第一章 キリニスの少女 1
石畳の道とその両側に並ぶレンガ仕立ての建物。だいたいが三階か四階建てで、美観もよく整っている。
道を歩く人たちもよく洗練されていた。もちろん個人差はあるが、ほとんどの人の肌色は白く、顔の彫りは深い。髪の色は金、銀、黒、赤と様々だ。
そんな人たちの中を、ひとりの少女が走る一歩手前の速さで歩いてくる。くすんだ金髪で、顔には消えかかったそばかすが薄く残っている。
だが彼女の一番の特徴は、水色の瞳にあふれる生気そのものだった。自分自身でも持て余しているのではないかというその生気は、律動的な歩調からも見て取れる。
西方の島国キリニスの首都ランブルが、彼女ボニー・ウェントリーが、十七歳の少女にしてはめずらしいパンツルックで食料品を詰めた紙袋を持ちながら歩いている場所だった。東方の央華大陸の内乱が終わって、二年の月日が経っている。
ボニーはやや歩調を緩めると、ある建物に入っていった。三階建てであまり新しくはないが頑丈そうな造りをしている。「新緑荘」がその建物の名前で、要するにアパートだった。しかしここはボニーの住まいではない。
ボニーはそのまま階段を昇り、二階の一室――二〇二号室――の前で合い鍵を取り出し、鍵を開けると部屋に入っていった。
部屋数はふたつ。その他にキッチンとダイニングがある。ボニーはダイニングの、古いが頑丈そうなテーブルに食料品の袋を置くと、ひとつめの部屋のドアを開けた。
そこは書斎だった。あらゆる本が積まれる中にデスクが置いてある。その上にも本が積まれているが真ん中にはスペースがあって、このデスクの持ち主が書き物をすることを物語っている。
「よし」
部屋の中を見てボニーはひとつうなずくと、今度は隣の部屋のドアを開けた。
そこにも本が乱立していたが、さっきの部屋に比べるとはるかに少ない。そしてデスクの代わりにベッドが置かれていた。つまりここは、あまりそうは見えないが一応寝室なのだ。
そしてベッドにはひとりの青年が眠っている。この部屋の主人でだった。だが、ボニーはべつに主人に対しても礼など守らなかった。
「ほら、コウ! とっとと起きなさい! もうすぐ昼食の時間よ!」
そう怒鳴ってシーツをひっぺがす。惰眠をむさぼっている人間にとっては鬼の諸行に等しい。当然コウと呼ばれた青年も唸りながら抗議した。
「頼むよ、ボニー。今日はちゃんとベッドで寝てるだろ」
「そんなの当たり前なの! いつもいつもデスクで突っ伏して眠っちゃうんだから。風邪でもひいたらどうするの。あたし知らないわよ!」
「う~ん、そう言われると弱いけど、今日は塾もない日だし、もう少し寝てても……」
「だーめ、朝起きて夜寝るのが正しい人の生き方なんだから、さっさと起きなさい! さっきも言ったでしょ、もうお昼ごはんの時間なんだから」
「じゃあ、もう朝じゃないわけだな。それなら人として正しく生きるために、明日の朝まで寝てよう……」
「コウ!」
こういう場合、男が女の子に勝てる要素はほとんどない。二分後、少し寝癖のついた漆黒の髪を振り、髪と同じ色をした瞳ををややうつろにして、コウはダイニングへ出てきた。
リュウ・コウは東方の青年だった。リュウが姓で、コウが名である。年齢はボニーより十一年上の二十八歳だったが、少なくともボニーには年長者あつかいしてもらっていない。
身長は東方人にしては高い方で、キリニスの青年の平均に等しい。ハンサムと言っていい顔立ちをしているのに、どこかしらぼうっとした印象があって、若い女の子からはあまりそうは見てもらえていなかった。だからボニーが彼の世話を焼くのは、べつに彼の色香や容姿に魅かれたせいではない。
「ほら、とっとと顔を洗ってきなさい」
「は~い」
ぼーっとした青年は、ぼーっとしたまま洗面所へ向かう。
その間にボニーはキッチンで朝昼兼用の食事を作り出した。
スクランブルエッグ、温野菜のスープ、炒めたソーセージ、そしてパン。さほど独創性があるわけではないが、キッチンにたちこめるに匂いは、昨日の昼から食事を取ってないコウには充分に刺激的だった。
「やあ、ありがとありがと。ボニーにはいつも世話になっちゃって悪いなあ」
顔を洗ってすっきりして洗面所から帰ってきたコウは、両手を合わせる彼の故郷の作法で礼を言った。
「そう思うなら、あたしが言うようにもうちょっとちゃんとした生活したらどうなの? 先生がこんなんじゃ、生徒たちがかわいそうよ」
