夜なべ仕事4
夜の街。全身を覆い隠した少年が、陸の道と川の道が入り組む中を縫うように通り抜けて行く。
ここはニグレドにとって初めて訪れる街である。いやもっと言えば、ニグレドは城下町とそこにそびえる城の中しか、ろくに歩いたことはなかった。だが毎日のように人目を避けて過ごしてきたからゆえか、ニグレドは隠れ忍んで街を行くこと、人目につかない通りを選んで進むことに関しては、何よりも勘が働いた。
あの粗末な宿屋のある区画を抜けて何本かの道を進んだ後。何か大きな建物の裏手だろうか、壁に沿って造られた急な階段を横目に、下水路の脇の道を通り過ぎていく。ニグレドは溜め息をついた。
(魔女を撒ければ良いんだ。この街でどうにか……)
その時、耳にへばりつくようなわざとらしい媚びへつらった笑い声が聞こえた気がした。ニグレドはギクッとして思わず辺りを見回す。まるですぐ近くで、あの魔女が笑ったような。
絶えずどこかから様々な人の声が聞こえてくる街の中。その場で立ち止まったニグレドのそばには、静かに街の地下へと流れるよどんだ川が横たわるのみ。
(気のせいだよな、そんなの)
ニグレドは顔をしかめる。その足は再び先へと向かった。
ニグレドは街を開けた方へと進んで行く。
明かりと賑わいが通りに溢れる街中へ出るにつれて、よどんだ水の流れは目につかないようになっていった。見えるのは美しい河川のみ。それでもしかし恐らくは、あのよどんだ水は街中を行くニグレドの足下、きれいに舗装された道の下に隠れ、静かに、だが確かに、流れ続けているのだろう。
なぜだかニグレドは、未だにあの魔女のことが頭から離れなかった。
(あの魔女は確か、薬師の仕事をしてくると言っていた。……そんなの、どうせ嘘に決まっている。あの魔女の奴、どうやって手に入れたかも分からない通行手形を振りかざしなんかして……)
そう思い、うんざりした顔をする。
(では、今あの魔女はどこで何をしているのだろう? いや、そんなことを考えていても仕方がないよな。今はただ……)
ニグレドは振り払うように首を揺すった。ぼろ布の外套のフードの中で髪がこすれる。紫色を孕んだ黒い髪が。
彼は息を吐く。何度目かも分からない溜め息。今はただ逃れたい、何もかもから。
道の傍らに流れる幅の広い川。そこに浮かぶ船舶。それをニグレドの瞳が見つめる。
(この街から、外国に出る船もあると聞く。それに忍び込めれば一番良い。そうすればおさらばすることができる。この国、あの城、その何もかもから……)
やがてニグレドは見覚えのある通りに出た。道に面して立派な宿屋が建っている。その一階は食事処兼酒場となっていて、遅い時間にも関わらず賑わいを見せていた。
「――――だ! ――――――を行う!」
しかしその賑わいは、初めにニグレドが通った時と様子が異なっているようだった。ニグレドは数歩進み、しかし決して近くへは寄らないようにしてチラと中を覗き込む。
ごった返す店内。その中をこちら側、店の外に向かって、二人の男が逃げるようにそそくさと駆けてくる。その男たちの一人の襟元と一人の腕が、こちらに背を向けている人物に掴まれた。革の鎧を身に着けた男。
(……駐在の王国騎士だ!)
途端にニグレドの心臓がドッドッと警鐘を鳴らし始める。
(まずい、まずいぞ。このままここにいてはいけない、見つかってしまう……)
ニグレドの目が辺りを見回した。狭い路地の暗がり、異臭の漂ってくる小路。その只中で抜け目なく光っていた視線は、今はない。
ニグレドの足はそちらへ向かった。
路地に足を踏み入れる。ぬかるんだ感触を靴越しに足裏に感じる。汚れた水が滲み、じわりと靴に染み込んだ。それでもニグレドは構わず足を進めた。暗がりの只中へ。
単身、街中を進む者の姿があった。鋼の鎧を身に着けてはいるが、その身のこなしは軽く無駄がない。証拠に、触れ合って起きるはずの金属音は極わずかなものだった。
長きに渡る経験を積んだ老境の騎士団長アーバル。その顔に浮かべる表情は硬い。
(駐在の騎士たちには目ぼしい場所の洗い直しをさせている。土地勘のある彼らにはそれが適任だ。そして私は……)
アーバルの鋭い目が街の暗がり、狭い裏路地に向いた。そこについた大小の足跡。出て行った大きな足跡と、向かって行った小さな足跡。
(……長年の勘というものが、ある)
アーバルの足はそちらに向かった。
路地に足を踏み入れる。ぬかるんだ感触を靴越しに足裏に感じたが、鋼の鎧の靴は汚れた水を通さなかった。そのままアーバルは迷わず足を進めた。暗がりのその先へ。
駐在騎士団詰め所。その厩舎にて。
木のバケツの上でタオルを絞り、ミディアはふうと息をつく。その横でミディアとアーバルの乗ってきた二頭の馬は、すっかりきれいになった体をブルブルと振って、気持ち良さげに鼻を鳴らした。
「これで準備は完璧だ。手早くて感心するよ。よく頑張ったな、ミディア」
ミディアは額の汗を拭い晴れ晴れとした顔で、傍らの騎士、分隊長のオズマに向かってうなずいた。
「よし、あとはその水を捨てるだけだな」
「ええ、では私、行ってきます」
そうかじゃあ、と言いながらオズマは、厩舎の出入口からすぐそこを指差した。
「あの先に、下に降りられる壁沿いの階段がある。すぐ脇に下水路が流れているんだ。そこに流してくれ。急な階段だから、くれぐれも気をつけて行くんだぞ」
オズマが言った通りに急勾配の壁に沿った階段を下りながら、ミディアはしげしげとその下に流れる川を眺めた。街中で船舶が浮かんでいるような河の道と比べて流れは遅く、その水もよどんでいる。嫌な臭いが漂ってきて、階段を降りるミディアの鼻を突いた。
(よくできているのね……)
ミディアは悪臭に顔をしかめるよりも先に、そう感心してうなずいたものである。
階段を降り切って、下水路にバケツの中身をあける。泥混じりの水が波紋を広げつつ、ゆっくりと川の流れに混じっていく。ミディアはそれをぼうっと見送るように眺めた。水の流れて行く先はトンネル状になっている。暗がり。夜の暗さよりもいっそう暗い、闇。
何の気なしにふと、ミディアは木のバケツを足元に置いて数歩そちらへ歩み寄り、暗い中を覗き込んでみた。その時。
「きゃ……!」
か細い悲鳴が闇の只中に上がって、消えた。




