【第三章】ー転況ー
アキトやペトラとの激戦を終えた波木秋透は、明峰秀静、天野宮詩帆とともに鏡行禁忌軍極東管轄部の基地へと向かった。
軍の内情を知りながら、自分自身の今後について考えを巡らせる秋透。
穏やかな時間を描いた一時。
軍で過ごす秋透は……。
眩しい。
そう思って体に掛かっている布を頭の上まで持ち上げる。
ここは布団の中。
そして現在は六時三十四分。朝だ。
今日の起床予定時刻は七時。起きるにはまだ早い。
眠気の覚めない頭。
二度寝をすべく、目を閉じて身体の力を抜いた……。
* * *
『秋透。おい、もう朝だぞ。起きないのか?』
「…………」
声が聞こえる。
頭の中に聞き慣れた声が響く。アキトの声だ。
『おい、秋透!』
「ん……。分かったよ、アキト。起きる……」
どうやらアキトは起床予定の七時丁度に起こしてくれたようだ。
眠たい目を擦りながらノロノロと布団から這い出ていった秋透。
すぐ横にあるベッドを見遣ると、誰も居ない事を確認して洗面所に向かい、顔を洗う。
冷たい水道水を顔に浴びて、ようやく目が覚めた。
濡れた顔を拭いていると、また頭の中で声がする。
『君は朝弱いんだな。人間とキャスターは同一だと思っていたんだけど……』
「…………」
そおアキトの言葉は大変不本意であった。
何故ならそれは、『俺は朝弱くないのに』という意味が含まれていると、秋透はすぐに察したからだ。
秋透はやや眉を潜めて、
「確かに朝強くはないけど、俺だっていつもは起きられるよ。ただ昨日は色々あったから、よく眠れなかっただけだ」
そう言うとアキトは暫し黙り込んだ。
『昨日は色々あった』というのは、アキトも同じだから。
そう。
昨日は本当に、色々な事が一度に起こりすぎていた。
* * *
ーー昨日のその後。
あの激戦の後、秋透は秀静と詩帆に連れられて当初の目的地へと歩いて向かった。
「私と明峰隊長は元々、秋透を拾ってからすぐに移動を開始し、基地へと繋げてある鏡が用意されている場所に向かう手筈だったんですよ。……大幅にスケジュールアウトしましたが」
などと、歩いている途中に詩帆が説明をしてくれた。
その時にはもう身体の傷はなく、痛みも一切が消えていた。
また、足取りも軽く、全く疲労感がなかった。
恐らくアキトを《憑依》させた為だろうと考えた秋透は、その旨を詩帆に話した。
すると、
「ああ、そうですね。《捕食》、または《憑依》したての時は皆そうですよ。……明日以降、もしくは今日の夜辺りから、急な身体的強化による肉体的疲労感に伴う脱力感が半端なくなりますけど。冗談抜きに動けなくなりますから、覚悟しておいてください」
という嫌な補足説明を有り難く頂戴してしまったのである。
十五分程歩いた所で、目的地の古い教会に到着した。
人気のない荒れた教会はかなり薄気味悪く感じられる。
何でも、この教会の最奥に位置する部屋の鏡を、今回の基地へのルートに選んだのだという。
無人の教会に入り、無言のまま奥へと進んでいく。
数メートル先を颯爽と歩く秀静と詩帆に続いて、秋透も足を進める。
建物内に入ってからも少し歩くと、目の前に重そうな大扉が現れた。
先頭を歩いていた秀静がドアノブに手を伸ば……さずに。
足を振り上げ、身体を回し、回転する勢いを利用して扉を蹴り飛ばした。
扉が四メートル程奥の壁に激突した凄まじい衝撃音に、秋透は思わず耳を塞いだ。
「隊長。一応言いますが、扉は蹴破るものではなく、手で押して開けるものですよ……?」
至極真っ当な詩帆の意見に、顔色一つ変えず、
「どうせこの扉も壊れてんだから、蹴破ろうが斬り刻もうが同じだろ?」
と、さも当然のように一蹴する秀静。
その答えを聞いた詩帆は呆れたように、独り言に近い応答を返した。
「成る程。どちらにするか、内心で迷っていたのですか。斬り刻まなかっただけまだマシですかね」
吹き飛ばされた扉を横目に見ながら室内に入ると、部屋の角に一際目立つ鏡を見付けた。
枠に装飾が施されただけの、シンプルな姿見の鏡。
教会にある備品にしてはやや不似合いな印象を受けるが、本が多く並べられた幅広の本棚も置かれているので、恐らくここの部屋は書斎か何かだったのだろう。
教会の持ち主が一息つき、ついでに外に出る前の身だしなみチェックに使用するには十分な家具が揃っていた。
秀静は足取りを緩めずに鏡へと近付いていく。
鏡の前でようやく足を止め、不意に手を軽く掲げた。
すると何もなかった手の中に一振りの日本刀が現れ、次いでその刀を鞘から引き抜くと、鏡の中心に突き立てた。
刀身を刺したまま一度右に手を捻ると、鏡の表面に円が描かれた。
秀静が秋透の目の前に現れた時と同じ現象が、今ここでも起きている。
秀静は波が立ったのを確認すると刀を抜き、再び鞘に納めると、漆黒の日本刀は音もなく姿を消した。
「基地の三番鏡路に通じた。ちゃんと着いてこいよ? 秋透」
「お、おう。分かった」
とはいえ、『鏡の中へ入る』というのは少し、いや大いに抵抗があった。
何せそんな事が可能だなどとは夢にも思っていなかったのだから。
そもそも基地が何処にあるのかすら教えられていないのだ。不安がるなという方が無理な話だろう。
それでも着いていかねばならないのもまた事実。
秋透の内なる葛藤など気にも留めずに、既に秀静と詩帆は鏡の中へと入っている。
二人の後を追い、秋透も半ば自棄になって鏡の中へと足を踏み入れた。
* * *
目を開くと、そこは見知らぬ場所だった。
テレポート。そう思った。
現代では実現不可能と云われているテレポート的な移動手段がここには実在した。
驚きのあまり呆けたまま立ち尽くしていた秋透に、秀静と詩帆が声を掛ける。
「おい、秋透。アホみてぇな面してんと置いてくぞ」
「秋透。極東軍の基地内であっても、一人はぐれたら大変ですよ? 早く行きましょう」
「あ、ああ。今行く」
やっと正常に機能し出した思考で、改めて周囲を見回す秋透。
丸く、広々とした空間。
中心には太い柱が立っており、その柱には扉が一枚備え付けられている。
壁には等間隔で縦二メートル、横幅一メートル程度の鏡が取り付けられているようだ。
また、内装は全体白塗りだが照明がなく、薄暗かった。
壁や天井にはささやかな装飾が施されてはいるが、暗くてよく分からない。
そんな暗い部屋の中で、何故見えているのかはすぐに理解出来た。
鏡のお陰だ。
室内にある全十枚の鏡全てが、仄かに光を発しているのだ。
