暗渠の泥の底1
街の地下に根を張り巡らす地下水路。その只中を、ニグレドは一人歩いていた。
先ほど酒場での騒動を避けて路地に入ったその先で、ニグレドは下水の流れ込む地下へと続く、道と呼ぶにはあまりにも手狭な階段を見つけた。ここでやり過ごそうと彼は、吸い寄せられるかのようにその夜より暗い闇の中へと入り込んだのだ。
足元を水が遅々と流れている。排水を流すための溝は掘られていたが、集まった水はその溝を超え、申し訳程度に設けられた通路にもひたひたと押し寄せていた。一歩足を踏むごとに、濡れきった靴がぐずぐずと水を吐き出す不快な感触を覚える。その度に血豆の潰れたまだ新しい傷痕が、汚れた水に触れて染みた。
水路には行き場を失った異臭が立ち込めている。汚れた水が流れ集まり、よどんで腐りきった臭いだ。しかしそれにはもう既に鼻が慣れてしまった。いや、麻痺したと言う方が正しいだろうか。
目も利かず鼻も使えず、己の耳だけが周りの様子を窺い知る頼りだった。ニグレドは耳をそばだてながら歩く。狭い通路に幾重にも重なって聞こえる足音。
(自分のものが反響している……んだよな)
そうとは思いながらもニグレドは、そこかしこから鳴り響いてくる足音に追い立てられるかのように足を進めた。
自然と勾配が下がっていく通路の中、ニグレドは更に下へ下へ、いくつかの階段も降りながら深く潜っていく。
地下に入って間もない頃は、地上部分からか人の声などが聞こえてくる場所もあったが、それらももうすっかりと遠ざかった。今や声と言えばそこらを駆けるネズミのか細い鳴き声しか聞こえてこない。それでも更にニグレドはなるたけ音のしない方へ、暗く狭い地下水路を奥へ奥へと進んだ。
黙々と足を進めるニグレドの脳裏によぎるのは、街で見かけた王国騎士団員の姿。
(奴らはこの街にもいる。何をどこまで聞かされているのだろうか。サムエル、あの男によって……)
ニグレドは目を強くしばたいた。水路の暗闇の只中に下りて久しいにも関わらず、目の奥に光が焼き付いて離れない。
王国騎士の胸のバッジ。その冷たい輝き。
何かを振り払うように頭を揺する。いつからだろうか、追われているような感覚が拭えない。
(気のせいだ、思い過ごしだ。地下水路に響くのは自分の足音だけ、そのはずだ……)
ニグレドは足を進めた。その時。
「きゃ……!」
ニグレドはビクリと足を止めた。
(今の声は……)
ここはもうとうに地上からの声が聞こえてくる場所ではなく、あれは断じてネズミの声などではない。人の悲鳴だった。
そして更にニグレドは足を止めたことで気がついた。嫌な汗が背を伝う。
思い過ごしなどではなかった。立ち止まって尚、足音が聞こえる。自分のものではない足音が。
その足音の主も恐らくは今の悲鳴を聞きつけたのだろう。慎重さをかなぐり捨てた、足場の悪さをものともせずに駆け抜く音に変わっていた。今までは分からなかった音が聞こえてくる。重い足音。そして金属同士の触れ合う音。それが地下水路の壁や床に反響しながら、次第に大きくなっていく。つまり、今この場に立ち尽くすニグレドの方へと差し迫って……。
ニグレドはたまらず駆け出した。溝に足がはまるのなど、もう欠片も気にせずに。
(来るな、違う。俺じゃない、俺じゃない……!)
ニグレドはそう頭の中で繰り返す。もはや何に何を弁明しているのかも分からなかった。
(どうして、こんな……!)
そうしてどのくらい駆けただろうか。いやそれほどの距離ではないのかもしれない。ニグレドは焦りと苛立ち紛れに踏み出す己の足音が、嫌によく響いて聞こえることに気がついた。
何かおかしい。二、三歩と歩調を緩める。
「……うっ!」
途端、ニグレドは鼻を覆った。すえて腐りきったにおい。どろりと凝って鋭く刺す激臭。胃液が込み上げ、思わずその場にうずくまる。
水の張った地面に視線を落とし、ニグレドは肩を震わせた。
目がチカチカする。浅く息を吐く。その空いたところに周囲の空気が滑り込む。ニグレドは目を見開き咳き込んだ。もはや成す術もなく、ニグレドの鼻腔へ肺腑へ、臭気が雪崩れ込んでくる。息が詰まる。逃げ場はない。ニグレドは溺れた者のように上を向いた。
ぽっかりと開けた広い広い空間。
その只中にニグレドはいた。
天井に当たる部分は闇に呑まれて見えない。これまで通り抜けて来た通路の狭苦しさからはにわかに信じがたい光景だ。そしてこの広さを以てしてもなお、薄れることなく立ち込める異臭。だだっ広い空間の中でむしろ、これまでとは比べ物にもならないほど強く濃く充満している。もう、慣れ切ったものだと思っていたのに。
息を詰めたままでいるのも限界を迎え、喘ぐように息を吸ってニグレドは耐え切れずに、そのまま込み上げてきた胃の中身を吐いた。透明な胃液が喉を焼き、足元にぼたぼたと落ちていく。しかしそれもすぐにこの空間のよどみきった水と臭気に呑まれ、塗り潰されていった。
(何なんだ、この場所は……)
青ざめた唇を拭い、そのまま鼻と口を手で塞いで再度ニグレドは顔を上げる。滲んだ視界をどうにか凝らして辺りを見回した。
大小様々な瓦礫の山がそこかしこにあることがどうにか見て取れる。察するにここは、上の階に当たる部分が大きく崩れ落ちて出来た空間のようだ。その影響か排水の流れがこの場所で滞っているらしく、それがこの異様なほどまでに強い臭気の原因のようであった。
崩落し、積み重なった瓦礫の山。そのゴツゴツとした表面を低い位置から眺める。それはどこか切り崩された岩肌のような様相を見せた。
(まるで、崖の下にいるみたいだ)
そう思い、ニグレドは何故だか背筋がゾッと寒くなるのを感じた。思わず瓦礫の山から目を逸らすように顔を伏せる。
(だめだ、ここにいては。何か嫌な予感がする。早く元の場所に戻らなくては……)
ニグレドはどうにか力を入れて、ふらつく体を持ち上げた。そうしてその勢いで、ぽっかりと開けた空間の只中、来た道を振り返る。
低い天井の通路。その中から影が現れた。足が、少年のいる空間へと踏み込む。鋼の鎧。重い足音。
ニグレドは愕然とし、動きを止めた。
(どうして、こんな……)




