【第六章】ー狂界ー
入軍してから早くも半年が過ぎた。
その頃の波木秋透は……。
急成長を続ける彼の下に一つの指令が下りた。
明峰秀静、
天野宮詩帆、
紅月悠、
一色和真と共に向かった先とは___!?
鏡行禁忌軍極東管轄部基地。
地上一階、第一訓練場。
そこでは二つの人影が交互に刀を振り下ろし、打ち合いをしている。
甲高い衝撃音と、床を蹴る地響きが室内を満たしていた。
そんな訓練場内の入り口のすぐ傍には、また二人の男女が並んで立ち、戦況を見守っている。
男女二人とは、悠と詩帆の事である。
悠は腕を組み、目の前で繰り広げられている攻防を目で追いながら口を開いた。
「いや~、あの秀静と互角に戦り合うとは……。秋透君って訓練始めてからまだ数ヵ月だよね?」
「その筈です。今日が五月二十九日なので…半年を少し過ぎたくらいですね」
「う~わ。彼の成長速度異常でしょ」
「あはは。まぁ、そう思いますよね。私もそう思いますし」
そんな二人の会話を他所に、秋透と秀静の戦闘は白熱していた。
秋透が床を蹴り、上から刀身の白い日本刀を振り下ろし、秀静に斬り掛かる。
対して秀静は右手に持つ黒刀を掲げ、左手で押さえてそれを防ぐ。
斬撃を防がれ、半ば身体を宙に浮かせたままの秋透。
白刀を振り払い、秀静は秋透の頭上に向けて刀を振り下ろす。
秋透は床に着地すると同時に後方へと跳び、間一髪で秀静の斬撃を避ける。
差はあれど、両者とも呼吸が乱れ、肩を上下させている。
頬には汗が流れ、刀を提げている手にも汗が滲む。
当然だ。
何せこの攻防戦は、かれこれ三十分は続いているのだ。
疲労しない方がおかしい。
しかし、戦闘は続く。
離れた間合いを先に詰めたのは秀静であった。
黒刀の刃を秋透へ向けたまま、下段の構えを取る。
刃先が床に着くギリギリまで腰を落とし、床を蹴る。
雷の如く一瞬で距離を詰めると、秀静は刀を振り上げた。
その直後。
勝敗は決した。
それは刹那の出来事。
ほんの小さな、経験の差が生んだ実力差。
だがそれは、秋透にとっては大きな壁であった。
下段から斜めに斬り上げられた黒刀は、秋透が放った咄嗟の斬撃で相殺された。
しかし、”咄嗟”故に起こり得たバランスの崩れ、一瞬の隙を、秀静は見逃さなかったのだ。
刀を弾かれた次の瞬間。
秀静は袖の内側に隠し持っていた呪符を滑らせ、手に取り、秋透の胴体へ投げ付けた。
「爆」
そう唱えた秀静の声を半ば掻き消すようなタイミングで呪符は起爆し、秋透を壁際まで吹き飛ばした。
「痛っ…てぇ……」
呻きながらも腕に力を込める秋透。
しかし立ち上がれる程の余力がなく、壁にもたれ掛かり、その場にへたり込んだ。
既に《武器化》は解けている。
一方秀静は刀を床に突き立て、やはり座り込んでいる。
二人とも明らかな疲労の色が浮かんでいる。
入り口に並んで立ち、観戦していた悠と詩帆は、戦闘終了を視認した後、悠は秀静に、詩帆は秋透の下へと歩み寄っていった。
悠が背後に立っている事に気が付いた秀静は、座り込んだまま《武器化》を解くと、振り返り、悠の方を見る。
「や、秀静。お疲れ様」
「あ? 別に疲れちゃいねぇよ」
「はは。嘘吐くならもっとマシな嘘吐きなよ」
肩が上下し、荒い呼吸を繰り返している秀静の姿を見下ろして苦笑する悠。
秀静は自嘲するようにフッ、と笑みを漏らす。
悠の伸ばした手に掴まり立ち上がると、未だ座り込んだままの秋透を見遣る。
詩帆が正面にしゃがみ込み、何やら談笑しているように見受けられるが、内容までは流石に聞き取れない。
しかし”明峰”や”馬鹿力”などという、やや勘に障る単語が時折耳に届いていた。
「……そういや、お前らはここに何のようだ?」
「ん? あ~、特に用はないんだけど……。いや、あるな……用事」
「どっちだよ」
秀静は眉間に皺を寄せてそう突っ込むが、悠は「ははっ」と笑って、続ける。
「今朝さ、鏡界調査隊が出動したらしい。もう聞いてる?」
「……いや? それで?」
「何でも、君と詩帆ちゃんが報告した内容……。上層部で結構モメてるみたいだよ」