柱を避け、一際眩しい光を放っている方向。
秀静と詩帆が立っている出入り口に小走りで駆け寄った。
秋透が着いてきた事を確認すると、秀静は背を向けて光の中へと歩き出した。
詩帆もそれに続き、秋透もその後を追った。
暗闇から一転して明るい場所に出たせいか、あまりの眩しさに目を細め、手で顔を覆った秋透。
明るさに慣れ、腕を下ろすと一番に目についたのは巨大なパネルだった。
広く開けた空間の一角に、それは設置されていた。
無駄に広く感じるロビーの、秋透から見て右側の壁際に配置されているフロントの横に、見上げる程大きく、存在感のあるそのパネルはあった。
そのパネルの手前、フロントのデスクに立っていた一人の女性がこちらに気付き、三人……というよりも、秀静と詩帆に対して敬礼を兼ねた恭しい一礼をする。
短い金髪を丁寧に整えた、キリッ、とした雰囲気のある女性だった。
「お帰りなさいませ、明峰少佐、天野宮中尉。本日も遠方での任務、ご苦労様です」
と労いの意を唱えた。
『明峰少佐』や『天野宮中尉』という敬称は聞き慣れない。
しかし、秋透自身も極東管轄部、通称極東軍に属するのならば、同じように敬称・敬語を常用した方が適切なのであろうか。
そう考えた秋透は、その疑問を素直に口にした。
「あの、詩帆。俺も、その……。少佐とか中尉とかって、呼んだ方が良い?」
「……どうしますか? 隊長」
答えに困った詩帆は隣に立つ秀静に答えを求め、彼を見遣った。
「いらん。お前の気色悪い敬称なんぞむしろ不愉快だ。呼び捨てにしろ」
「…………」
敬意を表すると言っているのに、ここまで全力で拒む者も珍しい。
そう秋透は思った、が、勿論口には出さない。
「……じゃあそうする」
愚痴の代わりに返した言葉だが、秀静は何処か満足げな面持ちで背を向けた。
「ふふっ。明峰少佐、彼が今回の任務対象ですか?」
そう言ったのは秋透と秀静のやり取りを微笑ましげに眺めていたフロントの女性だった。
「ああ、そうだ。かなり騒がしい奴だろう?」
「けれど実力はあるのでは? 何せ彼はあの方の……」
「千里」
千里。そう呼ばれた女性の言葉を遮ったのは詩帆であった。
穏やかで、明るい口調で常に話をしていた詩帆。
しかし今回は酷く、冷たい声音だった。
何処と無く怒気を含んだ詩帆の声に驚きを隠せない秋透。
また、そのすぐ傍で背筋を伸ばし、硬直している千里。
その表情は、青ざめていた。
「二葉千里。それは《軍十家》にのみ知らされている機密事項です。極東軍上位全十三家にのみ伝えられ、情報規制されたものを……こんな場所で漏洩させるつもりですか……?」
殺気にも似た、怒り。
詩帆の身に纏う怒気に緊張したのは秋透もだった。
「もっ、申し訳ございませんっ!」
詩帆と千里の会話は、秋透には理解し難いものがあった。
それでも、二人の間には何か、途轍もなく大きな壁があるのだろう事は、何となく分かった。
数秒の間を開けてから、秀静が千里を庇うように一歩前に出る。
「別にそこまですごむこともないだろう、天野宮。情報規制といっても、それ程厳重なものでもあるまいに、機密事項は言い過ぎだ」
「……ですが、秋透の前でそれを言ってしまえば、規制の意味がまるでないではありませんか……っ」
納得のいっていない、不満を隠そうとしない詩帆に対し、秀静は一度頷いて答える。
「無論、お前の意見はもっともだ。だからこの場は俺が責任を持とう。それでも納得がいかないか?」
宥めるような、秀静の言葉。
その内容に、詩帆は渋々と頷いた。
「……分かりました」
と、やや不服そうなまま一歩下がる詩帆。
その姿を横目で確認した秀静は今の出来事を忘れたかのような調子で話し出した。
「よし。んじゃ、俺が帰投報告しといてやるから、お前等はもう休め。あー、秋透は……。二葉。どっかに空いてる個室はあったか?」
という秀静の言葉にすぐさま反応し、フロントにパタパタと駆けていった千里。
デスクに置かれた据え置き型パソコンのような機械のキーボードを操作し、返答をする。
「……いえ、ありません。全て使用中か、改装工事中か、清掃未定の部屋になってしまいます」
「そうか、面倒だが……。しょうがねぇなぁ。おい、秋透」
「お?」
千里と話していた秀静が振り返り、秋透の方へ向き直ると、言った。
「お前を一晩だけ俺の部屋に泊めてやる。文句があんなら廊下で寝ろ」
「いや、文句はないけど……。お邪魔します……」
「よし」
と短く言い切ると、再びこちらに背を向け、話を続けた。
「二葉。俺の部屋に布団を一式用意させろ。そんで、明日までにどっかの部屋の清掃を済ませとくよう《サポーター》に伝えといてくれ」
「承りました。……ついでに彼の入軍手続きも済ませましょうか?」
「ああ、助かる。そんじゃ俺ももう休む。面倒だから帰投報告は明日で良いだろ」
「分かりました。お休みなさいませ」
どうやら話は終わったらしい。
秀静は秋透に「行くぞ」とだけ言ってスタスタと歩き出した。
上下百階という驚異の階数分のスイッチが並んでいた。
後の詩帆による説明で、軍にはコネクターになっていない人間もおり、そういった人々はコネクターの補佐や支援、もとい雑用を一通りこなす《サポーター》として入軍しているのだという。
また、サポーターの人数はコネクターよりも圧倒的に多いらしい。
その為、コネクターには各自一部屋が与えられ、サポーターには二~三人の共同部屋が与えられるのだそうだ。
その上、コネクターの自室には最新の設備が施されているのだという。
基本的に、工事は部屋主の長期遠征任務期間中に行われるという話だ。
そして部屋主が殉職した場合、チームメイトや友人、家族の意向を可能な限り優先させ、部屋の片付けを行うのだそうだ。
秀静の自室は地上七十五階にあるらしく、五十二階に自室を持つ詩帆は途中でエレベーターを降りた。
七十五階に到着し、エレベーターを降りると、一フロアに五部屋あった。
一番端にある部屋が秀静の自室なのだという。
秀静曰く、同じフロアの他四人も秀静や詩帆と同様、特務専行部隊所属らしいのだが、現在遠征中で不在との事。
部屋に入ると、そこは以外にも生活感のある内装だった。
黒を基調とした家具が置かれているシンプルでいて妙に落ち着く内装。
一室三部屋という、一人で生活するには広々とした間取りである。
「ああ、隣は書斎だが、好きに使うと良い。《呪術書》の類いもあるから、扱いには注意しろ」
と、思い出したように秀静は言った。
