星見えぬ空3
「あっ、タニア……!」
里の誰かのその声を聞くや否や、シースが止めるのも聞かずにタニアはその場から走り去った。首にかけた雫草の花びらの小瓶をサッと素早く、けれどとても大事そうに、服の下に隠すようにしまって。
瞬く間にタニアの姿は遠ざかっていく。シースはその場に立ち尽くしたまま、風になびく灰色の髪をただ目で追う他なかった。首にかけた雫草の花びらの小瓶に、そっと片手を当てる。
「あら? シース、下に降りていたんじゃなかったの?」
かけられた声にシースが振り返ると、驚いたような顔をした母が家の方からやってくるのが目に映った。そのまま母ハンナはシースの元へ歩み寄る。そして、持っていた布製の小袋をシースに手渡した。
「でもちょうど良かったわ。はい、これも持って行きなさいね。渡しに行こうとしていたところだったの」
シースが受け取ったその袋は、ふわりと軽かったが同時に、中が空ではないという確かな重みも感じられた。
「ありがとうございます、母さま……」
そう言いながらそっと開け中を覗いてみる。薬作りの基本となる薬草が追加でもう一揃え。それらが袋の中で触れ合ってカサリとやわらかい音を立てた。里にふんだんに生えている草花を丁寧に乾燥させたもの。その中にはきっと、あの夜にタニアと一緒に採ったものも含まれていて……。
シースは顔を上げた。彼の薄い青色の瞳が、首にかけたペンダントからの白い光を受けてキラと明るく輝く。シースはうなずき、よく通るまっすぐな声で言った。
「それでは、行って参ります」
『騎士団の方が到着されたぞぉー!』との声を里の枯れた川沿いの道で聞いて、ミディアはハッと振り向いた。馴染みの騎士仲間と会える嬉しさが込み上げてくる反面、シースとタニアは無事に会えただろうか、という心配も頭をよぎる。
(でもここで私が二人のところに行っても、どうしようもないわよね……)
そう思い直し、ミディアは足の向きを変えて里の人々が集まっている方へと向かった。
紙芝居の頁をめくるように鮮やかに変わった風景を前にして、王国騎士団員トム、ナッド、オーグの三人は驚きのあまり絶句した。自分らの野営地に張られた目くらましの魔法もなかなかのものだと思っていたが、この〝薬師の隠れ里〟の魔法は別格、いや破格のものだ。魔法に詳しいわけではない彼らにも、そのことは目に見えて明らかだった。
驚く騎士三人のその横。騎士団長アーバルはサッと馬から降り、集落と共に姿を現した禿頭の老爺、薬師の里の長老に向かって頭を下げた。
「お出迎えいただきありがとうございます、エイトワス殿。そしてお待たせをしました。これより、この三名の騎士が御令孫の旅路の護衛を務めさせていただきます」
アーバルがそう言い終える頃には三人の騎士は馬から降りて、引き締まった面持ちで揃って深々と礼をした。それを受け、長老エイトワスは長い木の杖の上に両手を重ね合わせ、静かに重々しく礼を返す。そこへ。
「トム、ナッド、オーグ!」
辺りの静けさとはまるで正反対な、弾むような明るい声が響いた。
声の方を振り向いたアーバルの視線の先。薬師の里の人々の間を、金色の髪を揺らして一人の少女が駆けてくる。少女の目がアーバルと合って、彼女はその顔をより一層輝かせた。
「お師様も、お帰りなさい!」
弟子のその様子に、アーバルは人知れず安堵の息を鼻から吐いた。
(ああ、少なくとも私が里を発った時よりかは、回復してきているようだな)
一方でアーバルは、(だが、今はこの場で話し込んで良い時とは言えまい)と、駆け寄ってくるミディアに待ったをかけようとする。
しかしそこで長老エイトワスが、アーバルに視線を合わせうなずいてみせた。それを受けアーバルは、ミディアを留める言葉を飲み込んだ。話していても構わないとの意味の目配せだと理解してだ。
