隠れ里5
皆がバッと声の方を向いた。長老エイトワスでさえもぐいと首を回して。
その少女の声で『母さん』と呼ばれた当人、ベランナという女以外は。
夕暮れの薄闇の中から転げるように走り出てきたのは、一人の少女。
痩せ細って小柄な体に、腰の辺りまで伸びたぼさぼさの髪。一歩足を前に出す度、膝にかかる丈のだぶついた服が少女の小さな体にうっとおしくまとわりついた。
歳はシースと同じくらいに見える。それなのに、その少女の髪色は色が抜け落ちたかのような灰色だった。ちょうど目の前のベランナと同じような。
少女はベランナの元に駆け寄り、その服の裾にしがみついた。蒼白の顔の中、黒い瞳がすがるように女を見上げる。
「母さんやめて。もう良いから……。戻りましょう? ね……?」
「……うるさい……」
そこでようやく、女は自分の元に駆けてきた少女の方を見た。至極冷たい目で。
バチン。
鈍い音が鳴る。次の瞬間には、地面にしりもちをつく少女。
「タニア……!」
そう小さく口にして、足を踏み出しかけるシース。
ベランナは今度はぐるりと体ごと少女の方を向いた。それはまるで、駆け寄るシースや固唾を飲んで見守る一行、それらの姿を〝娘〟の視界に入れまいと隔てるかのように。
「お前、お前。お前がいるから、あたし、あた、あたしは……」
手をわなわなと震わせ再び振り上げる。その間は一瞬。シースに続いてアーバルがそれを制しようと前に出た、その途端。
「あたしは、生きられるの……。ねぇ。あたしの娘。あたしの、娘ぇ……」
ベランナという女はその場に崩れ落ちるかのように、その振り上げた左手で『娘』と呼んだ少女の頬をわっしと掴んだ。その手に込められる力は、爪が食い込みそうな程までに。それに対し、少女はただ黙って座り込んでいる。
そこからは誰も動けなかった。さめざめと泣く女の声が響く。
「ああ良かった、ここにいたんですね……!」
早い足音が別の方角から近づいてくる。現れたのは、白いローブにエプロンを掛けた女性だった。栗色の髪を低い位置でひっつめて丸くまとめている。
その女性はアーバルらには一切目もくれずまっすぐに、地べたに座り込む母子の元へと歩み寄った。
そっと屈み、顔を伏して泣く女に声をかける。
「帰りますよ、ベランナさん。大丈夫ですから、落ち着いて」
「あらあら、ごめんなさい、ごめんなさいねぇ……。あらあら、あらあらあらあら……」
鼻をすすってしゃくり上げつつ、恐縮しきったようにぺこぺこと何度も頭を下げるベランナ。その肩を支え、白いローブとエプロン姿の女性は立ち上がりかける。
その時になってようやく、ベランナの手が少女の頬から離れた。少女タニアは、白いローブの女性が彼女の方に顔を向けるよりも早く、バッと跳ねるようにして立ち上がった。
「タニアちゃんも、ありがとう」
優しく投げかけられた言葉に背を向けるように、タニアは暗がりの方に体をひねる。その表情はもううかがえない。
「長老様、お伝えいただきありがとうございました」
女性から向けられたその言葉に、杖の上に重ねた手を擦り合わせてうむとうなずくエイトワス。アーバルは理解した。
(杖を突く動作。あの時に合図を送っていたのだな。魔法の類だろうか。なんと熟達した技よ)
「母さま……!」
シースのその声に女性の表情がふっと和らぐ。シースと同じ薄い青色をした瞳が、夕暮れの中で柔らかく微笑んだ。
「お帰りなさい、シース」
女性は息子に視線を向けたまま、続けて声をかける。
「シース、帰ってきたばかりのところ悪いけれど、今日の御夕餉お願いできるかしら? ひとまず今はベランナさんを落ち着かせないと……」
任せて、とうなずく少年。少年の母はありがとう、と心強そうにうなずきを返した。
「さぁ、行きますよ。ベランナさん」
シースの母は未だ泣き崩れるベランナに肩を貸して、ゆっくりと足を進めていく。
一方で、少女タニアはどういうわけかまだその場にまごまごとつっ立っていた。握りしめる服の裾。迷うような素振り。
しかしタニアは一行の内の誰かが声をかけるよりも先に、無言でバッと頭を下げ、きびすを返すと母親の後を追って駆け去っていった。
母親にぶたれ掴まれた彼女の右頬。そこに一筋、大きく斜めに走る痕が見えたのは、決して薄暗い夕闇の中での空目などではないだろう。




