星見えぬ空6
日が傾き落ちゆくのは早く、またそこから闇が深まるのも輪をかけていっとう早い。
王城の離れ、北の塔。そこを荒々しい足音が上っていく。それはまるで、何かを攻め立て追い詰めるかのように。
「報せは」
塔の最上部で短く響いたサムエルの声。それは極静かなものであったが同時に、隠しようのない険のある声だった。
その国王サムエルの視線の先には、王室付き魔法使いスターズの姿。
「来ておりません、王よ」
小さな木の扉の前に立ち、片手には緑の光を発する杖、もう片手には何も映さない水晶玉を、それぞれ掲げたままで淡々と答えるスターズ。それを前にサムエルは思いきり顔をしかめた。……歪めた、と言う方が適しているかもしれない。眉間に寄ったしわはまるで、荒波にせり出す岸壁の岩肌に深く走る亀裂のようだ。
サムエルの言葉は、王国騎士団からの報告を指してのものだった。『〝王子奪還〟を果たしたら直ちに報告せよ』との命の。
サムエルは苛立たしげにきびすを返す。スターズに言葉は返さなかった。階段を踏む荒々しい音のみが塔に響き渡る。
「王よ、用意させた薬湯は」
とうに見えなくなった背に向かって首を回し、スターズは声をかけた。無論と言うべきか、それにも言葉は返って来ない。階段を下っていく音だけがただ響く。
スターズは口を閉じ顔の向きを元に戻すと、再び無言で立ち尽くし続けた。片手には緑の光を発する杖を、もう片手には何も映さない水晶玉を。北の塔の最上階、小さな木の扉の前にて。もう夜の闇はとっぷりと、北の塔を包み込んでいた。
ニグレドは空を見上げていた。今日の日もまた。厚い雲に覆われ、星の一つも見えない夜の空を。
(森の方からも行けない、崖の方からも行けない……)
魔女ラズダが『ちぃと出かけてくるよ』と言い残し、ニグレドの前から姿を消してから数日。ニグレドはこの人気のまるでない不気味な〝北の大地〟から脱出するべく、周囲の探索を行っていた。
初めは森の方を。地平に沿って見渡す限り立ち塞がる、黒い壁のような森。それが、かつて王城で習った地を隔てる〝迷いの森〟であることは一目見てすぐに分かった。そして同時に、自分はその内側にいるのだとニグレドは嫌でも実感した。
灰色の焦土の地を踏んで森へと向かい、そこから中に足を踏み入れてはみたものの、数歩と歩かないうちに(これは、無策で入っていって良いものではとてもない)と、ニグレドは引き返すことを決めざるを得なかった。
視界が悪いなんて生易しいものではない。ラズダと歩いてきた道中の森の中も鬱蒼と暗く歩きづらいものではあったが、それを踏まえてもここの森は異常だと言えた。
辺り一面に霧が立ち込め白く霞んでいるのに、その一方で視界が黒く闇に覆われる。これは何か魔法の類いがかかっているに違いない。そうでなければこんな状態は有り得ない。ニグレドは一人、顔をしかめた。
(これが〝迷いの森〟と言われる由縁か……)
また別の日、ニグレドが向かったのは崖の方。実を言えば、こちらの方に行くのはどうにも気が進まなかった。
あの、自分があたかも〝魔王〟であるかのように錯覚した不気味な夢の中で、白い衣服をまとった女性が落ちていった場所。谷底に向かい音もなくひらめく白い色が、嫌でもニグレドの脳裏によぎる。
(違う。あれは俺じゃない……)
そう自身に言い聞かせながらも、ニグレドは夢の記憶を呼び起こすまいと、同じ夢の中で出てきた玉座を視界に入れないよう遠巻きにして進んだ。今、現実ではぼろぼろに擦り切れてはいるが、未だその色はなおも赤く。
足場の途切れる箇所まで辿り着き、身をかがめ縁を掴むようにしてニグレドは崖下を覗いた。
谷間に吹く風はひゅうひゅうと、甲高く何かを叫ぶかのように鳴っている。ニグレドの黒い髪がその吹き上がる風に晒されて揺れた。断崖絶壁のその最奥、深く深く、もはや見えぬ谷底より吹く風に。
緊張と恐怖とでニグレドはゴクリと唾を飲み込んだ。その中で、努めて冷静に考えようとする。
(いや、ここを下りていくのは到底、無理だろう……。足を滑らせたりして落ちでもしたら、ひとたまりもない)
そう考えた矢先、再びはためく白い布の光景が思い起こされそうになるのを必死で押し留め、ニグレドは崖からその身を引っ込めた。
(違う、違う。あれは、俺じゃない、決して……!)
