7. あっけない結末
鴇田 料は悠然と、綽然と、リッカドンナを見つめている。それは特異な光景だった。彼女はいつも穏やかな笑顔を絶やさないが、その性格は気まぐれであり、そのやり方は一方的であることを誰もが知っている。そして圧倒的な力の持ち主であることはこのブルータルな魔界に生きるものであれば知識以前に、彼女が全身にまとった威圧感から感じ取れないものなどいるはずはない。天災級の悪魔にして魔王とさえ呼ばれる彼女、を直視し続けるものなど存在しないのだ。
もちろん料もリッカドンナを少しは理解している。それでも彼の危機察知レベルはレッドゾーンにはない。
「とりあえず、客席のみんなを出したほうがよくない?」
「ん? また騒がしくなりますよ」
「でも、魔力のないのもいるよね」 死んじゃうよ。
「そうなのですか?」
魔ものたちだって呼吸している。大気中の魂魄を吸収して生命を維持している。
「そうなのですよ」 なぜ俺のほうが詳しい……? 素っとボケ?
「面ど……、こほっ。……戻すべきですか? 魔のものに慈悲の心は届きませんよ」 珍しくネガティブな表情を見せるリッカドンナ。放置するつもりだったな。
「とりあえず、戻してあげましょうよ」
そのとき料はリッカドンナの横にいたマーガレットの視線に気づいた。案の定、彼女はないも言わない。そしてそのルビーのような瞳は冷たい。……、赤って暖色系じゃないのか?
ところがそれまで億劫げだったリッカドンナが小首をかしげると、「もしかするとそなたは観客が多くないとダメなタイプなのですか?」 取って付けたようにつぶやく。それはなにかを思いついて後付けの理由を捜しているふうに見えた。
「そなたがそこまで言うのなら、そうですね、試してみましょうか?」 少し軽い表情で言い終わるや否や、
ふっ!
リッカドンナの艶やかな唇からおぼろな息の音が漏れ、瞬く間に氷塊は霧散すると観客たちが動き出す。とたんに足を踏み鳴らし、ヤジを飛ばし、氷に閉じ込められる前の状況を再現する。こいつら、命の危機感とか、助けてもらった恩なんか微塵も持ち合わせていないようだ。リッカドンナは正しい。いや、むしろ彼らの料に対する敵意が増したようでさえある。もはや人間の料にはその精神を理解することは不可能だ。
それでもじっとしているわけにもいかない。リッカドンナが静かに微笑んでいる。料対観客という図式に満足しているようだ。
料は考える。苦手な作業だとかもいってもいられない。
ただひとつ救いだったのは、料がこんなプレッシャーに慣れていたこと。強烈な無茶振り姉貴に感謝するべきか?
「死んだフリ?」
「そう」
「ここで?」
「そう」
「ちょっ、」
「ほら!」
夏休みの家族旅行、新幹線のホーム。ほかにはモノマネとか……。
物心つく前からのこうした鍛錬によって料の危機察知能力や危機対応能力が磨かれたというのは紛れもない事実だ。
唐突に料が、
右手の甲を外向きに人差し指をゆっくりと立てる。
それを見た観客たちが一瞬、息をのむ。静寂が戻る。ついさっき目撃したのと同じ光景だ。結果をリアルに想像しても不思議ではない。
リッカドンナも、マーガレットでさえも料に向けた視線の焦点を絞らずにはいられないようだ。観客の魔ものたちはもちろん知らないが彼女たちは違った。料の体に加えられた変化を、それはヒトが持たない魔力を生成する基盤を料に与えたのだと知っていた。だからといって魔法を直ちに使えるわけではない。昨日の今日でまさかとは思っても、料の動作がリッカドンナのそれに酷似していたため、彼女たちでさえ〝まさか〟と思うことを避けられなかった。
ただ料自身は予想以上の効果に少々焦っていた。なにせ、ただのモノマネだ。それでもいまさら止めるわけにもいかない。そのまま料は、
立てた人差し指をスーーーッと前に倒す。
その指が貴賓席に座る原初の悪魔族の母娘を差して止まる。しかしその瞬間、リッカドンナだけでなくマーガレットさえも表情に微か動きを見せる。と客席にざわめきが戻る。当然だろう。ただのこけおどしだと分かれば彼らがさらにヒートアップするのは避けられないことだ。しかし、すり鉢状の闘技場が魔ものたちの喧狂で満たされると、なぜかリッカドンナが、またしても同じように右手のアクションを起こし、
放逐と囁く。
穏やかな顔して有無を言わさないリッカドンナのやり方には少し慣れてきた。それでもこの急展開。あれだけの数の魔ものたちが、喧噪が、跡形もなく消え去った闘技場はいま、この数十分間の出来ごとなどまるでなにもなかったかのような空気を湛えている。
そしてリッカドンナとマーガレットは、婉然と席を立ち、一瞬だけ料に視線を向けるとなんの言葉もなく、なんの躊躇いもなく貴賓席を去って行った。
それがこの舞台の幕引きであることくらいは料にもわかった。しかしこの結果、それがなんによる帰結なのか、ポイントはどこにあったのかはさっぱりだ。当事者だったはずの料だが、まるで置き忘れられたたぬきの置物のように闘技スペースに佇む姿は自分で想像してもかなり滑稽だ。なんの冗談だ。もう狸寝入りでもするしかない。得意だし。
2021/01/24 修正
2021/01/28 修正