【第九章】ー反撃ー
記憶を取り戻した波木秋透。
同時に彼の中に居るアキトとの対話もあり、二人は……。
三元帥の帰投から突然の召集。
今後の軍の動きについて話があった。
衝撃の言葉を聞いた極東軍は……。
何も聞こえてこない、何もない世界。
そこが《心想世界》だと理解するのに時間は掛からなかった。
そして秋透は今、地面に寝転がっている。
上体を起こし、秋透はまず視界に映った景色に驚きを覚えた。
黒だ。
漆黒に染まった、狭い空間。
それ故に、アキトの姿を見付けるのは容易かった。
アキトはこちらに背を向け、俯いて立っている。
「よう、アキト」
「……ああ」
返事はした。
しかしアキトは振り返らない。
心なしか声音も、いつもと違うように思えた。
「……どうしてこっちを見ないんだ?」
「…………」
アキトは応えなかった。
その代わり、ゆっくりとこちらを見た。
見えた顔には、悲しみが貼り付けられている。
その表情はすぐに隠されてしまったが、不意にアキトが言った。
「……ごめん……」
「ん?」
「俺が……君の父親を殺したんだ……。謝って許される事じゃないし、許されたい訳でもないけど……。ごめん、秋透」
秋透には当時の記憶がなかった。
軍の《隠蔽術》を受け、記憶を消されていた。
そしてその《術》は、《憑依》した瞬間からアキトにも有効化されていは筈だ。
秋透の一部と見なされて。
「……許すとは、言い切れない」
「……だろうね」
か細く、アキトが応じる。
それでも、顔は背けたままだ。
秋透は続ける。
「けど、恨みはしない。憎む事もしない。絶対に」
そう言い放った秋透の声には、瞳には、揺るがない意志が込められていた。
アキトもそれを感じ取り、ようやく顔を上げた。
その表情には、驚きが表れていた。
「……俺は、君の人生を狂わせたんだぞ? 父親だって、殺した。それなのに……」
「ああ、恨まない。これだけは断言出来る」
きっぱりと言い切る秋透に、アキトは目を見開いている。
「何で……」
「俺にはお前が必要だからだ。《護鬼》は、俺とお前の《力》だろ?」
「……っ!」
秋透の言葉を聞いたアキトの目には、涙が溜まっていた。
今にも溢れ出しそうな涙を手で拭い、アキトは苦笑した。
「君って……本当に変な奴だな、秋透」
「そうか? けど今更だろ?」
「ははっ。……ありがとう、秋透」
「おう。どういたしまして」
端から見れば二人は大層歪で異様なペアだろう。
それでも、二人にとっては十分だった。
互いに苦笑してから、二人はもう一度微笑んだ。
* * *
何気ない瞬きの後、再び目を開くとそこは現実世界だった。
最初に視界に映ったのは技術・治療室の天井。
上体を起こして見えたのは雑談中の秀静と和真。
二人ともこちらに気付き、揃って口を開いた。
「起きたのか、秋透」
「ああ…おはよう、和真」
眠った状態で対話していたらしい。
お陰で眠っていた感覚がなく、いまいち思考が回らない。
「お前、アキトと対話してたのか?」
「へ?」
秀静にそう問われ、秋透は思わず聞き返した。
「寝ながら何か言ってた」
「ああ……」
秋透はぼんやりと思い出しながら、もう一度天井を見上げた。
技術・治療室は地下にある為日の光は届かないが、時計を見遣ると既に朝の六時を過ぎていた。
「明峰と和真は何を話してたんだ?」
訊くと和真が「あー」と応え、言う。
「んー、まぁ……今日の召集について話してたんだよ」
「?」
何故和真が言葉を濁しているのか、秋透には分からなかった。
しかしその理由は、秀静が代わって答えてくれた。
「妙だろ。調査隊の壊滅。一ヶ月間の俺等の不帰投。で、これだ」
”これ”と言いながら秀静が翳したのは彼の端末機。
表示されていたのは三元帥から送られてきた一斉メール。
状況が良くない事は、秋透も感じ取っていた。
「お前等は知らないだろうが、昨晩は月例会議が軍の総本部で行われていた。親父もそれに参加してきた筈だが……さっき電話越しに話した時、不機嫌を隠せていなかった。殺気じみたモノすら感じた程にな」
その秀静の言葉に、和真は目を丸くした。
何故なら秀静の義父、咲儀は、外見とは相反してかなり温厚な性格であるから、”殺気”などという事は想像も付かないのである。
