夜なべ仕事2
ボロ小屋の宿。狭苦しい部屋の中でむくりと床から起き上がり、ニグレドは一つ息を吸う。
(まただ……)
鼻腔に感じるカビ臭い湿った空気。もやがかかったように緩慢な思考。起こした上半身を再び丸め、ニグレドは両の手で顔を覆った。
(どうして、また……)
あの式典の日以来、ついぞまともな睡眠を取れた試しがない。望みやしないままに眠りに落とされる。それはどこか、崖に掴まった指を剥がされる心持ちに似ていた。そうして寝ては覚めてを繰り返す度に、自分の中の何かが本当にもぎ取られていくような、自分自身が本当にどこかへと落ちていくような。そんな、得体の知れない感覚がニグレドには拭えなかった。
(でも……)
そう心の中でつぶやき、ニグレドはその場でその姿勢のまま、顔を上げ目を上げる。掴んだ崖の上をぐいと望むかのように。その目に映るのは、険しい岩肌などではなくただのたわんだ床だ。
(今この時この場所が、自分の置かれた状況の中で一番ましだと言えるのかもしれない。……ここはあの地下牢ではない。俺を檻の中に閉じ込めたまま殺そうとする男はいない。ここはあの洞窟ではない。俺を見張ってなだめすかして操ろうとする魔女はいない)
そろそろと立ち上がってみる。そうして部屋の扉に目を向けた。
あの魔女が言った通りの行動を取るのは癪だし、何よりもそれを見透かされていたという懸念もある。あるが……。
ニグレドは扉を、魔女がそこから外へと出て行った扉を睨みつけた。
(奴は、俺には力が使えないと思っている。でも、俺は、本当は……)
その時ニグレドは、テーブルの上に食事が置いてあることに気がついた。一人分の食事。それに手が付けられた痕跡はない。ニグレドのために用意されたものであることは明らかだった。
ニグレドは半ば呆れて息を吐いた。あまりにも見え透いている。
(あの魔女のことだ、どうせ姑息に毒か何かでも仕込んであるんだろう。……確かにここまでの間、まともな食事なんてなかった。でもだからと言って、食事を差し出されたら俺が素直に食べるとでも思ったのだろうか。馬鹿馬鹿しい。それに……)
ニグレドは今一度、苦い気持ちでテーブルの上を見やった。出されたままですっかり冷めきった食事。
(……こんなの、要らない)
ニグレドはふと思い当たって、その上に手をかざしてみた。
「…………」
何も起こらない。ニグレドは溜め息をついた。
(良いさ、構うものか。……逃げてやる)
そして外套のフードをぱさりと自分の黒髪の上に被せる。
(このままここでこうしていても仕方がないのだから)
ニグレドはそっと部屋の扉を開けた。
軋む階段を降りていく。受付のカウンターでは、店主が大きないびきをかいて眠りこけていた。
(しめた……!)
ニグレドはそのままゆっくりと宿の出入口に向かった。
しかしここで宿の狭さが仇となった。ニグレドがどんなにそっと足を運ぼうが、一歩つま先を下ろすごとにたわんだ床が告げ口を囁くかのようにギイィと鳴り、その度に店主のいびきが一際大きく鳴り響く。
(起きるな……、起きるな……)
ニグレドは心の中でそう強く念じた。そろりそろりと歩みを進める。店主の真ん前、目と鼻の先を通る折、少しでも見つかりにくくなるよう身を低くして、カウンターに背を押し付けるように隠れて移動する。ニグレドの口の端から早く浅い息が思わず漏れ出た。
(起きるな……、起きるな……)
ようやく玄関扉の前に辿り着き、ドアノブに手を掛ける。建てつけが悪いせいか、扉は容易には開かなかった。気持ちが逸る。ニグレドは両手でノブを掴み直すと力を込めた。その勢いのまま扉がバッと大きく開く。
途端、ベルが甲高い音を立ててけたたましく鳴り響いた。
(しまった……!)
ニグレドは思わず後ろを振り返った。
しかし店主はその音に飛び起きるどころか、丁度深い眠りに入ったのだろうか、いびきすらかかない有り様で机に突っ伏し眠っていた。
大きすぎる外套を頭からすっぽりと被った少年が、扉をくぐり外に出ていく。
そのフードの下、彼の黒髪がわずかに紫色の光を零したことに気がついた者は誰もいない。
夜も更ける頃、街の出入口の門にて。あのわめき散らす成金男らが立ち去ってからしばらく後。ようやく河の水面が穏やかになった。水が格子の間を通って緩やかに街に流れ込んでいく音だけが、月のない空の下、夜風に乗って響いている。
「ああ、良い夜だなぁ」
のんびりとそう言う門番ウィル。その腹から、ぐうぅ……と良い音が盛大に鳴った。
「お前なぁ……、そう言いながらぶち壊すなよ。馬鹿でかい音出しやがって」
「ハハ、すまんすまん、イブロ」
「やれやれ、もう辺りも落ち着いてきたことだし、ちょっと休憩取ってきたらどうだ?」
イブロは言いながら、うかがいを立てるように騎士の方を見た。騎士パルセルは可笑し気に緩んだ口元を隠しながらも、笑みを含んだ目のまま無言でうなずいて見せた。
「ほら、騎士さまも良いってよ。お前の腹の音で集中できないと、お怒りなんだぞ? いつも通り、夜食持たしてもらってんだろ? 遠慮しないで行ってこいよ」
それにハハと笑いつつ、ウィルはがっかりと言った風に肩を落とした。
「いやぁ、お言葉に甘えてそうしたいのはやまやまなんだが、今日に限って家に忘れてきちまったんだ。あーあ、腹は減るし帰ったら娘に怒られるだろうしで気が重いよ。『どうして持って行かなかったのバカパパ!』ってさぁ」
言い終えると同時に再び盛大に腹が鳴る。それに二人は思わず吹き出した。その時。
「警備の任、御苦労」
そう声がかかる。騎士パルセルはバッと背筋を正した。
「アーバル団長殿!」




