遠く見える街2
ニグレドは目を細めた。夕暮れの薄闇の中、目を凝らしてかろうじてそれが分かる。
なだらかな丘陵を下ったふもとに見える河の流れる大きな街だ。街はまだずいぶんと遠くに見える。……馬が欲しくなるような距離だ。
「あすこまで行けば、休んだっても良いよ」
事もなげにラズダは言う。それを聞きニグレドは辟易とした。
(信じられない。まだあんな先まで歩けと言うのか……!)
「……もうここで良い」
遠くの街を睨んで、ニグレドの声がぼそぼそとそう言う。
「もう、ここで休めばいい。洞窟の中でも、木のうろでも、どこでも」
「まぁ、ずいぶんと謙虚であらせられるんですねぇ、王子様? それとも、硬い床が物珍しいとかでお気にでも召したかい?」
そう言って魔女はクツクツと肩を揺らす。
「この辺には、王子様がお望みのような洞窟なんてないよ。おあつらえ向きの古い木のうろもね。……何だいあんた、やわらかいベッドが恋しくはないのかい? それに何と言っても、出来立ての湯気の立つような温かぁい食事が、さぁ?」
「……そんなに行きたかったら、明日にでも行けば良いだろ」
ニグレドは苦々しげに顔をしかめ吐き捨てるようにそう返す。
すると意外にも、ラズダは茶化すこともなく、いや、と真面目な面持ちで首を横に振った。
「明日じゃダメだね。ひょっとすると街に入れなくなっちまう」
ニグレドはその言葉の意味を量りかね、訝しんで首をかしげた。
「あんたを捕まえようと国の連中は必死だ。街なんかの警備も日増しに厳しくなる。……もう王国騎士団の奴らも、とうに野に放たれた頃だろうしねぇ」
(王国騎士団……!)
その響きにニグレドはおののいた。荒野で己の前に立ちはだかった、馬上の騎士たちの姿が思い浮かぶ。
(あの街でも待ち構えているのかもしれない。抜き身の剣を手に、俺を捕らえようと)
ニグレドはうつむき、ぼそりとつぶやいた。
「……じゃあ行かなくて良い。街になんか、入らない」
そう言った矢先、魔女の目玉がギョロリと剥いてニグレドを睨めつけた。
「決めるのはあんたじゃない」
冷たく声が言う。ニグレドは一瞬怯んだように言葉に詰まった。
「……それに、行かないと、お前さんも困るんじゃないかい?」
打って変わって、なだめるような声でラズダは言う。
「だってお前さん、どこかの町であたしを撒くつもりだろう?」
「!」
ニグレドは目深に被ったフードの下で目を見張った。
魔女は可笑しそうに続ける。
「まぁお聞きよ。あすこは良い場所だよ。人も物も、何もかもが多すぎる、ごみごみした街だ。老いた婆の目をくらますには、絶好のチャンスかもしれないよぉ?」
(この魔女……!)
ニグレドは内心歯ぎしりをした。魔女ラズダは彼を前にからからと笑う。
「ああ、良い休憩時間だったね。ちっと長く取り過ぎたくらいさ。さ、もう良いだろ?じゃあまぁ、行こうかねぇ」
やれやれと首を横に振り、ラズダは丘陵の尾根、遠く街まで伸びる緩い坂道を下りはじめた。
ニグレドは唇を噛み、黙ってその後に続く他なかった。
道を行きながら、ラズダはそっと懐に手を差し込んだ。その骨ばった指先が薄汚れたゴブレットに触れる。液体の乾いた痕が幾重にもこびりついたその縁を魔女の指がぐるりとなぞる。
(あすこは良い場所だよ。人も物も、何もかもが多すぎる、ごみごみした街だ。馬鹿な奴の目を逸らさせるには、絶好のチャンスってワケさぁ……)
高い建物と建物の間を運河と街路が通り、そのいずれも人々がひしめき合う中を、ミディアは師の後に続いて進む。
沿道の宿屋からは食事の用意をする湯気が、すれ違う荷馬車からは積荷の香木の得も言われぬ香りが。その他、砂ぼこりやら人いきれやら溢れかえるようにごった返す様々なものが合わさり、街の空気を作りだしていた。
「舶来の小間物だよぉー。金細工に銀細工。素敵な贈り物にピッタリさぁ」
「へぇー、なかなか良いものそうじゃないか。ちょいと見せておくれ」
「軟膏~、軟膏~。かの大陸の大医ナジュム謹製の、とっておきの軟膏でござーい!」
「へっ、とんだ眉唾だぜ。どうせどっかの三流が作った紛い物だろ!」
(本当に、人が多い。まるで国の祭典パレードの時みたい)
ミディアは目を見張らずにはいられなかった。馬の上から見渡せる範囲いっぱいいっぱいに人混みが広がっている。城下町もいつも賑わってはいたが、この街は桁が違うようだった。
やがてアーバルは、街を流れる運河から数段上がった場所に位置する、とある建物の門の前で馬を降りた。
ここは幾分か静かなエリアのようだった。人の往来も和らぎ、馬を乗り降りする余裕も充分にある。ミディアも師に続いて馬の背から降りた。
周囲を壁で囲っているその建物の扉には、王国騎士団の紋章が控えめに刻まれていた。アーバルが扉を叩く。
カタッと小さな音と共に扉の小窓が開いて鋭い目が覗いた。その目がアーバルを認め、内側から静かに扉が開けられる。
「ようこそお越しくださいました、アーバル団長殿」