着ていたロングコートを脱ぎ、クローゼットに片付けると、キッチンと思しき場所へ向かう秀静。
お湯を沸かし、コーヒーカップを二つ手にして戻ってくる。
入り口に突っ立ったままの秋透にカップを手渡し、
「好きな所に座れ」
とだけ言って、自身は机の椅子に腰掛ける。
モクモクと湯気を上げるカップを手に、ソファに向かい、腰を落ち着かせる。
暫しの静寂。
ただでさえ無口で表情の硬い秀静と、その秀静の自室に今日が初対面で上がり込んでいる秋透の間で会話が弾む筈もなく、ただ静かな部屋の中に二つのコーヒーを啜る音が響くだけである。
(気まずい……)
そう思いつつ、秋透は秀静の方を見た。
視線の先に居る秀静はといえば、いつの間にやらコーヒーカップを片手に読書を始めていた。
また、その本の外面も、黒い。
せめて何かを喋ろうとするが、まず話題がない。
独りでに落胆の表情を浮かべていた秋透に、予想外にも秀静が声を掛けてきた。
「お前は近距離戦と遠距離戦、どっちが好みだ?」
「へ?」
唐突かつ要点の掴みづらい秀静の問い。
秋透は即答出来ず、短時間ではあるが黙り込んだ。
「……どっち…だろ……?」
「まあ、分かんねぇよな、悪い。お前が気まずそうにしてるから、何か話題を提供してやろうかと思ったんだが……。他人に気を遣うのは、やっぱり性に合わん」
「!」
緊張と動揺を既に見抜かれていた事への羞恥心に、秋透は思わず目を逸らし、宙を見た。
「……それ、何の本なんだ?」
「うん? ああ、これか。《呪術書》だ」
「《呪術書》……?」
「ああ。まあ、詳しい話はまたいずれ、だ。今後は学ぶ事が山程あるからな。覚悟しとけよ、秋透」
「うへぇ……」
秀静の計らいでか、秋透の緊張はいつの間にか解けていた。
そうなると、色々な事を考えられるようになってくる。
「あ、そうだ。なあ、明峰。《軍十家》って、何?」
《軍十家》。
それは先程、ロビーで聞いた言葉だ。
「さっきの件か?」
どうやら秀静は秋透の意図を察したようだ。
秋透は小さく頷いて応え、秀静の説明を待った。
「天野宮家が名家なのはもう話したな? 極東軍には【天野宮】と、それに並ぶ【紅月】、【明峰】の二家がある。ここまでは良いな?」
「天野宮…紅月……明峰?」
秀静の述べた三家の名字を繰り返し呟くと、一つの疑問が生じた。
「明峰って…お前も名家の出身なのか?」
目を丸くして訊く秋透を真顔で見遣る秀静。
「いや? 俺は養子だよ。お前と同じ一般からの入軍だったが、訓練中に明峰当主に声を掛けられてな。明峰家は実力主義の家柄だ。本家筋の方が珍しいんだよ」
そう返された。
秀静の説明は続く。
「んで、唯一家の当主が取り仕切っている他支部とは異なり、《三大名家》と称されるその三家が、鏡行禁忌軍創設時から極東管轄部の上層部を担ってきたんだよ、この現代までな。で、当然それを支える奴等も少なからず居た訳で、そいつ等が《軍十家》として、未来永劫に《三大名家》への忠誠を誓っている。理解出来たか?」
一応ここまでが大まかな説明のようだ。
極東軍、正式には極東管轄部、軍中枢から見ればつまり極東支部の上層部を鏡行禁忌軍創設時から担う《三大名家》。
それに忠誠を誓う《軍十家》。
予想はしていたが、ここまで壮大な内容は考えていなかった秋透は、暫く理解に時間を要した。
どうにか整理出来てきた思考で、秋透は質問を返した。
「なあ、その《軍十家》っていうのはつまり?」
「今説明した通りだ。【一色】、【二葉】、【三吉】、【四塚】、【五瓶】、【六尾】、【七草】、【八雲】、【九瀬】、【十蓮】。この全十家だ。覚えたか?」
「……いや、無理。けど、二葉って、フロントの……?」
秋透の頭を過ったのはフロントで会った金髪の女性。
詩帆に『二葉千里』と呼ばれていたのが記憶に新しい。
秀静は頷き、続ける。
「ああ、そうだな。二葉千里。極東軍のオペレーターだ。お前も今後世話になる機会もあんだろ。そんじゃ、説明は終わったな。飯行って、シャワー浴びて、寝るぞ。今日はどっかのガキのせいで疲れた」
などと言いながら立ち上がり、伸びをする秀静。
その言い分に秋透は多少ムッ、として、
「それがお前等の仕事だろ? コネクター」
と言い返す。
コネクターの仕事。それはつまり、今後の秋透の仕事だ。
秀静はわざとらしく肩を竦め、秋透の言葉に答える。
「ま、そうだな」
その後、部屋を後にした秋透と秀静は真っ直ぐに食堂へと向かった。
食堂では偶然にも居合わせた詩帆とともに食事をし、また同じく食堂に来ていた極東軍の何人かに声を掛けられ、大変盛り上がった。
そのままシャワー室へと向かい、二十分程で部屋に戻ると、寝室に置かれていたベッドの隣に秋透の布団が用意されていた。
秀静は「何でベッドの隣なんだよ」と不満を露にしていたが、結局そのまま寝る事となった。
明かりを消した部屋。
その暗闇の中、秋透は布団に挟まれ、横たわっていた。
「……明峰、まだ起きてるか……?」
「もう寝た」
秋透の問いに即答した秀静。
会話をする気がないのか、秋透をからかって遊んでいるのか。
まず後者である事は間違いないが。
「ははっ」
暗い部屋の中で、秋透はぼんやりと考えていた。
これからの、事を。
「……なあ、『永遠』って…やっぱり長いかな……?」
今回は、即答されなかった。
少ししてから、ベッドの上から声が降ってきた。
「……さて、ね。急に何だよ?」
「いや、何となく。……明峰」
「何だよ」
「何で軍人に…コネクターになった……?」
「…………」
訊いてはならない、事だっただろうか。
突然黙り込んだ秀静。
少なくとも、寝てしまった訳ではない事は確かだ。
「……いや、やっぱ何でもな……」
「ある人を、守れなかったからだ」
話を終わらせようとした秋透の言葉を途中で遮り、秀静は話した。
自分の、過去を。
「掛け替えのない存在だった。その人間を死なせた事への罪滅ぼしと、殺した奴への復讐の為に。俺は人間を捨てた」
秀静にとって掛け替えのない存在。それは最愛の女性。
当時付き合っていた女性を、秀静は目の前で亡くした。死なせてしまったのだ。
「復讐…それは、キャスターにか?」
「まあ、そうなるな。……自分のキャスターだがな」
その瞬間。
場の空気が凍ったのが分かった。
触れてはならないモノに触れてしまった。そんな気がした。
『自分のキャスター』に殺されたというのはつまり、今回の秋透のように、襲撃があったという事……?
