緑の光1
濃紺のローブをまとった魔法使いは扉の前で微動だにしないままでいた。小さな木の扉。北の塔の最上階。王妃の部屋の前にて。片手には杖もう片手には水晶玉を持ち、ただじっと、血の通わぬ一体の彫像のように立つ。
もう夜もずいぶんと遅い時分だった。周囲は恐ろしいほどまでに静まり返っている。まるで、この場所だけ時が止まってしまっているのではないかと思えるほどまでに。
闇に沈んだ塔の上。一人佇む魔法使い。その手にする杖の先から発せられる緑色の光だけが、スターズの表情の一切浮かばない浅黒い顔をただ照らしていた。
交易の街を脱したその足で、騎士団長アーバルは最も近くの村から早馬を飛ばした。
『ただちに、騎士団は北の地手前への集合を、国の衛兵は交易都市への救難支援を!』
早馬の乗せたことづては、王国中を文字通り駆け巡る。
「何、王子の足取りが掴めたと!」
「交易都市で未曽有の災害だそうだ!」
そうしてその知らせは、国内各地に野火のように広がっていった。
アーバルとミディアはそれ以来、脇目もふらず北へ北へと馬を走らせた。
北の方角に向かって空はどんどんと暗くなる。その空をアーバルは鋭い目で睨んだ。灰色の空にはカラスが舞っている。
(……あれは、ただの鳥だ)
アーバルはまた一つ馬に鞭を入れた。
(急がなくては……)
さながら巨大な怪鳥のように飛び回り、アーバルの目の前から王子をかっさらっていったあの魔女。その時の光景が嫌でも脳裏にちらつく。アーバルは軽く息を吐き、冷静さを保つよう努めた。
(あの魔女の空を飛ぶ魔法がどのくらい持つのかは未知数だ。だが、あのような大層な魔法など、そう長くは使い続けられないだろう。……常識的には、そのはずだ)
アーバルは思考を巡らせる。
(現にあの枯草の原での戦いの際も、魔女はこちらを殲滅することよりも、場を離脱することを優先させていた。体力と同じように消耗するという魔法の力を、そちらに割いたのだろう。……わずかな差ではあったが、だからこそ我々騎士団員はどうにかあの場で命を落とさずに済んだのだ)
そこまで考えて、アーバルの額の傷がうずいた。老境の騎士団長が眉根を寄せたのは、その痛みによるものか、果たして。
(馬の脚。この速度であれば、北の大地の手前、”迷いの森”まで数日で辿り着ける。例えいかに魔女の魔法が持続するとしても、このまま行けば魔女が森に逃げ込む前に、その背中を捕らえることができるだろう。このまま、どうにか……!)
その時、後ろでドサリと物音がした。
アーバルは振り返る。その目に映ったのは、馬の背から落ちて土の上に倒れ伏した弟子の体、それが己の馬の駆ける足に伴って遠ざかっていく様子だった。
「ミディア!」
アーバルは急ぎ馬の向きを変え、ミディアの元へ向かった。
ミディアの馬は心配そうに、主人である少女の小柄な体に鼻先を寄せていた。うつ伏せの状態からミディアの手が持ち上がり、馬の顔を弱々しく撫でる。
「大丈夫、大丈夫です、お師様。ただちょっと滑ってしまっただけで……」
駆けつけた師に、ミディアはそろそろと体を起こしつつ言った。
「先を急ぎましょう、お師様。先を……」
声を絞り出して顔を上げるミディア。その泥のこびりついた顔は蒼白だった。それを目の当たりにして、アーバルは険しい顔をして首を横に振る。
(……これはいけない。疲弊しているにしても顔色が悪すぎる。やもすると、これは……)
アーバルは急ぎ荷物の中から小瓶を取り出した。うっすらと光を放つ緑の液体。魔法の力が込められた薬だ。
蓋を開け、ミディアの口元に当てがい飲ませる。しかし瓶の中身を飲み下しても、ミディアの蒼白となった顔に血の気は戻らない。これを飲めば大半の傷は見る間に塞がり、大抵の呪いは容易く退ける強力な魔法薬のはずなのに、だ。アーバルは歯噛みした。
(……悪い予感の内、更に悪いものに当たったか。やはり何か良くない魔法、呪いの類いを受けたのだな。状況を鑑みるに、恐らくはあの魔女に……)
アーバルはミディアを自身の鞍の前に乗せ、彼女の馬の手綱を片方の手に持った。そうしてゆっくりと、だが急くように馬を進めた。
(遺憾だが、私にはこれ以上の治療はできない。誰か詳しい者を探し診てもらわねば。いやその前に何よりも、どこかで休息を、だ……)
やがてアーバルはとある小さな村のそばを通りがかる。これ幸いと向かおうとすると、村から一人の壮年の男が大きく手を振りながらこちらの方に駆け寄ってきた。
「おーい、おーい! こちらですよー、おーい!」
アーバルは多少面くらいつつも、ひらりと馬の背から下りて村人の方へ足を進めた。手綱を片手に、もう片方の手を軽く上げて、挨拶を返す。
「いや、突然の訪問で申し訳ない。このようなお出迎えをいただき、大変感謝を……」
すると途端に、男はなぜだか怪訝な顔をした。
「ん? あんた方は、どなたです?」
(ん? なんだ、この反応は……?)
どちらからともなく立ち止まり、互いに顔を突き合わせつつ目を白黒させる村人と騎士団長。言うまでもなく、アーバルは困惑していた。
(先ほどの歓待は、我々に対してではない……?)
そうしているうちに、背後から声がかけられた。
「すみません、遅くなりました」
草原に吹く風のように透き通った響き。女性の声、いや、声変わり前の少年の声だった。その声にアーバルは振り向いた。




