三.継続という名の才能
ウォーミングアップを終えた私は真新しいボールを両手でこねながら、左打席に向うスターズの一番バッター、神部君を見ていました。
マウンドにいる私に一瞥くれることなく打席に入った神部君は入念に足元を均すと、バットを肩で担ぐように寝かせて極端なくらい前かがみになる「クラウチングスタイル」と呼ばれる独特の構え方をしました。
身長一六五センチに満たない(公称では一七〇センチと言い張っています)小柄な彼が身体をめいっぱい縮込ませて打席に立つその姿は、本当に投げづらいです。的が小さいというレベルではありません。ほとんど嫌がらせです。よくこんな構え方でバットをスムーズに出せるものだと、常々私は感心しています。
ドラフト四位の高卒で今シーズン六年目になる神部君は二年目からは早くもセンターのレギュラーに定着し、今や常勝軍団・広島レッドスターズ、不動の一番バッターです。
粘り強く選球眼に優れた彼は、レギュラー定着の翌年から三年続けて三割を越える打率を残し、今年は首位打者を狙える位置に付けています。俊足で去年も盗塁王のタイトルを獲得し、今年もすでに四〇個もの盗塁を決めています。おそらく、五年連続でタイトルを獲るのは間違いありません。
アマチュア時代も含めて、これまで野球人生の中でタイトルなどまったく無縁な私にしたら、実に羨ましい限りです。
加えて守備範囲も広く、並みの選手なら追い付きそうもない長打コースの打球を難なく捕って強肩と正確無比な送球で、スターズの危機を数え切れないくらい救ってきました。
要するに、走・攻・守の三拍子揃った理想的な選手ということです。味方にすればとても頼もしい存在なのですが、敵に回せば実に厄介なことこの上ない選手です。
スターズには将来性のある若手を鍛え上げて一軍に送り込む伝統の育成システムがあるのですが、普通、高卒の選手であれば一軍に上がるレベルになるまで、早くても三年は掛かります。なぜなら、一シーズン戦える身体ができてない上に、プロのスピードに付いていけないからです。
それを僅か一年足らずで成遂げ、しかもセンターのレギュラーまで取ってしまうのですから、きっとアマチュア時代から神部君には「継続」と言う名の才能があるんでしょう。
プロ十三年目ながら、ここまで配球と小さな変化球でどうにか乗切ってきた私とは大違いです。
その神部君が、今、仄暗い物陰から目の前の獲物に襲い掛かろうとする獣に似た鋭い二つの眼を私に向けていました。
「一番センター神部。背番号『八』」
浪速MIDOスタジアムに俺の名前が高らかに読上げられる。お気に入りの入場曲『ダースベーダーのテーマ』に乗って、俺はゆっくりとネクストサークルから左打席に向った。
ふっ、てっきり窪田でくると思ったが、伊垣さんの続投とはな。バンディッツには余ほどピッチャーがいないらしい。だとしたらこちらにもまだツキがあるようだ。あんなロートルなどすぐにマウンドから引き摺り降ろしてやる。
んっ、そう言えばあのときもシーズンの終盤に差し掛かった頃の試合だったな……。
マウンドの伊垣さんに目を合わせることもなく打席に入った俺は、時間を掛けて足場を整えながら、ふっとルーキーイヤーの苦い出来事を思い返していた。
六年前、そのシーズンのバンディッツとの最終戦に急きょ一軍に呼ばれた俺は取るものもとりあえず広島の合宿所から大阪へ駆け付けた。ルーキーだったが、二軍戦で三割五分二厘、ホームラン二本、盗塁二〇と結果を残していた俺は一軍首脳陣の目に留まったのだ。
当時、スターズは残り七、八試合を残して一〇年ぶりの優勝に王手を掛けていた。当然チームの雰囲気もファンの熱気も最高潮に達していた。
しかも、優勝の掛かった大一番の相手が万年Bクラスのバンディッツ。もう優勝したのも同然とばかりに祝勝会の準備やらメディアの取材やらでチーム全体に楽勝ムードが漂っていた。
まあ、あの頃は右も左も分からないルーキーだったから「優勝するってこんな感じなのか」と一緒になってウキウキしてたな。
だが、この試合で俺は一生記憶から消えることない「プロの洗礼」を浴びた。ついでにコーチからも大目玉を喰らった。
試合の方は八回までに十対二の大差を付けたスターズの一方的な展開だった。ここで代打を命じられた俺は、記念すべきプロ初打席をこんな大舞台で迎えられることに喜びで心を震わせた。
八回表、先頭バッターとして打席に立った俺は独特のクラウチングスタイルで構えた。このスタイルもプロのスピードに対応するために中学・高校と貫いて磨いてきた打撃フォームだ。
子供の頃から小柄だった俺は自分が長距離バッターでないことは分かっていた。だから、もし自分が憧れのプロの世界に入れたなら、そこで生き残っていくにはどうしたらいいのか、自分のストロングポイントは何か、寝る間も惜しんで考え抜いた。
そして考え抜いた末に辿り着いたのが脚だった。
