小鳥をめぐるお話6
落ちていく感覚がした。それはただの感覚なのか、それとも本当に落ちていってしまっているのか。
その最中で、ニグレドはハッと目を開けた。右も左も、上も下も分からない中。ふと、何か揺らめくものが見えた。
右も左も、上も下も分からない。でも、“それ”は下にあると感じた。流れ、淀み、溜まった。揺らめき、うごめき、ふつふつと。
ニグレドは体を動かせずにいるまま、うっすらと悟る。自分は“それ”に向かって落ちていっているのだと。何か、大きな抗いがたい力によって否応なく引き寄せられるかのように。
“それ”は得体の知れない化物のように、手を伸ばし、大口を開け、涎を垂らして、少年のことを丸ごと飲み込まんとする――
その時、ニグレドの目にあるものが映った。それは一羽の小鳥。小さな灰色の体が、ニグレドの方に向かって飛んできているように見える。
(どうしてこんなところに小鳥が)と疑問が頭をかすめたが、それに構う間もなく、ニグレドは思わずとっさに叫んだ。懸命に羽ばたく小鳥。しかし無情にもその行く先には、得体の知れない化物の魔の手が待ち構えているように思えて。
「こっちに来るな、逃げろ!」
そこでニグレドは目を覚ました。
実際にはニグレドの体はどこにも落ちていってなどいなくて、その場に倒れこんでしまっていただけだった。
(疲労と空腹のあまりに気を失って夢でも見たかな……)
そう目をしばたき、上体を起こすニグレド。
覗いていた穴の先からはもう、何かが駆けるような音は聞こえてこない。うっすら白色に見える光だけがぼんやりとニグレドの目に映るのみ。ニグレドはふぅ、と息を吐いた。
(……何かしらの手がかりは得られた。ここにはまた来ればいいさ)
タニアは駆け足で洞窟の外へ出た。その手には、まるでブーケのように束ねられた何輪もの雫草が握られている。夜に差しかかろうとする薄闇の中、タニアの右頬に傷跡の残る浮かない顔が、雫草の花の淡く白い光を受けて照らされた。
しばらくその場に立ち尽くして、ぼうっと雫草を見つめるともなしに見つめた後、タニアは大きく息をついた。
(雫草、摘んでこられて良かった)
まずはそう、安堵の息を。
(それにしても、ああ、びっくりした……)
そしてタニアは、先ほどまでのことを振り返る。
ここは、タニアが知っている雫草の花が咲く場所。この場所のことはタニアは誰にも話していない。ここに来ればいつだって、希少な薬草である雫草を見つけられた。岩の裂け目のような洞窟から染み出してくる水が成す小さな小さな川の流れに沿って、ぽつりぽつりと雫草の花が咲く。
しかし最近ではわずか数日の間で何回か花を採りに来ていたので、洞窟の外に咲く雫草はもうあらかた摘んでしまったようだった。だからタニアはこの日、普段は入らない洞窟の中にまで雫草を探しに潜って行ったのだ。
洞窟の中には、やはりタニアの予想通り雫草があった。外で見つかるよりもずっとたくさん咲いている。暗いはずの洞窟の中だが、雫草の放つ淡く白い光で周囲の様子が見えるので歩くのには困らない。辺りを照らすその光をなくさないよう、タニアは少しずつ花を摘みながら、洞窟内部に染み出して流れている冷たい水に足を浸しつつ、奥へ奥へと進んでいった。
そうしていくうちに、突如。
『――来るな、――ろ!』
そう叫ぶ声が聞こえ、タニアは驚いて一目散に洞窟の外へと駆け出したのだった。
今一度、タニアは大きく息をつく。今度はそれは、憂いの溜め息だった。
(あの声……。洞窟の中に入っていってしまったからかな。入ってはいけないって、おばあさまからも言いつけられていたのに……)
その憂いをわずかでも払うかのように、タニアはふるふると頭を振る。
(でも、もうこれだけあれば雫草はきっと足りる。早く治してもらって、それから――)
そうしてタニアは洞窟を後にしてうっそうとした木々の茂みを掻き分け、薬師の里の人家が集う方に向かって再びぱたぱたと駆け出した。




