七.頭で走る
ベンチから特にサインが出ていないことを確認した俺はやや大きめリードを取った。盗塁を狙うランナーにとって、やはりリードは少しでも大きく取りたいものだ。
しかし、リードを大きく取ってベースから離れるほど今度は戻る意識が強くなってくる。欲張って半歩でも大きくリードを取っていくと、その分「牽制球で刺されるのでは?」と逆に不安になってくる。
こうなると、次の塁へ進むのではなく戻る方へ意識が傾く。そのため体重や重心が元の塁に残ってしまうという本末転倒なことが起こる。これでは何のためのリードかわからない。
だから俺は「ここならどんな牽制球が来ても絶対に戻ることができる」自信があり、かつ、可能な限りのリードが取れるポイントを相手ピッチャーによって決めている。リード取る際には、これを常に頭に置いている。
こうすることで戻ることに余計な神経を使うことなく、次に塁に全神経を集中できる。リードは大きく取ることだけが能ではない。
また盗塁はその前提として、通常の状況なら必ずアウトになる、非常にリスキーな戦術でもある。ピッチャーが投球動作に入ってミットに納まるまで約一.二秒。次にキャッチャーがボールを捕ってから二塁へ送球するのに約二秒。つまり盗塁はその約三.二秒の間で決めなければならない。
俊足と言われる俺でさえ、スタートを切って二塁に到達するまでに同じく約三.二秒かかる。並みの脚の選手なら、アウトになる確率はかなり高い。
ではっ、どうすればアウトにならずに次の塁を盗めるのか?
塁間を三秒切るくらい走ることができればいいのだが、まず無理だろう。しかも相手はプロのピッチャーだ。当然ランナーを警戒して待構えている。それをくぐり抜けて、盗塁を決めるにはいいスタートを切るしかない。
そして、そのための周到な準備が必要になってくる。「準備」なくして盗塁は成り立たない。
その「準備」について、まず押さえるべき点が二つある。
そのひとつは、さっきも言ったいいスタートを切ること。
ピッチャーが牽制球を投げせずに、必ずバッターに向って投球動作に入った直後にスターを切る。このわずか〇.二秒か〇.三秒でも動き出しが早ければ、その分こちらのアドバンテージになる。
そのためにはピッチャーとキャッチャーのクセを見抜かなければならない。
例えば、このピッチャーはこういう動きをするときには、牽制球ではなく必ずバッターに投げる、そういうクセを見抜けば、自分のタイミングでいいスタートが切れる。
二つめは投球から二塁までの送球が三.二秒以上かかるとわかった場合に走ることだ。
つまり次に投げるボールが変化球やインコースを突くものであることを読む準備をすることだ。変化球だとストレートに比べて球速は落ちる。インコースのボールの場合、バッターが障害になるのでキャッチャーは補球しづらく、しかも送球しにくい。こういう読みができれば盗塁を決める確率は格段に上がる。
ピッチャーのクセには身体に無意識に出てくるクセと配球のクセの二種類ある。
いくらプロの投球技術が向上したとはいえ、ストレートと変化球では明らかに投げる前の動作に違いが出る。例えば、変化球を投げるときに僅かに右肩の位置が変るとか、下半身に妙な動きがあるとかだ。
そして配球のクセは、スコアラーから毎試合上がってくるデータをつぶさに見れば、このピッチャーはカーブを続けて投げないとか、左バッターにはスライダーが多いとかがはっきり出ている。もちろん、データ通りに投げてくるピッチャーなどひとりもいないが、このピッチャーにはこういう配球の傾向があると、わかっただけでも参考にする価値はある。
また、ピッチャー同様にキャッチャーにも身体的なクセと配球のクセがある。
キャッチャーの身体的なクセとして出やすいのが、ボールを受ける、その構えだ。
ピッチャーは盗塁を阻止しようとストレート主体で投げたがる。しかし、ストレートばかり投げていては、今度はバッターにそのストレートが狙われてしまう。だからキャッチャーはタイミングを見計らって変化球を織り交ぜなければならない。
キャッチャーの構えから次のボールが変化球だとわかった場合、ストレートより時間がかかるので盗塁を成功させる確率は間違いなく上がる。
