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マニアック・ベースボール  作者: 真柴 文明
12/13

十二.本塁突入

 俺はこのときを、この瞬間を待っていた。

 ディレードスチールを仕掛けるために、俺はわざとリードを小さくしていた。伊垣さんが四球目を投げると、スルスル音もなく歩を進めホームまでの距離を三分の一ほど縮めた。もちろん、一番近くにいるサードの央山にバレないように、神経を張詰めてその距離を少しづつ削った。バレたらそこで終わりだ。

 たった二七.四三一mの塁間距離が途方もなく長く感じる。まるで高層ビルの間を命綱なしで渡る大道芸人にでもなったような気分だ。そんな感覚が足元からジワリと全身に伝わってくる。

 いいね、このヒリヒリとした緊張感。これだから、野球はやめられない。

 内野に目を移すと、ラッキーなことにバンディッツの連中はまだ誰も気付いていない。本当に、おめでたいやつらだ。

 予想通り、伊垣さんが投じた四球めは僅かに内側に入り過ぎてボールになった。少し肩に力が入ったようだな。上手い具合に流れがこちらに傾いている。あとは梅埜が不用意にボールを返す、そのときを狙うだけだ。

 しかし、判定に不服だったのか、梅埜はボールを捕った位置でミットを構えたまま、しばらくじっとしていた。

 ちっ、球審にアピールしたところで判定が変るわけないだろう。さっさっと返せよ。

 毒吐く俺の心の声が聞こえたのか、ようやく梅埜は渋々ボールを返した。

 きたっ!

 梅埜の手からボールが放たれた瞬間、俺の左脚が爆発したようにグランドの土を蹴り上げた。


 ディレードスチール!

 この言葉が頭を過ぎった途端、凄まじい衝撃が全身を貫くと共に、私に周囲から音という音が消え去り、目に映るものすべてが無重力空間を漂うように緩やかに動き始めました。

 視界の端から現れた神部君は低い姿勢でゆっくりと、しかし確実にホームベースに迫っています。その姿は獲物を狩る肉食獣に似た雰囲気がありました。

 間に合わない!

 咄嗟(とっさ)にそう判断した私は、思わずマウンドから駆け下りていました。

 しかし、足が思うように前に出てくれません。

 神部君の奇襲に気付いた梅埜君もマスクを跳ね上げ、本塁を死守すべく鬼の形相で前に出ようとしています。が、蟻地獄に落ちた小虫がもがいているようにしか見えません。

 私の行く手を(さえぎ)るかのように、グランドの土がコールタールみたいにベットリと足に絡み付きます。

 その中を一歩、一歩進むなか、私の頭にあの奇妙なシーンが次々と蘇えりました。

 いきなり呼戻された茉山さん。

 怪しいサインらしきものを送るスターズベンチ。

 それに呼応する三塁コーチ。

 神部君らしくない小さなリード。

 私は悔やみました。目の前にこれだけのヒントがありながら、なぜ神部君のディレードスチールが見抜けなかったのか。

 しかし、どんなに悔やんでも時間を巻戻すことなどできません。

 唇を噛む私をよそに、神部君はもうそこまで来ています。


 もらった!

 本塁を目の前に、俺は強くそう確信した。一ミリの迷いもなく、低い姿勢のまま頭から突っ込む。

 ザッ、ザザザーーッ!

 派手な音を立てて、胸の辺りにユニフォーム越しに伝わる柔らかな土の感触を味わいながら、俺は右腕を伸ばした。

 舞上る土煙に目がかすみ、球場特有の土の臭いが鼻を突く。白くぼやけた本塁に向って、伸ばしきった腕の先にある指をグッと押し出す。

 あと数センチ。いやっ、あと数ミリで届く。もう少しで同点だ。

 押し出した指先が本塁に触れようとしていた。と、そのときだった。突然、指先に何かが触れた。硬いような、柔らかいような、いつも触り慣れた妙な感触が指から伝わってくる。

 えっ、何だ。何があるんだ?

 困惑した俺がどうにか目を少し開けて見ると、土煙の向こうに漬物石のようなシルエットが現れた。

 こいつが邪魔をしたのか? この漬物石が? そもそも、なんでそんな物がここにあるんだ?

 頭の中で様々な疑問が乱反射したが、ようやく土煙も薄れてその姿が(あらわ)になったとき、俺は愕然とした。

 キャ、キャッチャーミット……?

「アウトッ!」

 止めを刺すような球審の叫びが俺の胸を深く貫いた。

 ふとミットの先に目をやると、誰かが笑っている。俺は目を凝らした。

 誰だ? ひとの失敗を笑う失礼なやつは? うっ、梅埜! 

