血と土地の記憶7
明くる朝。アーバルが支度を済ませて外に出ると、そこには既にエイトワスとシースの姿があった。空は相も変らぬ曇り模様ながらも、それを透かして差し込んでくる白みを帯びたような早朝の光。それが静かに、二人のまとうローブをよりいっそう白く照らしていた。
エイトワスはアーバルの方に顔を向け、ごく穏やかな様子で口を開く。
「では、参りましょうか」
長老の家。薬師の里の丘の上。そこから、集落の様子が今度こそ一望できた。
アーバルは改めて里の全貌を眺める。昨日は夜の闇に紛れて見えなかった細かな様子が、今ははっきりと見て取れた。
ぽつりぽつりと立ち並ぶ素朴な家々。それらの間、集落の中央を通る枯れた川の跡がとりわけ目を引く。里に足を踏み入れた時からその枯れ川の存在は分かっていたが、今ここ丘の上からだと、それがなおのこと目立つように映った。
(川の跡などすぐに埋まってしまいそうなものだが。よく手入れされているのだな)
アーバルにはそう感じられた。(何かこの川自体に大きな意味などでもあるのだろうか)と、アーバルはふとそんなことを続けて思ったのだが、それに深く考えを巡らせるには少々時間が足りなかった。
「アーバルさん、こちらです」
袖を軽く引くようにそっと、シースから声が掛けられる。
声の方に首を回して見ると、エイトワスとシースの二人が向かう先は里に向かう方ではなく里から遠ざかる方。そこには、薬師の里に入る前に紙芝居のようにめくられた深い森の景色とよく似た光景が広がっていた。
(ここにも、目くらましの魔法が施されているのか)
アーバルは思ったが、しかし二人は杖を出すでもなく呪文を唱えるでもなく、そのまま森の中へと足を進めていく。アーバルはやや目を丸くしたが、黙って二人の後に続いていった。
暗い森だ。わずかながらも里に差していた朝の光が、ここでは重なる木々に遮られてまるで地上まで届かない。足元も傾斜がかかっている上に木々の根による起伏が激しく、歩きやすさなど皆無である。
道なき道。そこを薬師の二人は迷う素振りも見せず何でもない風にすいすいと進んでいく。それに呆気にとられつつ、アーバルは鋼の鎧の靴を履いた足をただひたすら前へ前へと進めた。
どのくらいの間、歩いていただろうか。ほんの一時だったかもしれないし、随分と長い間だったかもしれない。
ふいに、深い森の只中から視界が開けた。
視界に映るは、見るも無残にひび割れた灰色の窪地。同じ色をした曇り空の下、それが眼前に荒涼と広がっていた。
(どうやらここは、里の水源地のようだな)
水の気配がまるで無いこの場の様子を目の当たりにして、アーバルは納得の息を漏らした。
(いや、元水源地、か……。この有り様では、里を通る川がすっかりと枯れ果てていることもうなずける)
アーバルが視線を先に向けると、その視線が突き当たるような位置、切り立った段差の上に、周囲の崖の色とは異なる不自然な白い岩壁があるのが目に映る。
その白い巨大な石壁が、ここに流れ込んでくるはずの水を塞いでいるのは明らかだった。
「足元に気をつけ召されよ」
エイトワスはアーバルに向かってそう告げると、ひび割れた地面へと足を進めた。少年シースもまた、神妙な面持ちで長老の後に続く。彼らの白いローブのすそが灰色の地面の上を滑っていく。アーバルもまた、干上がり切った土の質感を鋼の靴越しに感じながら、窪地の中を進んだ。
近づくにつれて、そのそびえる巨岩が白一色ではないことにアーバルは気がついた。巨岩、否、石版の前に立ち、見上げる。
そこには赤銅色で文字が刻まれていた。
その力彼方より呼び起されし時
戦士は朽ち
術師は陰り
王は損なわれ
そうして魔の王は君臨する
國は暗がりて
真に勇なる者現れしその時まで
永久に閉ざされるであろう
「これは……」
アーバルの口から声が漏れる。うめきのような、かすれた声だった。
王国騎士団長は薬師の里の長の方を振り向いた。剣を振り抜き空を切るような鋭利さをもって。
「なぜ」
銀の鬚を蓄えた口から静かな、しかし剣の切っ先のような鋭さを帯びた声が飛ぶ。
「なぜ、国へ報告せずにいた」
この今立つ場所からそう声を、声のみを、飛ばす。年少者もいる手前、そして老体を前に、手荒な真似はできない。それが、王国騎士団長アーバルの取ることのできた唯一にして精一杯の行動だった。
アーバルは一つ息を吸い、そして吐き出す。その視線の先で、薬師の里の長エイトワスは、はじめにアーバルの前に現れた時から変わらぬ静かな表情を浮かべていた。
(誉れ高き北の薬師団ともあろう方々が、なぜ……)
アーバルは語気を緩めぬまま続ける。
「これは予言の類いであろう。このような重大なものを、なぜこれまでの間、隠蔽していたのだ。……あの十余年前の出来事。この地にいる以上、それを知らぬわけもあるまいに」
そう口にし、王国騎士団長アーバルは刻まれた言葉を脳内で反芻する。
「この〝真に勇なる者〟とは、現国王サムエル様のことを差す文言であろう。サムエル様がエナリア様を救出なさった際に、魔王は、魔王バロームは、討ち滅ぼされたのだから」
言葉を紡いでいくうちに、アーバルは何かに思い当たる、そんな予感がまず先にした。その何かとは何なのか、この時すぐには分からない。何かに思い当たる、ただ、その予感だけがしていた。
「そうだ。この予言は、既に、成されたこと……では……」
その声がしぼんでいく。暗雲垂れ込める寒空の下、アーバルはやがて言葉もなく立ち尽くした。
「依然、北寄りの空は暗いままです」
エイトワスの目が、白い眉の下からその空を見上げる。それは、はっきりとした意思を湛えた黒い瞳だった。
「我ら北の薬師団は、いにしえよりこの予言をひそか守ってまいりました。そして我々は治療の旅路の中において、長らくの間〝真に勇なる者〟を探し求めてきたのです」
その静かな声は、荒れた地に染み込む清水のように。アーバルの固く握りしめられていたこぶしが、ふっと緩んだ。
「我々は、この予言のことをこう呼んでおります」
長の声が告げる。
「『魔王伝説』、と」
アーバルは再び『魔王伝説』の石板の方を仰ぎ見て改めて、つぶやくようにその刻まれた言葉を読み上げた。
「〝その力彼方より呼び起されし時〟――」