さらに受けようとする構えから次のボールがインかアウトか、ばらしてしまうキャッチャーもいる。
ピッチャーが投げようと足を上げた途端に、早々とボールの来るコースへ移動して捕球体勢に入ってしまう。これは長年染み付いた、常に身体の正面でボールを受止めなければならいという習慣がつい出てしまうからだろう。
盗塁を狙うものからすればアウトコースよりもインコースの方が断然走りやすい。先でも言ったが、インコースはバッターが邪魔になり、送球が乱れやすくなるからだ。そのため、キャッチャーの構えでインだとわかれば、いいスタートが切りやすくなる。
このようにバッテリーのクセを見抜き、日々スコアラーから上がってくるデータを組合せると、相手が次に何を投げてくるのか予測できるようになる。その結果、いいスタートが切れるという訳だ。
盗塁とは、走る技術より相手を研究することで成功率を上げていく戦術なのだ。俺の拙い経験からだが、盗塁の比率はその研究のための準備が八だとすれば、スライディングなどのテクニックは二だ。盗塁の成否は試合前の準備にかかっていると言っても過言ではない。
さて、今の相手は伊垣さんだが、この人は投球動作にクセらしいクセがほとんどない。様子を窺っていると、スタートを切るタイミングを逸してしまう。こちらから先に仕掛ける方がいいな。
そう考えた俺は安全圏ギリギリまでリードを取った。二塁ベースの方に重心を少しづつ移動させながら、初球にスタートを切るため強くグランドの土を踏みしめた。
セットポジションを取った私の視界の片隅で、これ見よがしに神部君の姿がチラチラ入ってきます。まるで小バエです。本当に鬱陶しいです。
ランナーの大切な仕事の一つに、相手ピッチャーの集中力を分散させて見方バッターを援護する、というものがあります。
しかし、ピッチャーにしてみれば、実に迷惑な話です。むこうも仕事とはいえ、目障り以外の何ものでもありません。
とりあえず私は牽制球を投げましたが、神部君は余裕で手から一塁に戻りました。おそらく彼の中で「牽制球に決して引っ掛からないリードの範囲」というものがあるのでしょう。
一つ牽制球を挟んだ私は、改めて今後のスターズの戦略を考えてみました。
試合は終盤に差し掛かり、一点のビハインドでノーアウト、ランナー一塁。スターズにとっては願ってもない状況です。確実に同点を狙ってくるなら、送りバントや右打ちの進塁打で、ランナーをスコアリングポジションである二塁に進めることを考えるでしょう。
もし一気に逆転しようとするなら、ヒットエンドランやランエンドヒットなどの脚を絡めた攻撃を仕掛けてくるはずです。決まればノーアウト、一・三塁と、チャンスは拡大し、逆転の可能性が現実味を帯びてきます。
運良く打球が外野の間を抜ければ、神部君なら楽々ホームに帰ってきて同点。しかも逆転のランナーが塁上に残ってしまいます。
ファーストのマテルからボールを受取った私は、右打席で待つ掬稚君を見ました。神部君ほどではありませんが、プロ野球選手として小柄な彼は、バンドや右打ちなどの小技に長けた上に長打力もある理想的な二番バッターです。
スターズが仕掛けてくるとしても、神部君と掬稚君の二個一で攻めてくるでしょう。これならまず盗塁はありませんね。神部君も今の状況は十分理解しているはずです。当然、単独スチールなどあり得ません。いずれにしても、ここは大事な場面です。バッターの掬稚君に集中するのみです。
梅埜君とサインを交わし、再びセットポジションに入りました。梅埜君の要求はインハイのツーシームです。右バッターの内側にシュート気味に沈むボールでです。どうやら彼もスターズの脚を絡めた攻撃を警戒しているようですね。
背中越しに相変わらず、目障りなリードをする神部君の姿が目に入りました。それとなく様子を窺うと、「俺、走る気なんか、ぜんぜんないっす」ってな顔をしています。そうでしょうね。これで走ったら馬鹿です。アウトになったら、罰金どころでは済みません。これなら走ることはないと確信した私は、呼吸を整えて自分のピッチングに集中しました。
しかし、決してあの顔に気を許したわけではありませんが、私がクイック気味に足を上げるや、走る素振りをまったく見せなかった神部君がいきなり走り出したのです!