「そこはそれ、おれは外面がいいから」
「自慢にならん。さ、とにかくさっさと食べちゃって」
「はい、いただきまーす!」
量としては一人半前はある料理を、コウは若者らしい食欲でたいらげはじめた。最初から一人半前の食事を作ってあるあたりがボニーもよくわかってるということだろう。
コウとボニーが知り合ったのは約一年前。もっとも間に一人、ボニーの祖母が入っている。
一年前のある日、ボニーの祖母が所用でキリニス最大の港町ロンバに出かけたとき、ひったくりにバッグを取られそうになったところを、偶然通りかかった旅行者に助けてもらったのだ。
その旅行者はまだ若く、内戦が終わったばかりの央華大陸からやってきたということで、しかし見事なキリニス語を話した。
「ここに来るまでの旅で覚えちゃったんですよ」
と笑う青年がキリニスにしばらく腰を落ち着けることと、まだどこに落ち着くか決めてないことを知るとボニーの祖母は、青年リュウ・コウを自分の住んでるランブルへ誘った。
「近くに知り合いがいた方が心強いだろう? それに私に恩返しもさせておくれ」
という老女の言葉に生まれ故郷の「孝」や「礼」の精神をくすぐられたコウは、素直にランブルへ向かうことにしたのである。
だが祖母の恩返しを実際におこなわされたのがボニーだった。
「というわけでボニー、あなたはこれからこの人のお世話をしなさい」
「なにが『というわけ』なのか全然わからないわよ、おばあちゃん!」
「わからない娘だね、お前は大事なおばあちゃんが助けてもらって、その恩を返そうとも思わないのかね。いったいいつからそんな薄情な子になったんだろうねえ」
「あたしが言ってるのは、そういうことは本人がお礼をすればいいんじゃないのってことなの!」
「祖母の恩は孫のもの、孫の恩は孫のものって、昔から言うじゃないか」
「おばあちゃん、そういうのは剽窃っていうのよ」
「なにかねえ、口ばっかり達者になって。キリニスに本物のレディはもういないのかねえ。私の孫だけは違うと思ってたのに……」
「あのね……」
「ああそうかい、それならもういいさ。死んだら必ず毎晩お前の枕元に立ってやる。不肖の孫をあの世から教育しなおしてやるからね」
「……わかった。わかったから、死んだら直接天国へ行って、孫の手をこれ以上わずらわせないでね」
一向に死の気配がやってこない口が達者な祖母に、ボニーはあきらめて白旗を掲げた。実際、祖母の恩人に礼をすることに否やは無いし、会ってみたコウは変人だが悪人ではなさそうで、しかもボニーの性格上、放っておけないタイプでもあったのだ。
「今日は授業あるの? コウ」
「いや、さっきも言ったけど休み。今日は仕事が大変で来られないって人が多いみたいだから、臨時休講だ」
コウのランブルでの生業は私塾経営である。といっても学校の延長のようなものではなく、趣味として学問を楽しむ、あるいはまったく興味のない人を対象にしているもので、茶飲み話に近い雰囲気がある。やってくる生徒も、近所の八百屋の親父やパン屋のおばさん、元教師のご隠居、学校帰りによって来る学生など、様々な種類や年代にあふれている。場所も本格的な教室などではなく、空店舗を格安で借り、そこに椅子を並べて、それこそ茶を飲みながら、あれやこれやと話をしているだけなのだ。
だがこのような趣味の延長の仕事だけで生活が成り立つかといえば現実として難しい。それでもコウは困窮しているようには見えず、どうやら彼は最初からかなりの財産や資産を持っているらしい。そのことをボニーも薄々感じているが、他人の財布の中身を詮索するような真似は性に合わないため、あまり気にしないようにしていた。
「どうやら旬のボンボンみたいね」
という程度がボニーの推測だった。
旬は二年前に建国した央華大陸の新帝国の名である。
コウの授業の内容は主に歴史である。最初、外国人、それも東洋人のコウが自国の歴史を語ることに不快感を持っていた人たちもいたが、コウは知識欲が旺盛で、またランブルに限らず様々な国の歴史についてよく知っており、それらの比較や関係を、おもしろおかしく講釈するのも得意であり、外国人であることが返ってよい方向に受け止められた。
「それにしてもあんた、ほんとになんでも知ってるわよねえ。感心しちゃうわ」
