするなんて、貴方の好みって壊滅的ね」
「そういえば昔のディアドラは、男勝りなじゃじゃ馬だったな。そんな君と婚約して、結婚した俺の好みは確かに壊滅的なようだ。まぁ、俺の嗜好が反映されない、ただの政略結婚だったがね」
「な、何ですって!」
ディアドラ様の顔が怒りで真っ赤になり、ブルブルと震えた。
言い争いはその後もしばらく続いて、成り行きを見守っていたが、夫婦仲がこんなに険悪ならば、私が愛人立候補しても良いんじゃないかと思い始めていた。
だって、そもそも旦那様の好きなタイプだったから私の事を押し倒したんだよね? 私を好きとか、変わった趣味だと思うけど、仲良く3人で暮らして行くっていうのも、ひとつの選択だと思うの。
私が馬鹿な考えを巡らせている間に、怒りが沸点を突破したディアドラ様がとうとう「私は出掛けます。朝まで帰りませんから!」と言い捨てて部屋を出て行きかけて、焦ったアーロン様に腕を掴んで引き止められた。
「こんな夜更けにどこへ行くんだ! まさか、またキャラハム侯爵家ではないだろうな」
「私がどこへ行こうと、あなたには関係ないでしょう。この手を離して頂戴」
「関係ないわけないだろう! 我がパークス伯爵家の馬車がキャラハム侯爵家に行ったとなれば人目につく。口さがない者たちに我が家の尻軽女のことを噂されるのはパークス伯爵家の恥だ!」
「では徒歩で参ります。それで文句はないでしょう」
「…………!」
ディアドラ様は腕を振り切ってアーロン様の手から逃れると、そのまま足音高く部屋を出て行ってしまった。
残されたアーロン様は唇を噛み締めて悔しそうに、というか目に悲しい色を浮かべてディアドラ様が去っていく方向を見ていた。
「……あの、旦那様。大丈夫ですか」
アーロン様のあまりにも沈痛な表情に思わず声を掛けてしまったが、アーロン様は今初めて気付いたかのように私を見た。
あれ? もしかして私の存在忘れてました?
そういえば、普通は浮気相手って夫婦喧嘩の重要な位置付けのはずなのに、どちらも私を一顧だにしないまま互いをなじり続けていてましたね。……やっぱりこの場で愛人立候補しなくて正解だったかもしれない。
「ナタリア、お前には迷惑を掛けて済まなかった。今後も我が家で働くうえで、ディアドラに何か言われたらすぐ私に言って欲しい。決して悪いようにはしないから」
「はい、旦那様」
「……もう下がりなさい。ゆっくり休むといい」
私は一礼して、逃げる様にその場を後にした。
パークス伯爵家の使用人は同じ敷地内の離れに住んでいる。
私のような新米メイドにも個別の部屋を与えてくれて、実に好待遇な職場だ。
月明かりの下、離れに続く石畳みの道を歩いて帰る途中、ふいに肩を叩かれて振り返ると、ディアドラ様が酒瓶を抱えて立っていた。
「あなたの部屋に案内しなさい」
「お、奥様、出掛けられたのではなかったのですか」
「危険な夜道を本当に徒歩で行く訳ないでしょ。外に出たふりをしてあなたを追っ掛けて来たのよ」
ディアドラ様は腕をがっしりと掴んで私を強制連行する。「夫の浮気相手に反論する権利はないのよ。ほら、早く」
***
私の部屋に着くなりベッドにどっかりと座り込み、持参してきた『アーロンのとっておき』で猛然と酒盛りを始めたディアドラ様は、身の置き所なく立ち尽くしていた私に隣に腰掛けるよう促した。
「で、あなた、いつここを出ていくの? パークス伯爵家の当主に色仕掛けして、ただで済むとは思ってないでしょうね」
怒りからか、はたまた酔いがまわっているからか、完全に目が据わってます。こ、怖い。
「あなた確かナタリアよね、うちに来て1ヵ月位の。真面目にしっかり働いてる子だって思ってたのに裏切られた気分だわ。あの人をたぶらかして愛人になろうなんて考えは、今すぐ捨てることね」
うわ〜っ!?
チラリと心を掠めた私の愛人立候補計画が見破られている!