いや~っ、驚きましたね。焦りました。この場面で初球に走ってくるなん思ってもませんでしたから。あの顔に騙されました。
梅埜君なんか目を剥いて顔を引きつらせています。しかも、間の悪いことに手から放たれたボールはきっちり要求通りインハイに入っています。この時ほど、自分の制球力の良さを恨めしく思ったことはありません。
奇襲のような初球盗塁に、掬稚君は茫然とボールを見送り、梅埜君は捕球したもののバッターを避けながら窮屈な体勢で二塁へ送球しました。
しかし「時すでに遅し」、土ぼこりを舞い上げた神部君はすでに二塁に到達していました。審判の両手を広げる「セーフ」の判定に、沸き上がる歓声が球場全体を包み込んでいます。
やってくれましたね、神部君。まさか初球に単独ストールを仕掛けてくるとは、私や梅埜君はもちろん、スターズベンチですら予想もしていません。泡食った掬稚君が援護の空振り忘れるくらいです。
それに盗塁を許した上に初球も外れてカウントはワンボール、ノーストライク。本当に踏んだり蹴ったりです。
球審にタイムを取った梅埜君が深刻な顔を浮べて小走りでマウンドにやって来ました。
「伊垣さん、やられましたね」
「ええっ、見事にやられました。まさか、この場面でいきなり走ってくるとはね。これでノーアウト、ランナー二塁になって、ピンチが拡がってしまいました……」
声を落とす私に、梅埜君は顔を左右に振りました。
「いやいや、伊垣さん。悪いことばかりじゃありません」
そして努めて明るく言いました。
「これでバッターに集中できるじゃないですか」
たしかに梅埜君の言う通りです。一塁で小バエのようにうっとうしい神部君にピッチングの邪魔をされずに済みます。
「それにまだ点が入ったわけじゃありません。ここは掬稚さんに集中して、まずは一つアウトを取りましょう」
前向きな梅埜君の言葉に、私も頷きました。
「そうですね。まずはワンアウトですね」
そう答える私にニッと白い歯を覗かせた梅埜君は、爽やかな笑顔を残して自分の持ち場へ戻って行きました。
その笑顔に私は、少なからず彼の成長を感じました。
四年前、入団当初から将来の正捕手として期待されていた梅埜君は、バッティングは申し分なかったのですが、リードが予想以上にポンコツでした。コーチや先輩キャッチャーが手取り足取り指導していたんですが、どうにも上手くなりませんでした。見兼ねた当時の首脳陣は投手陣の中でも比較的に相性の良かった私に梅埜君の教育係を押付けてきました。
迷惑な話だと思いましたが、これもチームのためならと引受けました。そして配球のコツや審判のクセ、試合の流れの読み方など、私なりにいろいろと教えました。もちろん、梅埜君本人も人一倍勉強しました。
その甲斐あって三年目の昨シーズン辺りからは、少しはプロのキャッチャーらしく気配り、目配りができるようになってきました。ルーキーの頃にはピンチのたびに顔が青くなったり赤くなったりと、まるでイルミネーションのように頻繁に顔色を変えていた梅埜君が、今や笑顔でピンチに陥った味方ピッチャーに声を掛けるになるまでとは、当時は想像もできませんでした。
俗に「キャッチャーを育てるには三年かかる」と言われています。事実、それだけの時間と経験が必要となるポジションです。
なぜなら、キャッチャーはピッチャーの「女房役」の他に守備の面で「司令塔」としての役目もあるからです。守備に就けば一人だけセンターに向って守る特殊なポジションですから、常に守備全般に目配りできなければなりません。また、相手打線を一四〇試合を越えるレギュラーシーズンという連続性の中で捉え、抑えるためのパターンを作り出すのも重要な仕事です。
ですからキャッチャーは一軍で使い続けて育てなければならないのです。その点、今年で四年目になるのは梅埜君はよくやっています。
私は彼のたしかな成長を感じつつ、掬稚君攻略に気持ちを切替えました。