そんな考えを見透かすように、秀静は言葉を繋げた。
「ま、お前みたいに軍の使者が先に来る事の方が珍しいんだよ。……お前は運が良かったんだよ。あれでもな」
『あれでも』というのは、泣き崩れていた母の事を指しているのだろう。
悲痛に叫ぶ母を、置いてきた秋透の事を言っているのだろう。
犠牲者が出なかっただけ、マシなのだと。
「……コネクターとキャスターの新密度を軍では《シンクロ数値》と呼ぶ。コネクターはキャスターとの対話で互いを理解し、信頼し合う事で《力》を増す。つまり、《シンクロ数値》が高い程、コネクターとしての超人的な能力も高くなる。言わば生命線だ。……俺が軍の中でも並外れて《シンクロ数値》が低いのは、”あいつ”を殺した恨みを、忘れられていないせいだ。……《シュウセイ》を信頼出来ていないせいだ。だから秋透。お前は《アキト》を信じてやれ」
そう話した秀静の声は酷く、悲しげに感じた。
そして同時に考えた。
秋透も、ほんの少しの偶然で、同じ境遇になっていたかもしれないのだと。
秋透は秀静に、
「分かった」
という答えしか考えられなかった。
そしてふと、軍に居る人達は皆、このような暗い過去を抱えているのだろうかと、思った。
軍に居る人達は皆、自分の進みたい道を、成し遂げたい野心を持っているのだろうか、と。
そして自分もまた、同じように見付けられるのだろうか……。
そんな事を考えながら、秋透は眠りについた。
* * *
二一二五年 十一月二十三日 月曜日。
現在時刻は午前七時三分である。
顔を洗い、目も覚めた所で、改めて室内を見回すが、秀静の姿はない。
流石は体育会系の男。まだ七時過ぎだというのに既に起床し、その上自室にも居ないときた。
「この後どうすれば良いのかねぇ……」
と一人呟く秋透。
起きてからの動きは一切伝えられていない。書き置きらしき物も見当たらない。
ましてやここは来たばかりの慣れない基地内だ。下手に出歩くのも抵抗がある。
真面目に悩み始めた頃、室外がやや騒がしい事に気が付いた。
昨晩の内に秀静から渡されていた服に着替え、部屋の扉を恐る恐る開ける。
しかしその扉は途中で止まり、殆ど開く事が出来なかった。
疑問を抱きながら再び力を込めると、扉は何事もなく開いた。
そして扉の先には見知らぬ男性が立っている。
長身の、黒い軍服のような衣服を身に纏った白髪の男性。
また、手には何やら紙袋を提げている。
男はニコニコと笑みを浮かべながら、話し掛けてきた。
「ああ、君が例の子か。秀静居る?」
現在秀静は不在だ。秋透自身も捜しているのだから。
「……明峰は、今居ないようですが……あ、いや…そこに……」
「ん?」
『そこ』と言って秋透が指差したのは男の後ろ。
話している間に帰ってきていたらしい秀静が、男の背後に立っていた。
「おい、お前等。人の部屋の玄関塞ぐな。お前も帰投早々何の用だよ、悠」
顰めっ面で男を睨む秀静。
しかし男は怯みもせず、また悪びれた様子もなく言った。
「おっと、秀静。お土産持ってきたんだけど、外に居たんだ? 訓練?」
「邪魔だ、退け。遠征明けで疲れてるんだろ? 帰って寝てろよ。何なら二度と目覚めなくても構わん」
「うっわぁ~、それ遠回しに死ねって事? 性格悪いなぁ、君は」
「お前程じゃねぇけどな」
「ははっ。相変わらずだな~」
仲が良いのか、悪いのか……。
『遠征明け』という事はつまり、秀静の言っていた同じフロアの、また特務専行部隊の一人なのだろう。
片方はにこやかに。もう片方はやや鬱陶しげに話は弾み、秋透をそっちのけで会話をする二人。
不意に男が秋透を見遣り、秀静に訊く。
「ねぇ、秀静。彼が例の?」
「ん? ああ、こいつか……」
男の興味が秋透に向いた事で、見事に話題が逸れた。
秀静は秋透に向き直ると、言う。
「秋透。こいつは紅月悠少佐だ。残念極まりないが一応俺の同期で、俺の部隊の一員だ。恐らくお前も特務専行部隊所属になるだろうから、そうなったらまあ上官、仲間になるだろうから……顔だけは覚えておいてやれ」
やたら酷い紹介だった気がしたのは秋透の気のせいではないだろう。
その証拠に、悠が横から口を尖らせて言い返した。
「ホントに酷いな~。君って他人に悪態吐くのだけは人一倍上手だよね~?」
その表情には明確な悪意が滲んでいる。勿論冗談混じりではあるが。
秀静は軽く眉根を寄せて悠を睨むが、何も言わなかった。
秋透は二つ、気になる事を聞いた。
『紅月』と、言った。
つまりこの男も、《三大名家》の一人なのだ。
そしてもう一つ、気になった事は直接尋ねた。
「なあ、明峰。俺も特務専行部隊に入るって……マジ?」
「ああ、そう言えば……」
秋透の問いに悠も少し意外そうな表情になり、また秀静は呆れたように悠を見遣った。
「今更の反応だな、お前……」
「いや~、これでも結構疲れててね。頭の回転が悪くてさ~?」
「なら寝てろよ」
「え~?」
またもよく分からないやり取りの後、秀静は溜め息を一つ吐くと口を開いた。
「ああ。そうなるように手配している」
と、その発言に悠は驚いたように言った。
「は? 秀静、お前直々の入隊って事か? ……珍しい事もあるもんだな?」
「だったら何だよ、文句あるか?」
秀静はやや鬱陶しそうに悠を見遣る。
悠が何に驚いているのか、秋透は分かりかねていた。
不意に秀静が秋透に視線を向けて、言った。
「まだ何の訓練もしていない雑魚だし、知能は猿並みだが、当時尉官以下だった俺の《隠蔽術》で十年間何事もなく生活していたんだ。そこらのコネクターとは別格だろう?」
話の内容を、秋透は殆ど理解出来なかった。
しかし、悠は更に驚いた様子だ。
「十年間…保ったのか? 尉官以下の《術》を?」
「ああ。というか、今現在も持続中だ。な? バケモノだろ?」
「は、はは……。入軍当初の君を思い出すよ……」
話についていけないが、自分の事だという事は分かっていた秋透は、ただ呆然と二人の会話を聞いていた。
しかし好奇心、という程でもないが、僅かにも知識欲がくすぐられ、会話に割り入ろうとする、が。
それよりも先に、何処からか聞き慣れた声が響く。
詩帆が、悠の背後に立っていたのだ。
階が大分離れているが、エレベーターを使えば関係のない事なのだろう。
わざわざ来た理由までは知らないが。
「《秘術》は《呪術》とは逆に、掛けられた対象の潜在能力によって有効期間が変化します。まあ、術者の力量にも左右されますけどね。秋透に隠蔽処置を施したのは、当時まだ尉官以下だった明峰隊長です。その当時の力量で行った《術》が今もなお生きているというのは、通常有り得ない事なのです」
難しい説明。としか言い様のない詩帆の説明に、解説を付け加えたのは悠だった。
「そうだなぁ……。例えば、普通上位のコネクターが《隠蔽術》を掛けたとしても、長く持って五年が限界だったんだよ。なのに秋透君は、まだ《力》の弱かった秀静の《術》を十年も持たせた。それはつまり、君の潜在能力が桁外れに高いという事の証明になるんだよ。理解出来たかな?」
二人の説明はここで終了。
喜ばしい事なのかどうかは甚だ疑問ではあったが、先程の秀静と悠の会話の内容は理解出来たので、コクリと一度頷く。
その仕草に詩帆は微笑み、秀静と悠の方へと向き直り、口を開いた。
「おはようございます、明峰隊長、紅月少佐」
恭しく頭を垂れる詩帆。
その所作は実に鮮やかで、育ちの良さを余す事なく表している。
やや気圧され気味の秋透に対し、秀静と悠はたじろいだ様子もなく、挨拶を返す。
「ああ」
「おはよう、天野宮中尉。どうしたの? こんなトコまで」
