八.マウンドの心理学
二塁ベース上で脚に付いた土を払いながら、俺は込上げてくる笑みを抑え切れなかった。
ふっ、それにしても上手くはまった。伊垣さんも初球から走ってくるとは思ってもみなかっただろう。それくらい無警戒だった。
見抜けにくいとはいえ、伊垣さんのクセは身体的なものはもちろん、配球もすべて頭の中に入っている。特にピンチになるほど基本に立ち返るひとだから、配球もオーソドックスになる傾向がある。たぶん、この場面では送りバンドやエンドランを警戒して、インコースから攻めてくると読んだ。
そして、俺の読みはズバリ正解だった。しかもツーシームか何か、小さく食込んでくるボールだった。梅埜もさぞ捕りづらく投げづらかっただろう。
普通なら、一点ビハインドで迎えた試合の終盤にノーアウトで出れば、じっくりと手順を踏んで攻めるのがセオリーだ。それをあえて、俺は初球から走るんだから掟破りもいいとこだ。ベンチも俺の単独スチールはある程度は認めていたが、いきなり仕掛けるとは思っていなかったろう。
しかし、俺には準備に裏付けられた自信があった。七割を越える盗塁成功率がそれを雄弁に物語っている。
呼吸を整えた俺は塁上から打席にいる掬稚に目配せした。
おいっ、掬稚。わかっていると思うが、けっしてフライを上げるんじゃないぞ。右方向へゴロを打て。それなら、最悪でもワンアウト、ランナー三塁になる。もしお前も残れば、ノーアウト一、三塁でさらにチャンスが拡がる。
掬稚は意図を汲み取ったように、口角を上げてニヤリと笑った。
シーズン中は幾度も菊稚とはこうやって目で互いに言葉を交わしてきた。今度もあいつほどの技術があれば、右打ちなど造作もないだろう。
ただ、相手は経験だけはある、ベテラン中継ぎの伊垣さんだ。油断はできない。
塁上でこれから展開を頭に描きながら、俺はマウンドにいる背番号「四二」を見据えていた。
打席で突然、意味不明な笑みを浮かべる菊稚君を見た私は、彼がこれからやろうとしていることがある程度わかりました。
おそらく、かなりの確率で右打ちを狙ってくるでしょう。たとえそれが平凡なセカンドゴロでも神部君は進塁でき、ワンアウト、ランナー三塁なります。得点の臭いがプンプンします。またスターズベンチもそう考てるはずです。
当然私はその進塁打を防ぐためシュートで再びインコースを突くことにしました。
シュートはツーシームより大きく右バッターに喰い込んでいく変化球です。私の持ち球の中では珍しく少し曲がりが大きいので、マウンドにある幅約六〇cmのプレートの左側、つまり一塁側を踏みます。一塁側から投げると右腕のリリースポイントがホームベース上に重なるので、真ん中から内側へいい感じで喰い込むように変化します。右打ちを狙う掬稚君にとっては、さぞ打ちにくいボールでしょう。まあ、当たってもまともに前には飛びません。
カウント、ワンボール、ノーストライクでサインを交した私はセットポジションに入りました。二塁ランナーの神部君を目で牽制しつつ、クイック気味に第二球を投げました。
自慢じゃありませんが、私のストレートは一四〇に届くか届かないかくらいです。そのストレートよりさらに球速が落ちるシュートですから、掬稚君の目には棒球のように映ったでしょう。これならたぶん食い付いてきます。
思ったとおり掬稚君は打ちにきました。そこへ前触れもなく、ボールが自分に向ってきます。慌てる掬稚君。しかし、バットは急に止まれない。
結局、掬稚君はバットを身体に引寄せたまま窮屈な体勢で空振りしました。これでワンボール、ワンストライク。五分のカウントにできました。
でも、二球続けてインコースを攻められたのが余ほど気に入らなかったのか、梅埜君からの返球を受取る間、掬稚君はずっと尖った視線を私に投げ付けていました。ボールを受け取った私はすぐに背を向けて彼の視線を外しましたが、今度は二塁にいた神部君からも同様な目で睨まれました。
まったく、若い二人にも困ったものです。相手打線をゼロに抑えるのが私の仕事なんです。そんな風にガンを飛ばされても中学生じゃないんだから、大人なんだから、自重して欲しいものです。
気を取り直して私は梅埜君のサインを覗き込みました。二球続けて攻めたので、掬稚君に対するインコースの意識付けは十分できたと考えたのでしょう、三球目はアウトローのストレートを要求してきました。適切な選択だと思いました。普通のバッターであれば、あれだけインコースに投げられたらアウトコースのボールにそうそう踏込んで打てません。
ピッチングの極意はバッターに恐怖心を植え付けることにあります。
バッター目線に立ったとき、彼らが最も怖れ忌み嫌うボールとは何かと考えると、それはデッドボールということになります。
キレッキレッの物凄い変化球や一六〇km近い剛速球も、怖いといえば怖いのですが、デッドボールの比ではありません。
