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マニアック・ベースボール  作者: 真柴 文明
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二.イニングまたぎ

 ベンチに戻った私はアンダーシャツの着替えと肩と肘のアイシングのためにベンチ裏へ行こうとしました。

 すると、ピッチングコーチの富久原(ふくはら)さんから呼び止められました。

「おい、伊垣」

 てっきり労をねぎらい言葉の一つでも掛けてもらえるかと思って振返ると、耳を疑うような言葉を口にしたのです。

「次も行くからな。準備しとけ」

「へっ?」

 思わず声が裏返ってしまった私に、富久原さんはお構いなしに続けました。

「続投だ。頼んだぞ、伊垣」

 いやです。いやです。いやです。いやです。いや……。

 自分の耳にレフレインする心の叫びがしばらくこだまのように響き続きました。

それもやがて次第に小さくなって消えると、私は確かめるように富久原さんに聞き返しました。

「ぞっ、続投って、つまり『イニングまたぎ』ってことですか?」

 富久原さんは当り前だろうと言わんばかりに大きく頷きました。このとき正直、私は富久原さんが乱心したのかと思いました。

「イニングまたぎ」とは文字通りイニングをまたいで同じ中継ぎピッチャーが投げる継投策のことです。しかし、これがなかなか厄介な策でもあるのです。

 たとえば、ある中継ぎピッチャーが前の回をあっさり三者凡退に打取ったとします。あまりにも見事に抑えたので、監督やコーチが「じゃ次の回もよろしく」とイニングをまたいで投げさせると痛い目に会うことが往々にして起こります。

 ピッチャーという人種はとても繊細な生きものです。前の回を完璧に抑えれば抑えるほど、イニングをまたいで味方が攻撃している間に「次の回も同じように完璧に抑えなければ」と、つい余計なことを必要以上に考え込んでしまいます。

 また、周囲もそう期待するでしょう。返ってそれが力みとなって本来のピッチングができなくなり、その結果打たれて継投失敗となる。

「イニングまたぎ」はそれほどリスクを伴うものなのです。言うなれば継投策の禁じ手です。それを「じゃ次もね」と、まるで子供にお使いを頼むみたいに軽々しく口にするものではありません。

 まさかプロのピッチングコーチともあろう富久原さんがそんなことも知らないとは思えません。ブルペンでなにかあったんでしょうか?

 私は抗議するように富久原さん訊きました。

「どうして私がイニングをまたいで次も投げるんですか? 八回ならセットアッパーの窪田(くぼた)君がいるじゃないですか?」

 今年でプロ三年目を迎える左の本格派・窪田君は去年から勝ち試合の八回を任されるバンディッツ勝利の方程式の一人です。

 口を尖らせる私に富久原さん声を潜めました。

「実はな、窪田のやつブルペンで肩を作っているときに中指のマメをやったらしい」

 冗談でしょ?と、私は自分の耳を疑いました。

 指先はピッチャーの命です。なぜなら、指先には投球動作によって生み出されるすべての力を最終的にボールに伝えるという重要な役割があるからです。

ですから、指先のケアはランニングと同じくらいピッチャーにとって基本中の基本です。指先のマメを潰すなど言語道断。今どき高校球児でもやりそうもないことを、窪田君、プロの君はやってしまったんですね。バカなの?

 言葉を失くすほど呆れ返っていましたが、富久原さんは特に気にするでもなく肩を軽く叩きました。

「という訳だ、伊垣。もう一回投げてくれ」

「どういう訳で次も投げなきゃならないんですか?」と、喉元までせり上がってきた言葉を、私はぐっと堪えて呑み込みました。

 あからさまに眉根を寄せて責めるような視線を投げ付けてくる私に、富久原さんはそっと耳打ちをしました。

「他にもピッチャーはいるし、お前が文句を言いたくなるのも分かる。俺も『イニングまたぎ』には反対したんだが、監督が『ここはベテランの伊垣しかいない』って、言い張ってな……」

 困り顔の富久原さんから、私はベンチの最前列・中央にどっかりと腰を据えて戦況を見詰る野武良監督に視線を移しました。

 今年で御歳七八歳なられる、でっぷりと太った野武良(のむら)監督は、かつてスターズと双璧を成した弱小球団、神宮ロビンズを三度のリーグ優勝と一度の日本シリーズ制覇に導いた智将です。

 三年前、万年Bクラスに沈んでいたバンディッツ浮上のキーマンとして、三顧の礼を尽して招かれました。

 そしてロビンズ時代に培ったデータ重視の緻密な野球を、野武良監督はどうにかしてチームに根付かせ、これまでの良く言えば自由奔放な、悪く言えば雑なお祭り野球からの脱却を図りました。

 しかし、その結果は散々なものでした。今シーズンもBクラスから抜け出せずに四位で終りそうです。

就任当初は「一年目は畑を耕し、二年には種を蒔いて水をやり、三年目で大きく花を咲かせる」と、豪語していた野武良監督も今は穴があったら入りたい気持ちでしょう。

 やはり、大阪という大らかで細かいことはあまり気にしない大雑把な土地柄が災いしたのでしょうか、結局、バンディッツには野武良監督が目指した野球は肌に合わなかったようです。

 私個人としてはデータを重視するスタンスは大歓迎です。小さな変化球と配球が持ち味ですから、対戦相手の個々のデーターは必須アイテムです。

 そして契約が切れる就任三年目の今年、成績不振の責を負って野武良監督も今シーズン限りで退任されます。シーズン中にも関わらず、すでに一部のメディアから後任人事が始まっていると報じられています。まさに「勝てば官軍」を画に描いたような非情なプロの世界です。

 それにしても不可解なのが、データ重視の野武良監督らしからぬ「イニングまたぎ」という采配です。これまで数々の修羅場を潜り抜けてきた野武良監督なら、その危険性は熟知しているはずです。長くこの世界を渡り歩いてきた勝負師の勘がそうさせるのか? はたまた、思い通りにならないダメチームを三年間率いてきてやけくそになってしまったのか?

 それに「奇策の名手」と言われるほど、野武良監督は奇襲好きです。相手チームを混乱させる一手を打って、そこに付込んで勝利をもぎ取る監督ならではの手法です。これも長年弱いチームを率いてきた経験の成せる業なのでしょう。

 とうことは、この「イニングまたぎ」も奇襲なのかもしれません。やらされる私は(たま)ったものではありませんが……。

 いずれにしても、私には野武良監督の心中は分かりません。他にも私より若くて速いボールを投げるピッチャーはいくらでもいます。いったい、監督は私に何を期待しているのでしょう? まぁ、投手陣最年長ですから経験値だけは他の誰よりもありますけど。

もちろん、私もチームの一大事に力を貸すことにやぶさかではありません。それでも「イニングまたぎ」はいただけません。いやっ本当に勘弁して下さい。

様々な思いが私の胸を掻きむしりましたが、監督が下した決断に一選手が抗えるはずもありません。

 銀縁メガネの奥から鋭い目でグランドを注視する監督から視線を戻すと、富久原さんが拝むように手を合わせてました。

 その姿を見て何やら中間管理職の悲哀みたいなものを感じた私は苦笑いを浮かべ「分かりました。次も行きます」と、つい口にしてました。

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