くすぶり1
ニグレドはふと目を覚ました。
視界が薄暗い。空気がよどんでいる。そのせいなのか否か、頭が上手く働かずぼうっとする。今が昼なのか夜なのかも分からない。
(……まるであの地下牢に戻ってきてしまったかのようだ)
横たわったそのままの体勢から動かずに、感覚を研ぎ澄まして辺りの様子を探る。
じっとりと冷たい不愉快な湿り気、突き刺さるように肌に食い込む粗く尖った岩肌。ここはどうやら、どこかの洞窟の中のようだ。
ニグレドは先ほどの考えを否定した。
(地下牢に戻ったわけではない。そこから状況は進んでいる。……もっと悪い方向に)
ニグレドの耳に、ごぽり、と気味の悪い水音が響いた。その音の方に首をひねって見やる。
(ああ本当に、最悪だ)
その視線の先には、薄暗い洞窟の中、一点の染みのように、醜悪な見目をした魔女の姿があった。
先ほどラズダと名乗ったその魔女は、薄汚れたゴブレットを骨ばった指ではっしと握りしめ、得体の知れない中身をあおっている。そのしわだらけの喉が音を立て生々しく上下する。
ニグレドの視線に気づいてか魔女は顎を下ろし、獲物を呑んだ蛇のように口元を舌で拭うと、最後ごくりともう一度喉を鳴らしてみせた。まばらに残った歯を覗かせてニヤリと笑うその口の端から、わずかにもくもくと煙が上がる。
「眠れる王子様のお目覚めだね」
魔女はヒッヒッと肩を揺らして笑い声を上げる。
ニグレドは弾かれたように上体を起こした。ぞわりと全身の毛が逆立つ。
へばりつくような魔女の視線を振り払うようにニグレドは体をよじった。膝を寄せ、身にまとったぼろ布を引っ張り、前をきつく合わせて全身をすっぽりと包み込む。
「なぁに、安心おしよ。別にお前さんを取って食いやしないんだから」
そう言われたところで警戒を解くわけもない。ニグレドは全身をこわばらせたまま微動だにしなかった。
ラズダは薄汚れたゴブレットを懐にしまい込みつつ、ニヤニヤと少年のその様を眺めた。
「お前さんは、大事な大事な、あたしたちの王子様だからねぇ。全力でお守りさせていただきますよ。ええ、まぁ、それはそれは」
べたつくようなわざとらしい猫撫で声が洞窟の壁を舐めるように這い、ニグレドの耳に届く。つのる嫌悪に、ニグレドはより強くぼろ布のフードを引っ張り頭を覆った。
「……まぁしかし、想像以上、いやぁ想像以下だったね。全く、参っちまうよ」
不意に魔女は低い声でつぶやいた。その声の調子に歯切れの悪さがにじむ。ニグレドは目の端で魔女の方をそっと盗み見た。
「あんな大口叩くモンだから、それじゃあと任せてやったのに。いざ蓋を開けてみたらお前さん、魔法の力の一つすら振るえないなんてねぇ……」
魔女はこめかみを骨ばった指でトントンと叩きながらぶつくさと続ける。
(違う。あの時には力は使わなかったんだ)
ニグレドはそっと心の中でつぶやいた。
(……使えなかった、とも言えるけれど)
「これじゃあ事だよ。お前さんには何としてでも魔王様になってもらわなきゃなんないのに、その力がないだなんて。それじゃあまるきり意味がない。許されないんだ。ああ、本当に……、困ったねぇ」
そう口にするラズダは、それまでの人を食ったような態度とは打って変わって、心の底からほとほと困りきっているような様子だった。
(……しめたぞ)
ニグレドは内心手を叩いた。
(この魔女にはそう思わせておけば良い。俺にはお前の望むような力はないんだと。……こいつは俺を魔王の座に据えるためにやってきた。でも俺にその資質がないとなったら、こいつは俺を役立たずと放り出すかもしれない。少なくとも、そう思わせておけば何かしらの隙は生まれるだろう……)
「……いいや、どうであれ、王の座に就かせちまえば良いんだ。文句は言わせないよ。玉座に座らせさえしちまえば、どうにかはなるだろう。ああ、どうにかなるさ。なる、なる……」
ラズダは自身に言い聞かせるよう、そうぶつぶつと口にして何度もうなずいた。
(……俺は魔王になる気なんてこれっぽっちもない。そんなものに、なりたくなんかないんだ)
ニグレドは魔女を横目で見ながら心の中で思う。だがそれをわざわざ口にするような愚かな真似はしなかった。
ニグレドの視線の先でこめかみを叩く魔女。
その枯れ木のように骨ばった手を見やり、先ほどの荒野での出来事を思い出す。王国騎士たちを圧倒したあの戦い、魔女が放った鋭利な風の刃と巨大な塵旋風を。
(この魔女はいったい何年、いや何十年もの間、その凶悪な魔法の数々を扱ってきたと言うのだろうか。とても俺が敵う相手ではない。……それこそ、力を自在に振るえるようにならない限りは、とても)




