隠れ里3
それからシースが「ここです」と足を止めたのは、もう一度太陽が厚い雲の向こうで西に傾きかける頃だった。
(……随分と、遠くまで来た)
アーバルがそう思ったのは、単にこれまで進んできた距離を振り返ってのことだけではない。己の眼前に広がる景色を見て、ことさらに老境の騎士はそう感じ入ったのだ。
壁のように立ちはだかる森の木々。王国の領土の終わりが、そこに見えていた。
出立前、騎士団員らと共に地図で見た北の大地の手前に横たわる深い深い〝迷いの森〟。黒く見えるほどまでに濃い緑の木々がうっそうと茂り、その上にはこれまた黒く見えるほどまでに濃い暗雲が垂れ込めている。それらはまるで、この国を脅かさんとばかりに伸ばし広げくる黒い魔の手のようだった。
しかしその暗澹たる光景が目と鼻の先にあるにも関わらず、不思議とアーバルたち三人のいるこの場所は、押さえつけられるような息苦しさを感じることはなかった。
アーバルは今一度息を吸いうなずく。
(なるほど、確かにここに彼らの里があるのだろう。そのために、ここの空気は清浄なのだな)
馬から下りて数歩足を進めていくシースの後ろ姿を眺めながら、アーバルはそう思った。
しかしアーバルの目には依然、里らしきものは影も形も見えてこない。それどころか、人の気配すらまるで感じられなかった。
それは無論、目くらましの魔法がかけられているからだ。昨晩に見たシースの魔法を思い起こし、アーバルは改めて感心した。
(……シース君の魔法も大したものだったが、ここにかけられている魔法はとりわけ別格のものであるのだな。空気の揺らぎの一つもない。実に高度な魔法だ。これは、里の存在を知らぬ者には一生分かることはないだろう。いや、ここに里があると知っていたところで、この魔法を解けないことには入る術もないというわけか)
アーバルはふむ、と蓄えた口髭をなぞった。
老境の騎士の視線の先で、少年シースは白いローブの懐から杖を取り出し、小さく呪文をつぶやいている。
(我々が入れるよう一時的に魔法の制限を解いている、といったところか。恐らくはもうしばし時間を要するな。この強固で繊細な魔法に関与するというのは、さぞ難しいものであろう。……そう言えば確か、エナリア様の塔にも似たような魔法が施されていると聞いたことがある……)
そこでいったん考えを打ち切って、アーバルはシースから視線を外した。右方左方に延々と延びる緑の壁を見やる。
(幸か不幸か、〝迷いの森〟は一続きに壁を成している。この夕焼けのおかげで方角もしかと分かった。このまま森沿いに東へ進めば、騎士団の部隊と合流できよう)
アーバルはそう一人うなずいた。
「お待たせしました。ここが僕らの里です」
声をかけられ、視線と意識を戻す。
途端、アーバルは目を見張った。その傍らでミディアもパチリと目を瞬き、驚きをもってつぶやく。
「すごい、紙芝居みたい……」
アーバルも正にその通りだと思った。
市井で見かける紙芝居屋が頁をめくった時のように鮮やかに、目の前の景色がガラリと変わっていた。うっそうと茂っていた木々は拓け、集落が姿を現す。
萱でふかれた屋根の素朴な家々が、ぽつりぽつりと立ち並ぶ。その家々の庭先そして道端のあちらこちらにも、薬効のある草木が数も種類も豊富に茂っていた。集落の中央には、周りから一段下がった溝状の道のようなものが一本通っている。それは、水の枯れた川の跡のようにうかがえた。
そしてその里の入口にて。こちらを振り返ったシースの傍ら、アーバルたちの真正面に、一つの人影が立っている。
シースと同じ白色のローブをゆったりとまとった、禿頭の老爺。結わえた長い顎髭のその色は、経てきた年月を表すかのようにすっかり抜けきっている。老爺は地面に突いた長い木の杖の上に両手を重ねたまま、その場に静かに佇んでいた。白い眉の下から視線が覗く。
「ようこそ、お客人。儂は薬師の里の長老、エイトワスと申す」