自信はあった。実際、小中で体育の時間で徒競走に負けたことは一度もなかった。俺は脚を武器にするため走りに走った。部活はもちろん、学校の行き帰りのランニング、休み時間は瞬発力を鍛えるため体育館裏でのダッシュなど思い付くことはすべてやり続けた。
そして、そうした努力の結果、高校一年のときには三遊間の深いところに転がったゴロなら、セーフかアウトか際どいタイミングで一塁を走り抜けるまでの俊足を身に付けていた。
また、木製バットについてもそうだった。
よく金属バットに慣れた高卒の選手が木製バットの対応に苦しむ話を聞くが、俺に言わせれば当り前のことだ。
金属バットは木製バットよりも軽い。そのためヘッドの出がスムーズになり、スイングスピードも速くなる。しかもバットの芯がかなり広い。多少ボールが芯から外れてバットの先や根元で捉えたとしても、当たればとにかく飛んでいく。
これでは同じ打撃フォームでインコースもアウトコースも打てしまう。
しかし、木製バットを使うプロの世界では同じ打撃フォームで打てるほど甘くはない。特にインコースの捌きができなければ生き残っていけない。これが世間でよく言われる「金属バットの弊害」というやつだ。
これについても俺は中学・高校と練習で木製バット使い続け、さらにプロスピードに慣らすためマウンドから五メートル手前にマシンを置いて打撃練習に取組んだ。来る日も来る日も、手のマメが剥けて血が滲んでも、飽くことなく毎日バットを振り続け何百球、何千球と打込んだ。その甲斐あって高校三年の春には木製バットでイン・アウトをきれいに打ち分ける技術をマスターしていた。
だからこそ、プロになってもすぐに対応できた。俺が来たるべき日のために、子供の頃からコツコツ積上げてきたことは間違いでなかった。
さてっ、俺のプロ初打席の結果はどうであったかと言うと、それは見事に一、二間を破るライト前のヒットだった。
対戦した伊垣さんのボールはそれほど速くなく、変化球も目を瞠るものはなかった。正直、プロの一軍のボールってこんなものなのかと、拍子抜けするくらいだった。
だが、このあとがいけなかった。調子に乗った俺は伊垣さんがどういうピッチャーなのかよく知りもせずに、よせばいいのに自慢の脚をアピールしようと盗塁を狙った。二軍戦で挙げた二〇盗塁という数字も俺を大胆にさせた。
一塁コーチの指示も碌に耳に入らず、ジリジリとリードを拡げていった俺は、いとも簡単に牽制球一発で仕留められた。
肩を落としてベンチに戻った俺が守備・走塁コーチが叱責されたことは言うまでもない。
試合はそのまま一〇対二でゲームセット。優勝を決めたスターズ一軍は球場を後にして祝勝会場へ移動した。
だが俺は一軍と共に会場に向うこともなく、その場で二軍行きを命じらた。このときコーチから伊垣さんがこれまで塁上の邪魔者を何人も消し去ってきた牽制球の名手であることを聞かされ自分の未熟さを痛感した。
喜びに沸く一軍を横目に、俺はひとり隠れるように広島行きの夜行バスに乗った。
バスの窓から糸を引くように流れる外灯は滲んでいた。そして俺は誓った。誰よりも走塁を磨いて盗塁王のタイトルを獲る!
そしていつの日か、俺から祝勝会を取上げ、屈辱のデビューを味あわせたあの男に、必ず脚でやり返してやるっ! と。
車窓から悔し涙で霞む大阪の街を見詰ながら、俺は自分に言い聞かせるように何度も何度も繰返していた。
二軍に戻ってからの俺は人が変ったように走塁、特に盗塁に取組んだ。そこで俺はピッチャーやキャッチャーの動作を注意深く見ているうちに、今まで見えていなかった多くのことに気付いた。まさに、走るための情報は野球そのものだと言っても過言ではない。
そして迎えた翌年の春のキャンプ、オープン戦。そこで目覚しい働きをした俺は、開幕一軍のスタメンを勝ち取った。以後、一軍レギュラーに定着。着実にステップアップを積み重ねた俺は、プロ三年目には初の三割をマークし、盗塁王のタイトルにも輝いた。
今では毎年、当り前のように三割を打ち、盗塁王のタイトルの他にもゴールデングラブ賞と、広島レッドスターズ不動の一番バッターにまで登り詰めた。
これもあの日があったからだ。プロ初打席、しかも優勝がかかった試合。クリーンヒットを打って天狗になった俺の鼻が牽制球でボッキリへし折られたあの日を決して忘れることはない。
その意味で、俺は伊垣さんに感謝している。だが、本音の部分は少し根に持っている。
というのも今でもチームメートや番記者からルーキーイヤーのヘマをネタにイジられる。二軍では牽制球にあっさり引っ掛かるようなまぬけでも、努力次第で一軍でバリバリ活躍できると、まことしやかに言い広めているらしい。
この調子では引退するまで、ことあるごとに言われ続けるだろう。クソッ、どいつもこいつも。
時間を十分使って足元を均した俺は、グッと左足を踏込んで構えた。
そして、マウンドいる俺のキャリアに大きな汚点を付けた男を睨みつけた。