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Nigredo - 魔王伝説 -  作者: Ellie Blue
第3章 交易都市
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身分通行手形1

 緩やかな尾根の長い長い下り坂を、背を丸めた二つの影が行く。月の隠れた夜道。目指す先の街の灯し火だけが、依然として煌々と明るく見えていた。


 尾根を下りはじめたばかりの折に、ニグレドは一度、前を歩く魔女に問うてみた。

「……お前、空を飛べたりはしないのか? そうでなくっても、姿を消して移動するあの魔法とか……」

 何か魔法を使えば良いのではないかと、道中で薄々ずっとニグレドは思っていた。

(少なくともこいつは、姿を消す魔法は使っていた。俺の前で何度も……)

 そうニグレドは思い返す。あの枯草の原での戦いを。目で追う間もなく、姿を消しては現す魔法。あれは、大層便利そうなもののように思えた。

「馬鹿言うんじゃないよ」

 ラズダは振り返りもせずにハンと笑い、ニグレドの言葉を一蹴した。

「必要がないね。普通に歩いて行ける。無駄なことに魔法なんざ使うモンじゃないよ」

 やれやれとわざとらしく大きな溜め息をつき、そのまま続ける。

「それともお前さん、このくらいの道のりも歩けないって言うのかい? 軟弱だねぇ」

 ラズダはなじるように再びその言葉を繰り返した。

「ほら、そんな無駄口叩いてる暇と余裕があるんだったらさっさと行くよ」


 その会話をしてからどのくらい経っただろうか。

 それ以来、乾いた砂地の道の上を滑る魔女の衣の裾と、それにただついて行く己の両足のつま先だけを視界に映して、ニグレドはうつむき通しでただひたすらに足を進めた。

 その耳にふと鐘の音が響く。かなり近い音だ。

 ニグレドは顔を上げた。その目に石の橋が飛び込んでくる。尾根から遠目に見えていたあの石橋だ。そう分かると同時に、今までは気にも留めていなかった河のせせらぎも耳に届いて聞こえるようになった。

「やれやれ。ま、この時間なら上々かねぇ」

 鐘の音が川風に乗って響く中、街に伸びる橋の手前でラズダが首を振りつつ言う。

 ニグレドは目と鼻の先、このままあと数歩行けば辿り着く石の橋を凝視した。街の灯し火に照らされる橋は彼が想像していたよりもずっと大きく、そしてこの距離になって初めて、その橋の延びる先の門前で人影が立ちはだかっているのが視認できた。


 ふと、城の北門を通った時のことをニグレドは思い出した。あの時は凄まじい塵旋風が巻き起こり、その混乱に乗じて門を抜けたのだ。

(今思えば、あの時からこの魔女は手ぐすねを引いていたのか)

 ニグレドは相も変わらず前を行く老婆の背中を、苦い気持ちで見やった。

(……では今回は、どうやって門を通り抜けるつもりなのだろうか)


 老婆はニグレドの視線に気づいてか否か、チラと後ろ、彼の方を振り向いた。

「じゃ、お前さんはくれぐれも、何でもない顔をしといておくれよ」

(何だって?)

 ニグレドは面食らった。聞き間違いじゃないかと自分の耳を疑う。ニグレドの足がぴたりと立ち止まった。

「急に止まるんじゃあないよ。もう向こうからも、こっちが見える距離なんだから」

 ラズダが舌打ちしつつそう促すが、ニグレドは頑としてその場から動かない。

「……まさか、このまま進むって言うのか?」

 ニグレドは声を潜めつつ鋭い口調で魔女に言った。

「心配をおしでないよ」

 ラズダは口元をにんまりと歪ませる。

「あたしにゃ、れっきとした身分通行手形があるからね。使えるのは使っとくもんさ」


(れっきとした、だと?)

 ニグレドは鼻白んだ。

(魔女なんかに〝れっきとした〟身分通行手形など手に入れられるものか。おおかた、どこかの誰かのものでも盗ってきたんだろう)

ニグレドは己のぼろ布の外套の懐を探った。

(身分通行手形、か……。それなら、自分も持っている)

 その指先に、木でできた小さな札が触れた。

「それを出すのはやめときな」

 見透かしたかのように魔女の声が飛んだ。

「見る奴が見れば、一発でバレちまう。……それを作らせたのはお国だろう? お前さんに持たせるために、ね」

「…………」

 ニグレドはフードの下から魔女を睨みつけ、指を木札からそっと離した。

(この魔女、何をどこまで知っていると言うのだろうか)

 そして何より、その言葉がもっともであるのが癪に障る。

(そうだ、これは俺という存在を取り繕うために作られた、国ぐるみの、そういう……)

 そこまで考えて、ニグレドの気持ちは塞いだ。


「お前さんのことはあたしが上手く説明するさ。お前さんはただ黙っていれば良い」

 そう言い放ち、ラズダは橋の上にそのまま踏み込もうとする。

「だめだ、どうしてもそうするって言うのなら……」

 ニグレドはそう言って尚も食い下がった。

(当然だ。俺は捕まって殺されたくはない。念には念を入れて何が悪い)

「俺の髪の色を変えろ。この色じゃなくて、金髪でもないのなら、何色でも良いから」

 ニグレドは城での〝身支度〟を思い出す。

『せめてそのくらいならできるだろう? ああ、でも、鳶色だけは絶対にやめてくれ』ニグレドはそう続けようとした。

 しかし。

「馬鹿言うんじゃあないよ!」

 ラズダの口から思いもよらぬ大きな声が飛び出した。元々しわだらけの醜い顔に、更に深く眉間のしわが寄る。

「なぁんて傲慢なんだろ! そんな大層な魔法、使っていられるもんかね!」

 ラズダは声高に、吐き捨てるような勢いでまくし立てた。しかしその後すぐハッとしたように言葉を止めると、咳払いを一つして今度は声を潜めて続けた。

「……ともかく必要ない、必要ないよ。そんな魔法なんざ使うまでもない! ああそうさ、簡単な話だ。あそこを通る間、あんたはフードを誰にも取らせなきゃ良い。ただそれだけだ。良いかい、分かったね?」

 骨ばった指を突きつけ、一語一語を打ちつけるように魔女はニグレドに釘を刺す。言葉の終いにラズダはニグレドの被るフードを掴んでぐいと下へ引っ張った。その力に押され、ニグレドの頭がぐっと下がる。

 ぼろ布に半分以上覆われた視界。そこからわずかに覗き見える間から、魔女が石橋に足をかけるのが見えた。ニグレドは、もうこれ以上は仕方ない、とフードの縁を掴んで押さえ、後に続くべく足を進める。


(……待てよ)

 何か引っ掛かるものがあった。

(今、こいつは何て言った? ……そうだ、確かに、俺の髪の色を変えるのを『大層な魔法だ』と、この魔女はそう言ったんだ)

 ニグレドの脳裏に、濃紺のローブをまとった浅黒い肌の魔法使いの、感情を感じさせない面持ちが浮かんだ。

(じゃあ、あの目付け役は、いったい……?)

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