ここ最近。
秀静は報告をする程の任務は受けていない。
その事は悠も知っている筈だった。
その中で記憶にある、最も新しい報告書。
その上詩帆ととなると、一つしか思い当たらない。
「……秋透の件か?」
「と、一緒に出したヤツ」
「……”鏡界が荒れる”件か?」
しかし悠はその問いに対して頷く事も、言葉を返す事もしなかった。
ただただ、秀静から視線だけは逸らさなかったが。
「……どう思う?」
その悠の問いに、秀静はすぐには答えられなかった。
短い間考え込んでから、口を開く。
「実際キャスターがそう言った。それにその時の奴は本気だったと天野宮は言った。……おまけに調査隊からの妙な報告も少なくない」
「何かの前触れに思える?」
「ああ。少なくとも、俺はそう考える」
「だよね。うん。僕もどう意見だよ。……それにきっと、上層部も……」
そう言って悠は肩を竦めて見せた。
「鏡界が荒れればこっちの世界も荒れる。均衡を崩せば厄災は間逃れない、か。……僕はこの件、何だかとても嫌な予感がするね……」
「……確証は?」
「ない。けど、何となく。秀静もそう思わないかい?」
「……まぁ、上層部も同じ考えだからモメてんだろうな」
「ははっ。言えてる」
軽口。
そんな程度の二人の会話。
そうなれば、必然と自分達は最前線へと誘われる事になる。
キャスターは人間とは比べ物にならない身体能力を誇る。
また、コネクターはノーマルキャスターを殺さないし、殺せない。
キャスターが消えれば、対となる誰かも消えてしまう。
例えキャスターと戦闘になり、例え相手を殺してしまったとしても罪はない。
当人を責める者も居ないだろう。
ギリギリの戦場で、自身を守る為の行為なのだから。
しかし中には、そう割り切れない者も少なからず居る。
キャスターを殺せば誰かも死ぬ。
その理を承知した上でのその行為は、果たして人を殺める行為にはならないのか?
そう考えてしまう点も、コネクターが不利になる一因なのだ。
そしてそれら全てを、軍の者は皆重々理解している。
だから出来れば、コネクターとキャスターの全面戦争など、誰も望まない。
それは秀静も悠も同じだった。
しかし、現状は最悪と言っても良い。
「調査隊の帰投予定は今日の夕方だってさ。……予感が当たらなければ良いけどね」
「まったくだな」
「何が”まったく”なのですか?」
秀静と悠の会話に割り込んだのは詩帆であった。
どうやらいつの間にか寄ってきていたようだ。
詩帆の隣には秋透も居る。
いつも通りの笑みを湛えて傍に立つ詩帆を見て、悠が答える。
「何でもないよ。ね? 秀静」
「俺に振んな」
「はは。つれないな~、君は」
「?」
話をあやふやに流され、やや不満げな表情になる詩帆。
だがやはり悠は笑みとともにそれを流す。
話す気はないようだ。
それに対して詩帆は更に不貞腐れたように唇を尖らせたが、「まぁ、良いです」と微笑んだ。
今日の午前訓練はこれで終了。
一同訓練場を後にーーしようとした瞬間。
警報のようなアナウンスが室内を満たした。
恐らくは基地内全域に放送されているのだろう。
次いで音声が流された。
『明峰秀静少佐。紅月悠少佐。天野宮詩帆中尉。至急特務室への出頭を願います。繰り返しますーー……』
内容は以上だった。
何て事のない、ただの召集伝令。……に、他の軍員からすれば思えるだろう。
確かに、この伝令は至って普通の伝令だった。
”特務室へ来い”という、元帥から部下への、場合によっては息子達への呼び出し。
しかし、タイミングが悪過ぎた。
鏡界に対する嫌疑。
妙な調査報告。
夕刻帰投予定の調査隊の出動。
最悪の予感。
これ程までに最悪のシナリオが、果たして偶然に出揃うものだろうか。
「……嫌な予感的中……?」
そう口を開いたのは悠だ。
軽口とも取れるその発言。
口元には失笑じみた苦笑が浮かんでいる。
それでも目は一切笑っておらず、むしろ迫力にも似た眼光を宿していた。
そして表情を堅くしていたのは、悠だけではない。
