四.ザ・マニアックべースボール
左打席で個性的な構えで待つ神部君を見て、私は「さてと、仕事に取掛かりますか」と誰言うでも呟きました。
キャッチャーの梅埜君とサインを交しセットポジションに入った私はオーソドックスなオーバーハンドで第一球を投げました。
ズバンッ!
アウトコース低め、ストライクかボールか定かでないギリギリのところへ私のさほど速くないストレートが軽快な音と一緒に微動だにしない梅埜君のミットに吸込まれました。
ピクンッと反応した審判の右手は一瞬止まりましたが、思い直したように上がり「ストライク、ワン!」とコールされました。
よしっ、まずは狙い通りアウトローで一つストライクが取れました。
ボールと判定されてもおかしくない際どいコースだったので、神部君は不服そうにホームベースの外を見詰ています。
ご存知だと思いますが、野球のストライクゾーンはバッターの身長によって高低が異なり、左右は審判のクセや好みで微妙に広くなったり狭くなったりします。
そのため私は登板したら、まず今日の審判はどこを取ってくれて、どこを取ってくれないのかを四隅に投げてチェックします。中継ぎですから梅埜君や先発ピッチャーがいろいろと教えてくれますが、私は自分の目で確かめることにしています。
その際に今日の審判はアウトコースがちょっと厳しいなと感じたら、私のような制球力のあるピッチャーはアウトコースのゾーンを少し拡げることを考えます。私にこんなことができるのも、審判の方に制球力のあるピッチャーに対して判定が甘くなる傾向があるからです。
人は二つに一つと答えを迫られたときには無意識のうちに相手がどういう人間なのか頭に思い浮かべるものです。
審判の場合、それはそのピッチャーに制球力があるか、ないかです。ですから同じコースに同じ速さと球種を投げても、あのピッチャーはストライクで、このピッチャーはボールになるといったことが起こるのです。つまり、制球力のあるピッチャーはそれだけ有利ということです。
また、私も含めて制球力のあるピッチャーはそうした審判の心理を利用してストライクゾーンをほんの少しだけ拡げるテクニックを持っています。
たとえば、その日の審判がいつもならストライクに取ってくれるインローのストレートを取ってくれないとします。そんなとき、マウンドから審判に向って「えっ、なんでボール? ちゃんと見ているのか?」と、あからさまに不満な顔をするのは得策ではありません。
ここで制球力のあるピッチャーがつい犯してしまう失敗があります。それは同じインローに「よく見ろっ!」と言わんばかりに投込んで制球力を見せつけることです。
こんなことをしたら、ストライクのコールを聞くことは永遠にないでしょう。審判の方にしてみれば、同じコースにきたボールを今度は「ストライク」と判定する訳にはいきません。どうしたって「ボール」にするでしょう。いやっ、せざるを得ません。
このように相手の立場を配慮しない圧力を掛けるなど、愚策以外の何ものでもありません。審判の反発を買って、以降その試合ではそのコースに投げるボールはすべて「ボール」にされるでしょう。
こんなとき、もっとも適切な方法は、まず次の一球を反対側のアウトローへきっちり投込んで制球力のよさをさりげなくアピールしておくことです。次に再度ストライクに取ってもらえなかったインローへ投げます。
こういったひと手間加えるピッチングをすると、今度はストライクに取ってくれる可能性がグンッと高くなります。
なぜなのか? それは彼ら審判の面子を潰さないように考慮したピッチングだからです。つまり、よい印象を与えたということです。
審判も人の子です。「さっきは数ミリ外れていた」と自分の下した判定に自信を持っている人でも「このピッチャーは制球力があるから、今度は心持ち真ん中よりに投げてきた」と、好意的に解釈してストライクに取ってくれるでしょう。
当然、「さっきはやっぱりストライクだったかな……」と、イマイチ自分の判定に自信が持てない人は、今度は迷うことなくストライクにしてくれます。
中継ぎである私は任されたイニングの中で、このようにして少しづつストライクゾーンを拡げていきます。こうすれば、そのイニングのピッチングがとても楽になります。
僅か一八.四四mの間で火花を散らすピッチャーとバッターの戦いを突詰めれば、ホームベースの左端から左右二〇cm幅のゾーンと、同じく右端から左右二〇cm幅のゾーンで繰広げられる虚々実々のかけ引きなのです。そんなボール三個にも満たない狭い空間で、ボール半個分から一個分ストライクゾーンを拡げることは、それだけプロのバッターを抑え込める機会が拡がったことを意味します。
スタンドやテレビの前で観ているファンの方には細か過ぎてわかりづらいと思いますが、こんなマニアックなしのぎ合いも、プロ野球の偽りのない一面なのです。
ところで神部君との対戦なんですが、初球をいい感じ取れた私はキャッチャーの梅埜君が出すサインを覗き込みました。
ほっほ~っ、インハイのスライダーですか。つまり、左バッターの胸元を突くということですね。
梅埜君のサインに頷くと、神部君の胸元に食い込むスライダーを投込みました。
スバンッ!
「ボール」と、平板な声で審判がコールします。
やや内側に入り過ぎたのか、二球目は外れてしまいました。
神部君のバットはピクンと少し跳ね上がっただけで、見事に見逃されました。さすが三割バッター。いい眼してます。
これでカウントは一ボール、一ストライク。初球がアウトローで二球目がインハイという、この対角線を軸にした配球は視覚的に狙い球を絞らせないようにするためのものです。昔からよく使うオーソドックスな配球ですが、今でもけっこう有効なんですよ。
そりゃ、制球力のあるプロのピッチャーがストライクゾーンの対角線を基本に上下左右めいっぱいにボールを散らせば、プロのバッターといえど的は絞りきれません。目が付いていけませんから。
第三球目の梅埜君の要求はバッターの手前で小さく沈むアウトコースのスプリットです。それもストライクゾーンからボールゾーンへほんの少し逃げていくたちの悪いやつです。どうやら梅埜君はボール球を引っ掛けさせて、神部君を内野ゴロで仕留めたいようです。
これまで様々な変化球を投げてきましたが、なかでもこのスプリットは私に大きな気付きと共にピッチングの幅を広げてくれた特別なものです。
前にも言いましたが、私にはキレッキレッの凄い変化球もなければ、一五〇キロ後半の剛速球もありません。
ですから、スプリットに出会うまでの私のピッチングスタイルは、配球でバッターの打ち気を逸らしたり、チェンジアップでタイミングを外したり、スライダーで外に逃げたりと、とにかく「かわすピッチングが主体でした。「逃げの伊垣」と陰口を叩く人もいましたが、事実そうでしたから言い争うことはありませんでした。
まぁ、一四〇キロに届くか届かないか程度のストレートと、これといった決め球になる大きな変化球を持たない私が正面切って勝負すれば、ほぼ間違いなく返り討ちに遭うでしょう。
その頃すでに中継ぎとして三年以上経っていましたが、「このままかわすピッチングを続けていても、先はないな」と、三〇歳を前に「引退」の二文字が目の前にチラつき始めていました。
そんなときに出会ったのがスプリットでした。