くすぶり2
「……ああ、やれやれだ。ひとまずは良しとしようかね」
ラズダが大きく息をついてそう言う。魔女の動きにニグレドは再び神経を尖らせた。
「まぁここまでは上々さ。何はともあれ、こうして無事に王子様をお迎えすることができたんだからねぇ」
その声に勝ち誇ったような調子が戻ってくる。
魔女は満足げににんまりと目を細め、戦利品を眺めるようにニグレドを上から下まで舐めるように見回すと言葉を続けた。
「ああ本当、あのままお前さんの命を、みすみす騎士団どもにくれてやるハメにならなくって良かったよ。そんなことになったら、元も子もないってお話だからねぇ」
(……待てよ)
ニグレドの肩がピクリと動いた。魔女の言葉に、何か違和感があった。
「それは、本当に……」
考えのまとまりきらないまま言葉を宙に放つ。その己の声を実際に耳にして、ニグレドはハッとした。今、そしてこれまでも、魔女の言いぐさに違和感を覚えていたのだ。
ニグレドは両膝の間に埋めていた顔を上げて言葉を続ける。
「……本当に、あの騎士たちは、俺を殺しに来たのか?」
ニグレドは心の中で幾度も幾度もうなずいた。
(そうだ、よくよく考えてみればおかしな話だ。いくら何でも、あんなに早く国の騎士たちが俺を〝殺しに〟来るわけがない。俺は王子だ。そしてあの時、地下牢でサムエルは俺を秘密裏に殺しに来た。それはつまり、まだ俺はおおやけには国の王子で、だから、あの騎士たちは……)
よどんだ洞窟の中から出口に向かって行く時の周囲の空気のように、思考が次第にクリアになっていく。ニグレドは言葉を続けようと次の息を吸おうとした。
すると。
「今更、何だい?」
びょうと容赦なく洞窟に吹き込む風の如く、ラズダの唸るような声が冷たく響いた。
「お前さん、自分であそこから逃げてきたんだろう?」
その声がニグレドの胸を衝く。凍てつく風に成す術もなく押し戻されたようだった。思わずニグレドはうつむいた。
(……それは、その通りだ)
目に映るのは、依然洞窟にうずくまったままの自分の体。
(俺は逃げてきた。捕まらないため、殺されないため。……サムエルは、国の王だ。俺を捕まえさえしてしまえば、その後なんてどうとでもできる。ああ、どのみち同じことじゃないか。騎士たちに捕まればどのみち俺は殺される……)
「まだそんな甘い考えでいるのかい?」
魔女の声が畳みかける。
(甘い考え……?)
呆然と頭の中で魔女の言葉を繰り返す。しかし、そう繰り返したところでニグレドは我に返った。
(いや、こいつの言葉に耳を貸してはいけない)
ニグレドはフードの上から耳を塞ぎ、魔女の声を締め出そうとした。
(この魔女は俺を魔王にさせたがっている。俺を良いように扱いやすくするために不安をあおっているだけに違いない。こいつの言葉に流されてたまるものか……!)
しかしその意気込みとは相反して、胸に一度芽吹いた不安の種は成長を止めない。
ニグレドの脳裏に、あの玉座の間で周りより幾段も高い位置に座す王の姿がよぎった。
(でも実際に、サムエルが誰に何をどう吹き込むか分かったもんじゃない。もしかすると、いずれは本当に……)
ぼろ布に身を包んだ中、ニグレドは息が詰まるような思いがした。
(サムエルは俺を追う騎士団に、……もしかしたら、ミディアにも……)
そこまで考えてニグレドはビクリと体を震わせた。想像のその先、具体的な言葉が浮かんでくる前に、考えを打ち止めようとする。目を固く閉じ、首を振り、膝の間に顔を埋め、そうしてニグレドは自分自身に言い聞かせた。
(いいや、そんなはずはない。俺は王子だ。ずっと、そう振る舞ってきたんだから。そうでなければ、俺は、何のために……)
思い返す。あの街、あの城での日々を。
この髪のことは、ずっと隠して生きてきた。
人目に晒される時はいつも、あの目付け役に付き従われ、髪の色を変えてまでして。
一人でいる時間であっても、掃除夫の少年と身分を偽り、髪ごと体を覆いまでして。
(そうまでして、あんなに必死に、王子としての自分を取り繕ってきたのに)
ニグレドはギッと歯を噛んだ。怒りなのか何なのか、自分でも分からない感情が沸々と込み上げる。
(それなのに、それでも、それを以てしても、尚。後ろ指を指され糾弾されるようであれば、そんなの……)
体が震える。それは洞窟の冷たく湿った岩肌に長く体を横たえていたからではない。
(どうして、俺は、なぜそこまでして?)
