3. 魔界の常識?
「この葡萄酒は如何かしら?」
リッカドンナが一人の魔族に声をかけた。すらりとしたスタイルで背が高く、招致客の中でもかなり目立つ。透き通るような色白のイケメンだが、少し爬虫類系の粘着性を感じる。黒い大きな布を纏ったような衣装からは胸元が大きくのぞき妙な背徳感を醸しだている。
「これはリッカドンナ様、ご機嫌麗しゅう」
その魔族は胸に手を当て恭しく頭を下げる。しかし、その視線は抜け目なく傍にマーガレットがいることを確認する。
「あなたにいわくのある葡萄酒を取り寄せたのだけれど、懐かしんでいただけたかしら?」
「それは、それは。わたしなどのためにお気遣いいただき勿体ないことです。これは楽園の心地がする一品ですね。心より感謝いたします」
「いえ、二番目の娘が世話になったとか。親としては当然のこと」
「……はて、何のことでございますか?」
「もちろん、娘が、アナスタシオが何者かに仕掛けられた毒によって死の淵へ追いやられたことです」
リッカドンナの微笑みは微塵も揺るがない。
「それがわたしの仕業だと? 証拠でもおありなのですか?」
「サマエル」 長身の魔族にそう呼びかけると少し俯いて、「わたくしはあなたを裁くつもりなどないし、まして罰するつもりなどさらさらありません。これは愚かな親心。まもなく末の娘、マーガレットが旅立ちます。子の行く先につまずきそうな石があればどけてしまいたいと思うのが親というものでしょ。石に罪があるとかないとかはどうでもいいこと、ではありませんか? あぁ、親とは何て愚かなのでしょう。ねえ、そう思いませんか、サマエル?」
感情と裏腹の微笑みというのはありがちなことだが、リッカドンナの微笑みは心を隠すためのものではない。
「ねえ、サマエルって、堕天使の?」 鴇田 料はゲームで聞き覚えのある名だと記憶をたどってみた。
「そうね、かなり上位だったはず……」 猫まんまは緊張しているようだった。リッカドンナたちの方を見据えたままで、猫耳がイカ耳になってるし、左右の目が大きさ違うし。イケイケがオラオラになっちゃてるよ、お姉さん。
リッカドンナのまっすぐな微笑みを受けて、
「ちょっ、リッカドンナ様、話を、、、」
サマエルの透き通るように白かった肌がほんのりピンク色を帯びていく。その爬虫類、いや蛇に似た顔の右頬に〝恐〟、左頬に〝怖〟という文字が浮かび上がる。悪魔に睨まれた蛇とは意外に器用だ。
リッカドンナが右手の甲を外向きに人差し指を立てる。
と、その指先に黒い炎、というより濃密な闇、もしくはダークマター? の塊が沸き上がる。それは大粒ブドウくらいの大きさに過ぎない。音もなく、邪悪な感じもない。けれど危険だということはヒシヒシと感じる。
「あ・わ・あ……」
「さよなら」
リッカドンナがその人差し指をスッと前に倒す。
黒い塊が音もなくサマエルに向け移動する。決して速いわけではない。むしろコマ送りのように、漂うように進んで行く。
にもかかわらず、黒い塊の進行方向に存在する者たちは、ただただ立ち竦んでいる。危険を感じながらなぜ逃げないのか? おそらく当人たちも同じ疑問を持ち、それが胸に沸いた恐怖を一層強くさせる。
ワーーー!!! 大広間に喚声があがる。
黒い塊が通り過ぎたあたりの存在、サマエルを含めたすべてが飲み込まれていく、いや霧散したと言ったほうが正しのかもしれない。大広間の一角にトンネル状のがらんとした空間ができた。
そしてサマエルが消えるのを見届けたリッカドンナがその艶やかな唇から、ふっ、と息を吹く。すると使命を終えた黒い塊が縮小していき、やがて跡形もなく消え去る。
「なにあれ? どんだけ一方的なんだよ」 さすがに料も驚いた。
「悪魔だからね」 猫まんまは緊張が解けたようで、尻尾をピンと立てブルブルっとさせる。
「関係ないのも巻き込んでたよ。あんなのアリ?」
「悪魔だからね」 魔界の常識、と言わんばかりだ。「もしかして〝理不尽〟とか思ったの? でもそんなのさ、魔界の専売特許ってわけじゃないでしょう。天界だって、あなたのいた間界でも特に珍しくはないはずよ」
「間界?」
「ああ、あなたのいた世界は天界と魔界の隙間に生じたのよ。だから、は・ざ・ま界」
自分たちの世界が隙間の世界という話は聞いたこともないが、それは別として、「天界と魔界が同じような問題を抱えてるってこと?」
「天界は調和が基本よ。天界の連中は組織とか階位とかが好きね。だから道理の通らない理不尽さは許されない。許されないからといって、存在しないというわけじゃないわ。魔界では大手を振って歩いてるけどね。魔界は混沌が基本だから。アハハ」
わかったような、わからないような。結局は人間と大差ない……?
まあ、それはそれとして、「……あの黒いのは何?」 なぜか料は何かいけないことを尋ねているような気さえしていた。
「あれはね、虚無の魔法」
「……虚無の魔法……」
「カオスが生まれる前の無へと、すべてを還してしまう。原初の悪魔だけの技」
「ほんの小さなものっだたけど、あれが……」
「リッカドンナ様が本気を出すと魔界だけでなく天界さえも消し飛ぶはずよ」
「ふぇ~」 なんだかいろいろと、ふぇ~~~、だ。
*
リッカドンナが招待客を回って言葉を交わしいる。ほんの軽い会話ながら社交辞令といった雰囲気でもない。……ところで、魔界の社交辞令ってなんだろう、天界の悪口とか?