脱出の手立てが見つからない他にも問題があった。飲み水と食料についてだ。
飲み水そのものは、ラズダの言っていた通り魔法の大鍋から得られた。山の斜面、崩れた瓦礫の只中に半ば埋もれるようにして鎮座する、大きな大きな黒い鍋。その中いっぱいに、透明に澄んだ水が湛えられている。
ニグレドは初め恐る恐る両手で掬って口に運んでみたが、その水は問題なく飲めるどころか、むしろよく冷えて美味しい水ですらあった。水はニグレドの腰の高さくらいほどまである大きな黒い鍋の中でこんこんと湧き続ける一方で、不思議と溢れ出すことはなく穏やかな水面を保ち続けていた。
しかしいくら水が無限に湧こうとも、それを持ち運ぶ手段はない。入れ物はないし、大鍋ごと運ぶなんて以ての外だ。
乾ききったこの灰色の大地にて、水は文字通り生命線と言えた。大鍋のあるこの山を離れた先で安全な水を得られる保証などない。探索に出たとして、水の問題が解決しない限りは、どこかの段階でここに戻って来ざるを得ないというわけだ。
(なるほど。これがあるから、ラズダの奴は俺をここに放置して行っても良いと判断したわけか)
ニグレドはそう思い当たる。見たわけでもないのにあの魔女のしたり顔がありありと目に浮かぶようだ。ニグレドの胸中に苦々しさが広がった。
だが、水は安定して得られる分まだ良い。食料の方が問題だ。
『あすこを下った先の方の樹に実がなってるから、腹が減ったらそれでも摘まんでな』
こちらもまたラズダに言われた場所を探してみたが、行った先にあったのは、枝ぶりの貧相な樹にわずかばかりなった、まだ熟してもいない小さな固い実のみ。
見るからに何の腹の足しにもならなそうではあったが、ニグレドは試しに一つ手に取り齧ってみた。まるで石を噛むかのようにガリリと鈍い音がしたかと思うと、渋く酸っぱい味がニグレドの口中に広がる。その強烈な酸は、あの交易都市の地下通路で胃からせり上がってきたものにどこか似ていて。
「グ……ッ!」
思わずえずき吐き出しそうになるのを堪え、ニグレドはどうにかその実を飲み下した。この実を食べなければ、もうこれ以上何か吐けるものなど胃の中にないのだから。
そうしたのが今日の日中、もう半日も前の出来事だ。しかし未だにニグレドの胃には、ムカムカと不快な感覚が残っている。
荒れた禿山の斜面にうずくまるようにして座り、厚い雲に覆われた夜の空を見上げるニグレド。その腹が一つ情けない悲鳴を上げた。今となっては、城での冷めきった食事も、あの交易都市の安宿のお粗末な皿ですらも恋しい。
ニグレドはふと、谷あいの地面を走るネズミの姿を見たことを思い出した。
(いつかはああいうのも口にしないといけなくなるんだろうか)
そう考えが頭をよぎり、それはごめんだと顔をしかめる。しかしそれとは裏腹にと言うべきか、無情にもそこでもう一つ腹が鳴った。ニグレドは身をいっそう小さく縮込めて座り直す。そうして胃を潰せば、刻一刻と募ってくる空腹感が少しでも紛れるんじゃないかと、淡く淡く期待して。
(食料、水、そしてここを脱出する手立て、か……)
ニグレドは何度目かも知れない溜息を吐いた。今日もまた、こうして変化のない夜が来てしまった。
(何か手がかりはないか。何か……)
