暗渠の泥の底6
街の門にて。黙って立つ門番ウィルの足元を何かが掠めていった。
「うわっ、とぉ!」
思わず片足を上げて叫ぶ。下に目をやると、どこから現れたのか小さなネズミたちが列をなして橋の上を逃げていっていた。一匹のとりわけ小さなネズミが彼の足の上で立ち止まって、チィと一声だけ鳴く。
「……?」
離れた位置から騎士がジロとこちらを見るのが分かった。その鋭い視線を感じて、ウィルはバツが悪そうに肩をすくめた。その足元にネズミの姿はもうない。ウィルの腹が三度目、夜の空気の中で鳴り響いた。
(ああ腹が減った……)
その時一瞬、橋の下、水門の内側の方で紫色の光がチラリと目に映った気がした。ウィルは思わず橋の手すりに歩み寄り、河を見下ろす。
――ッヒヒヒヒィ――
奇妙な声が聞こえた気がした。
すると突如、水門の格子の隙から何かが飛び出した。目にも留まらぬような速さ。どうにか目で捉えることができたのは黒い影。その影は先ほど聞こえた耳障りな声をけたたましく上げながら、夜の空へと躍り上がった。
それをどこかぼんやりと見送るように目で追って空を見上げ、門番ウィルは思う。
(……何だアレ。ずいぶんとデカいが、鳥か……?)
その黒い影は何か爪に獲物を引っ掛けたまま、暗い夜にも関わらずぐんぐんと遠くへと飛んでいく。
(へーぇ、あんなのが街の中に紛れ込んでいたんだなぁ。それにしたって妙な鳥だ。あんなの、今まで見たこともないや)
「おい、おい……!」
もう一人の門番イブロがウィルの肩を強く叩く。彼のその目はずっと川面、奇妙な鳥が飛び出してきた方に向けられていた。
ウィルは何だよ、と面倒臭そうにその方を見やる。
その目に、川面から溢れ返り、こちらの頭の上に向かってぐわっと手を伸ばす、吹き出す水が映った。
「な、何だこれは!」
騎士が駆け寄り叫ぶ。途端、頭上で汚泥の波が弾けた。バケツを引っくり返したように、汚れた水が大きな飛沫となって降り注ぐ。
水が石の橋を激しく打つ音の合間で、二つの足音が門の下から聞こえた。
「住民に避難指示を! 地下の水が膨れ上がってくるぞ!」
二人の門番と騎士は振り返る。
そう叫んだ声と共に、門の階段の中から二つの人影、騎士団長アーバルとその弟子ミディアが現れた。
門の方で緊急信号が上がるのを、眠らぬ街の人々は見た。それとほぼ同時に、街の上空からは汚水の雨が降り注ぎ、張り巡らされた河川からはざっぱと水が押し寄せる。
今まで下へ、下へ、目につかないところへと望まれ流され沈められた、鼻を突く異臭を放つよどみ腐った濁流。それがまるで何か得体の知れない化物のように、手を伸ばし、大口を開け、涎を垂らして街を飲み込んでいく。文字通り、地の底から這い出た魔物だ。
人々は一目散に高台へ、そしてそこの建物へ、更にその屋根の上まで。命からがら駆け上がり、這い上って、逃げ延びた。元より背の高い建物の並ぶ街並みで良かった。そればかりがせめてもの救い、せめてもの慰めだった。
人々の眼下で、多くのものが瓦解していく。粗末な掘っ建て小屋などはおろか、窓もなく堅牢に造られた建物も、ごてごてと飾りつけられた大きな船すらも。
悲鳴と怒号とすすり泣く声が、荒れ狂う水音の合間に聞こえる。水が全てを押し流す。
「何だって!」
街の門。騎士パルセルの驚きと怒りに満ちた声が、汚泥の降り注ぐ中こだました。
「あいつだ!」
パルセルが叫ぶ。その指は虚空を突くように指し示す。黒い影が消えた夜の闇を。
今しがた姿を現した騎士団長より地下水路での事の顛末を聞いて、騎士パルセルは悟ったのだ。団長が地下で見た〝魔女〟。その姿の特徴は、今日この門で見かけたあの老婆のものと一致していた。
「クソ! クソ! クソ! あの時、俺が捕らえてさえいれば……!」
パルセルの憤りが空しく響く。ミディアはその傍らで青い顔をしてうなだれていた。パルセルの顔が騎士団長アーバルに向けられる。相も変わらず指を虚空に突き刺して。