秀静も、つい数分前まで悠と会話をしていたのだ。
事の緊急性は承知している。
また、詩帆も《三大名家》の一員。それも次期当主候補なのだ。
先程までの秀静と悠の会話を聞いていなくとも、現状における最悪の展開を考えるのはそう難しい事ではない。
三人は互いを見交わすと、より一層真剣な顔付きになり、代表して秀静が口を開いた。
「……行くぞ」
悠と詩帆は静かに、小さく頷いて応えた。
* * *
特務室へと向かう薄暗い廊下。
会話はなく、ただ三人の足音のみが耳に届く。
扉の前に立つと、秀静が片手で扉を開いた。
室内には三人の元帥、もとい各自の親が椅子に腰掛けている。
真っ先に話し出したのは咲儀だった。
「よく来たな、秀静。新人育成に尽力しているようだな?」
「ああ。まぁ、ボチボチだ」
「やあ、悠。相変わらず秀静君と仲が良いみたいだね?」
「お陰様で。父上も相変わらず忙しいようですね」
「……久し振りですね、詩帆。調子はどうですか?」
「大した事はございません。お母様のお耳に入れるような事はないかと」
「そう……」
天野宮家のみ空気が悪い。
笑顔を顔に張り付けた詩帆だったが、言葉節々には棘が立っている。
悠が詩帆を宥め、時和が一つ咳払いをすると、場の空気は一気に緊張したのが分かる。
一同の視線が集中し、時和が話し出した。
「……本日の早朝に出動した調査隊からの第一回の伝令報告が届いた。……出動したサポーター、全十五名……全滅との事だ」
”全滅”
その一言を聞いた途端、元帥達は皆目を瞑り、秀静、悠、詩帆の三人は目を見開いた。
理由は単純。
有り得ないから。
時和は”サポーター、全十五名”と言った。
通常、少しでも危険と見なされた場合、例え調査であってもコネクターが最低一人は同行する規則になっている。
言い換えれば、それはつまり、今回の調査は危険とは判断されなかったという事だ。
例えそれがキャスターやビープスが生息する鏡界であったとしても、全滅など過去の報告にはない。……筈だった。
「……事前確認は、不手際なく行われたのですか……?」
そう問うたのは悠である。
重苦しい、普段とは似付かない、低く、冷たい声音で。
”事前確認”とは、文字通り調査前の確認の事である。
調査に参加するサポーターの体調、訓練状況、実力、協調性、隊員の関係性など、それら全て。
それに加え、調査対象地域周辺の状況や、その場の安全性。
これら全てを徹底して調べた上で、調査隊を送るのだ。
そして年々、その性能は上昇しつつある。
故に、ここ最近の調査では殉職者はあれど、一部隊全滅という惨劇は起きていなかったのだ。
悠の問いに答えたのは、真剣な表情で正面に向き合っている時和だった。
「勿論したさ。その結果、出動させた部隊に問題はなかった。それは報告をしてきたサポーターにも確認したから間違いない。……つまり」
「鏡界で……何かが変化した、と?」
「もしくは今現在も、変化し続けている可能性がある」
最悪のシナリオが、全員の頭に浮かぶ。
”鏡界の変化”、あるいは”キャスターの変化”。
「それを調査する部隊を送りたいと考えている」
「……いつの予定で?」
「今日だ」
「「「!?」」」
時和のあまりに急過ぎる発言に同様を隠せない三人。
驚きのあまり口を開いたのは詩帆だった。
「何の対策も講じないまま人間であるサポーターを戦地へ、いえ、死地へ送るおつもりですか!?」
声を荒げて元帥三人に食って掛かる詩帆。
その詩帆に対して口を開いたのは詩帆の母、天野宮帆春であった。
「いいえ。第二調査隊は総員五名のコネクターのみで出動させます。貴方達三人と他二名で行ってください」
「……”他二名”というのは?」
「人選は任せます。三人で話し合って決めてください」
その帆春の言葉に三人は顔を見合わせ、悠と詩帆はふっ、と笑い、頷いた。
秀静もそんな二人に苦笑も漏らし、言った。
「では一色和真中尉と、波木秋透二等兵を同行させます」
「波木秋透……新入軍兵ではなかったか?」
