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Nigredo - 魔王伝説 -  作者: Ellie Blue
第3章 交易都市
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暗渠の泥の底3

 王国騎士団長アーバルは狭い地下水路の中で、足を止めてある一点を凝視していた。

 視線の先、ぽっかりと口を開けた暗い闇。その空間の中でゆらりと何かの影が動く。




 当初アーバルは、王子について何か手がかりが得られるやもとこの地下水路に足を踏み入れた。進んでいく中で女の悲鳴を聞き、何事かと走り出したその矢先のこと。駆ける通路の先が急に開けた空間になっていることをアーバルは悟り、既に抜いていた剣を握り直すと、再び静かに音を潜めた足運びで距離を詰めた。

 そして今、その空間の中で動く影に気づき、そこに踏み込む手前で足を止めたのだ。




 アーバルはじっとその影を見つめていたが、そのうちにハッと思い当たる。

(あの背格好はもしや……、王子か?)

 今一度、人影を見つめる。身長の伸びきっていない子供の背丈。頭のてっぺんから全身に巻き付けるようにまとった外套。

(間違いない。枯草の原で見かけたままの姿。あれからここまで探し求めた、我が国の王子……)

 まさか本当にという驚きの反面、安堵の気持ちが王国騎士団長のその胸に広がる。

(良かった、ここで見つけることが相叶った。一刻も早く保護せねば)

 アーバルは王子の元に歩み寄ろうと、ぽっかりと開いた空間に足を踏み入れた。


 頭を押さえつけるようにずっと延びて続いていた天井の壁がなくなる。一方でその反面、これまでとは比べものにならないほどの異様な臭気がアーバルの鼻を突いた。

 そうした周りの様子の変化を悟りつつもそれらには一切動じず、アーバルは重い足音を響かせ、まっすぐに王子の元へと向かう。一方で、その反面。


(何かが、おかしい)

 そうアーバルの長年の勘が告げていた。




 少年は、こちらを目で捉えている。視界の悪い闇の中、目深に被ったフードの下から。その目が、こちらを睨みつけている。

 それに気づき、アーバルは一瞬たじろいだ。

(……私は今、たじろいだ、のか……?)

 アーバルは自身の感覚を疑った。

(何故だ? 目の前にいるのは、まだ年端もいかぬ少年ではないか)

 そう思い直し、老境の騎士アーバルは再び少年を見つめる。


 その場に留まったまま動かない足。こわばって縮こめられた背中。うつむいた頭。そして、傷付いた獣のように敵意と怯えに満ちた目。

(あの魔女が王子に何かしたに違いない。邪悪で姑息な、魔女め……)

 アーバルは銀の髭を蓄えた口を開く。『王子』。そう呼びかけようと。しかし騎士の口から発せられる何かしらの言葉が立ち尽くす少年の耳に届くよりも先に。




 ゆらり、と目の前の少年の上体が起こされた。同時に少年の顎が引かれる。もう、その目の感情はうかがい知ることができない。

 フードの隙間から髪が零れ落ちた。それを元に戻そうとする素振りはなく、目の前の少年はただ両手を強く握りしめている。


 アーバルはふと足元に水の寄せる感覚を覚えた。意識は目の前の少年に向けたままで、チラと目線を水面にやる。

 わずかに揺れる水面。これまでの緩慢とした流れとは明らかに別の動きだった。


(……何かが、おかしい……)

 老境の騎士の長年の勘は先ほどから警鐘を鳴らし続けている。


 再び少年の方に目を向ける。目の前の少年、年若き王子は依然として動かない。

(お気づきでないのか……?)

 アーバルは訝しむ。

(ここは危ない。早く王子を外へとお連れしなくては)

 アーバルは手を彼に伸ばそうとした。抜き身の剣を握っていない方の手を。その時。


「……ぅ……、ぐ……!」

 少年の喉から、奥底に押し込めた何かが溢れ出てくるような呻き声が漏れ聞こえる。暗い地下の中、アーバルの視線の先で、紫色が闇に煌めいた。




 突如、ドッ――と唸りが上がる。

 少年のすぐ横で、彼の背丈をゆうに三倍は越そうかという水柱が湧き上がった。水柱は高く打ち上がるとてっぺんから崩れ、異臭を放つ飛沫を辺りに撒き散らした。アーバルはとっさに腕で顔を覆う。

(何事だ、王子は無事か?)

 アーバルは顔を覆った己の腕の下、そして飛び散る水飛沫の間から、少年の姿をうかがい見る。驚いたことにそれでも尚、少年は微動だにしていなかった。


 再び大きな水柱が上がった。先ほどよりもやや後ろ。それが崩れるより先にまた別の水柱が隣で湧き起こる。その次、そしてまたその次……と、立ち尽くす少年をぐるりと囲むように水柱が次々と湧き上がっては崩れ、足元の水を大きく波打たせていく。


(もしや……)

 アーバルは思い当たる。

(……王子が、この水を動かしているのか……?)

 今一度、目の前の少年に目を向ける。

 うつむく顔。ぼろ布のフード。そこから垂れ落ちた一筋の髪。それを水飛沫の最中で目にして、アーバルの動きの一切が止まった。王子に向かって伸ばしかけた、否、伸ばそうと思っていた手が、今ある場所から動かせない。

 その髪、その色は――。




 実のところアーバルは、〝そのこと〟を知っていた。

 王子が民草の前に御姿を現す時は、髪の色を魔法で金色に変えていると言う事実。王と王妃の当人らの他は、側近の魔導士と騎士団長の二人にしか明かされていない秘密。王子の髪は、黒い髪。

 しかし今、その黒髪が、妖しく紫色の光を煌めかせてざわざわと揺れている。この地下でそんな風が吹くことなども、そんな光が差し込むことなども、なかろうに。




 少年のすぐ横、最初に上がった水柱とは反対側に起こった水柱が音を立てて崩れる。その次は現れなかった。

 束の間の静寂が訪れる、その中で。


「――――ない……、殺されて、なるものか……!」

 目の前の少年は、そう一声叫んだ。

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