「俺も! 俺も追います! 奴を! だって、だって、俺が……!」
その時、蹄の音が響いた。打ちつける水の音と叫ぶ騎士の声の間を縫って、その音が彼らの元へと近付き止まる。
途端、パルセルの頬が思い切り張られた。
頬を押さえ視線を動かすパルセル。その先には、駆けつけて馬の背から飛び降りた、分隊長オズマの姿があった。
「パルセル、周りを見ろ!」
オズマは一喝する。打ちつける水音に負けぬ、大きな大きな声。
「お前に今出来ること、今のお前がすべきことは、何だ!」
パルセルは泥に塗れた顔を上げた。
「ただただ後悔することか? その後悔に駆られ闇雲に飛び出して行くことか? いいや、違う!」
同じく汚泥を被った分隊長の姿。しかしその目に宿った光は強かった。
「お前は、俺たちは、この街を護ることを任された誇り高き王国騎士団駐在隊だろうが!」
ドッ、と音が鳴る。同時に石の門と橋が大きく揺れた。橋の下、水門の格子の内側から瓦礫の塊の一部が突き出している。何か大きなものが引っ掛かったらしい。足元では轟々と、くぐもった水の音が不気味に鳴っている。
門の内部、緊急信号の打ち上げ機や水門の制御装置のある部屋の、開け放たれた扉から門番二人の悲鳴が上がった。
「チクショウ、何かが引っ掛かりやがった! 水門が開かねぇっ!」
「このままじゃ水が溢れて全部沈むぞ! 何とか回して開けろっ!」
それを聞き、パルセルの目に焦りとは別のものが宿った。パルセルは口を開く。
「……はい。そうですね。私は、私はこの街を護る騎士だ……!」
水を吸って重くなった革の鎧をその場に脱ぎ捨てる。そしてそのままパルセルは降りかかる汚泥を跳ね飛ばし、門の制御室の方へ駆け出した。
「何をすれば良い、教えてくれ! 下の水門を開けるんだろう!」
「騎士さま!」
「ありがてぇ、そっちを持ってくれ! ……よし、これなら動くぞ!」
分隊長オズマは水門の開いていく音を背後に聞いて、アーバルの方を振り向いた。
「……団長殿、お見苦しいところを」
「いや、立派なものだ、オズマ。貴殿も、騎士パルセルも」
オズマの口元が一瞬誇らしげに微笑んだ。そしてその口を引き結び言葉を続ける。
「セズとダイムにはそれぞれ、街の人々の救助に就かせています。私もこれからまた街に入るつもりです。ですので……」
そう言ってオズマは手を持ち上げる。二本の馬の手綱がそこに握られていた。見れば、彼はアーバルの馬に乗り、ミディアの馬を伴ってここまでやって来ていたのだ。
「先を急がれると思い、馬をお持ちしました。さぁ、行って下さい。団長殿」
オズマの目がつぃと街の方を向く。
「あの紫色の光が街の地下から覗き見えた時から思っていました。これはただごとではないのでしょう」
そうしてオズマはアーバルに向かって、自らの剣を差し出した。
「……あなたがあの剣を……。あなたの騎士叙勲の際に先代の王より賜わったあの剣を、手放すほどまでに」
「いや」
アーバルはきっぱりと言った。
「それよりも、大事なことがあったのだ」
「……どうぞ、御武運を」
その言葉と共に再度差し出されたオズマの剣を受け取り、アーバルはうなずいた。
「ああ。ありがとう。貴殿が分隊長であること、誇りに思う。街のことは、頼んだぞ」
そう告げて、アーバルはひらりと馬に飛び乗る。
その師の後に続き、青ざめた顔をしたままで馬の背にまたがるミディア。彼女に、オズマは歩み寄って声をかけた。
「ミディア、無事で良かった……。心からそう思う。……君があの後で何を見たのか、私には分からない。だが負けてはいけない。気をしっかり持つんだ。君にも、幸運を」
ミディアは青い顔のまま言葉を紡ぐこともできず、それでも、オズマのその言葉にうなずいて見せた。オズマはミディアの乗る馬の鼻先を、そっと街の外側に向ける。
泥の雨が降り注ぐ中。街の水門から勢いよく水が噴き出す音を背に、二頭の馬が街を飛び出す。そうして北へ、黒い影の飛んで行った方角へ、その持てる全力で駆け抜けて行ったのだった。




