芳山教授の日々道楽「うどん屋」
芳山教授の日々道楽「うどん屋」
ふらりと、うどん屋に入る。
この間、見つけておいた店だ。
木綿の暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ〜」
威勢の良い挨拶が聞こえた。
和風の小じんまりした店内。
昼時なので、そこそこ混んでいる。
ざわざわとした話し声、
小さなテレビの声、
黙々と、うどんを食べるお客たち、
よく見る光景だ。
どこにでもある、普通のうどん屋。
カウンターに座る。
女将がお冷を持って来た。
「ご注文は?」
お品書きを見上げる。
かけうどん
月見うどん
きつねうどん
天ぷらうどん
ごくごく普通のメニュー。
「月見うどん、」と注文した。
女将が、「月見一丁〜」
「へい、月見一丁〜」と奥で返事がした。
夫婦でやっているのか?
あうんの呼吸がいい。
お冷を一口飲む。
うまい。
外は暑かったので身体に沁みる。
おしぼりで汗を拭く。
気持ちがいい。
ここのお絞りは、よく冷えている。
いい感じだ。
当たりだな、
私は、初めての店で必ず行うことがある。
鼻から香りを吸うことだ。
そのお店の雰囲気を身体全体で味わうためだ。
スウーッ、
深く吸う。
身体全体にうどん屋のにおいが行き届く。
醤油とダシ、そして茹でうどんのにおい。
私の大脳がうどんでいっぱいになった。
クウ、
お腹がタイミングよく鳴る。
準備万端。
私は、月見うどんが好きだ。
もともと私は、うどんその物のコシや風味を素朴に楽しむため、素うどんを食べていた。
しかし、書物で、江戸庶民が、うどんの上に落とした卵黄を月と表現する粋で風流な感性に、同じ日本人として誇らしく感銘し、それ以来、月見うどんを好んで食べる事にした。
私のこだわりだ。
しばらく、月見うどんを食していると、新たな発見もした。
少量の汁と卵を口の中で程よく混ぜ合わせる。
いわゆる、卵かけご飯のご飯抜き。
これが、何とも言えない食感を覚える。
喉越しというか、触感がたまらない。
よく蕎麦好きが、蕎麦は喉越しとのたまい、数回しか咀嚼せずに飲み込むらしいが、その気持ちが解らずもない。
月見うどんを、この様に食すのは、世界で私だけかもしれない。
心の中で微笑む。
私は稀有な優越感に浸り、時を潰した。
「月見うどん、お待ち、」
うどんが届いた。
割り箸をパチンと割る。
さて、食すとするか、
なぬ!
どんぶりの中には、見知らぬ絵画が広がっていた。
卵黄を月、白身を雲、海苔と汁で夜空、
この小さな空間に景色や世界を創り出している。
「ゴッホの星月夜、」
最初に浮かんだのは、それだ。
これは、何だ?
おやじを見る。
奥に消えるおやじ。
女将を見る。
背を向ける女将。
ここのおやじは何者だ!
他のお客を見る。
皆、黙々とうどんを食べている。
アートラテと言う飲み物があるが、
それのうどん版?
ここのおやじ、面白い事をする。
まあいい、
見かけよりも味だ。
汁を飲む。
美味い、
濃過ぎず、薄過ぎず、ほど良いうま味みが口の中に広がる。
いいじゃないか、
評価が上がる。
私は、いつものように卵を吸い、汁を口に含む。
ズズッ、
至福の時、
美味い、
そしてゆっくりと飲み込んだ。
俗人は楽しまない私の喜び。
ふふん、
自分のペースに戻ってきた。
ゴッホうどんには肝を抜かれたが、この程度で私がうろたえる訳が無い。
さて、うどんを食すとするか、
なぬ!
どんぶりの中心にナルトが、
卵に隠れていたが、
丸い渦巻きナルトが一つ、
何故、うどんにナルトが?
ラーメンなら定番だが、
おやじを見る。
奥に消えるおやじ。
女将の顔を見る。
背を向ける女将。
調理場のおやじが、こちらを見ていたのは解っていた。
ここの名物なのか?
ゴッホナルトうどん?
まあいい、食すとするか、
なぬ!
中心にあるうどんの端をつまんでみる。
長い、
長い、
長いーーー
繋がっている。
どう見ても一本に繋がっている。
ナルト、
一筆書きうどん、
なるほど、
これは掛けているのだな、
面白い、
ここのおやじ、粋なシャレをする。
私は、ニヤリと笑い。
食を始めた。
味はまんべんもない。
コシといい風味みといい素晴らしい。
しかし、考えてみよう、
うどんを一本に繋げて作る事ができるのだろうか?
いや、できるとしても、どれだけの労力が必要なのだろうか、
大変だ、
ここにいるお客、全員に出しているのだろうか?
見回す、
皆、黙々とうどんを食べている。
気が付かないのか?
待てよ、
これは、私にだけの挑戦か?
ゴッホといい、ナルト、一筆書きうどん…
まさか、うどん屋に来るお客に、ランダムに、このうどんを出し、気がつくかどうか試している。
あのおやじ…
只者じゃない、
調理場のおやじが、チラリと見ている。
ようし、乗ってやろうじゃないか、
上等だ、
このゴッホナルト一筆書きうどん、
完食しようじゃないか!
ズルズル、
うどんを一本で食べる。
食べづらい。
ズルズル
なかなか減らない。
ズルズル
面倒くさい、
他のお客が帰っていく。
どんどん帰って行く。
ズルッ、
あー食べづらい!
アゴが疲れてきた。
私だけになってしまった。
しかし、ここで普通の食べ方に戻したら
私の負けだ。
腕が疲れてきた…
女将は、椅子に座ってテレビを見始めた。
ズルズル
気力がなくなってきた。
倦怠感で思考能力が落ちてくる。
考えてみよう。
なんて馬鹿な事をしているんだ。
たかが、うどんじゃないか、
しかも、私はお客だ。
どんな食べ方をしても自由じゃないか、
馬鹿馬鹿しい、
止めよう、
さっさと食べて帰ろう、
おやじが見ている。
私を見ている。
笑っている。
白い歯が見える。
負けるか!
あんなおやじに負けてたまるか、
……
ズルズル、
意識がなくなってきた。
つらい、
もう少しだ。
もう少しで完食だ。
ゴッホナルト一筆書きうどん、
あのおやじのシャレ克服も、あと少しだ、
がんばれ、私!
がんばれ、私!
最後だ!
あと一口、
口を開ける、
ズルッ、
ああっ…
最後の最後が…
ハート型になっている!
しかもピンク色だ、
女将の頬がポッと赤くなる。
おやじの頬も赤くなる。
女将が、もじもじする。
おやじも、もじもじしている。
これは!
女将に対する愛!
うどんを使った愛のメッセージ、
ただそれだけ…?
お勘定を払い、私はうどん屋を後にした。
振り返る。
負けた、
夫婦愛に負けた。
私の隠れ家ナンバー5
昼下がりの長い午後だった。