小鳥をめぐるお話3
ニグレドは水を湛えた大鍋の前に立つ。喉が渇いている。喉が渇いてはいるが、水を飲むためにそこを覗き込むのが怖い。水の表面を覗き込んだそこに映るものを見るのが怖い。
もしも、もしも。そこに映るのが「自分の思う自分」ではなかったら。
ニグレドは目をつむった。めまいがしそうだ。嫌でも頭に思い浮かぶのは、あの交易都市の地下水路のこと。
自分を追ってきた王国騎士団長をあの地下空間で目の当たりにして、激しい感情がニグレドの中を駆け巡った。その後ニグレドは意識を失って、次に目が覚めた時には再び魔女ラズダと行動を共にしていた。
今の今まで、てっきりラズダが王国騎士団長と渡り合って、ニグレドを奪取し地下空間から逃げおおせたのだと思っていたが。それとは違う可能性にニグレドは思い当たる。
(もしも、もしも。俺自身が“力”を使ったことで、あの場をやり過ごしたのだとしたら)
ニグレドは震えた。騎士団長と対峙した後からの記憶がまるでない。そのことも輪をかけて恐ろしい。
(あの時の俺は、いったい何だったのだろうか。……今の俺は、いったい何者なのだろうか――)
ニグレドはその場にうずくまった。顔を両手で覆い、潜めた息を震わせながら吐く。
(恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい……!)
込み上げ押し寄せる感情の波。それに自分の根底がぐらぐらと揺すぶられるような感覚すら覚えた。押し寄せ、溢れ返り、ニグレドは溺れるように飲み込まれていく。
(俺は、俺は……――)
その時。
――大丈夫?――
ニグレドはハッと顔を上げた。声が聞こえた気がした。ミディアの声が。
辺りを見回す。目に映るのは灰色の空と岩ばかりで、当然ミディアの姿はどこにもない。だが、ニグレドは一つうなずくと、その場にすっくと立ちあがった。
目の前には静かに水を湛える、ニグレドの腰の高さほどまである大鍋。そこから、水がこんこんと湧き出で流れる音がする。……あの地下水路のよどみきった水とは、全然違う。
ニグレドはそっと目を瞑り、穏やかな微笑みを浮かべた。
そう。ミディアと出会ったのは、こんな風に清かな水の流れる音のする、あの城の中庭で――
あの日サムエルに『出て行け!』と言われるままに教室を飛び出し、城の中を脇目も振らずに駆けて。そうして小さなニグレドは、城の数ある中庭のうちの一つに出た。
北の城門までほど近く、そして彼の母親である王妃エナリアの住まう北の塔もすぐそこに見える。噴水のある、草花に囲まれた小さな庭。
幼き頃のニグレドは中庭の茂みの陰に駆け込んでうずくまった。顔を両手で覆い、潜めた息を震わせながら吐く。
(怖い、怖い、怖い……!)
『怖い』と思うたび、堪えきれずしゃくりあげて肩が跳ねる。涙が涙を呼んだ。その塩辛い水の流れは止めたくても止められずに。鼻が詰まり、喉が染みて、ニグレドは溺れるように飲み込まれていく。
(ぼくは、ぼくは……――)
その時。
「大丈夫?」
ニグレドはハッと顔を上げた。そこには、肩の辺りで切りそろえた髪に、キラキラと輝く大きな瞳を持つ、同い年くらいの女の子がいた。




