夜なべ仕事1
高く立ち並ぶ建物の間を運河と街路とが延びては交差する街の中を、老婆と少年は歩みを進める。
もう夜も深まる頃。街の明かりが黒い水面に映ってゆらゆらと揺れる。街の表通りは未だ人通りも多く騒がしい賑わいを見せていたが、老婆が街の角を二つ三つと曲がるにつれて、その喧騒は次第に遠ざかっていった。
それでもどこか騒めきの消えない街の空気。その只中を歩きニグレドは息を吸った。
通りに面した宿屋からの料理のにおいに混じって、草を燃す煙の刺激臭、そしてすえたごみの腐敗臭がニグレドの鼻を突く。それら異臭の漂ってくる方に目を向けると、狭い路地の暗がりの中、良くない眼差しが複数、チラリチラリと抜け目なく光った。
「あまりジロジロ見るんじゃない。関係ない奴らに殺されても知らないよ。ここでは縁もゆかりもない連中に何をされても文句は言えない、そういう街なんだからね」
ラズダが鋭く、しかし小さな声で言う。ニグレドはそっと視線を元に戻した。
老婆と少年はやがて一軒の宿屋に辿り着く。うら寂しい通りに建つ、傾いた屋根の見るからにボロ屋だ。
ラズダが玄関を開けたことでベルが甲高く耳障りな音を立て、それまで受付で眠りこけていたであろう店主が寝ぼけ眼の不愛想な顔でのっそり現れた。
通された部屋はどこかカビ臭く湿っぽい。
(あの地下牢や洞窟と大差ないようなもんじゃないか)
ニグレドはたわんだ床を数歩歩き、横のベッドに目を向ける。布団は湿気とこれまでの客の重みとですっかり潰れ、やわらかいと言うには程遠い。
「あんたは先に休んでな王子様。何でも店主に言いつけて食事を運ばせれば良いし、好きなだけベッドで寝てても良いんだからね」
「そりゃどうも」
ニグレドは失笑した。その後、声の方を振り返って。
「……お前は?」
そう注意深い目をラズダに向ける。
(……逃げるにしろ休むにしろ、この魔女の動きを知っておく必要がある。魔女が本当のことを言わないとしても、何か手がかりは欲しい)
ラズダは懐に手を突っ込み、嘲るようにハンと笑い声を上げた。
「あたしゃこれから一仕事してこなきゃだ。そうそう、腕利きの薬師として、ね……」
それから魔女は媚びへつらうような笑みを浮かべ、猫撫で声を喉から絞り出す。
「まぁまぁ、こんな婆のことなんて、何らお気にせずとも良いんですよぉ。何ら、ね。お前さんはここで、ゆうぅっくりとお休みなさいな……」
魔女はそう言ってうやうやしく手を広げる。その平から不気味な煙が立ち込めた。
(まずい……!)
蛇のようにのたくる煙を前にニグレドはそう悟ったが、息を止める間もなく煙が彼の肺腑に滑り込んで満ちみちる。途端に自分の体がずしりと重く、まるで石か鉛かのように感じられた。ふらつく足元。まぶたが半ば強制的に下がってくる。
「ほぅら、慣れない旅路でお疲れになったんですよ。後で迎えに来ますから、まずは一息おつきなさいな、王子様……」
べっとりと響く魔女の声。それが次第に小さくなって聞こえたのは、魔女がその場を離れていったからか、ニグレドの意識が遠のいていったからか……。
扉が閉まる。部屋の中に一人、倒れ伏したニグレドだけが残された。
「では行くか」
騎士セズとダイムを伴いアーバルは詰め所を後にした。
高い建物に縁取られた夜の空の下、騒めきの絶えぬ街。日の明るいうちは華やかで賑やかな装いを見せるがその実、日が沈めば雑然とした中のそこかしこに危険が潜んでいるのが明るみに出てくる。ついと路地の暗がりに目を向ければ、良くない輩がごろごろといるのが見て取れた。
「つまらん小悪党どもです。一部は大きな盗賊団などとの繋がりもあるでしょうが、大半はルンペンの連中ですね。いつも〝仕事〟を探していますよ」
ダイムが顔の向きを正面からは変えずに、そっとアーバルに続けて耳打ちした。
「娘の失踪の件も、ああいった輩の手によるものだと思われるのですが……。人物の特定には未だ至らず、また、そういった奴らの大元をどうにかしないことには……」
アーバルはうなずく。セズがそこに、ことさらに声を潜めて言葉をかけた。
「逆に、あの手の者から得られる情報も多くあります。〝王からのお達しの尋ね人〟についても、この街でもし何かあれば奴らはすぐ嗅ぎつけるに違いありません。……とりわけ、尋ね人の方の、あのお母上様譲りのまばゆい金の髪は目立ちますからね。チラとでもそれを目にした者がいれば、瞬く間に影日向で噂になることでしょう」
アーバルは静かに、唸るように息を漏らした。
そのまま丁字路に差し掛かる。騎士たち一行は、街の出入口の門から遠ざかる方の道に顔を向けた。
「では、このまま予定通りに街を一巡しましょう。帰り際に出入口の門にも寄ります。まだ交代時間ではないですが、街の門番から直接話が聞けますからね」
丁字路を街の奥側へと進む方に曲がる。そのまま騎士たちはきびきびとした足取りで街中を進んで行った。
駐在騎士宿舎の二階。小さな部屋の中でベッドに腰掛け、ミディアは一つ息をつく。静かな部屋の中。遠く聞こえてくる喧騒。
(このままここでこうしていても仕方がないわよね)
立ち上がり、ミディアはそっと部屋の扉を開けた。
「まだ休んでいても良かったのに」
階段を降りてくる音を耳にして、分隊長オズマは革の鎧の手入れをする手を止めて振り返り、少し驚いたように目を丸くしてそう口にした。
「いいえ、……じっとしているのは、性に合わないので」
そう言って微笑みつつミディアは首を横に振る。その目がついと、宿舎の出入り口の扉の方に向いた。
(……もう、お師様はとっくに出られた後ね……)
「そうか、働き者だな。良い心掛けだ」
オズマはよっこらと椅子から立ち上がる。
「じゃあまずは、物資の補充からしていこう。その後で馬具の手入れだ」
階段の上、どこか心もとなげなミディアの顔を見て、オズマは微笑んで付け足した。
「今から取り掛かれば、団長殿が戻ってくる頃には終わらせられるな。きっと、感心されるぞ」