「そうですが」
「死なせる気か?」
そう、咲儀が言った。
しかし秀静ははふっ、と笑って、続ける。
「死なせませんよ。何せ俺が居るんでね」
「ハァ、まったくお前は……。良いだろう。だが二等兵では鏡界への入界は認められない」
「存じております」
「《特務二等兵》と名乗らせてやれ」
「感謝します」
時和、帆春は呆れたという顔で明峰義親子の会話を聞いていたが、いつもの事だ。
「では二時間後に出頭します」
「よし。それまでは十分に休め。ミーティングが必要だろう。第一会議室の利用申請と他二人の呼び出しはしておくから、向かいなさい」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
その会話を最後に、三人は一礼してから早々に退出し、第一会議室へと足を運んだ。
* * *
ここは咲儀に指定された第一会議室の室内。
そしてその室内は、物音一つしない静寂に包まれていた。
秀静は腕を組んで壁にもたれている。
悠と詩帆は長テーブルの椅子に腰を落ち着かせ、それぞれが考え込んでいた。
音を立てて扉が開くと、三人とも視線を向け、入室者二人を見遣った。
「来んのが遅ぇよ」
「はぁ? 急に呼び出しておいてそりゃないだろ」
「秋透の言う通りだぞ、秀静。本来ならそちらから出向くべき所だ」
「はは。ごめん、和真。ちょっと今回の案件は外で言う訳にもいかない内容だったからさ」
無愛想な秀静の言い草にやや不満の色を浮かべる秋透と和真。
悠が代わりに謝罪し、手短に理由を述べる。
すると和真は不意に真剣身を帯びた声音で訊いてきた。
「……何かあったのか?」
その問いに悠は苦笑しつつ、《三元帥》からの報告をかいつまんで説明した。
秋透と和真の表情は一変し、驚きと混乱の入り交じった顔をしている。
「調査隊…全滅って……。何故……」
「それを調べるのが、今回の僕等の任務だよ、和真」
「……一つ聞きたい」
「うん?」
「何故秋透に同行要請を出した? この任務が困難を極めるであろう事が、お前等三人に分からん筈はなかろう?」
もっともな指摘だと思う。
入軍してから間もなく、実践経験がないどころか訓練期間は半年程度。
そんな秋透を、どうしてわざわざメンバーに選んだのか。
そしてその疑問に答えたのは秀静だった。
「こいつは俺が半年間相手してやってたんだ。言いたくないが、実力はある。ここに居るメンバーとの相性も悪くない。これだけの条件が揃った人材が他に居るか?」
「おまけに明峰元帥からの許可も得たしね。あ、秋透君。君ね、これから《特務二等兵》と名乗るようにってさ」
「え!? ……何ですか、それ」
「昇進ですって。良かったですね、秋透」
和気あいあいと話す五人。
皆緊張を紛らわそうと、笑っているのだ。
任務の事を、極力考えないように。
* * *
ーー出発直前。鏡路室。
「……あと十分、か……」
和真がそう呟き、全員が視線を絡める。
秋透は初めて着用した制服にまだ慣れない様子で裾を引っ張っている。
その様子を秀静が愉快げに、言い換えれば小馬鹿にしつつ眺めていた。
残り五分。
皆それぞれのコートを羽織り、出頭の準備をしている。
「秋透。お前ももうコート着とけ。あと、鏡界入る前に《武器化》させとけ」
「え、俺の刀、鞘ないんだけど……?」
「……じゃあ、気ぃ張ってろ」
言い終わると秀静は自身もコートを羽織り、《武器化》した黒刀を腰に提げた。
全員が着用しているコートは、どちらかというとマントのような形状をしているものだ。
軍で開発された配給品の一つでもある。
形は立て襟のもの、フード付きのもの、丈の短いものから長いものと、使用者の好みで大分分かれている。
実際この場に居るメンバーのものも、若干ずつ違うものだ。
秀静はコートの内ポケットから時計を取り出し、言った。
「……二時半。時間だ、行くぞ」
言い終えると同時に秀静は身を翻し、鏡の中へと跳ぶ。
次いで和真、悠、詩帆、秋透と続く。
