月夜1
(ここにはいられない。逃げなくては――)
気がつくとニグレドは地下牢の階段を駆け上がっていた。息を切らせながら必死に頭を巡らせる。
(サムエルは俺がここにいることは他の誰も知らないと言った。ならば、サムエルに追いつかれる前に、いや、サムエルが誰かに知らせる前に、逃げなくては)
地下から出る。高窓から見える外は暗い。半日は気を失っていたのだろう。城内の空気はどこかピンと張り詰めている。あの祭典の華やいだ雰囲気は欠片も残っていなかった。
静まり返った城の中を駆ける。ニグレドの足は自ずとあの勝手口に向かった。いつも通り、誰もそこにはいなかった。
ニグレドは拍子抜けした。この場所を知っているはずのスターズすらいない。
(……サムエルは、本当に秘密裏に俺を始末しようとしていたのか……)
そのことに改めて気がついて、ニグレドはゾッとする思いを禁じえなかった。
いつもの戸棚の中、まるで見たくもない汚れたものの如く、奥へ奥へと隠すように押し込められたぼろ布の外套。それをひっつかみ頭から被ると、ニグレドはそのまま滑るように勝手口から抜け出した。
外に出ると、そこはいっそう空気が張り詰めていた。
遠方から鋭く短く聞こえてくる人の声。たいまつの揺れる光。城の外壁に伸びて映し出される鎧をまとった複数の影。
(見つかってはならない。何としても)
城の壁沿いを伝い、人の声から遠ざかるように進む。皮肉にも、足音を忍ばせるのも人目を避けるのも、ニグレドにとっては別段いつもと変わらない所作だった。
人の声、喧騒が次第に遠ざかる。もうたいまつの揺らめく火影も見えない。
ニグレドはやがて、城の数ある中庭のうちの一つに出た。噴水のある、草花に囲まれた小さな庭。青白い月の光と静寂だけがそこに在った。
(ここまで来れば、北の城門までもうすぐだ。このまま進めば最短距離で辿り着ける)そう勇んで足を踏み出そうとした。
しかしそこでニグレドは、庭に一つの人影が佇んでいることに気がついた。
肩のあたりで切りそろえた髪。腰に差した一振りの細身の剣。
「ミディア……」
思わずニグレドの口から声が零れる。その声に、人影が振り返る。
「……ニグレド?」
己の声に振り返ったミディアの顔を見た瞬間、ニグレドの胸に後悔の念がよぎった。
(ああ、どうして声をかけてしまったのだろう。だって、自分は、もう……)
「良かった、無事だったのね、ニグレド」
ミディアは暗く張り詰めていた表情を和らげて微笑むと、ニグレドに歩み寄った。
「…………」
ニグレドは何も言うことができなかった。黙り込むニグレドの前まで来て、ミディアはぽつりぽつりと静かな声で話しはじめた。
「安心した。安心したけれど……、本当に今度こそ、あなたは出歩いてはダメなのよ。……まだ犯人は捕らえられていないの」
ミディアは唇を噛み、続けた。
「なんて恐ろしいことを……。馬鹿げているわ。悪魔だなんて、もうとっくに討ち滅ぼされた力なのに」
ニグレドは思わず被ったフードを引っ張るように押さえつけた。その下で自分の髪が紫色に輝いた気がしたから。
幸いミディアは視線を落としていたので、ニグレドのその仕草は見られずに済んだ。
「……それで、王妃様はあの後如何されて……。……エナリア様、ご無事、よね……?」
しばらくの間が空いた後。ミディアはおずおすと顔を上げながら、恐る恐るそう口にした。その顔には、戸惑いと心配と、そして信じて縋るような表情が浮かぶ。ミディアは繰り返した。
「ご無事なのよね? 王室付きのスターズ様がおられるもの。ね? そうでしょ? お師様……アーバル団長もお墨付きの、凄腕の魔導士様だもの。ね、ね?」
「…………」
ニグレドは、また何も言うことができなかった。
(ああ、本当に知らされていないんだ)
ニグレドはぽつりとそう思った。
「……ニグレド?」
(そう自分の名前を呼んでくれる人はこの世でもうミディアしかいない。いないのに――)
ニグレドはうつむく。その拍子に髪が垂れ落ち、紫を孕んだ黒い色が目に映った。その視界がにじむ。そのまま地面にぱたりと雫が落ちる。
(――もう、ここにはいられない)
「ニグレド……、あなたは、私が……、私たち騎士団が守るわ」
ミディアの声が言う。
「だから大丈夫。大丈夫よニグレド。私がいる。私がいるから、お願い、どうか泣かないで、ニグレド……」
そう言うミディアの声も泣いていた。
ミディアの手がそっとニグレドの手に触れる。そのやわらかな手を握りしめて、ニグレドはただ黙って涙を流した。
月明かりだけが二人を照らしていた。
(このまま時が止まってしまえば良いのに――)
(これから自分はどこに行くのか。どこに行けば良いのか。まだ、何も分からない。でも、ここにはいられない。ここにいてはいけないんだ)
チリッと痺れるような焦燥感が首をもたげ、それがニグレドを苛んで急き立てる。
(あとどのくらいの猶予があるだろうか。遅かれ早かれ、いずれ必ずサムエルは追手を寄こすだろう。俺を地下牢に閉じ込め、この世から葬り去ろうとしたあの男……)
ニグレドの脳裏に暗い褐色の目が浮かんだ。そこに宿った憎悪、そこに映った恐怖。
(あの男が自分を、〝悪魔の息子〟を、このままにしておくわけがない。もし捕まってしまえば、今度こそ、殺される)
背筋の凍るような思いに、ニグレドはいっそう今握っている手の温かさを感じた。
(ミディア……)
ニグレドは心の内でその名前をつぶやいた。
(最後に会えて良かった。……いや、会えないままの方が良かったのだろうか。この手は離さなくてはならない。彼女を巻き込むわけにはいかない。……だから、もう、行かなくては)
ニグレドは口を引き結んだ。
(ミディアに気づかれてはならない。自分がここを出て、もう二度と戻らないことを)
ニグレドは息を吸った。
「じゃあ、ミディア……」
震えそうになる声を必死に必死に抑えて言葉を綴る。そしてニグレドは、その手をそっと離した。
手が、冷えた夜の空気に触れる。ニグレドはふっと残りの息を吐いた。
「もう大丈夫だ」
つとめて明るい声だった。ニグレドはそのまま一歩ミディアから身を引いた。彼女の涙に濡れた瞳がニグレドを見つめる。
ミディアは何か言いかけたが、それを遮るようにニグレドは口を開いた。
「俺はもう行くよ」
「……そう……。……私も、持ち場に戻るわ」
言いかけた何かを飲み込んでミディアはそう口にした。ニグレドはうなずき、また一歩下がってミディアから離れる。ミディアは空になった手をグッと握りしめた。
「……、おやすみなさい。また、明日ね。ニグレド」
「ミディア、ありがとう」
ニグレドはミディアに背を向け、そうして一歩、また一歩と歩きはじめた。
「またね、ニグレド。また……」
ミディアの声が、ニグレドを追いかける。
「また明日、会いましょう、ニグレド!」
ニグレドに呼びかけるミディアの声が、足を進める度にどんどん遠ざかっていく。
ニグレドは歯を喰いしばった。引っ込めたはずの涙が再び頬を伝う。ニグレドはそれを拭いもせず、ただひたすらに足を進めた。