無愛想に短く答える秀静に、爽やかに返す悠。
対照的な二人に詩帆は微笑むと、言った。
「そこの彼を呼びに来ました」
と秋透をチラッ、と見て、すぐに話は続けられた。
「”ハルちゃん”は遠征明けですよね? お疲れ様です。……相変わらず緩い着方しますね、軍服」
詩帆は呼び方を改め、また悠の軍服を見て、呆れと苦笑を織り混ぜた表情でそう言った。
だが悠は気にした風もなく、言う。
「お、今日はその呼び方なんだ? そう言う”詩帆ちゃん”も今日は軍服着てるけど、お休みなのかな?」
「ええ。ハルちゃんもでしょう?」
「まぁね。疲れたしね」
そんな詩帆と悠の会話を眺めていた秋透と秀静。
随分と微笑ましく会話をする二人。
その様子を見ていた中で、ふと思った事を秋透は口にした。
「何か、仲良いな。あの二人」
詩帆は中尉。悠は少佐なので、同じ階級ではない。
その為、同階級同士として仲が良い訳ではない筈だ。
しかし詩帆は悠を『ハルちゃん』と親しげに呼んでいる。
そして疑問はすぐに納得へと変わった。
「あの二人は名家本家筋の子女だ。歳が離れてはいるが、悠曰く、幼少の頃から天野宮の相手をしていたらしい。《三大名家》は《軍十家》を含む下位の家柄との関わりをあまり持たないが、同じ名家同士では交流があると聞く。だからだろ」
という事らしい。
盛り上がっている二人をボーッ、と眺めていると、ふと思い至った。
先程悠が言った通り、今日の詩帆は先日と違い、確かに軍服を着ている。
黒地に赤線の描かれた、あまり飾り気のないデザインだった。
縦襟に二列で縦に配置されたボタン。
左胸には十字架が描かれた胸章があり、その上には透明なひし形の石と小さな十字が二つ。
胸章から右肩に掛けては二本の赤い石付きのチェーンが伸びており、肩から袖に掛けて伸びた赤いライン。そして袖に描かれた二本のライン。
腰で巻かれたベルトは中黒、縁取りは赤という配色になっており、スカートの左右には軽くレースがついている。
また、一部切れているのは機動性を重視した為だろう。
膝下までの、足に沿う形になっている黒いブーツ。
爪先には鋼が取り付けられ、足首も覆われている。
そして同じく軍服を着装している悠。
殆ど詩帆のものと同じデザインんだが、いくつかの相違点があった。
まず当然として、ミニスカートにニーソックスを着用している詩帆の女子用軍服に対して、悠は黒色のズボンを着用している。
また、詩帆が『緩い着方』と評した通り、腰に巻いているベルトが左から右に下がっている。
そして最も気になったのは胸章の上に付けられているブローチだ。
透明な石と二つの十字である詩帆のブローチに対し、悠のものはクリアブルーの石と一つの十字となっている。
秋透がブローチを気にしている事に気付いた秀静は、
「あれは《階級章》だ。尉官以上の奴等は全員付けてる。尉・佐・将という並びで、前から無色・青・赤という石色になっている。つまり、無色で二十字の天野宮は中尉。青石で一十字の悠は俺と同じ少佐だ」
と、簡単に説明してくれた。
つまり、尉官未満のコネクターにはブローチの階級章がないのだろう。
いつの間にか話終えていた詩帆と悠。
秋透と秀静の話が終わったのを確認して、詩帆が口を挟んできた。
「さて、秋透。……いえ、波木秋透新入軍兵。元帥がお呼びです。ご同行願えますか」
「あ、ああ……?」
口調、というよりも雰囲気を改めた詩帆に多少驚きながらも了承する秋透。
すると詩帆は、
「そうですか。じゃあ行きますよ、秋透」
と、雰囲気を元に戻し、秀静と悠に一礼すると歩き出す。
秋透と詩帆が居なくなった七十五階・秀静の自室前に立ったままの秀静と悠。
先に声を発したのは悠であった。
「『元帥』って、僕等の親だね。何の呼び出しかな?」
「分かり切った事を訊くな。親父達の仕事は極東軍の総統括と新入軍兵の審査だろうが。なら用件は後者だろう?」
「はは。まあ、そうなるよね」
何て軽口を叩く。
部屋に入っていく秀静の後について入室する悠。
「お前は自分の部屋に戻れよ」
などという秀静の言葉などお構いなしに入っていく。
秀静はすぐに諦め、中に入り、扉を閉じた。
* * *
コツ、コツ、コツ……と、広く薄暗い廊下に、二つの足音が響く。
秋透と詩帆だ。
二人は肩を並べて、やや小声で話ながら歩いていた。
「お前と……紅月少佐って仲良いのな? 名家仲間か?」
悠の名前を出すのに少々時間を要したのは呼び方を考えた為だ。
そして詩帆はそれを見通すように、言う。
「”悠さん”の方が喜ぶと思いますよ、彼の場合。そうですねぇ……。私がコネクターになる以前からよく互いの屋敷を行き来して遊んで貰ってましたし、彼は私の婚約者の第一候補ですから。仲が良いのは、まあ当然かと」
と、平然と話す詩帆の言葉に、秋透は大変驚いた。
「こっ、婚約者!? あの人が、お前の!?」
「ええ、そうですけど。親同士の……まあ、所謂政略結婚というモノですかね。名家ではよくある話です。けど、それがなくとも私はそれを望みますが」
(政略結婚などというものがこの現代にもまだ存在していたのか……)
というのが秋透の正直な感想であった。
しかし勿論口には出さない。
流石軍の名家。外界からほぼ完全に隔離されているだけはある。
「……あ、今何でか思い出したんだけど…何で詩帆、最初に会った時制服来てたんだ?」
本当に何故今思い出したのか、しかし気になったので訊いてみた。
すると詩帆は楽しげに微笑んで、
「ああ、あれは何となくです。私学校って行った事がないので、着てみたかったんです、制服。似合ってました?」
「あー、うん。しっかり騙されたよ」
「ふふっ。良かった」
そんな何気ない話をしている内に、目的地へと近付いていたらしい。
「さ、もうすぐ目的地である特務室に到着する訳ですが、中に居るのは明峰隊長と紅月少佐のお父上と私の母ですが、私達と同じとは思わないでください。といっても、気負う事はありませんよ」
と、話を切り替える詩帆。
秀静の養父、悠の実父、詩帆の実母……つまりは、
「《三大名家》の現当主達って事か……?」
と問う。
その質問に詩帆は一瞬目を丸くしたが、微笑を浮かべて、言った。
「分かってきましたね、秋透。そういう事になりますが、軍の階級としては全員元帥ですよ」
どうやら話している内に到着したらしい。
目の前には巨大な扉。
特務室の前で立ち止まった秋透と詩帆は、互いに顔を見合わせた。
「見送りはここまでです。扉の先は秋透一人で行く事になりますので、私はここで待っています。……どうかお気を付けて」
とても不安そうな、表情。
俯く詩帆に、秋透は言った。
「分かった、気を付けるよ。行ってきます」
「……行ってらっしゃい、秋透」
ふっ、と微笑んだ詩帆に背を向け、秋透は扉を押し開ける。
厚く、重たい扉。
中は何処までも真っ暗で、一メートル先でも薄暗い。
振り返り、先程よりも一層心配げな顔でこちらを見詰める詩帆が居た。
軽く片手を振ると同時に、扉が閉まる。
辺りは静まり返った。
ーー秋透の入っていった扉の前に立ち尽くす詩帆。
この扉の先には、詩帆の母親が居る。
詩帆が何よりも、誰よりも、恐れ憎んでいる母が……。
ここから先に詩帆は立ち入れない。
中の様子を窺う事も出来ない。
ただ、ただ、祈る他ないのだ。
秋透の、無事を……。
* * *
扉が閉まり、暗闇の中を暫し歩くと、またも扉が現れた。
先に進むべく扉に手を掛けようとした秋透に、呼び掛ける声がした。
アキトの声だ。
『秋透、待ってくれ』
「んあ? 何だよ、どうしたんだ、アキト」