鏡の表面に波紋が広がり、五人の姿が中へと消えていった。
* * *
眼前に広がるのは荒廃した世界。
音のない、何もない場所。
静かに吹く風と、微かな土埃が辺りを舞う。
「ここが、鏡界……」
『……かしい』
「アキト……?」
頭の中に声が響く。
『懐かしい……』
「懐かしい? ここがか?」
「秋透?」
「!」
突然に声を掛けられ、秋透は思わず後ずさってしまった。
詩帆が眉を潜めて見上げてきている。
「どうかしましたか? ”アキト”と聞こえましたが……」
「あ、ああ、うん。アキトが、何か言ってて……」
秀静、悠、和真も振り向いたまま足を止めている。
「確かに、初めて鏡界に来たコネクターでたまに居るよ。まぁ、ハルカの意識レベルでは話し掛けてこられないから、僕にはよく分からないけどね」
苦笑しながら悠がそんな事を言った。
すると秀静が若干怒ったように声を上げる。
「おい、お前ら置いてくぞ。それと、秋透。死にたくなければ下らん事で集中力を切らすな。ここは既に鏡界の中だという事を忘れるな」
「わ、分かった。悪い」
「良し。進むぞ」
その後、様々な場所を見て回った。
しかしやはり生き物の気配はなく、入り口と変わる事は何もない。
荒れ果てた場所。しかし、何かが引っ掛かる。
「気付いていますか?」
「!?」
その声掛けは詩帆からだった。
秋透の少し後ろを歩いていた筈だが、いつの間にか並んでいたようだ。
「鏡界と現世は対なんです。……あの辺り、見覚えありません?」
「?」
いまいち理解し難い詩帆の言葉。
しかし詩帆が指差した方向を見遣ると、その意図が分かった。
「渋谷の……スクランブル交差点……?」
「正解。ここは丁度、渋谷の裏側のようですね」
「おい、お前等。集中しろって言ってんだろっ!」
まるでコントのような会話。
だが先頭を歩く悠と和真は振り返らなかった。
……振り返、れなかった。
驚愕の光景に、言葉が出ずに立ち尽くしていた。
「……秀静」
やっとの思いで声を発した悠であったが、表情は凍り付いていた。
そしてその心情は、発した声音にも現れていたのだろう。
悠の冷ややかな低い声に何かを察した秀静が、急いで駆け寄っていく。
「……っ、これは……。本格的にヤバイ事になりそうだな……」
秀静の声からも、かなりの動揺が窺える。
未だ理解の追い付かない秋透は、並び立つ秀静、悠、和真の下へと足を進めた。
秋透と詩帆に気が付いた和真が数歩下がり、場所を開けてくれたお陰で三人の先が崖だと分かった。
崖の手前に立ち、初めに視界に映ったのはーー赤だった。
一面に広がる浅黒い赤。
夥しい量の赤い液体が地面を染め上げている。
その中に点々と、謎の塊がその液体に浸かっているのが見える。
目を見開く秋透に小さく、呻くように一言。
「どうやら、ここが死地……。任務対象のようです……」
と、詩帆が言った。
その言葉を聞きながらも、視線を巡らせる秋透。
一瞬身体が強張った。
その目に映ったものはーー人の腕であった。
そこでようやく、今まで目にしていたものが人の死体、それも切断され、既に肉塊と化した人の死体だと理解した。
込み上げる吐き気を必死に堪えたが、秋透はもう見ていられなかった。
背を向けても、その光景が脳裏に焼き付いて離れない。
身体を折って踞る秋透を見下ろし、秀静は言った。
「秋透、お前はもう帰るか?」
「!?」
それは衝撃の一言だった。
戦力外通告。
そう思わせる秀静の言葉。
しかし意図がそうではないという事が、次の言葉で分かった。
「苦しいか? 人の死を目の当たりにするのは。だが、それが戦場なんだ。そしてそれはお前が選んだ道だ。この惨状を目にしてもなお、コネクターとしての道を生きると言うのならば付いてこい。……無理強いはしない」
「お、俺は……」
秋透は秀静の目を直視出来なかった。
動揺で視線が定まらない。
無意識の内に、手足が震えていた。
ここに、軍に入ると決心した時に、自分自身に誓った筈だった。
コネクターとして生き、大切な人を守ると。