今一度アーバルは、改めて里の人々の様子をザッと見渡す。
(そう言えば、シース君の姿が近くに見えない。まだ準備をしているといったところだろうか)
ミディアはアーバルたちの前で、駆けてきた足を止めた。息で肩が上下する。この短い距離であっても、どうしても息が弾んでしまう。まだ万全の状態とは言えないと、ミディアは自覚せざるを得なかった。それでも彼女は、あくまで明るくにっこりと笑ってみせる。
(お師様にはきっと分かってしまうのだろうけれど……。でも、余計な心配はかけたくないから。オーグ達もいるし、なおさら)
ミディアは上がった息を押さえようとしつつ口を開いた。
「お早い、お着きでしたね」
「ああ……。ただ、やもするともう少し早く着けるはずでもあったのだがな」
そう返したアーバルの言葉を聞いて、その横にいた年かさの騎士オーグは、表情をニッと崩して笑った。
「無理をするにしても限度ってものがある。それを騎士団長殿はどうにも、自分のこととなると忘れてしまうようだな。そこはお師様から学ぶでないぞぉ、ミディアよ!」
無理押ししているのをオーグにも見抜かれていた……、とミディアは照れくささとバツの悪さの混じった笑みを浮かべて、ほんのわずか肩をすくめる。
次に口を開いたのは、ミディアの普段所属する隊の長を務める壮年の騎士ナッド。
「しかし、かの悪名高き魔女と相対したとアーバル団長殿から聞いた時は心底、肝が冷えたよ。よくぞ無事で戻ってきてくれたな、ミディア」
続けて、ミディアとそう歳の変わらない若い騎士トムが言う。
「魔法の傷だか呪いだか分かんないけど、そんなのなんてサッサとぶっ飛ばしちまえよ、ミディア! ミディアが戻ってきてくれないと、俺が一番の後輩になっちゃうしさぁ! ……あでっ!」
横に立つナッドに「こらトム!」と頭を軽くひっぱたかれ、トムは大げさに頭を押さえてみせた。それに騎士たちは「やれやれ」と言いつつも和やかに笑い合う。
その中で。
「……ミディア、何も言わないままで里を出て、すまなかったな」
アーバルがぽつりとそう言うと、ミディアはぶんぶんと首を横に振った。
「いいえ、いいえ! お師様、そんな!」
しかしアーバルはまだどこか晴れない表情のままで続けた。
「そして重ねてすまない。この後すぐにナッドたちはシース君を護衛し交易都市へと向かう。そして私も、このまま野営地に引き返すつもりだ。……なのでミディアよ。お前は引き続き一人でこの里に滞在させていただいて、治療に励むように」
半ば予想はしていたことではある。アーバルからそう告げられてもミディアは顔色を変えないでいようと努めた。しかし、がっかりと気落ちしてしまうのはどうしても避けられなかった。
(そう……、そうよね。分かっている、分かっていたわ。今は、王国騎士団の最重要任務の途中。一刻でも早く、王子、ニグレドのことを探さないとだもの……)
ニグレド。その名を、その姿を、ミディアは心の中に思い浮かべる。
黒い髪に艶めく紫の輝き。ゆるくウェーブのかかったその髪に縁取られた白い顔。しんと静かに研ぎ澄まされたような眼差し。そしてそれは、ミディアに向けられた時にはふわりとやわらかさをまとう。ニグレド、ニグレド。その彼に、『またね』と言って別れた月夜。
ミディアは全身に力を込めて、グッと顔を上げた。辺りに垂れ込める重たい空気を、それで以て振り払わんとばかりに。
「ええ、分かりましたお師様。いいえ、分かっております。一日でも早く治して私、また戻ります! 任務の、旅路へ!」
そこへ。「お待たせしました」と、草原に吹く風のように透き通った少年の声が響いた。風の元を辿るように、里の人々、三人の騎士と騎士団長、そしてミディアは振り返る。そこには、白いローブをまとった北の薬師団の若長、少年シースの姿があった。