例えば腕にぶつけられたら、一瞬感覚がなくなります。その後すぐに激痛が走ります。ベンチからトレーナーが駆け付けて炎症止めのスプレーをかけてくれますが、痛みが若干和らぐだけで熱を持って腫上がります。ぶつけられたその夜は、痛くて眠れないこともあります。背中や脇腹にぶつけられたときには、息が詰まってしばらく頭の中が真っ白になります。
最近はエルボーガードなどのプロテクターのおかげで、昔のようにデッドボールを喰らったバッターが顔を歪めて身体をのけ反らせるようなことはかなり減りました。それでもデットボールは怖いですし、痛いものは痛いのです。
私はぶつける側の人間なので、以上の話はすべてチームメイトから見聞きしたものです。
制球力にはそれなりに自信がありましたが、話を聞いてからは、より注意を払うようになりました。特にインコースには慎重に投込むようにしています。私の制球力はデットボールによって向上しようなものです。
そして、ピッチングの極意はこの恐怖心につけ込むことから始まります。
まずバッターの胸元近くに投込んでのけ反らせ、次は外の低めを攻めます。このオーソドックスな「対角線攻め」こそ、バッターが最も嫌がる配球なのです。
ですから、二球続いたインコースのあとアウトローを攻めるという梅埜君の要求はとても理に適っています。
梅埜君のサインに頷きかけた私は、掬稚君を見てはたと考えました。もし掬稚君が次のボールがアウトコースと読んで、恐怖心などお構いなしに踏込んできたらどうなるか?
掬稚君は神部君に負けないくらいの曲者です。このままセオリー通りにアウトコースに投げたら、彼クラスの選手は間違いなく踏込んで打ちにきます。それが内野の間を抜けてヒットなれば、神部君の脚なら楽にホームに帰ってくるでしょう。
また当たりが良すぎてホームに帰れなくても、一、三塁となってピンチはさらに拡がります。しかもノーアウトでリーグ一の破壊力を誇るスターズのクリーンアップを迎える始末。逆転されたあげく、大量失点を招くという最悪の展開に……。
そんな試合をぶち壊しかねない、目を覆いたくなる惨状が目の前にありありと浮かび、足元から背中に無数の小蟲が這い上がって来るような感覚に襲われました。
当然、私はサインに首を横に振り、この惨劇を避けるために三球目もインコースを攻めることにしました。
この場面で私に一五〇kmを越える球威のあるストレートがあれば、ど真ん中の高めに投込んで空振りを狙うんですが、哀しいかなそんなもんありません。勝負ができるボールといえば小さな変化球だけです。
私は梅埜君にひざ元に小さく沈むスプリットを要求しました。最初は少し驚いていた梅埜君も、私の意図を感じ取りアゴをグッと引きました。
二人の呼吸がピタッと合ったところで、私はセットポジションに移りました。そして目で神部君の動きを制しながら、第三級を投げました。
読み通りアウトコースに的を絞っていた掬稚君は、三たび自分に向って来るボールに面食らった様子です。安心してください。決してぶつけませんから。
反射的に足を引いてしまった掬稚君には、見送ることしかできません。球審が右手を上げて冷静に「ストライク」とコールします。
「うっ」
小さな呻き声を上げた掬稚君は、今度は梅埜君を睨んでいます。梅埜君は何事もなかったように私にボールを返しました。
掬稚君の気持ちもわからないではありませんが、プロの世界はある意味、騙し合いなのです。ともかく、これでワンボール、ツーストライク。ピッチャー有利のカウントに持込めました。
フルカウントでもない限り、ツーストライクに追込まれたバッターは三振だけは「いやっ!」とばかりになりふり構わずにバットを出してきます。三振してもアウトカウントが一つ増えるだけなんですが、バッターに与える精神的なダメージは凡打に打取られるよりも何倍にもなるそうです。これもチームメイトから聞いた話です。ピッチャーの私にはまったく理解できません。
だからでしょうね。追込まれたら、やたらファールで粘るバッターがいます。まあ、粘るだけの技術があるんでしょう。でもピッチャーの立場から言わせてもらえば、球数は増えるは、疲れるはで、迷惑なだけです。お客さんもファールばかり見せられては、うんざりです。さっさっとアウトになってください。
ところでツーストライクに追込まれたバッターの心理がわかってくると、どのようなピッチングをすれば打取れるのか、自然と見えてきます。
例えばこのノーアウト、ランナー二塁でカウントはワンボール、ツーストライクという場面で、私が「次に何を投げますか?」と野球好きの方に尋ねたとします。すると、大半の方が半で押したように「一球外して、次で勝負する」と答えるでしょう。野球ファンの中には、これが定石のごとく考えている方がかなりいらっしゃると耳にします。
しかしカウントが有利だからといって、ストライクゾーンから大きく外れたところにとりあえず一球投げておくのは、決していいやり方ではありません。むしろ愚策です。