幸せに包まれた穏やかな生活ではなく、生死の境、命懸けの戦場を選んだのは紛れもなく、自分自身だ。
思考を閉ざしたくなる程の、恐怖。
しかしその中で、一つ思い出した。
コネクターになったあの日、もう元には戻れないと思った。
そう思うと、どうしようもない感情が溢れ出しそうになって、抑え込む為に、秋透は人間の頃の記憶に蓋をした。
蓋をして、見ない振りをした。
弱さを、隠した。
そしてその隠した感情を鎮めてくれたのが、詩帆だった。
だから秋透は、絶対に詩帆を守ろうと決めたのだ。
詩帆だけではない。
秀静も、悠も、和真も。
新しい仲間を守る為に、秋透は半年間、毎日訓練を続けてきたのだ。
立ち上がり、秋透は秀静の正面に立った。
その目には、先程までとは明らかに違う、強い意思が感じられた。
秀静は秋透と向き合い、言葉はなくとも、確かに秋透の覚悟を受け取り、薄く微笑んだ。
身を翻し、後方に立つ悠を見遣ると、秀静は言った。
「珍しくお前の予想が外れたな、悠?」
「外れてないよ。だって僕は最後には言いきるって思ってたもん。それを言うなら秀静の方が外れたと言うべきでしょう」
「は? どこが」
「君、”秋透の奴は一度は逃げ出す”とか言ってたじゃん」
「結論が当たってりゃ良いんだよ」
「それ言ったら賭けになんないじゃん。二人とも同じ結論ってさぁ」
「うるせぇなぁ。もう良いだろ、んな事」
「え~、それ逆ギレでしょう、秀静」
ギャアギャアと口論をする二人の傍ら。
秋透、詩帆、和真も話をしていた。
「あの二人、秋透が出ていかない方に賭けてたんですね。ゲームにならないですけど、私は内心ホッとしました。ありがとう、秋透。残ってくれて」
「うむ。これで君の心もようやく固まっただろうしな」
これが、仲間というものなのだろうか。
気恥ずかしさも勿論あって、それでもはやり、何処か暖かかった。
全員が落ち着きを取り戻し、再び出発しようとしたーーその時。
何処からか何かが降ってきた。
全部で三つ。
反射的に秀静は抜刀し、全てを斬り落とした。
「矢!?」
降ってきたものの正体は三本の矢。
しかしそれらはすぐに消えてしまった。
「総員即時抜刀! 周囲への警戒を怠るな!!」
一斉に抜刀、もとい《武器化》をする。
ピンと張り詰めた空気が痛い。
全員動かず、微かな物音に耳をそばだてる。
「……悠。右斜め後方に一匹」
「了解、左右に走ろう。詩帆ちゃん達はここで待機」
「了解しました。ご武運を」
小声でそう言葉を交わすと、秀静と悠は左右に分かれて走り出した。
そしてその瞬間を狙っていたかのようなタイミングで矢の雨が降り注いだ。
詩帆は黒鎌を、秋透は白刃刀を振り上げたが、そのどちらに当たる事もなく、全ての矢が音を立てて地に落ちた。
目の前にはクナイにも似た黒い暗器を連ねた一本のロープ。
その先端には一際大きな暗器が付いており、矢はそれで弾いたのだろう。
そしてその武器は和真の手に握られている。
更にロープを視線で辿ると、和真の腕に巻き付き、その先。和真の背後には大きく翼を広げた竜が見える。
「あの竜は和真の《力》、《龍尾》が《実体化》した姿です」
「《力》……《実体化》?」
「ええ。もっとも、《実体化》には適正というものが存在しますから、私も明峰隊長もハルちゃんも使えませんが」
「へぇ。俺はどうかな……?」
「さぁ? けどアキトから説明がないって事は、無理なのだと思いますよ?」
にこやかに、それでいてイタズラっぽく微笑む詩帆。
秋透もつられて苦笑した。
そんな中、不意に届いた爆発音。
発生源は恐らく秀静と悠が向かった方向だ。
大気が大きく振動している。
次々と鳴り響く金属音は耳を塞ぎたくなる程の音量だ。
一言も発さず、三人同時に音源に向かって走り出す。
人間ならば有り得ない速さで。
轟音が鳴り響く。
相手の攻撃を間一髪で避けたが、爆風に煽られて身体が宙を舞う。
空中で体勢を立て直し、どうにか着地した。
現在目の前では悠が敵と戦り合っている。
「クソが……っ。あの武器は……」
