小鳥をめぐるお話1
深夜。シンと静まり返った城の中を、サムエルの足音一つだけがつかつかと行く。
今、城には人の気配がほとんどない。夜の間は、要所要所に置いた衛兵などを除き、城で働く者たちをそれぞれの住居に帰らせているからだ。無論、本来ならば王たるサムエルも、自身の寝所にて眠りについているべき時間である。
人の目、人の声、人の気配。それらが常に付き従い、絶えず付きまとう。それは国の王として当たり前のことで、そしてとうに慣れ切ったものだと。そうサムエルは自覚していた。
他人の目、他人の声、他人の気配。しかし同時に、それらから束の間でも解放されている今。〝失踪した王子の捜索〟が進まないという焦燥の只中においてでさえも、今この時、ホッと息をつくかのようなわずかな安堵をサムエルは覚えていた。
(そう、今は聞こえてこない。誰の声も)
『お怪我をされたエナリア様の治療は、あれからずっと続いていて』『王室付き魔法使いのスターズ様が、全力でそれにあたっておられると』『サムエル様もご多忙の中、毎日足しげく北の塔まで通われているそう』『お労しや。ああ、お労しや……』
(ああそうだ、聞こえてこないはずだ。今ここには、誰の声も。誰の声も……!)
目をつむり、首を横に振り。サムエルは、今は聞こえてなどこないはずのその声を自身の中から締め出す。そうして、サムエルの足音一つだけが廊下に響く。
そうするうちにサムエルは、とある部屋の前を通りかかった。ここに来るつもりはなかった。何かから逃れんと歩くうちに、ここまで辿り着いてしまったのだ。
半開きになった扉から中の様子が見える。部屋の前に立ち、そこでサムエルの手は自ずと、穢れを祓う魔除けのまじないの仕草を結んだ。
子ども用の小さな机と椅子が一揃えと、その前に教壇のように置かれた背の高い机。教壇の足元は一段高い台となっている。そして教壇の上には、鉄製の鳥かごが一つ。その中身はからっぽだ。
何もかも、あの頃のままだった。この部屋は、かつて王子ニグレドの勉強のために使われていた〝教室〟。サムエルの脳裏に、在りし日の光景が蘇る――
『王子の情操教育のために』と、当時この教室で小鳥を一羽飼っていた。確か、片方の羽に怪我を負っていたのを城の庭で保護した、どちらかというと地味な鳥だった。
その頃、五歳の王子ニグレドに勉強を教えていたのは、王であり父であるサムエルと、その王の側近の一人たる魔導士スターズ。
そして〝それ〟はちょうど、偶然スターズが道具か何かを取りに教室の外へと出て行っていた時の出来事であった。
「違う! そうではないと何度……!」
教室にサムエルの怒号が飛んだ。その目の前で、ニグレドは黙ってうつむく。
「こんなことくらい、できないでどうする!」
サムエルは一段高くなっている教壇の足場から降りて、ニグレドのすぐ前にまで歩み寄った。うつむいたニグレドの表情は、サムエルには見えない。ニグレドのうなだれた頭、紫がかった黒髪だけが、サムエルの目に映る。
「お前は、立派な王子であらねばならないというのに……!」
その王子ニグレドの髪色は、王妃エナリアのものとも国王サムエルのものとも違う。
(どうして、どうして、どうして――!)