いつのまにか床やテーブルなども直ってるし、リッカドンナだけでなく周りも平然としている。もしかして多少の魔ものが消えたくらいでは事件どころか、事故扱いにもならないないのか?
「リッカドンナ様はかなり機嫌がいいわね」 猫まんまは常にリッカドンナの一挙手一投足に注意を払っている感じだ。使い魔的な存在なのかな?
「あれで? はじめからずっと笑顔だったけど?」
「そうだけどね、周りのものに声をかけられることなんて稀なのよ」
他人が鬱陶しい気持ちには共感できるが、リッカドンナ、あんた悪魔の母という異名もあるそうじゃないか。
そうこうしているうちにリッカドンナが料たちのほうへ近づいてきた。
「ここにいたのね。ちゃんと生きていたなんて偉いわ」 なんか生き残れないほうが悪い、ってこと? しかしまんまは目礼を返す。
料はさっき巻き添えを食った魔ものたちと自分の状況を重ねる。
「は~」
「あら、ため息なんてついて、何か心配事?」
「そちらはご機嫌そうですね?」
「まあ、わかりますか? やっと娘の敵が討てました。これであの子も浮かばれます」
目頭を拭うふりをする母の後に寄り添うように立っていた娘のマーガレットが料には目をくれることもなく小声で、「お母さま、アナスタシオ姉さまはまだ生きていらっしゃいます!」
「えっと~、……そうだったわね。うふ」
うふ、じゃねえよ!
とにかくリッカドンナの機嫌がいいうちに何か生き残りのための手掛かりをつかみたいと思いあぐねていた料は、「あの虚無の魔法、凄いですね。マジ神レベル」と振ってみた。
しかし、リッカドンナは笑顔で「神ではなく悪魔よ」、目が笑ってない。ミスった。
「なんでも魔界ごと消し飛ばしちゃうとか。もう無敵っスね、ハハ」
「知性のない魔獣でも正面からわたくしに挑みかかるような愚は犯さないわ。自ら手を下すのは煩わしから助かるけれど」
「じゃ、さっきのは……?」
「さきほどの件は特別。わたくしの一族は美女ぞろいだから気安く手を出すとどうなるか時折り魔界中に知らしめておかないと、うふふ」
知らしめるのに〝一括消去〟ってありなんだ、魔界では? どんどん生き残りに遠ざかるようだ。方向を変えるべきだろう。
「で、その~、闘技は好きですか?」 とにかく手探りの料。これほど切実な思いで何かをするのは生まれて初めてかもしれない。命がかかれば蝸牛でもジャンプする?
穏やかな笑顔はそのままでリッカドンナは「そなたは好みませんか?」
「……あの白い鬼とただの人間の戦いというのは、どんなもんなものなんでしょう?」
3メートル近い筋骨隆々の電撃を放つ鬼、そしてただの人間。始める前から一方的な内容が想像できる。
しかし残念ながら料は知らない。人参枠を血祭りにあげるのは折敷の儀、つまり婚姻の儀式の前に行われる慣例のようなものだと。
「そうね、どうせなら見応えのある試合であったほうがいいかしら?」 リッカドンナが思案顔を見せる。慣例に拘るような性格でないようだ。
「見応え……、ですか」
一方的な展開はつまらないからヤメ、とはならないのか? 人間界ならチケット売れねーぞ。ったく。悪魔は常識ねーのか?
ふ~。
もし……、この戦いが避けられないのなら、と料は考えを巡らせる。
生き残るため、せめて五分の戦いをするためには強力な武器が必要だ。それもチート級の。でなければあんな鬼族など相手にできるわけがない。彼女ならそれを、レア級のアイテムだって持っているのではないだろうか? いや、マジ、持っててね。
闘技場での様子から見てもリッカドンナは闘技好きだ、と料は思う。だとすれば、それを引き出せる可能性はゼロではないような気がする。
料は右手の人差し指で鼻の頭を掻きながら考え込んでる風を装う。
ただしそれを料のほうから言い出したりしない。プライドとかの問題ではない。料がハンデを求めた時点で、おそらく彼女のなかでこの対戦は決着してしまうだろう。リッカドンナの関心を切らせないためには彼女からの提案が望ましい。その違いはハンデの内容に大きく影響するはずだ。
「ではそなたに何かひとつ強力な武器を授けるというのではどうしょう?」
きたっ! 料は胸の中でこぶしを握る。
「そうですね、聖剣は無理でも、魔剣なら、そう魔剣ダーインスレイあたりならどうしょう? それともキルケーの杖なんかはどうかしら?」
それを使いこなせるかどうかはそちら次第という嗜虐性も見え隠れするが、それでも構わない。料はひとつの妙案に行きついていた。
「でしたら、俺にアイデアがあります。聞いてもらえますか?」
「あら、そうなの? それは興味深いわね」
リッカドンナの口調はいつも丁寧だ。悪魔とは思えない。しかし、どうしても距離感というか、淡白な印象を受けてしまう。料が魔族でない、木っ端人間だからなのか?
でもいまの一言。明らかにトーンがひとつ上がった。それくらいの変化を認めていいだろう。
「でも、わたくしに叶えられることなのかしら?」 おっとりと訊いてくる。
「おそらく……」 おいおい、全能の悪魔なんだろ? 頼むのよ~。