暗渠の泥の底2
鋼のような老境の騎士。銀色の髭を蓄えた口元と、額に走る大きな傷。
ニグレドは呆然と思う。
(生きて、いたのか……)
老騎士は、以前と異なる鎧を身に着けていた。胸元に大きく施された王国騎士団の意匠が冷たく光っている。いや、冷たく光るのはそれではない。騎士の手に握られた、抜き身の剣。
それらをニグレドは、体を起こした途中の姿勢からわずかも動けないまま、目深に被ったフードの下から、ただ黙って見ていた。街を抜け出したあの時よりも、目の前の騎士をずっと恐ろしく感じる。ニグレドは顔をうつむかせたまま思った。
(……俺は悪くない。城から逃げ出したのは殺されたくなかったからだし、さっき聞こえた悲鳴だって断じて俺のせいではない。でも……)
少年はもう、己の前に立つ騎士を顔を上げてまっすぐに見返すことはできなかった。
後ろめたいことが、ないわけではなかった。ニグレドの脳裏に魔女の姿が浮かぶ。
(滅された魔王の手先。俺を〝魔王様〟に担ぎ上げるのだとのたまった輩……。俺は、その魔女と行動していた。それは俺が望んだことではない。ではないが……、しかしそれを騎士に、追手に、サムエルの腹心たるこの騎士団長に言ったところでどうなる? どのみちだ。あの魔女の言ったことは正しい。捕まればどのみち、俺は殺される……)
ニグレドの心臓がドクンと脈打つ。
(いやだ!)
心の中で叫ぶ。
(いやだ、怖い、死にたくない。殺されたく、ない……!)
叫びがニグレドの中を駆け巡った。何か奥底から、沸々と滾り、込み上げる衝動。
ゆらり、と上体を起こし、歯を喰いしばって顎を引く。ひた隠しにしてきた黒い髪がフードから零れ落ちた。少年はもうそれを気にも留めない。
よどんだ水に浸した両足。彼の周りで水面がわずかに揺らぐ。粘性すら帯びた水が定められた溝を超え、足元に押し寄せる。出来て間もない足の傷が刺すように痛んだ。
ニグレドは、グッと両の手を握りしめた。
ミディアは詰め所の裏を流れる下水路の延びる先、暗渠の中へと駆け出していた。
つい先ほど悲鳴が聞こえた。自分の覗いた暗闇の只中から。女性の声だった。
(誰かが危険な目に遭っている……!)
そう悟るが早いが、ミディアは駆け出していた。
ぴしゃぴしゃと水音を跳ねさせ、トンネル状の中、水路に沿う道を奥へ奥へと進む。地上にいた時とは比べ物にならないくらい酷い悪臭の立ち込める、夜より暗い闇の中。
やがてその闇の中で、一段と色濃く一点の染みのように縮こまった影が、ミディアの目に映る。それは……、人の姿のように見えた。
「そこで、何を……」
ミディアの呼びかけに、その妙な成りをした影は、ゆっくりと振り返った。
「おや……」
老いたカラスのようなしわがれた声。
ミディアの心臓が跳ねた。嫌な予感がする。何かとても、嫌な予感が。
足元の方で、ネズミの鳴くか細い声が聞こえた。ミディアはそちらにチラと視線をやる。得体の知れない人物の足元には、なぜだか小さなネズミたちが群がり、地面に散らばった何かをつついていた。
(あれは……パンくず?)
目線を下に向けたことで、ミディアは気がついた。怪しい人影のすぐ脇の水路で、緩慢と流れる水の動きとは違った大きな波紋が広がっていること。そして悪臭の立ち込める中でかすかに、だが確かに、血の臭いがすることに。
人影がゆっくりと動いた。立ち上がりかける足元で、ネズミたちが一目散に逃げていく。その人物は己の懐に手を差し込み、ゆっくりと唇を舌で拭ってから、ニィと歪めた口で次の言葉を継いだ。
「あんたでも良かったかもねぇ、お嬢ちゃん?」