『この奥から、嫌な気配がする……』
「…………」
両者とも黙り込む。
秋透は無言で目の前の扉を見上げる。
そしてアキトも、秋透の目を通して見ている筈だ。
秋透は思い出す。
『私達と同じだと思うな』と、詩帆は言った。
アキトもまた、『嫌な気配がする』と言う。
一体この扉の先に、何があるというのか。
秋透は考えてから、言う。
「……でもさ、アキト。進まなくちゃ、何も始まらないだろ?」
『………』
「”強くなる”って決めたんだよ、俺は。それにほら、いきなり仲間を殺しに来る何て事はないだろ?」
『……そりゃ、そうだけど……』
「な? それにお前も居てくれるだろ? だから大丈夫だって、アキト。行こう?」
『……分かった。行こう、秋透。』
そうして秋透は、扉に掛けた手に力を込めた。
その時、一瞬だけ、手に熱が籠ったきがした……。
扉が開くと、三人の男女が椅子に腰掛けていた。
と同時に、秋透は少し、内心で驚いた。
若かったのだ。
秀静、詩帆、悠の親であり、極東軍の総統括者、《三元帥》。
その肩書きから、秋透は初老の面々をイメージしていた。
しかし目の前に座っているのは、自分より少し歳上くらいの、若い男女三人だった。
が、考えてみれば当然なのだ。
何せ彼等もコネクター。
故に、歳は取らないのだから。
一人は男性、黒髪をオールバックに整えている。
眼光は鋭いが、口元には穏やかな微笑を浮かべ、何故か秋透は見て何処と無く嬉しそうな表情をしている。
その隣には足を組んで座っている白髪の男性。
優しそうな雰囲気を纏っている。
そして、その更に隣には一人の女性。
一目見ただけで、詩帆の母親だという事が判る程に、似ていた。
肩の辺りで切り揃えられた黒髪。
ただ、常に笑っていた詩帆とは対照的に、その女性の視線は酷く冷たかった。
若いとはいっても、全員貫禄があり、秋透の緊張は増すばかりだ。
「さて、では波木秋透新入軍兵? 面接を始めようか」
と、ファイルを片手に口を開いたのは、正面に座っていた白髪の男性。
「じゃあまずは、私達の自己紹介をしようか。私の名は紅月時和という。もう会ったかもしれないが、紅月悠少佐の父で、一応元帥をしている。次は……」
言いながら右を向き、黒髪の男性を見遣る。
「明峰咲儀だ。……君が秀静のお気に入りか」
「天野宮帆春元帥です。……娘と仲が宜しいようで、何よりです」
と次いで黒髪の女性も挨拶を済ませる。
秋透も流れのまま、
「……波木秋透と申します。お会い出来て光栄です、《三元帥》……」
そう応じる。
秋透の対応に大変満足した様子で時和は一度頷くと、言った。
「よし、じゃ、一度君の《力》を見せて貰おうか」
「……え?」
聞き返す間もなく、時和は指を鳴らした。
すると床の一部が開き、下から一頭の獣が出てくる。
見た事もない、奇妙な、それも何か禍々しい獣。
「それは鏡界にのみ生息する害獣という。《力》を使って良いから、そいつ伸しちゃってよ、波木秋透君。それじゃあビープス、殺れ」
時和の言葉と同時に、ビープスを繋いでいた鎖が解き放たれた。
秋透に襲い掛かってくるビープス。
大きく太い脚で跳び跳ね、前足の鋭い爪を突き立ててくる。
秋透は間一髪でそれを避けるが、戦い方も知らないまま逃げ惑う。
「アキト! 《力》ってどうやって使うんだよ!? おい、アキト!!」
無我夢中で逃げながら、アキトに呼び掛ける。
そんな秋透を見て、咲儀と帆春が口を開く。
「ちょっと強引過ぎないかしら?」
「何、構わんだろう。秀静のお気に入りならば問題ないさ」
そんな元帥達の会話が耳に届き、秋透は微かに焦りを覚える。
しかし、すぐにアキトの声が響いた。
『秋透、少し落ち着け! 俺が君の《力》になる!! 名前を呼べ、秋透っ。俺達の名は……っ!!』
「《護鬼》!!」
瞬間。
強い爆風が吹いた。
部屋全体を振動させる程の轟音が響いた。
《護鬼》。それが秋透とアキトの《力》。
『大切な人を護る為なら、鬼にでもなんでもなってやる』。
そんな無謀で自滅的な、しかし確固とした二人の決意の表れなのだ。
ビープスが猛然と走ってくる。
唾液の滴る騎馬を剥き出して、秋透を噛み殺そうと走ってくる、が。
秋透の方が速かった。
足に力を込め、床を蹴る。
ビープスまで三メートル程あった距離を、一瞬で縮める。
刃の白い日本刀を手に、秋透はビープスの正面に向かい、通り過ぎた。
と同時に、ビープスが床に倒れ込む。
『刃の白い日本刀』
それこそが秋透の《力》、《護鬼》が《武器化》した姿なのである。
秋透はその刀の峰で、ビープスを斬り伏せたのだった。
ハッ、として我に返ると、パチパチと拍手の音が聞こえた。
時和と咲儀である。
「いやー、見事な腕前だね、秋透君」
「これで訓練前だとは驚かせてくれるな。秀静が欲しがるのも頷ける」
「え? 元帥…俺が訓練前だと、ご存じで……?」
その秋透の問いに、二人はふっ、と苦笑し、咲儀がすぐに説明をしてくれた。
「秀静がこの面接内容を提案してきてな。余程君の事を気に入っているようだな、あいつは」
と、嬉しそうに微笑む。
まるで本当の我が子の名前を呼ぶように。
「はいはい、咲儀。親バカも大概にしておきなよ。秋透君が困るだろう?」
「ああ、そうだな。……しかし貴様に『親バカ』などとは言われたくないな、時和」
と口喧嘩(?)をしている。
(さっきの明峰と紅月少佐の言い合いにそっくりな……)
と秋透は思う。
しかし、その二人を制した人物が居た。
「ちょっと、貴方達、いい加減になさいな。まだ面接中ですよ」
と帆春に言われ、数秒黙った二人であったが、
「君はもう少し娘と仲良くした方が良いんじゃないかな?」
「全くだ。すこしは進歩しないのか?」
と諭され、その二人の態度が彼女の逆鱗に触れたらしく、
「波木秋透新入軍兵! 死にたくなければ今すぐ出ていきなさい!!」
と秋透が怒鳴られてしまった。
秋透は「んな、理不尽な……」と思いつつ、一礼をして特務室を後にした。
その後三人がどうなったか知る者は居ない。
特務室を出て、薄暗い部屋を通り、外扉を開ける。
すると、宣言通りにずっと待っていた様子の詩帆がパッ、と顔を上げ、秋透の下に駆け寄ってきた。
「秋透、無事ですか!?」
「わっ、どうしたんだ、詩帆」
「あ、いえ、その……。母は、容赦がないので……」
と、詩帆は俯いてしまう。
容赦がなかったのはどちらかというと他二人の方だが、今ここでそれを言っても意味はないだろう。
また、顔面蒼白な詩帆の様子から、害獣・ビープスの件には触れない方が良いと判断した秋透はすぐさま話題を変えようと試みた。
「あー、うん。まあ、大丈夫だったよ。……そういえば、詩帆は母親と仲悪いのか? さっき中で元帥達が親バカだの何だのって話してて……」
秋透は、何気なく話題を振ったつもりであった。
しかし詩帆はその話題に、少し悲しげな表情になってしまった。
少しの間俯いてから、詩帆は口を開いた。
「……そう、ですね。少し、苦手ですかね……。色々…あったので……」
途切れさせながらも、詩帆は必死に言葉を紡いだ。
だが瞳は揺れ動き、動揺を全く隠せていなかった。
そして秋透はそんな彼女の姿を見て、これ以上立ち入らない方が良いと悟った。
口を開かなくなった詩帆に、
「詩帆、取り合えず帰ろうぜ? あ、お前は自分の部屋に戻るのか?」
と、上ずりながらも話し掛けると、
「……いえ、私も一緒に行きます。明峰隊長に用事もありますので」
と顔を上げた。
その表情は既に見慣れた笑顔だった。
無理をしているのは容易に判ったが、秋透はホッ、と胸を撫で下ろした。
