血と土地の記憶5
シースが少女の背に向かって掛けた声は明るく弾んでいる。その声と同様、少女の方へと駆け寄るシースの足取りは軽く弾んで。
しかし『タニア』と呼ばれた少女は聞こえなかったのだろうか、足を止めることはなかった。背中を丸めたうつむき加減のまま、傾斜のかかった道を下り続けていく。
いや、少女は自分の名前を呼ぶ少年の声が聞こえなかったわけではない。その証に、声が掛けられた瞬間その肩がピクリと跳ねた。そしてそのまま身をすくめるように、あるいは自分の体を抱きしめるかのように、両腕をきつく結んでタニアは歩き続けたのである。
やがて少女タニアの歩みに、駆ける少年シースが追いついた。
「タニア!」
もう一度、今度はすぐそばで掛けられた弾むその声に。
「……何」
少女はようやく足を止め、年相応の高い声で、しかし子供らしさとはかけ離れた暗い声で、唸るように返事をする。声を掛けてきた少年シースを横目で見やったその瞳は、冬の泉の底にもよく似た、凍えたようなグレーの色を湛えていた。
しかしシースはその冷たさに臆することもなく、陽だまりのように微笑んで話を進めた。
「雫草、届けてくれてありがとう、タニア。とても助かったよ。だからこれ……」
シースは肩に提げていた水筒の蓋を取る。白い湯気、そして先ほどシースの家のキッチンに漂っていたスープの香りが、夜の冷たい空気の中にふわりと広がった。
それにタニアはチラと視線を向け。
「……別に、スープが欲しくてしたわけじゃない」
そうしてまた目を伏せて歩き出そうとする。
そこへシースは声を発した。
「違うよ。これは、君がしてくれたことへの正当な対価だ」
きっぱりとしたシースの声に、下り坂を歩くタニアの足が止まった。彼女の瞳とよく似た色のグレーの髪が、その動きに合わせて揺れる。
「今、僕は自分で使えるお金は持っていないし、この里の中でお金だけがあっても使い道はないから、だから、物々交換」
言いながらシースは、温かなスープの入った水筒を差し出す。
「それに、雫草は流れる川辺にしか咲かないものだから、こんな夜中に探してくれて、さぞ寒かっただろうなぁとも思って……」
スープの香りがふわり、ふわり、夜の空気の中を漂っていく。
「……いらない。母さんのご飯があるから」
タニアは首を横に振った。顔を背けるような角度。痩せた顔の輪郭が一層目立つ。そう言ったそばから、お腹の音が他でもないタニア自身から鳴った。そこに温かく差し出される少年の手。
「あと、実はこのスープ僕が作ったんだ。君の口に合うと良いんだけど……」
そこでようやくタニアは、シースの手からスープを受け取ったのだった。
里の中央を通る枯れた川のへりに二人並んで腰掛けて。タニアが息を吹きかけながらスープを飲むのを、彼女の気が散らない程度に見守るシース。
川に流れる水こそないが、穏やかな時間がそこに流れていた。
「……ごちそうさまでした」
空になった水筒を返そうとシースの方を振り向くタニア。その頬が柔らかな緑の光に照らされた。その光の中でタニアは驚きに目を丸く見開く。彼女の頬、母親にぶたれてできた腫れが、見る見るうちに癒えていった。シースがいつの間にか手にしていた杖で治癒の魔法をかけたのだ。
やがてシースは杖をしまう。一筋ついた傷痕こそ消えなかったが、すっかり腫れの引いた頬。そこに片手をやりつつ、タニアはどこかムッとしたような顔をした。
「そんな、魔法の治療なんてまでもしなくて良かったのに。放っておけば治ったわ。……それに、わたしが悪かったんだもん」
静かに首を横に振るシース。
「違うよ」
穏やかに、しかしきっぱりと、少年の声が言う。
「放っておいて良い、なんてことはない。治療することは僕の仕事なんだ。僕は北の薬師団のリーダーなんだから」
それでもまだ不満に思っていることをありありと物語る少女の顔。それを前にして。
「……なんて格好つけたけど、もし一つ頼み事をして良いんなら――」
シースは包み込むような大人びた表情から、照れの混じったはにかみ笑いになって言う。
「――ええと、また僕に薬草のこと、教えてほしくって」
タニアは少しうつむいてしばらくの間黙りこくり、それからようやく一言発した。
「……わかった」
そこから二人は里の方々を周って。
「これで要るものは全部?」
里の共同畑の前に屈みながら、タニアはシースに声をかけた。そこには安眠効果のある花が植わっている。夜風に白と黄色の小さな花が揺れて、まるで満点の星空のようだった。
「うん、おかげで助かったよ。タニアの薬草の目利きは、里の誰にも負けないからね」
自分のすぐ横に屈んだシースにそう言われて、タニアの頬が赤く染まる。それは無論、すでに引いた腫れのためではない。
「別にわたしなんて……。もっとすごい人も、いるでしょうに」
しかしそっけなく言葉を返して、タニアはそそくさと畑の方に手を伸ばすのだった。
「これ集めたらまた、旅に行っちゃうの」
薬草を摘み取りながら、タニアはぶっきらぼうな声色で何でもない風にそう訊ねた。
「ううん。すぐには出ないんだ」
シースの返答に、タニアの目がパッと輝く。それは、この日初めて彼女が見せた喜びの色だった。
「……ふぅん」
しかしその後で、そう大した興味もなさそうに少女の声が言う。
そしてタニアは一つ二つと花を摘んで、もう既に様々な薬草で両手がいっぱいになっているシースに、半ば強引に「はい」と束になった花を手渡した。
「じゃ、わたし行くね」
パッと立ち上がり、シースの返事も待たずその場から駆け去るタニア。
その足取りはどこか浮き足立ったように軽くて。浮かんだ笑顔を誰にも見られないように、少女は里の道をひた走るのだった。