言葉が、感情が、ニグレドの中を駆け巡る。
(なぜ? なぜかって? なぜなら、なぜ、なら……)
(――……そう。だって、自分は――)
「〝悪魔の息子〟」
洞窟に響く言葉。ニグレドは目を見開いた。
ぼろ布に包まれた光の入らない空間。己の黒髪が孕んだ紫色が煌めきを放つ。ニグレドの視界の中、ただそれだけが映った。
ニグレドは無意識のうちに呆然と顔を上げる。ニグレドの内側で燃えさかっていた何かは、踏みにじられた焚火の炎のようにその成りを潜めた。
顔を上げた視線の先では、魔女がむくりと立ち上がり声を出さずに笑いながらこちらを見ていた。
「みいんな知ってるさ」
魔女はさも当然のようにそう言ってのけると、一歩足を少年に向かって踏み出した。
「良かったんじゃないかい、あの国の連中にとっては。誰かがあそこで、声を上げてくれてさ」
言いながら魔女ラズダは歩みを進め、次第にニグレドとの距離を詰めていった。
「これで連中も大手を振ってあんたを始末しに来れるってわけだ。連中、雁首揃えて臆病だからね。誰かが声を上げるまでは動かないさ。馬鹿な奴らだよ、全くね」
そうして魔女の体がうずくまる少年のすぐ近くに迫る。魔女は少年を見下ろした。
「……ま、お前さんがどう思うかは自由だけれど、あたしは忠告したからね、王子様」
元々曲がった腰を更に屈め、そのしわだらけの口を少年の耳に寄せる。
「次に奴らに見つかって、無事で済むとは思わない方が身のためじゃないかねぇ? せいぜい、用心することだね。殺されちゃあ、元も子もないんだから」
ニグレドの背筋を、洞窟に染みる露のような冷たい嫌な汗が伝う。ラズダは少年の青ざめた顔を覗き込んで眺めると、その口をにんまりと歪ませた。
魔女は屈めた腰を戻しながら少年の腕を掴んで引く。強い力だった。わざとらしい猫撫で声が、再び洞窟にこだました。
「はいはい、それじゃあ帰りましょうねぇ、王子様。安全な〝あなた〟のお城へ」
(ああ……)
さながらつかまり立ちの赤子のように、手を引かれ促されるままに足を進めながら、ニグレドはほとんど働かない頭の隅で思う。
(……だめだ、ついて行っては。このままだと本当に、魔女に連れて行かれてしまう。俺は魔王になんかなりたくない。……でも、魔女の言ったことはとても恐ろしい。俺を殺すために追手が来るだなんて。本当に、そうなのだろうか。そうなるのだろうか。もしそうだとしたら……、俺は、殺されたくはない)
少年の手を引いて魔女は洞窟を後にする。
もうとうに夜は明けていた。しかし木々の生い茂る森には霧が深く立ち込め、洞窟内とさほど変わらぬような鬱屈とした空気を醸しだしていた。
少年の手は先ほどからずっと悪寒を覚えているかのように細かく震えている。
その手首を掴む魔女は、少年から見えないように満足げにニヤリと黄ばんだ歯を覗かせた。