 汗で顔中に舞上った土が貼り付いた梅埜が、白い歯を見せてニカッと笑っていやがる。

 さらに視線を奥に移すと、梅埜は倒れ込むように身体を投出し、そのミットで俺の本塁突入を阻止していた。

 どうやって……。どうやったら、あのタイミングで間に合うんだ?

 本塁前で倒れたまま、俺は自分に問い掛けた。

 リードが小さかったのか? いやっ、塁間距離を三分の一も詰めたリードだ。俺の脚なら、楽勝で本塁を奪える距離だ。

 なら、スタートなのか? これも違う。俺の中ではベストスリーに入るくらい、あのスタートは絶妙だった。

 だったら、どうしてこうなる?

 リードとスタートに誤りのないことを確かめた俺は、混乱する頭の中で彷徨(さまよ)い続けた。

 タイミング的には、伊垣さんが梅埜からのボールを捕ってから投げ返したのでは間に合わない。その間に、俺が本塁を陥れて、まず同点に追い付く。そのあとは意気消沈したバンディッツに畳み掛けて一気に試合を引っくり返す。

 まさに、この試合の勝敗を左右するディレードスチールになる、はずだった。

 だが、目の前の現実はまったく違っていた。奇襲は阻止され、本塁前で憤死(ふんし)。スリーアウトとなり、結局、無得点に終ってしまった。

 まだ現実を受止めきれない俺は、うつ伏せのまま(うつ)ろな目で何気にマウンドの方を見た。

 そこには伊垣さんがいた。マウンドのかなり手前っていうか、本塁から数メートルしか離れていない。しかも、肩が上下に激しく動いている。走ってきたのか?

 どうしてピッチャーのあんたがそこにいるんだ? 訳がわからん。なあ、伊垣さん。あんた、いったい何をしたんだ!


 はぁ、はぁ……。

 荒い息づかいが自分でもはっきり聞こえるくらい、私の息は上がっていました。

 すでに元に戻った私の目に、アウトを示す球審の大げさな身振りが映り、その判定と同時にスタンドを飲込むような歓声が足元から競り上がってきました。

 しかし切羽詰(せっぱつま)っていたとはいえ、よくもあんな思い付きで間に合ったものです。結果的には、寸でのところで神部君の奇襲を阻止できたのですが、私は少なからずプロとして恥ずかしい思いをしていました。

 スタンドを覆っていた歓声と野次が徐々に静まるなか、息を整えた私はあの身の毛もよだつような場面を思い返していました。

 目の端に本塁の突入する神部君の姿が入って来た途端、梅埜君の返球を捕って返したのでは間に合わないと、判断した私は一か八かの賭けに出ました。

 それは猛ダッシュでマウンドを駆け降り、向って来るボールに対してジャンプ一番、エア・ケイさながらに叩き返すというものでした。

 幸運にもボールは、神部君の奇襲から本塁を死守しようと、前のめりに倒れ込んだ梅埜君のミットにすっぽりと納まりました。

 あとは、突っ込んで来る神部君の前にミットを置くだけでタッチアウト。無事、スリーアウト、チェンジ。めでたし、めでたし。

 それにしても、一か八かの賭けは(おおむ)ね負けるものですが、今回はたまたま勝利の女神が微笑んでくれたに過ぎません。

 もう、二度としたくありません。「やれ」と言われても、無理です。

 本塁手前でうつ伏せになったまま神部君が焦点の定まらぬ目で、私を見上げています。なんだか余命宣告された癌患者のような顔をしています。

 無理もありません。彼にしてみれば、完全にこちらの虚を突いたのですから、セーフになって当然だったのでしょう。

 しかし、判定は無情にも「アウト」。神部君とスターズベンチの目論みは露と消えました。

 本塁を守り切った梅埜君が立ち上がって、顔に付いた土を払うのも忘れて駆け寄って来ます。央山君を初めとする他の内野陣も少し遅れて、私に向って走っています。みんなまるで、甲子園で優勝した高校球児のように笑顔が弾けています。

 伊都原君なんか目を真っ赤にして、(こぼ)れそうな涙を必死で堪えています。

 おい、おい君たち。やっと八回が終ったところですよ。あと一回があるんですよ。まだ、試合は続いているんですよ。

 勝ったように喜びを爆発させるチームメイトをよそに、マウンドでひとり私は、薄氷を踏むような八回の攻防を無失点で切抜けてことに精も魂も尽き果てていました。

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