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Nigredo - 魔王伝説 -  作者: Ellie Blue
第4章 北の大地
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足踏みの下で地は固まる1

 目を開けたニグレドは、しばらくそのまま動けずにいた。心臓だけがうるさく早鐘を打っている。地に横たわったニグレドの身体に、ひたすら血を巡らせて。

(何だ、いったい何だったんだ、あの夢は)

 そろそろと、乾いた唇の間から息を吐く。その息は震えていた。


 嫌に生々しい夢だった。まるであの場面を、この身をもって経験したかのような。

 現に今、人の身体を貫いた時の感覚がニグレドの手にべっとりとへばりつくように残っている。もしかしたらあれはただの夢などではなかったのかもしれない。あれは現実に起こったことで、それを成したのは、彼自身で……。


(いや、あれが俺自身だなんて、そんな、そんな馬鹿なことがあるものか)

 ニグレドは無意識に吐いていた浅い息から一転、深く長い息を一つついて、両の手で顔を覆い、ゆっくりと首を横に数度振った。手の平は汗でじっとりと冷たく湿ってはいたが、無論、そこから鉄の臭いなどはしなかった。

(あれは魔王だ。あれが、魔王だ――)

 しかし、同じく冷たい汗で頬にへばりついた、うねるようにウェーブのかかった自分の髪。それをうっとおしく感じたことに違いはなかったのだが。




「あぁ……」

 しわがれた声が、横たわったままのニグレドの背後から聞こえた。夜の明けきらぬ薄暗い中で溜め息をつくように鳴くカラスにも似たその声。

 ニグレドは首を回して振り向いた。頭に被さっているぼろ布の外套のフードが視界を遮る。首を軽く振ってそれを払い落とし、声のした方に視線を向ける。


「お目覚めかい、王子様」

 全身が縮こまったような、しわだらけの顔をした醜い老婆。薄闇の中、まるで一点の染みのように、魔女の姿がそこにあった。

 ラズダはその口にうっすらと半笑いを浮かべている。深く寄ったしわに埋まった目。それがしわの奥底で抜け目なく光っていることがニグレドには分かった。


 ニグレドは自分が冷静さを取り戻していくのを感じた。脳内にこだましていた大広間の騒めきが、手の先にこびりついていた肉の感触が、遠ざかるようにしてスッと消えていく。

 あの夢を見たこと。それは当然、ラズダに悟らせてはならない。もしそのことを知られてしまったのなら、状況に取り返しがつかなくなってしまう。それは自分に〝魔王〟へのきざはしがあると示してしまうことに他ならないからだ。


 ニグレドはそろそろと上体を起こした。自分の目と鼻の先で、地面の段差に腰を落ち着けている魔女ラズダ。こちらを見てくるその姿から何でもない風に視線を外しつつも、用心深く意識は逸らさないままで。

 そうしてニグレドは己の、自分自身の記憶を振り返った。状況整理が必要だ。

(最後に覚えているのは、交易都市の地下水道。その中で王国騎士団の団長、あのサムエルの側近と鉢合わせた。……いや、奴が俺を捕らえようと追って来ていたんだ)

 起き上がり、そして被り直したフードの下。ニグレドはチラとラズダに目をやった。

(奴と出くわしたそこから先は、覚えていない。あれからどのくらい時間が経っているのかは分からないが、少なくとも今、周りは静かだ。つまりはさしずめ、その後でラズダがあの場に来て何かしらの手段で状況を打破し、ここまで逃げてきた……というわけか)


 ニグレドが向けたその視線に気づいてか、ラズダは彼に向かって再び口を利いた。

「追手が来ている。すぐそこまで、ね。……ここに来る途中、忌々しいあの唄が聞こえたよ」

 しわがれたその声は唸るように低い。猫撫で声のような媚びへつらう調子は、そこにはなかった。

「だが奴ら、まだこちらには気づいてやいない」

 ラズダのまばらに歯の抜けた口が、荒々しく大きな息をつく。

「このあたしに感謝するんだね。お前さんはここでのうのうと過ごしてれば良いんだからさ。……ふかふかのベッドにありつけなかったのは、お前さんのせいだからね」

 いや、媚びへつらう調子がないどころではない。妙に冷たい声だった。


 魔女はよっこらと立ち上がった。

「あたしはちぃと出かけてくるよ。備えをしておかなくちゃだからねぇ」

 言いながら足を踏み出すラズダ。その懐から何かが落ちる。軽い金属音が地面を転げた。

 自身の近くまで転がってきたそれを、思わず拾おうとするニグレド。別段なんてこともない、とっさに表に出たただの親切心のつもりだった。しかし。

「それに触るんじゃないよっ!」

 怒声と共に、老婆らしからぬ速さでバッと駆け寄り、ラズダは転げたものを拾い上げた。鈍く光るそれは、いつぞやの洞窟でニグレドも見たことのある金属製のゴブレットだった。ラズダはニグレドに背を向け、むんずと掴んだそれを埃も払わぬままにぐいと懐に押し込む。

 それからラズダは首だけを回して肩越しに振り向き、地面に座り込んだ姿勢のままのニグレドを見下ろして口を開いた。

「あたしゃしばらく戻らないからね。その間、大人しくしてるんだよ」

 ラズダは、ゴブレットのことにはもう一言も触れなかった。


 片手を伸べてその節くれ立った指先で、とある方向、とある方向と次々に指し示す。

「あすこを下った先の方の樹に実がなってるから、腹が減ったらそれでも摘まんでな。水はあっちの方にある大鍋の中のを使うと良い。尽きない魔法がかかっているから」

 そして最後にラズダは手を引っ込め胸の前で腕組みをすると、小さな声でボソリと付け加えた。

「……その辺の川の水には、触れない方が良いと思うよ。あんたの身には毒だろう」

 そうまるで唾棄するかのように言い残して。魔女は苦々しげな表情を浮かべたままその姿を消した。空風(からかぜ)が吹く。後には、ニグレドだけが残された。




 乾いた空気に塵埃が舞う。その他には何もない空間で、ニグレドの声が「ふうん」とつぶやいた。

(これまでの用意周到さから考えると、随分と雑なあしらいだな。『それでも良い』と思われているってことだろうか。それにラズダの奴、やけにこの辺りについて詳しかったな。そうなるとつまりここは、あの魔女にとっては慣れた場所なのか)

 ニグレドは思考を巡らせる。妙に、冷静な自分がいる。

(……それもそう、だろう。)

 ニグレドは首を回した。今まで死角となって見えていなかった方へと。

(だってここはきっと、あの夢の――)


 彼の視線のその先。崩れて果てていてもなおそう(・・)だと分かる。

 玉座。褪せてもなお赤い玉座のみが、そこにあった。

 草木の一本たりとも生えぬ乾いた山の上。白と黒の瓦礫と焦土にまみれた只中で。






 山を下りた先、深い深い森の中で。ラズダは一人、口の端から荒い息をついた。

「まったく。アテが外れたね。あれじゃあ足りないんだ、何かが。何かが……」

 老婆の足は、怪しげな霧すらも立ち込める深く暗い森の中を、迷う素振りもなしにするすると進む。

「でもね、あたしゃ諦めないよ。何をしても。何をしてでも……」

 そうしてラズダの足は〝迷いの森〟を抜けた。


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