サムエルの中で焦りと苛立ちが、まるで夜の暗い海がうねり膨れ、渦巻き打ち寄せるかのように募っていく。息の吸える場所を徐々に失い、もがき、溺れていくような。 その時、サムエルの振り上げた手が、教壇の上に置かれた鳥かごに当たった。
鳥かごはグラリと傾き、激しい音を立てて倒れ、扉が開いて中から小鳥が飛び出した。その灰色の体がサムエルの目の前をかすめる。その向こう側に、引きつった表情をした幼い少年ニグレドの顔が見えた気がした。その瞬間。
ゴトリ。
重く鈍い音が、床に落ちて教室中に響いた。鳥かごが倒れた音よりも、サムエルの荒げた声よりも、その音の響きは大きく。
サムエルは手を上にやった格好のまま、目だけを動かして音のした方に視線を向ける。
小鳥は、小鳥の姿のまま、ピクリとも動かぬ黒い炭の塊のようになって床に落ちていた。
サムエルは口を引き結んで、静かに手を体の横に下ろす。
「……もう、下がって良い」
喉の奥から唸るように絞り出された小さな声。それが教室の中、静かに響く。サムエルの前でニグレドは再びうなだれるようにうつむいていた。首を傾けたからなのか、ニグレドの髪が揺れ動き、その髪の持つ紫色が強いきらめきを放つ。それを前にして。
「……下がれ、もう行け、出て行けーっ!」
サムエルの口から、先のものと比べものにならないほど激しい怒号が飛んだ。それに弾かれたように立ち上がり、ダッと駆け出していくニグレド。走り去る姿、揺れる黒髪、紫色のきらめき。
教室の入口から、スターズの驚いたような叫び声がした。
「王子! いったいどちらへ? どうされたのですか、王よ!」
サムエルは、今になってようやく現れた魔導士の方に視線すら向けずに、唸るように声を発した。
「スターズ、お前に命じる」
低く静かに響いたサムエルのその声色、その気迫に、スターズは口を閉じる。
「今後片時たりとも、あやつの行動から、注意を逸らすな……!」
スターズはその浅黒い顔に固い表情を浮かべ、王の命にうなずいた。
「……はっ!」
とある過ぎ去った日の昼下がり。この部屋に陽の差し込まない時間帯での出来事だった。
そこまで思い返し、夜の城で一人、サムエルは頭を振った。
あの教室での出来事以来、サムエルはニグレドに勉強を教えることは無くなった。それどころか、なるべく視界に入れないよう、なるべく同じ空間にいないよう、なるべく関りを断つよう、サムエルははっきりと彼を避けるようになった。
この教室も今後は使わないようにした。目付役のスターズが王子に勉強を教える際には、もっと別の狭い部屋、今は使われなくなった古い勝手口、今は誰も気に留めない、ほこりとカビの臭いのする粗末な物置を使わせるようにした。
そして、元よりどうするか考えあぐねていたことではあったが、あの出来事を機に、〝王子〟には一切、剣を教えないことにサムエルは決めた。……その理由は、表向きには「病弱なエナリアの体質を受け継いだため」としていたが。
更にサムエルは、スターズを正式に王子の目付役に任命したその折に、〝王子ニグレド〟が人前、そして自分の前に出る際は、必ずその髪色を金色に変えるようにと命じた。
それらはすべて、万が一のことを考えてだ。
あの黒は、彼が持つあの紫を孕んだ黒い色は、〝魔王〟の色だ。サムエルがかつてあの忌まわしき〝北の大地〟で目にした、願わくはもう二度と目にしたくない、もう一度たりとも思い出したくない、色。
(この先、あの子どもが成長して万が一、万が一……。しかし、ああ、だめだ、ならぬ、あってはならぬ。それは、それだけは、何が何でも……)
そして気がつくと、サムエルはその部屋、かつての教室の中へと立ち入っていた。
サムエルはあの時と同じ場所、教壇の前、小さな机と椅子を見下ろす位置に立ち、手を振り上げる。
あの時振り上げた手は、目の前の子どもに振り下ろすためのものではなかった。そんなつもりは毛頭なく、ただ苛立ち紛れに自分の頭へ手をやろうとしただけ。
しかし、今は。今となっては、もう。
サムエルの腕が振り下ろされた。その手には抜き身の剣。刃は床を、黒くなった小鳥が落ちてへこんだ跡を、ズブリと貫いた。サムエルの周りには、誰もいなかった。
「探せ、追え、逃がすな、決して……!」