「じゃあ行こうか。俺朝飯まだだったんだけど、どうすれば良いのかなぁ……」
「明峰隊長もまだだと思うので、一緒に摂られては?」
「ああ、そうだな。そうする」
他愛のない話をしている内に、秀静の自室に到着。
一応インターホンを押してから扉を開き、中へ入る。
しかし室内は無人のように静かだった。
不振に思い、秋透は一言、
「明峰? 居ないのか?」
と声を発すると、
「うるせぇ。ちょっと黙ってろ」
と言い放たれた。
秋透は多少ムッ、としつつも声のした方へ足を進めると、リビングのソファに向かい合って座った秀静と悠の姿があった。
どうやら二人はチェスの勝負中のようである。
眉間に皺を寄せ腕組みをして考え込んでいる秀静に対し、余裕の表情で足を組みつつコーヒーを堪能している悠。
戦況の優劣は盤上を見ずとも明らかだった。
秀静が手を動かして駒を移動させると、悠はすぐに手を伸ばし、自信の駒を動かしつつ、
「はい、チェックメイト♪」
と、自信溢れる笑みで宝かに宣言した。
満面の笑みで秀静を見詰める悠に、秀静は「チッ」と一度舌打ちをし、大分不満そうに視線を逸らす。
その光景はかなり愉快なものだった。
「二十一戦二十一勝。僕の圧勝だね~、秀静♪」
不機嫌を隠さない秀静に向けて挑発するように、これ見よがしに秀静の駒、黒のキングを翳し、へらへらと笑って見せる悠。
「ははっ。戦術で紅月に勝てると思ってたの? 浅はかだな~」
「うっせ。まったくお喋りな奴だな、本当」
などと言い合う。
そして秋透は詩帆に訊いた。
「詩帆? 紅月家って”戦術”に優れてるのか?」
「ああ、そうですねぇ……。《三大名家》にはそれぞれ得意分野がありまして、紅月家は《戦術》、《秘術》、《呪術》、《呪符》の扱いに、明峰家は武に秀でているんです。というか、各家でそういう訓練を重視しているんですよ」
「へぇ……。天野宮家は?」
その秋透の問いに答えたのは、詩帆ではなく悠だった。
「天野宮家は純血と伝統を重んじる家系なんだよ。横、つまりは同じ《三大名家》間でのみ婚姻を許す……秀静には悪いけど、養子なんて全面否定っていうね。あとは軍創設時からの戦闘スタイルをそのまま留めている……くらいかな? 鏡行禁忌軍の本部への干渉力は極東軍で最も強い」
つまり天野宮家は政治的権力が大きい。
秋透はそう理解した。
「ありがとうございます。……そういえば紅月少佐は……」
と、途中で秋透は言葉を止めた。
詩帆に脇腹をつつかれたのだ。
暫く詩帆の意図が掴めないまま小首を傾げていたが、「あっ」と思いだし、
「えっと……”悠さん”はまだここに居たんですね。遠征明けだったのでは?」
秋透の『悠さん』という呼び方に少し驚いた顔をした悠だったが、すぐに、また嬉しそうに目を細めて、言った。
「わお、詩帆ちゃんが仕込んだのかな?」
その問いに、詩帆は無言の微笑で応える。
「ははっ。うん。遠征明けで疲れたけど、何か今一人で居ても眠れる気がしなくてね。秀静を構って遊んでる所だよ。二人も混ざるでしょ?」
と笑いながら言ってくるので、秋透と詩帆は苦笑しつつ、
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「隊長への用が済んでから参加します」
と各自答えた。
秋透は促されるまま悠の横に腰掛け、一方詩帆は言葉通り秀静の下へ赴き、何やら真剣な様子で話を始めた。
室内は一気に騒がしくなった。
暫くして詩帆と秀静の話が終わった。
秀静が立ち上がり、言う。
「おい、お前ら。そろそろ朝飯食いに行くぞ」
時刻はもう八時だ。
その秀静の言葉に、皆が立ち上がる。
「そう言われれば、朝食まだでしたね。ハルちゃんは帰ってから何か食べました?」
「いいや? 帰投するなり和真も深桜もリンも全員寝に行っちゃったから」
「……誰?」
「三人とも特務専行部隊のメンバーですよ。この階の人達ですね」
「へぇ」
そんな事を話しながら、全員部屋を出る支度を整えていく。
テーブルの上も片付け終わった所で部屋を出る。
朝食の時間には遅いせいか、食堂はガランとしている。
中に入っていくと、詩帆が不意に足を止め、次いで急に駆け出した。
「リン!」
そう言って駆けていった先には一人の女性。
短く揃えられた黒髪を揺らしながら振り返ると、垂れ目を更に下げて微笑んだ。
「詩帆様、ご無沙汰しております。まあ、秀静様に悠様もいらしていたのですね」
と三人に恭しく頭を垂れて挨拶を済ませた女性は秋透の存在に気付いて、言った。
「失礼ながら、詩帆様。彼は......?」
「彼は新入軍兵です」
控えめに秋徹を見た女性に対して秋徹は、
「あっ、波木秋透です。宜しくお願いします」
「成る程、そうでしたか。これは不躾に申し訳ありません。わたくしは七草鈴音と申します。どうぞ宜しくお願いしますね、秋透さん」
(『七草』、つまりこの女性も《軍十家》か......)
会話は殆ど交わさず、挨拶を済ませるとすぐに鈴音とは分かれた。
カウンターに向かい、各自注文をして、受け取ると再び合流した。
秋透を除く全員が任務明けの休暇期間中という事で、三十分を越える長めの食事となった。
他愛もない会話をして、冗談を言い合って、笑い会う。
賑やかな空間。
その中に居ると、不意に、ずっと前からここに居たような感覚になってしまう。
軍で生まれ、長く暮らしてきたような、錯覚に陥る。
昨日来たばかりのこの基地で、今まで生きてきたように……。
食事を終えると、秀静は用があると言って別行動を申し出た。
悠も、「流石に疲れたから、もう寝るよ」と言って自室に帰っていき、秋透は基地内を詩帆に案内して貰う事になった。
「さて、何処から行きましょうかねぇ……」
「あ、決まってなかったんだ」
「ええ。初めは”良い所”に行きたいかと思いまして」
むむむ、と悩む素振りをする詩帆に苦笑しつつ周囲を見回す秋透。
そしてふと、目についた場所があった。
食堂に隣接されている、カフェテリアのベランダだ。
ふらふらと歩いていき外に出ると、詩帆も後に付いてきていた。
絶景。とは、こういう場所を指すのだろう。
ベランダから見渡す限り、何処までも広がる、緑。
少し離れた所には水面が日光に照らされ美しく輝く湖が見える。
いっそ外国ではないかと疑いたくなるような、美しい光景。
穏やかにそよぐ微風が頬を擽り、髪を遊ばせる。
「綺麗な所でしょう?」
その声に、秋透は詩帆の方へ顔を向ける。
髪を耳に掛けながら、何処かうっとりとした表情で遠くを眺める詩帆。
秋透の視線に気付き、ふっ、と微笑んでから、続ける。
「ここ、基地の中でも有数の絶景スポットなんですよ。命を懸けて戦地へと赴く皆の為に、少しでも心が安らげるようにと作られたそうです。……実態は、キャスターとの連戦によって生じた軽い天変地異による偶然の産物なんですけど」
苦笑気味にそう言う詩帆。
経緯はどうであれ、秋透はその絶景に目を奪われていた。
『心が安らげるように』というのは、分かる気がした。
戦場で染み付いた怒りや悲しみを和らげる効果が、この景色にはある気がした。
「……さて、少し早いですが休憩はここまでにして。そろそろ行きましょうか」
ただただ呆然と見入っていた秋透の意識を引き戻し、詩帆は秋透に背を向けた。
「? 何処に?」
秋透が訊き返すと、
「明峰隊長に言われていた、”行くべ場所”へ」
と、何処と無く悲しそうに微笑んで、詩帆はベランダを出ていった。
秋透も慌ててそれを追い掛け、後に続く。
暫く歩き、見覚えのある場所に着いた。
秋透が初めてこの基地に来た時に通った、フロントのあるロビーだ。