そう秀静が低く呻いた瞬間。
視界の先に居た悠が体勢を崩し、こちらに吹き飛ばされたのが見えた。
空中で必死に立て直そうとしているが、風圧に負けて動けていない。
恐らく足からの着地は不可能だろう。
そしてそうなれば、再起不能は間逃れない。
戦線離脱を余儀なくされる。
そこまで思考を巡らせると、秀静は悠の身体が向かっている方向へと跳んだ。
悠の背後に回り、腕を掴んで引き寄せる。
そのまま一度地を蹴り、軌道を変えた。
項垂れたまま秀静の腕にもたれ掛かる悠。
相当消耗しているのが分かる。
「動けるか、悠」
「さぁ……どうかな。十分持たせる自信もないよ。それにあの槍は……」
「ああ……」
敵は自分から攻めてくる事は殆どせず、唯一離脱しようとすれば追ってきた。
フード付きのマントを着ている為顔は一切見られないが、手には赤く、異様なまでに光沢を帯びた一本の槍を持っている。
そしてその存在は、過去の”妙な調査報告”の内の一つだ。
またその報告では、調査隊の三分の一が殉職したという。
「あれが報告にあった《神器》だとしたら……かなり面倒だな」
「それって神話とかに出てくる武器? けどそんなものが……」
「可能性は、軍上層部でも考えられていただろ」
「……じゃあこいつが、今回の調査対象か……」
「しかも、もう一匹。弓持った奴も居たろ。あの時の弓も……」
「《神器》の一対、か……」
「あくまで可能性の話だが、もしそうなら厄介だ。だから一旦退くぞ。調査は済んだ。後は撤退する」
「了解。でも、どうするかなぁ……」
視線の先には一匹のキャスター。
実力的に、恐らくは人間に《憑依》した《アブノーマル》のキャスターだろう。
だがやはり、自分からは攻めてこない。
地を蹴り、秀静が敵へと斬り掛かった、その瞬間。
「秀静!!」
「!?」
秀静の頭上を、先程とは比べ物にならない程に大量の矢が襲った。
反応出来ず、覚悟を決めた。
……しかし矢は秀静に当たらず、回りに落ちた。
「《龍尾》」
微かに幼さの残る声が耳に届く。
声の発生源は数十メートル離れた場所。
そこには和真が立っていた。
しかし、秋透と詩帆の姿は見えない。
だが二人を見付ける前に、秀静の背後に弓を構えたキャスターが即座に回り込む。
秀静は身体を回転させ、振り返り様に斬り掛かろうとした。
だが今回も秀静の黒刀ではなく、別の刀が斬り下ろされた。
答申の白い日本刀。
秋透の刀だ。
秋透は一撃目を避けられたのを確認すると、すぐに二撃目を繰り出す。
肉を切断する耳障りな不快音がしたかと思うと、敵キャスターの腕が宙を舞い、赤い血飛沫が辺りに飛び散り、返り血が秋透の頬を濡らした。
それでも秋透の動きは止まらない。
相手が怯んだ隙を逃さず、大降りの水平の斬撃で敵の胴体を斬り裂く。
キャスターは皆、絶命する時にその身体は消え去る。
秋透の倒したキャスターも例外ではなく、黒い煙となって姿を消した。
秋透は暫くの間、消え行くキャスターの亡骸を黙って見詰めていたが、全てが消えると秀静の下へと駆け寄った。
「秀静っ、無事か!?」
「……まぁな。お前、よく躊躇なくキャスターを斬り殺せたな……。キャスター殺せば人間も死ぬんだぞ?」
「ああ、それな。詩帆から言われてたんだよ。”敵は二匹。両方ともアブノーマルキャスターなので、殺しても構いません”って」
「ふぅん。成る程な」
呑気に会話をしている二人の傍ら、少し離れた所では二対一の戦闘が続いている。
しかしそれでも、敵は手強かった。
二人の攻撃を凌ぎつつ、反撃を繰り出してくる。
その上表情は見えないが、動きに鈍りは見られない。
どちらが劣性かは明らかだ。
それでも、状況は悪化する。
秋透と秀静も参戦しようとした瞬間、身の毛がよだつ程の殺気が二人を貫いた。
同時に現れた、複数のキャスターの気配。
秋透、秀静、詩帆、悠、和真の五人を取り囲むように、列を作っている。
「アセロフ」
声を発したのは列に並ぶ一匹のキャスター。
手には気味の悪い、禍々しい一振りの大鎌を携えている。
