暗渠の泥の底5
ぽっかりと開けた空間。鎌首をもたげる水柱。妖しい紫色の光を帯びて辺りを不気味に照らしながら、それはあれよあれよという間に膨れ上がる。立ち尽くす少年の姿はその後ろに飲まれた。
出遅れてしまったと歯噛みをして、アーバルは尚も膨張を続ける水柱を回り込んで王子の元に向かおうと足を踏み出しかけた。しかし。
膨れ上がった水柱。そこから、向こうにいる少年の姿が透けて見える。
(――本当に、そうか?)
蠢く水いっぱいに広がる、足を大きく開き肩を怒らせて立つ姿。髪が逆立ち波打つ。その体の一部は異様に大きく膨れ、一部は異様に細く引き延ばされている。およそ人間の姿形とは思えない。
これは果たして水の屈折の作用か、はたまた妖しい光の見せる幻視か。もし、もしそうでなければ、今この場に現れた像は……。
アーバルは己の目を疑った。
(これは、まるで、異形の――)
アーバルは己の目の前、立ちはだかる水柱に浮かぶ像を見上げた。地下道の闇の中、歪む水の向こう側。それの表情は一向に読めない。
向こう側へ呼びかけようと、銀色の髭を蓄えた老騎士の口が動いた。しかし騎士の口から発せられる何かしらの言葉が立ち尽くす少年の耳に届くよりも先に。
「ぁぁぁあああっ! 手を出そうったってぇ、そうはいかないよおおぉぉおおっ!」
けたたましい何者かの金切り声が場の空気をつんざいた。
水柱に風穴が開く。
風にあおられた蝋燭の火のように、不安定に揺らいで明滅する紫色の光。
異形の姿は掻き消えて、その胸元があった辺りから、ひとかたまりの黒い影が放たれた矢の如く飛び出した。
獲物を捕らえたカラスの似姿。鉤爪のように骨ばった手に、ぐったりとして動かない少年をぶら下げて。
魔女は、宙を飛んでいた。
「おのれ、魔女……っ!」
アーバルは鋭く叫ぶ。だがその反響する声をもまるきり掻き消すほどに、魔女の狂ったような高笑いが、がらんどうの空間に幾重にも幾重にも響き渡っていた。
「あーッははハハハ、ああ良い気味だ、良い気味だ! ヒィッ、ヒヒヒヒヒーィッッ!」
魔女は何かの鳴き声のような一際甲高く耳障りな高笑いを上げて、獲物を手にしたまま、びょう、とその場から飛び去っていく。もはやそれは人の動きではなかった。
魔女と少年の去った空間。その最中で、力の源を失った水柱が崩れ始めていた。
空いた穴よりばたばたと音を立て地面に落ちる水。その穴の隙間から、あるものがアーバルの目に飛び込んできた。
(何故、ここに……!)
地下水路、その空間を照らす光の弱まる中で、かろうじて視認ができた。こちらに向かってよろめきつつも駆けてくる小柄な少女。肩のあたりで切りそろえた髪が跳ねるように揺れて扇形に広がる。
(ミディア……!)
高く持ち上がった水がいよいよ形を失って崩れていく。
アーバルは足を大きく踏み出し、迷うことなく手に握った剣を地面、堆積した泥の中へと突き刺した。見事に鍛え上げられた剣。立派な装飾の施された剣。長年の時を共にし己の手によく馴染む、アーバルが王国騎士と相成った際に国から賜わった剣を。
剣が強くしなる。その柄から手を離し、騎士の体は跳躍した。
崩れゆく水柱にわずか残された風穴へと、鋼の鎧をまとった体が滑り込む。そしてアーバルはその向こう側に抜けると、弟子の体をしっかと抱え込んで地面を転げた。
「お師様!」
その瞬間、すべての力を失った水が、濁流となって地下水路に溢れ返った。
「ぐぅ……っ!」
水が圧倒的な力で老騎士の体を殴りつける。成す術もなく奔流に押し流されていく。アーバルは水面から顔を上げて辺りを見回した。
(いかん、このままでは……!)
「お師様、あそこ!」
弟子の手が指し示す。その先、まだ水に浸かっていない上へと続く階段があった。
片手でミディアの体を支え、もう片手で階段に手をかける。そしてアーバルは一思いにその体を背中から床へ乗り上げた。
肩で荒い息をつく。その隣で弟子ミディアもまた、水を吐き出し咳き込んでいた。アーバルは一声、息を振り絞り言う。
「無事か……!」
「はい、お師様……!」
安堵すると共にアーバルは悟った。
(ここもすぐに沈むだろう。今この瞬間にも、妙な具合に水が引いていっている。間もなく次の波が来る。それには到底、耐えられまい)
「地上に上がるぞ、走れ、ミディア!」