やっと見つけたメイドとしての就職先なのに、このまま追い出されたら生活出来ないじゃない。
ディアドラ様、絶対さっきのことを誤解してるよ。まぁ状況が状況だけに無理はないけど。
この先もパークス伯爵家で働きたいから、やっぱりあの事はちゃんと言わなくちゃいけない。
「奥様! 私、旦那様と何もしていません。確かにベッドに引きずり込まれて裸を見たし、見られちゃったけど、それだけです!」
「へっ?」
「本当なんです!」
真実はこうだ。
アーロン様に御酒を頼まれ部屋に持って行った際、私はベッドに押し倒されて、あっという間に裸にされてしまった。
あまりのお子様脳のせいか、最初自分に何が起こっているのか全く理解出来なかった。
あ〜、お貴族様の寝具は想像していたよりずっと柔らかふかふかだな〜、などと悠長な事を考えていた。
アーロン様が1枚また1枚と服を脱ぐのを、茫然自失の体で見ていた私は、下腹部の、ある一点から視線が外せなくなった。
いったい、どーいう事??
何故、アーロン様の局部の裏側に、黒い字で『ディアドラ』と書いてあるの???
私があまりにも凝視するそこを、全裸のままのアーロン様は、訝しげな顔をしながら姿見で確認しに行った。
途端に「ぎゃぁぁぁっ!! なんだこれはっ! ディアドラか、ディアドラが書いたのかっ?!」という叫び声が聞こえてきた。
ややあって、アーロン様はがっくりと肩を落としてベッドの方に戻ってきた。
アーロン様のアーロン様も、力を無くしてうなだれていた。
「…………」
「…………」
私たちはお互いに無言で、脱ぎ捨てられた服を着たのだった。
「あはははははっ! なにそれおかしいっ!」
ディアドラ様はお腹を抱えてひーひー笑い転げ、あわやのところでベッドから落ちそうになりながら、目尻に浮かんだ涙を拭った。
先程の激昂した様子から一転、笑い魔と化している。
お酒が入っているとはいえ、こんな開けっ広げな人だったんだ。
「あなたから誘った訳ではなかったのね。ごめんなさい、ナタリアが無事で良かった。改めてアーロンにはきつくお灸を据えておくから許してね」
「あはははは……」
何とか嫌疑が晴れて、首の皮が繋がったことに安堵する。
話によると、2日ほど前の早朝にアーロン様の寝室に忍び込んだディアドラ様は、ぐっすりと眠る夫の下着をおもむろに引き下ろし、本人に気付かれないように局部の裏側に『ディアドラ』と書き込んだのだそうだ。
裏側に書いたことが功を奏したのか、本人は用を足した時も、入浴した時もまるで気づかない様子。いつアーロン様が名前を発見して怒鳴り込んでくるかと、それはそれは楽しみに待っていたらしい。
結局気がついたのは浮気現場で、それが原因で行為が成立しなかったことに、ディアドラ様はご満悦だった。
なぜ自分の名前を書いたのかと理由を聞くと「嫌がらせよ」という簡潔な答えが、いい笑顔と共に返って来た。
「すごいわこのペン、浮気防止効果もあるのね。早速お父様に報告しなくっちゃ」
「旦那様が可哀想なので言わないであげて下さい」
すっかり酔いが回って暑くなり、下着以外の衣服を全て脱いでしまったディアドラ様は、ドレスの隠しをゴソゴソ探ってペンを取り出した。
聖女印の油性ペンだ。
数年前、異世界から召喚された聖女様が所持していた筆記用具を、研究し量産した物で、何にでも書けるし消えにくいと大評判のペンだ。ちなみにディアドラ様のご実家の商会が販売している。
「思い出と共にとっておいて」と笑いながらペンを渡され、アーロン様に書き込んだそれを、もらっても良いものかどうか複雑な気分だったが、庶民にはなかなか手が届かない高価な代物なので、素直にポケットに入れた。
ディアドラ様はもはや酩酊状態寸前だ。
私のことを何故か気に入ったらしく、自分付きのメイドになれと、背中をバシバシ叩いて来る。地味に痛い。
今なら何を聞いても、目覚めた時には何も覚えていないだろうと、私はずっと気になっていた事をディアドラ様に聞いてみた。
「お二人はどうしてそんなに仲が悪いんですか?」
「……う〜ん、なんでかしらね」