バッターは三振を恐れるあまり神経過敏になっています。どんなボールにも手を出そうとするでしょう。そんな三振恐怖症になっているバッターに対して、あからさまに「一つ外してきた」とわかるところに投げてしまっては、相手を楽にしてやるようなものです。
意味のないコースに、意味のない速さで、意味のないボールを投げることはカウントの上ではボールが一つ増えるに過ぎませんが、目には見えないマイナス面があります。
ピッチャーに読みとまったく違うところを攻められ、バッターが混乱状態に陥ってるときに、相手に考える時間を与えているのと同じです。
考える時間を与えることは、心に余裕を与えることです。バッターにしたら、一球得した気分になります。こんなことをしては、毎日必死でバットを振込んでいるプロのバッターなんか抑えられません。
投げるにしてもコースギリギリを狙うとか、球速に緩急を付けるとか、焦っているバッターが手を出しそうなところへ投げるべきです。
というわけで、遊び球を挟まず仕留めることにした私と梅埜君は、四球目に勝負球としてチェンジアップを選択しました。
チェンジアップはある程度の距離までストレートの速さでいきますが、途中から失速してバッターの手前で急に落込むボールです。決まれば、打ち気にはやるバッターに肩透かしを食らわせるような効果があります。
ただし相手に読まれていたり、高めに浮いたら非常に危険です。非力なバッターでも、そこはプロ。当たりどころによってはスタンドまで持っていかれます。
そんな諸刃の剣のようなチェンジアップを選んだせいか、セットポジションを取った私は自分でも気付かないうちに肩に力が入っていました。今にして思えば、力んでいたと思います。
そんなことなど毛ほども感じずに、いつもの調子で第四球を投げてしまった私は指先からボールが離れた途端、リリースポイントが普段よりほんの僅か早くなったことに気付きました。
「あれ?」って感じでしたね。いつもの握り方でいつものように腕を棒のようにして投げたつもりでしたが、もうどうになりません。行き先はボールに聞いてください。
予想通り真ん中やや外よりの高めに浮いたボールは「打ってください!」と言わんばかりに掬稚君に向っていきました。梅埜君はこの世の終わりを見るような目でボールを見詰ています。
申し訳ない梅埜君。しかし、一旦ボールが手から離れてしまった以上、私にはどうすることもできないんですよ。本当にやらかしてしまって、ごめんなさい。
そう何度も心の中で謝りつつ、掬稚君に視線を移しました。
んっ、どうしたの掬稚君? 高めに浮いたチェンジアップだよ。絶好球だよ。ヒーローになれるかもしれないボールだよ。
しかし彼のバットはテイクバックのまま、さっぱり動きません。それどころか上体が激しく揺れ、懸命にバットが出て行くのを堪えています。どうやら絶好球過ぎたのが幸いして、タイミングが上手く取れないようです。
ラッキー! スタンドにお客さんがいなければ、私はマウンドで踊っていたでしょう。
掬稚君の上体の揺れが上下左右と徐々に激しさを増しています。どうにかタイミング合わせようと、半泣きになりながらも我慢しています。
これも三振恐怖症の成せる業なのかもしれません。やはりバッターという生きものは三振が死ぬほど嫌なんですね。
ようやく高めに浮いたチェンジアップがバットに届くところまでくると、掬稚君はズレたタイミングのまま、辛うじて当てることができました。
ポコン……。
この緊迫した場面に似合わない間の抜けた音がしました。案の定、打球は力なくフラフラと一塁側ファールグランドに浅く上がり、ファーストのマテルが前に出てきて難なくキャッチ。
世間では、場外に消え去る大ホームランやバッターを力ずくでねじ伏せる剛速球、目の覚めるような華麗な守備など、誰の目にも華やかに映る妙技・美技こそプロ野球だと思われがちです。
ですが、私のように十九mに満たない限られた空間の中で繰り広げられる、虚々実々の小さなせめぎ合いもプロ野球なのです。
もしこんな小さなことがわかれば、野球の新たな楽しみ方の一つになるかもしれません。もっとも、細か過ぎてわかりづらいと思いますが。
無事に掬稚君を打取った私は大きく息を吐きました。結果オーライですが、なにわともあれ、これでワンアウト、ランナー二塁。
少し落着きを取戻した私は、この回に起こったことをあれこれ考えてみました。不運なイレギューラーヒットに始まり、意表を突く初球盗塁、怪我の功名みたいな高めに浮いたチェンジアップ。
どれもこれも「イニングまたぎ」などというアホ采配せいです。あのとき、どんな手を使ってでも断ればよかったと、心から後悔しました。
マウンドで俯き加減で長く尾を引く溜息を漏らしていると、視界の端にゴリラに似た大きな影が入ってきました。
顔を上げると、ネクストサークルで威嚇するようにバットを振込む、一際大柄な選手がいます。
リーグNo.一パワーヒッター、三番フランソワです。