血と土地の記憶8
階下で騒めきが聞こえる。
厚く重い扉を隔ててもなお聞こえるそれは、己の登場を待つ声だと分かっていた。
呼び声に応じ向かうため、腰掛けていたこの場から立ち上がる。
そこへ、階下から聞こえてくる騒めきとは異なる声が聞こえた。女の声だった。
だがそれには取り合わず、道のごとく敷かれた赤い絨毯を一歩二歩と踏み、己の正面にある扉の方へと向かう。
それでもなお声は止むことなく飛んできた。抗議、批難、その類いの声色が。
ぐるり、首だけを回し振り返る。向ける視線の先には白い衣服をまとった女。古木から作られた杖を床に突き、それにすがるようにしてどうにかその場に立っていた。ぜいぜいと肩で呼吸をする様子。見るからに消耗の程がうかがえる。
しかしそれにも関わらず、その女の開いた口からほとばしる声が己の鼓膜を突いて刺し、その女が後ろ手に伸ばした片方の手の先がとある光景を指す。
堅牢な石の壁。その一部が大きく崩れ去ったそこには、切り立つ剥き出しの岩肌と垂れ込める暗雲に覆われた空とが、ぽっかりと口を開けるようにただ広がっていた。
女は喚く。喚く。喚く。
ばさり、長マントをひるがえす。向かう足の先には白い衣服をまとった女。古木から作られた杖を床に突き、それにすがるようにしてどうにかその場に立っている。
一歩二歩と足を踏む。その間も女の声は止まない。一歩二歩と足を踏む。そうして己の手を伸ばして。
ずぶり。肉の感触。
女の声が止んだ。
強い紫色の光が、部屋の中に満ち満ちていた。それは一体、どこから放たれているのやら。
貫いたのは剣ではない。剣は依然、腰に下がったままでいる。伸ばした己の手それそのものが、いとも容易く、人間の身体を貫いて。己の手を生ぬるい液体が伝い落ちて滴る。その色が女の白い衣服ににじんで広がり、足下の赤い絨毯に染み込んでいく。
女の口が最期何かをつぶやくように動いたが、その声はもはやこの鼓膜を揺るがすことはない。
深々と突き刺さった手を、そのまま女の腹から勢いよく抜き払った。その反動で、女の体が倒れ込むように後ろへと飛んでいく。崩れ落ちた壁の外、谷底へと。
古木が岩にぶつかり谷底に鳴り響く音。谷底に向かい音もなくひらめく白い色。空虚なそれらを、何の感慨もなく見下ろし眺める。
部屋の中は依然、揺らめくまばゆい紫の光によってあまねく照らされていた。
背を向け、再び大扉の方へと視線を移す。するといつの間にやらそこに、体を縮こめるようにした一人の年老いた女の姿があった。
紫の光に照らされる中。老いた女はその口を裂けんばかりに大きく吊り上げ、その目玉を転げ落とさんばかりに大きく見開いて、醜く顔を歪ませていた。老女の口から奇妙な音が飛び出す。
「あぁ、あぁ、ああぁぁぁあああ!」
それに無言で視線をやる。老女は、今度は逆に目元のしわを深めて、こちらの方にその顔を向けた。醜くしわの寄った顔。その目は深いしわの中に埋まってしまっている。老いた女は節くれ立った両の手を揉み、へりくだりきった甲高い声を発した。
「ああ、ああ。そう、そうなのですねぇ。えぇ、えぇ……」
枯れ木のような手が伸べられ、示し、促す。足下から伸びる赤い道を。
「さぁ、どうぞお進みください。王よ」
その言葉を背に、伸びる赤い道を踏んでそのまま、大扉の方へと向かった。
前に立つと、重い扉が自ずと開いた。その先は謁見の大広間。今立つ場所の床がそこに向かってせり出し、バルコニー状になっている。
足を進め、階下を見下ろす。大きく開けた視界一杯に広がるひしめく人影。扉の外から聞こえていた騒めきが今や、何にも遮られることなくこの耳に届く。
バルコニーから正面。今しがたくぐり出てきた部屋の大扉とは比べものにならないほどに巨大な扉があった。それを見据え無言のままに、濡れそぼった片手を上げる。
群衆がシン、と静まり返った。紫の光。それに照らされる中。無数の視線が巨大な扉の方へと静かに移り、注がれる。
音を立てて巨大な扉が開いてゆく。その向こう側には、敷かれた絨毯のごとく整然と伸びる兵士の隊列。
凱旋だ。広間から歓声が沸いた。群衆が左右に分かれて道を作る。割れんばかりの喝采。その中を数多の兵士を率いて、一人の鎧姿が先頭を切って進んでくる。
立派な羽飾りのついた金色の丸い兜。一歩、一歩と歩む度に、それを被った頭がガクガクと揺れた。片手には敵将の首を提げ、もう片手には錆ついた剣を握る。胸から胴にかけてを守るその鎖かたびらを、一本の太い矢が貫いていた。
その鎧姿が己の眼前、バルコニーのすぐ下で立ち止まる。かと思うと、その体がガクリとその場に崩れ落ちた。
広間の歓声が水を打ったように消える。後に続く兵士たちの足がピタと止まった。
静まり返った中を己の足が進む。赤い絨毯を踏みバルコニーの際まで。音を立て崩れ落ちた鎧姿。流れ落ちる血に沈む鎧姿。それを何の感慨もなく見下ろし眺めた。
ゆらり。影の落ちる血だまりの中、羽飾りが揺れた。
ゆらり。その下の身体が動き出す。
鎧姿はゆっくりと身を起こし、立ち上がり、そして、敬礼のポーズを取った。
大広間はワッと沸き立った。それこそ、堅牢な石の壁を砕き突き破らんがばかりに。
己の片手を高く伸べ、真上にその平を向ける。開け放たれた巨大な扉。そこから抜ける視線の先遠く。空が渦巻き、黒雲は紫の色を孕んだ。
上げたその手をひと思いに振り下ろせば、雷の雨が降る。兵士の隊列が引き上げた街をぐるり取り囲むように、紫色の光の柱が。
落ちたところから火の手が上がり、街を、街だったところを、波状に広がり焼いていく。その向こうに森がまるで壁のごとく黒く見えた。暗雲は無限に垂れ込めて。そして、紫色の光が燦然と踊っていた。
己の口が笑う。哂う。嗤う。
「はは……、ハハハ、ハーッハッハッハ!」
地を、血を、揺るがすかのような声だった。
そこでニグレドは目を覚ました。