アーロン様は、私には──もちろん私にだけじゃないけど、とても優しい方だ。
この家の使用人たちへの待遇の良さや、労いは決して上辺だけのものではない。
なのに妻への態度だけが露骨に悪いのだ。
ディアドラ様はベッドにゴロンと仰向けになった。
「……昔は私たち仲が良かったのよ。親同士が親密だったから物心つく前から婚約していたの。
私、子供の頃はガリガリでね、いつも男の子に間違えられてた。彼の後をくっついて歩いて、木登りしたり、取っ組み合いの喧嘩したり、婚約者と言うよりは男兄弟みたいだった。
楽しかったな、あの頃は。
あの人も、人懐っこい笑顔ばかり見せてくれた。
それが、いつしか目も合わせてくれなくなって、会話も必要最小限になったわ。結婚した後もそれは変わらなかった。
……何がいけなかったんだろう。理由が全然わからないの。
アーロンが爵位を継いだ頃、領地経営が上手くいかなくてパークス家が困窮した時に、お父様が大金を援助したのが気に入らなかったのかもしれない。さっきも、政略結婚だってきっぱり言ってたし」
あー、確かに先程そう言ってましたね。
ディアドラ様の実家の商会は、聖女印の油性ペン以外にもたくさんの良質な商品を手掛けていて、凄い大金持ちだ。実は男爵位をお金で買ったと聞いたことがある。
「……彼は尻軽女と言ったけど、私は何もしてないのよ。シモンズ子爵やキャラハム侯爵とは、本当にいつもカードゲームをしているだけ。……私全く信用されてないのね」
腕を顔の上に乗せ目元隠したまま、ディアドラ様はしゃくりあげた。
時を待たずに頬に涙の雫が幾つも伝って、筋になっていくのを、私はただ黙って見ていた。
「……本当はね、名前を書いたのは嫌がらせだって言ったけど違うのよ。
これから自分を抱こうっていう男のアソコに妻の名前が書いてあったらどう思う?
まさか不仲で有名な妻自身の手で書かれたものだとは思わないでしょう?
呆れて馬鹿にされたと、浮気相手の女を怒らせたかったの。
怒って喧嘩した挙句に、そのまま別れればいいって思ってた。
私以外の誰にも、絶対アーロンを取られたくなかったの。
だって私のなんだから!
彼はずっとずっと私だけのもの!
大事なものだから名前を書いたのよ!
……いつも平気なふりしてたけど、本当は泣いてたの。
毎日毎日、喪失感でどうにかなりそうだった。
だけど今さら縋って、他の女の所になんか行かないで、なんて言えない。
……ナタリアお願いよ。
次にまた同じことがあっても、私からアーロンを取らないで。
悲しくて胸が痛くて、どうしようもないの。
お願い、あの人を取らないで。私から取りあげないで。
……お願いだから。
……愛しているの……」
「…………」
最後のほうはほとんど聞こえない位小さい声だった。
ディアドラ様のすすりあげる声はしばらく続いて、やがて規則正しい寝息になった。
酔態を晒したあげく、彼女は大股開きのままで寝落ちした。
その美しい素足をひとしきり見つめた後、半裸の身体にそっと毛布を掛けてあげた。
今日はつくづく他人の下半身を凝視する日らしい。
おかげで本人が気付いていない『ある物』を発見してしまった。
呆れるほどの似たもの夫婦っぷりに、私は人知れずため息をついた。
さて、そろそろ本邸に戻り、アーロン様にディアドラ様を迎えに来てもらいましょう。
聞きたいことも、いろいろあるしね。
私の予想が確かなら、今頃我が旦那様は、嫉妬と悔恨と自責の念にかられて、ぐちゃぐちゃになっていることだろう。
私は良く出来たメイドだから、夫婦喧嘩の仲裁もやぶさかではないのだ。
***
「本当に、ここにいたんだな」
本邸に呼びに行った際、先程私が持って行った御酒をヤケ酒のように煽っていたアーロン様は、軽くいびきをかいて眠る妻を見下ろして、安堵の息を吐いた。
「奥様に聞いたのですけど、シモンズ子爵やキャラハム侯爵との事は誤解で、疑われるような事は何もないそうですよ」
「そうなのか!」大きく目を見開いて、聞き返す。「……本当に?」その顔に隠しきれない喜色が浮かぶ。
私は単刀直入に口にする。