言葉が見付からないのか、口をパクパクと動かしてから、口を閉じた。
代わるように、秋透が秀静に問う。
「……その理由を、召集時に話されるんだろ?」
「多分な」
「多分どころか、それしかないだろう」
重苦しい面持ちでそう言った和真。
秀静は和真に苦笑で応えると、言う。
「何にせよ、この先は荒れるぞ。それだけは確かだ」
混乱。
恐怖。
絶望。
そういった負の感情が、これから溢れ出す。
常に戦場で生きてきた彼等が、不安を見せるような状況。
深刻そうな表情と口調で、誰に向けるでもない微かな殺気を放つ二人に、秋透は思わず身震いをした。
* * *
午前九時。
特務室は人で溢れていた。
理由は三元帥からの一斉メール。
広々とした特務室でも、サポーターを含む全極東軍員を並ばせるには少し狭いように思われた。
扉を潜ってすぐ右側にはコネクター。左側にはサポーターと、自然と別れて列を作っている。
普段ならばサポーターの入場が認められない《特別棟》にあるだけに、喧騒は一際目立った。
任務中の者等にも召集を掛けたのか、普段基地内で見掛けない面々も揃っている。
秋透は秀静、詩帆、悠、和真とともにコネクターの列に混ざっている。
皆落ち着きがなく、室内はやや騒がしいが、同時に何かを察しているような面持ちだ。
「皆、混乱してますよね……当然」
悲しげな、そして不安げな様子で小さく呟いた詩帆。
悠が詩帆の頭を撫でて落ち着かせる。
「そりゃ、ね。……正直、僕も困ってるよ。仲間を守るにはどうするのが最善か、全然分からなくて」
「同感だな」
「ああ」
「そうですね」
悠の言葉にそれぞれ頷いて同調する秀静、和真、秋透の三人。
また、詩帆も頷いて返した。
そしてその次の瞬間、三元帥が揃って姿を現した。
室内が一気に静まり返る。
全員の視線が、三元帥へと集まる。
「突然の召集への対応感謝する。今回、恥ずかしながら我々は諸君等に詫びるべき事態に陥った。まずは事態の説明をさせて欲しい」
重苦しい空気の中、話を切り出したのは咲儀だった。
言い終えると咲儀は一歩身を引き、代わって帆春が前へ出て、言う。
「昨日、軍総本部基地にて月例会議が開かれておりました。そこで入手した情報です。はっきり言いますが、我々極東支部は、本部からの裏切り行為を受けました」
その瞬間、室内は一斉にざわめいた。
当然だろう。
何故ならその言葉は全くもって、予期せぬ内容だったのだから。
収まりを見せない室内。
だが帆春は構わず、続ける。
「鏡界で新たに出現した驚異《神器》についての情報を、アジア支部は極東支部にのみ秘匿し、また他支部もこれを黙認し、極東軍の衰退を図ったのです」
次々と語られる信じ難い話。
室内は一層騒がしくなった。
また、何かがあると察していた秀静を初めとする面々も、流石にここまで大規模な内容は想定しておらず、全員が驚きを隠せないでいた。
『マジかよ……』
『実力もないクズどもが……っ』
『極東が滅べば軍そのものの弱体化になるというのに……』
『能無しの支部長どもが、馬鹿な真似を……っ』
そんな呟きが室内を満たしていた。
三元帥は押し黙り、室内でのやり取りを聞いている。
時とともに膨れ上がっていく室内の怒り。
その怒りが頂点に達する直前。
時和が口を開いた。
「諸君等の怒りはごもっとも。私達も同じ気持ちだ。アジア支部や、他支部が憎い。そして極東軍ならば戦り合えるだけの力を保持している」
室内は、打って代わって静まり返っている。
帆春が話し出した時と同じように。
だが一つ異なるのは、聞いている人員の表情だ。
先程の疑念に満ちた不安げな表情ではなく、怒りに満ちた表情。
全員が眉を吊り上げて、怒りを露にしている。
そして同時に、次の言葉を待っていた。
”復習”、”報復”といった言葉を、待っていた。
しかし時和は、言う。
何処までも穏やかに、続けていく。
「しかし我々は復習などという下らない事はしないし、させない。確かに彼等の行為は誉められたものでは決してない。罰せられて当然だ。だが彼等を殺して、何になる? 我々コネクターの敵はキャスターだ。そしてサポーターの職務はコネクターへの援助だ。ならば人間同士での争いに、何の価値がある?」