詩帆は何も語らぬままフロントの前を通過し、鏡路室とはまた別の部屋に入っていく。
室内に入ると、そこには階下へと伸びる螺旋階段があった。
詩帆は一度振り返ると、再び背を向け、階段を降り始めた。
カン、カン、カンと、鉄の階段を踏む二人分の足音が響く。
光が遠くなっていき、やや薄暗くなってきた所で段差がなくなった。
また、そのまま奥へと進むと扉があり、その手前には一人の衛兵が立っていた。
コネクターの軍服とは違うので、恐らく彼はサポーター側の人間なのだろう。
詩帆はその衛兵の前で立ち止まると、肩に掛かっていた髪を後ろへ払い、階級章を見せて、言った。
「中尉の天野宮詩帆です。新入軍兵、波木秋透二等兵も同行させます。記録書庫の扉を開けてください」
詩帆が『天野宮』と口にした瞬間、衛兵は正していた背筋を更に伸ばし、敬礼をする。
「天野宮中尉と波木二等兵の入室を承知しました」
言うと衛兵は扉の鍵を開け、扉を開いて入室を促す。
詩帆は一礼して、
「ご苦労様です」
と一言労うと、そのまま扉を潜った。
視界が開けた場所に出ると、まず一番始めに目に映るのは棚であった。
見る限り、全て分厚い本やファイルの置かれた棚。
詩帆はその本棚の間を抜け、徐に一冊のファイルを手に取り、パラパラとページを捲る。
動かしていた手を止め、とあるページを開いたまま秋透の下へ歩み寄り、言った。
「……これ、見てください」
そう言って秋透にファイルを手渡す。
そのファイルも、中に綴じられている紙も、何やら古ぼけて、所々文字が掠れていた。
【二一一五年 五月二十四日】
【キャスターとの接触が確認された子供への隠蔽処置。
並びに、元帥死傷による記録。
報告者・明峰秀静 】
【対象 波木秋透。五歳の少年。
少年の母親は軍関係者であり、説明済み。
-以下詳細-
午前十一時三十二分
襲撃報告有り。
明峰元帥出頭。
午後十二時〇六分
明峰秀静現場到着。
敵キャスターとの交戦開始。
午後十二時十一分
明峰元帥死傷に伴い敵キャスター退却。
少年への呪傷が確認された為、隠蔽処置を実
施。
午後十二時二十三分
明峰元帥の遺体を運び、帰投。
以上 】
読み終えた秋透はファイルを閉じ、棚にしまった。
呆然と、立ち尽くしていた。
(これが、俺の過去……?)
信じられなかった。中でも一番……。
「母さんが……『軍関係者』……?」
詩帆は答える代わりに静かに頷き、言った。
「はい。秋透のお父様がコネクターだったのと、お母様も元サポーターでしたので、軍の事はご存知でした」
「父さんが、コネクターで……母さんは元サポーター……?」
「はい。お母様は何年も前に引退されておりますし、お父様は既に殉職されていますが、確かに記録が残っています。……とてもお強い、お優しい方でした」
次々に告げられる話は、秋透を混乱させるには十分過ぎる内容であった。
「そう、か……。だから、母さんはあんな事を、言ったんだな……」
その時、秋透の脳裏に甦った母の姿。
『行かないで……っ。戦わないで、あんなモノと……っ』
そう泣き叫んだ言葉の意味が、今、ようやく分かった。
夫を亡くし、秋透に呪いを掛けられた。
そんな母は、一体どれだけの苦痛に耐えて生きてきたのだろうか……。
暫く放心状態にあった秋透の傍で、詩帆は無言で佇み、見守っていた。
* * *
来た道を戻りながら、秋透は言った。
「ありがとな、詩帆。資料、見せてくれて」
「どういたしまして。……秋透、もう一度カフェテリアに行きませんか?」
「ん? 良いけど、どうした?」
「ちょっと、喉が渇いたので」
そう詩帆は言ったが、それは嘘だった。
ただ、秋透が落ち着いて思考を整理出来る場所に行かせたかっただけ。
ーーかつての詩帆が、そうしてもらったように……。
秋透はコーヒーを、詩帆は紅茶を手に、ベランダに出た。
先程よりも日が昇り、辺りを明るく照らしている。
秋透はベランダの柵に腕を置き、静かに遠くを見ていた。
そんな秋透の姿を見ていた詩帆が、不意に口を開く。
「……辛いですか……?」
不安そうな、心配そうな声が響く。
その声に秋透は詩帆を見遣ると、言う。
「うん? ああ、いや。……辛くないから、戸惑ってるのかも。全然、悲しくならなくてさ」
困り顔でそんな事を言う秋透に小首を傾げる詩帆。
秋透は自嘲気味に笑って、続ける。
「記憶は戻ってないけど…何だろうな。納得、したんだよ。ああ、これが俺の過去なんだ、って」
「……お母様の事は、どう考えていますか?」
顔色を窺うような、声。
詩帆は、何処か意外そうにしていた。
「母さんとは、ちゃんと話をしたかった、かな。……もう出来ないけどさ」
寂しそうに苦笑する秋透を見て、詩帆は言った。
「……羨ましいですね……」
軽く目を見開いて、首を傾げる秋透。
その様子に詩帆は薄く、悲しげに微笑む。
「……私、小さい頃はお母様が大好きだったんです」
「…………」
突然語り出した、詩帆の過去。
だが秋透は、静かにそれを聴いていた。
「優しくて、綺麗で、とてもお強い、自慢のお母様でした。……けど、ある事件が起きたんです」
詩帆はそこで一度言葉を詰まらせ、目を伏せた。
意を決して、再び顔を上げる。
「私が入軍して間もない頃、同じく新人メンバーの同期達とチームを組んで、軽い巡回任務に出たんです。そして暴走したキャスターと出会ってしまった……」
「…………」
「勝てない事は目に見えていました。だから私達は逃げながら、必死に戦いました。そして、援軍が来たんです。皆喜びました。『ああ、これで助かるんだ。良かった』って……。けど、その人達が最優先に守ったのは、私でした。母から…元帥から、私の救助を命じられていたそうです……。私は強制的に離脱させられ、基地で何時間待っても、仲間は帰ってきませんでした……」
ーーそれは、あまりにも残酷な話だった。
「母が私を助けようとして取った行動だったのだと、分かっています。けれど、例えそれが愛情の形だったのだとしても、受け入れられなかったんです……」
詩帆は俯いたまま、語り続けた。
髪で隠れていて表情は見えないが、ティーカップを持つ手に力が入っていた。
「今でも…今だからこそ、思い出すんです。あの時の、情景を……。私はその件以来、母を避けてきました。話をしたいなんて、思わなかった……。結果、二年経った今でも、溝は埋まりません……。だから、秋透が羨ましいんです」
「詩帆……」
秋透が戸惑っていると、詩帆はふっ、と笑みを零して、
「何て、身勝手な事を言いました。忘れてください。……知ってますか? フロントを通した正式な書面ならば、外部に届ける事も可能だと」
「手…紙……?」
「秋透。文も送れますし、申請が受理されれば外出も出来ます。……話を、しに行ってください。いつか、必ず」
目の縁に涙を溜めて、詩帆が力強く言った。
そして秋透も、詩帆に背を向けながら、服の袖で頬を拭って、
「ああ」
と、力強く頷いた。
こんにちは、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
新キャラも登場しました【第三章】!いかがでしたか?
戦闘の裏側、若干日常的な内容でしたが、物足りなさがありましたらすみませんm(__)m
今章の作者的テーマは『秋透の葛藤と詩帆の過去』でした。
テーマ、表せていましたか……?
少し出てきた詩帆の過去については今後書く機会もあると思うので、その時にもお会いできたら嬉しいです。
次章でもどうぞ宜しくお願いしますね!
それでは、ありがとうございました!!