そしてニグレドは、去り際に魔女の残していったセリフをまた思い返す。
(ラズダは、どこかに川があるようなことも言っていたな)
夜の闇の中。辺りを照らせるような魔法はニグレドには使えない。今日はもうこれ以上歩き回ることはできない。だが、考えを巡らせることはできる。
(そこに魚でもいるだろうか。魚は昔からずっと嫌いだけど……、今はそう言っている場合じゃない。ネズミに比べたら、魚なんて何でもないさ)
しかしそこでニグレドは、ラズダがその〝川〟について何か引っ掛かることを言っていたのを思い出した。
『……その辺の川の水には、触れない方が良いと思うよ。あんたの身には毒だろう』
そう言った後、ニグレドの前から姿を消した魔女。忌々しげに吐き捨てるような態度。
(その川、ひょっとして毒の川とかなんだろうか。もしそうだとしたら、そこで魚が採れたとして食べて良いものではないんじゃないか? いやそもそも、仮に毒の川だとしたらそこに魚なんているんだろうか……)
もう一つ腹が鳴る。ニグレドは丸めた膝の上でぶんぶんと頭を振った。
(だめだ。食べ物のことを考えれば考えるだけ腹が減る。夜のうちは動けないんだし、どうにもならない。何か考えるなら別のことを、何か……)
膝の間に顔を埋めじっとうずくまっていると、寒さが這うようにして忍び寄ってくる夜だ。夜の冷気はぼろ布の外套をいとも容易く貫いてくる。
国の王子たるニグレドはあの王城にいた頃、こんな夜風の下に長らく晒されたことも、空腹でどうにもならなくなることもなかった。なかったはずなのに、この感覚には覚えがある。募る、やるせなさとよるべなさ。
(母さんも、こんな思いをしただろうか)
その中でふと思い浮かんだのは、母エナリアのことだった。
(魔女に捕まって、ここに連れて来られて……)
ニグレドはぼろ布の外套の前をきつく合わせた。それは冷たい夜風に一つ吹かれたからか。
(……いや、その時には、ここは〝城〟だったのか。忌まわしく恐ろしい〝魔王城〟)
昔、あの赤い玉座を中心とするかのようにして、厳めしく威圧する陰気な城がここにあったのだ。……それこそ、ニグレドがあの夢の中で見たように。それを思うと、ニグレドの気持ちはいっそう塞いだ。
今はもう、闇に紛れて見えないだろう。あの唯一残された赤い玉座は。だが、この闇の中でも、もしかしたら目に映ってしまうかもしれない。それを恐れて、ニグレドは目を上げられないままでいた。
(ここが城だったというのなら。母さんは地下牢とかに入れられたりしてしまったんだろうか。魔王によって閉じ込められて。自由を、奪われて……)
ニグレドの胸がムカムカとうずき、目に涙さえもにじむのは、胃腸の中を今まさに下っているであろう日中口にした果実の酸ゆえか、それとも。
ぼろ布の外套に頭からすっぽりと包まる。視界をフードで覆っても、先程までと見えるものは変わらない。どのみち星などは一つたりとも見えないのだから。夜の冷気はニグレドの体温を少しずつ確実に奪っていく。
ニグレドは母のあの、自分の頬を包み込んだ白い手を思い出した。ニグレドの黒い髪ごと包み込んでくれたあの温かく優しい手を。最期にその温かさを僅かニグレドの頬に遺して、地面にパタリと落ちた、あの手を。
彼の口が動き、一つ言葉を綴る。
「母さん……!」