ボニーが感心しているのは真実だが、どこかあきれたように聞こえるのは、コウの知識量が本当に尋常ではないからだ。故郷からキリニスにやってくるまでの一年と、このランブルでの一年で、キリニス語をほとんど完璧に覚えてしまったことなど瑣末的なことで、それどころかキリニスの歴史や風俗、政治や経済など、生まれてからずっとキリニスにいる人間でも知らないようなことを本当によく知っていた。実はボニーには明かしていないが、大陸全土の国についても同程度の知識がコウにはある。
が、そんな頭脳を持ってるとは到底思えないほどのほほんとしている青年は、スクランブルエッグをフォークですくいながら、しれっと言った。
「そんなの新聞読めばだいたいわかるじゃない。あと本とか。もちろんそれだけじゃ足りないけど、そこはいろいろ他の方法で確認したり、類推したりすればね」
「ま、あんたにとってはそうなんでしょうけどね。普通の人はもうちょっと覚えが悪かったり理解が及ばなかったりするのよ」
ボニーが言うのは負け惜しみに聞こえなくもないが、ため息をつきたくなる真の理由は、この青年が自分の才能を死蔵しているのがもどかしいためである。
「あんたさあ…何度も言うけど、下町の先生なんかやってていいの? あんただったら、もっとこう、おっきなことができるんじゃない? 若いんだからさ、なんていうのか、血が騒ぐとかないの?」
「ない」
パンをちぎりながらボニーがぶちぶち言うことに、スープを飲み干したコウはスッパリと答え、ボニーはまた小さくため息をつく。
この話題もこの一年ですでに何度目かで、コウの答えもそのたびに同じだった。
「いっつも言ってるだろ。おれはいま理想の生活を送ってるんだ。このまま一生こうして生きていたいくらいだよ」
「……ま、それはそれで悪くないし、あたしがこんなこと言うのはおせっかいだってわかっちゃいるんだけどさ…」
要するに、ボニーとしては自分の「若さ」を持て余しているのだ。彼女にももちろん「お嫁さんになりたい」という類の夢はあるのだが、それと同時に、もっと社会においてなにかをやってみたいという気持ちもあった。コウを見ていると自分のそういう部分がうずいて仕方がなく、その感情がコウへの愚痴に似た忠告になってしまうのだ。
コウはそのことをなんとなく感じ取っており、にやりと笑うと、これまでと少し違うことを言った。
「ま、おれだってなにもしてこなかったわけじゃないさ。故郷じゃそれなりにいろいろ、世間的にすごいって言われることだってやってきたよ」
「……ホントにぃ?」
その才能の多彩さから散々コウの尻を叩くようなことを言いつつも、またコウの知識量であればそういうこともできるだろうと信じてはいても、いまのやる気のなさそうな彼を見ていると、なんとなく嘘っぽく聞こえてしまうボニーであり、そんな彼女に少し不本意そうな顔をしてコウは続けた。
「ホントだよ。それこそ歴史に残るような大事業さ。いつかランブルの教科書にも載るかもしれない」
うんうん、とうなずきながら語るコウだが、ここまで言われるとボニーとしてもまともに聞く気がなくなった。
「はいはい、それじゃその時はランブルの中学生や高校生に恨まれるのね。あたしもコーダム王の事績を覚えるのに、ものすんごく苦労したんだから。落第点ギリギリで、いまでもコーダム陛下には文句を言いたいんだからさ」
二人ともすべて食べ終えたのを見て立ち上がり、食器を重ねながら、ボニーはコウをあしらう。
コーダム王とは、キリニス史上、外交や内政において最も変節をくり返した暗君で、その事績を追うだけでも相当な苦労が必要だった。同年の2月と9月でまったく正反対な条約を結んだり、その一年後にまた違う事をしていたりと、それだけで学生にとっては年号を覚えるのが大変だったのに、ボニーの中学校の歴史教師は、このコーダム王の事績こそがキリニスの歴史の転換点の一つであるという史観を持っていたため、テストにこと細かに彼の問題を出題していたのだ。そのせいで彼女を含めた学生たちは、王の悪政に苦しめられた臣民たちと違う理由でこの王のことを恨んでいた。
それを知るコウは苦笑したが、それでも最後に笑ってこううそぶいた。
「いやいや、おれの名前は教科書には載らないんじゃないかな。載るとすればおれの友だちの方だ。おれはあいつの事業を手伝っただけだから。だから恨まれるとしたらあいつだね」