誰一人、反論はしなかった。
反論出来なかった。
何故なら時和の言っている事は全て、事実だから。
そしてそれは、この場に居る全員が理解しているのだ。
また、時和も全てを承知した上で、次々と言葉を重ねている。
「今後の動きを伝える。……危険な任務になるだろう。だから強制はしない。……任を受ける者だけ、ここに残れ。五分待つ」
室内が沈黙に包まれた。
皆、どうするか考えているのだ。
しかし全員、分かっていた。
この任務は、受けるべきではないと。
コネクターもサポーターも関係ない。
今度の任務には、過去最大の危険と、過去最多の死者が出る。
その事を全員が、悟っていた。
五分間の内に半数以上が出ていった。
一人。
また一人と出ていく。
仲間が、友人が出ていく姿を横目に見る度、この任務に対する恐怖が膨れ上がっていく。
無論、コネクターも大勢が退出した。
いや、室内に居た大多数が特務室を後にした。
そして最後まで室内に残ったのは、コネクター三十名。サポーター四十五名。計七十五名だけだった。
極東軍員の三分の一に満たない人数だ。
残った殆どの者が、暗い面持ちだった。
顔面を蒼白にして、必死に震えを堪えている。
重苦しい沈んだ空気の中、時和が話を切り出した。
「ここに残ってくれた諸君。よくぞ恐怖に打ち勝ってくれた。私達は敬意を持って、感謝の意を述べよう」
残った者。
それはつまり、難関任務への志願者だ。
その中には当然、秋透の姿もある。
秋透だけではない。
秀静。
詩帆。
悠。
和真。
朱羽。
吉良。
美怜。
彼等も、この場に残っていた。
その他、勝史を初めとする上級コネクター五人も居る。
また、秀静、悠、和真と同フロアに自室を持つ二人、七草鈴音と九瀬深桜の姿もある。
「部隊編成や作戦は追って伝達します。今後は任務に備えてください」
* * *
帆春の言葉を合図に揃って特務室を出ると、秋透はお馴染みの四人。同期三人。先輩二人とともにカフェテリアへと向かった。
当然、現在のカフェは無人のまま静まり返っていた。
それぞれコーヒー、紅茶などを手に一ヶ所に集まると、各々雑談に興じていた。
「そういえば、深桜と秋透は初対面ではありませんか?」
ティーカップを手にした詩帆が、不意にそう言って二人を見遣った。
「ん? ああ、言われてみれば……」
「確かにそうだわ! じゃあ改めまして。あたしは九瀬深桜。宜しくね? 新人君」
美人、いや容姿は整っているのだが、どちらかというと可愛らしい雰囲気の桃色髪の少女は秋透を見てそう言った。
初対面にしては少し砕け過ぎな挨拶にたじろぎつつ言葉を返す。
「は、い。波木秋透です……宜しく」
ニコニコと笑みを浮かべる深桜の傍ら。
鈴音が苦笑しながら「ご・め・ん・ね」と代わって口を動かしていた。
無論、秋透に対してだ。
深桜と鈴音は幼い頃からずっと一緒で、かなり気心の知れた中だという。
恐らく破天荒な深桜に代わって、いつも鈴音が気を回してきたのだろう。
秋透は無言で微笑んで応える。
「秋透って、何かと名家の出身者と縁がありますよね」
詩帆が言うと、
「ああ、確かにそうかもね」
と悠が頷き、
「の割には態度がなってねぇけどな」
などと秀静が悪態を吐いた。
そして、
「敬語も敬称も要らないって言ったのはお前だろ、明峰!」
という秋透の反論に回りの面々が苦笑した。
その時。
全員の端末機が一斉に鳴った。
メールの受信を報せる、アラーム。
皆それぞれに画面を見て、次いで揃って真剣な表情になった。
三元帥からの一斉送信。
内容はこうだ。
【七月十日 午前十時より特別任務を開始する。
特務専行部隊の計十名を二班に分け、
遊撃部隊として最前線へと出動。
なお、六尾勝史大将率いる第一部隊は、
元帥直下の別枠任務での出頭とする。
第二部隊 明峰秀静少佐
紅月悠少佐
天野宮詩帆中尉
波木秋透特務二等兵
八雲朱羽二等兵
第三部隊 一色和真中尉
七草鈴音少尉
九瀬深桜少尉
十蓮吉良二等兵
河野美怜二等兵
以上十名を遊撃部隊とし、他隊員はそれの補佐。
今任務における特例として、二等兵以下の鏡界介入