五人はその声に身構えたが、当人は気にも留めずに、続ける。
「何をダラダラと遊んでいる。《神器》を与えられている身でありながら、たかだか人間二匹に手を焼くとは……。お陰で”ヒエン”が起きてしまったではないか」
その言葉は詩帆、悠が対峙するキャスターに向けられているものだった。
敵キャスターはアセロフという名のようだが、話に出てきたヒエンという者は知らない。
「暇潰しくらい許せよ、クエル。それにどうせヒエンは来ないだろ、この程度の相手じゃな」
「ふむ。まぁ、良いが。手を貸すか?」
「いらねぇよ」
「はは、そう言うと思ったよ。だがお前の意見を聞き入れる気はない、お前ら」
クエルと呼ばれた男キャスターが手を上げると、列になっているキャスター軍は一斉に武器を構える。
「殺れ」
低く冷酷な声が響くとともに、敵軍は五人に襲い掛かってきた。
そこからは乱戦を極めた。
一人を凌げば、また一人が来て戦闘になる。
秋透でなくとも、敵がノーマルかアブノーマルかを見極めるのは困難であった。
殺さない戦闘をしているコネクターである五人は次々に傷を負い、消耗していった。
そんな中、一気に状況が変わる出来事が起きた。
一瞬。
時間が止まったのかと錯覚する程の、出来事。
最も恐れていた事が、起きてしまった。
視線の先には詩帆の姿がある。
しかし、目を見開く彼女の身体は地面から一メートル程宙にあり、胸部を一本の槍が貫いていた。
「カフ……ッ」
彼女の口からか細い声とともに、大量の血が吐き出される。
「詩帆っ!!」
絶叫したのは悠であった。
目の前に居たキャスターを斬り捨て、詩帆の下へと走る。
その途中で詩帆は槍から解放されたが、抜き捨てられた勢いのまま吹き飛んだ。
悠は地面を蹴り、詩帆を両腕で抱えた体勢のまま、廃ビルと思われる建物へと衝突した。
瓦礫の中から出てきた悠の姿は悲惨だった。
額が切れて血が流れ出し、着衣は擦り切れ、所々は血が滲んでいる。
恐らく詩帆にダメージがないよう、受け身も取らずに守ったのだろう。
お陰で悠自身はかなりの重傷を負っている。
「ゲホッ、ゴホッ」
血が逆流したのだろうか。
むせ返ったように血を吐く悠。
しかしそれでも、彼は詩帆を離さなかった。
「詩帆っ、おい!」
呼び方も口調も荒くなっている。
かなり動揺しているようだ。
「目を開けてくれよ、詩帆っ!」
「ハ、ルちゃん……」
薄く、虚ろに詩帆の目が開いた。
しかし焦点が合っていない。……見えていないのだ。
「ハル…ちゃん……?」
「ああ、しっかりしてくれ、詩帆。頼むから……っ」
悠の声は震えていて、最後の方は掠れてしまっている。
なのに詩帆は優しく、穏やかに、しかし心配そうに微笑んだ。
「ケホッ……。ハルちゃんこそ、怪我してるでしょ……?」
「僕の事なんてどうでも良いからっ。ちゃんと意識戻せよ!」
「私は、大丈夫……。平気、だから……」
”大丈夫”と言いながらも、詩帆の顔からは血の気が引いていき、傷口からは絶えず大量の血が流れ出ている。
”大丈夫”何て事も、”平気”何て事も有り得ない。
身体を貫かれているのだ。臓器も壊れているだろう。
次第に軽くなっていく詩帆に、悠は言葉を失った。
「悠!!」
その声は遥か遠くに居る、今なお戦い続けている秀静のものだった。
秀静の声に我に返ると、悠は秀静を見遣った。
「天野宮連れて離脱しろ!!」
「なっ……!?」
「行け、悠! 詩帆を死なせたいのか!!」
「……っ。ーークソッ」
秀静と和真に後押しされ、悠は戦線を離脱した。
逃げる途中追ってきたキャスターを呪符で払い除け、詩帆を背負い、ひたすらに走った。
振り返りたい衝動を、必死に抑え込んで___。
こんにちは、皆さん。
初めてマトモな戦闘シーンがありました【第六章】いかがでしたか?
六章にして初というのも…アレですね……すみませんm(__)m
何はともあれ、楽しんで頂けていたら幸いです。
それでは今後どうなっていくのでしょうか?
これからも宜しくお願いします!