「旦那様、いつも浮気を繰り返しているなんて嘘でしょう? 本当は奥様のことをすご〜く愛しているんですよね」
「えっ……?! どうしてそう思うんだい」
どうしてって、バレバレですよ。
「……まいったな」
一瞬言葉に詰まったものの、私の真剣な顔を見て、しらを切り通せないと悟ったのか、やがて静かに話し出した。
内容はほぼ私が思っていた通りの、つまらないものだった。
子供の頃からディアドラ様を可愛がり、誰よりも愛しんで大切にして来たものの、十代半ばから何年か他国に留学し、帰ってみたら彼女は蛹から蝶へと変化するかのごとく美しい女性になっていた。
照れから彼女と話すことが出来なくなってしまい、彼女との間には次第に距離ができてしまった。
折しも、社交界で彼女をもてはやす数多の貴族子息たちからやっかみを受け『やったな、あんな色気のある女と莫大な持参金を同時に手に入れられるなんて』と持参金目当てのように言われて癪に障り、怒りの矛先が彼女に向いてしまった。
「そんな下らない理由で邪険にするなんて、奥様が可哀想すぎます! 酷いです!」
「……全くだ、俺は酷い男だ。プライドばかり高くて、ディアドラの事を悲しませた。
愛しているのに、愛している筈なのに。
俺はなんて小さな男なんだろうな」
私は全くだと言わんばかりに、うんうんと大きく頷いた。
アーロン様は白状して心が少し軽くなったのか、頷く私を見て自嘲気味に小さく笑い、眠っているディアドラ様の長い髪を愛おしげに指で梳いた。
「女遊びはフリだけで全くしていないよ。彼女が浮気していると思っていたから、当て付けのつもりだった。
君との事だって、既成事実をでっち上げるだけで、何もしないで帰そうと思っていた」
「でもあの時、私のハダカを見て興奮してましたよね」
裏側の字がはっきり見えてたし。
「そ、それは……。君の裸体を見ていたら、昔10歳のディアドラの着替えをこっそり覗いた時の事を思い出して、興奮してしまって」
「…………」
15歳の私のハダカを見て10歳のディアドラ様を思い出すってどういうこと?
私のハダカは10歳児並みか。っていうか、10歳女児の思い出しハダカで興奮するって、どんな変態の所業ですか。
「私のことを押し倒す暇があったら、奥様のことを押し倒してください! それで勝手に2人でイチャイチャして下さい!」
「……受け入れてもらえないかもしれないじゃないか」
「その時はその時ですっ! 土下座して愛を告白するところから始めて下さい!」
「……わかった。許してもらえるかどうか分からないが、必ず彼女に想いを伝える」
本当はディアドラ様の気持ちも知っているけれども、ここはあえてアーロン様から奥様に歩み寄ってもらわないと!
「とにかく、奥様が目を覚ましたら、今度こそちゃんと夫婦で話をしてください。私、この家で長〜く働きたいと思っているので、もう変なことに巻き込まれるのは勘弁です!」
「……色々と済まなかったな」
アーロン様は、掛けてある毛布ごと、眠っているディアドラ様を大事そうに抱き上げると部屋から出て行く。
出て行く時に一度だけ振り返った。
「そういえば、ナタリア。
お前は、ディアドラにも言えなかった俺の気持ちがよく分かったな。
もしかすると俺たち夫婦の仲を取り持つために現れた、天使様なのかな」
いいえ、私はただのメイドです。
恋愛経験においては、かなりポンコツの。
イビキの主が去って、漸く静かになった部屋の中で、私は小さなため息をつく。
ポケットから取り出した聖女印の油性ペンを指で弄びながら。
まだ、働き始めたばかりで良かった、かな?
胸の奥に芽生え始めていた、アーロン様への小さな小さな恋慕の情に、そっと蓋をする。
だってアレをみたら誰だって──他人の恋心にまだまだ疎い私にだって、アーロン様がディアドラ様と同じ気持ちだって分かるよね。
幼なじみ夫婦は思考回路も一緒なのかな。
書かれた本人は、全く気付いている様子はなかったけれど。
ディアドラ様の内腿の、足の付け根にある窪み。
開脚しないと絶対見えない、その場所に、
『アーロン』と書いてあった。