を許可する。 】
メールの内容は任務について。
そしてここに居る全員が、最前線に立つ。
それは命を懸けるという事。
「……暗い」
「は?」
静まり返っていた部屋の中、不意に声を発したのは吉良だった。
唐突な発言に秋透は思わず聞き返し、一同は呆気に取られた。
状況に不似合いな態度のまま、吉良は言葉を続ける。
「暗いねー、皆。そんな深刻に用心深く構えても、無意味じゃない?」
「……一利ある、とは思うけど……」
呆然とする秋透。
恐らく大層間の抜けた顔をしていた事だろう。
対して朱羽はやや怒り気味だ。
「吉良! 貴方は状況が分かっていないのですかっ!?」
「分かってはいる。けど深く考えてはいない」
「なっ」
憤慨を露にし掛けた朱羽を無言で制したのは悠だった。
静かに片手を掲げ、朱羽を黙らせると、次いで言う。
「吉良君の言い分が正解だよ。考えれば考えるだけ最悪の想像が浮かぶ。そうなれば当然何も出来なくなるし、下手な作戦を練れば、それが機能しなかった場合は動揺しか残らない。だから最善は、ゆったりと、落ち着いて、気長に任務当日に向けて備える事だよ」
微笑を浮かべ、穏やかな口調でそう言った悠。
それだけで、場の空気が緩む。
流石は紅月だと、全員が思っていた。
ニコニコと微笑む悠の隣に座っている詩帆が、続いて口を開く。
「では皆さん。部隊編成も分かりましたし、今後は各部隊ごとに強化訓練を行っていきましょう」
両手を揃えて微笑む詩帆。
そして反論ではないが、言葉を返す深桜。
「ていうか、このチーム分け。明らかに第二部隊がベースでしょ……。やるなら第三は援護中心の訓練をすべきだと思いますが、いかがでしょうか、詩帆様」
深桜は九瀬家の出身である。
九瀬家は主に明峰派閥の家柄で、どちらかと言えば実技方面を得意とする家系だ。
しかし深桜の意見は戦術や戦略をも鑑みた適切な判断だった。
戦術に長けた紅月家である悠も、同様の意見である程に。
詩帆は深桜に一度頷くと、続ける。
「深桜の言う通りです。第二は紅月少佐、第三は一色中尉を中心に今後の方針や戦略を練るのが妥当だと思います」
《軍十家》はいずれも《三大名家》の内の一家の派閥に所属している。
それはつまり、《三大名家》の重視する技術が派閥内の《軍十家》に大きく影響するという事だ。
和真の出身家である一色家は紅月派閥の家柄である。
故に必然と、一色家も戦術・戦略を重視した訓練を行う。
和真自身、物心が付いた頃には既に高度な戦術訓練を受けていたという。
恐らく今回、和真が第三部隊に振り分けられた理由の大半は家柄の関係だろう。
第三部隊の戦略的統一を図る為に。
再び固い空気になり掛けたところで、秀静が言う。
「んじゃ、今後は別々だな。秋透と八雲は死なない程度にしごいてやるよ」
「「え……」」
秋透と朱羽の頬がひきつる。
二人の反応を愉快げに眺める秀静。
また、詩帆と悠は微笑み、吉良は「へぇ」と意味深な笑みを浮かべ、美怜は無表情に二人を見遣り、その他の面々は苦笑している。
何とも統一感のないメンバーだ。
「……朱羽、良かったな」
「はぁ?」
「《三大名家》次期当主候補様方の指導受けれんぞ……」
「ああ……」
朱羽は秋透を羨んでいた。
秀静、詩帆、悠からの指導を。
しかし現在の彼女は、喜びと恐怖を織り混ぜたような、微妙な面持ちで苦笑している。
それに秋透も同調した。
* * *
極東軍基地のフロント前を通り、ロビーを抜け、薄暗い廊下へ進む。
仄かに照らしてくる蛍光灯を頼りに奥へ足を進めると、右側に見えてくるエレベーターの
扉。
地下四階まで続くエレベーターを地下二階で降り、左右に伸びる薄暗い廊下を歩く。
微かな明るさの中で目を凝らし、一枚の扉の横にある文字を読む。
【第六訓練場】と書かれた扉の前に立つと自動的に扉は開き、室内の明るさに思わず目を伏せた。
次いで耳に届く衝撃音に顔をしかめる。
耳をつんざくような金属音。
室内から放たれる圧力の元は、二人による攻防だ。
一つに束ねた豊かな赤髪を揺らし、朱羽は宙を舞う。
そして彼女の履いている靴は、軍の支給したものではないとすぐに分かる。
膝を覆い隠す黒の板。
同じく黒い鋼鉄のブーツ。
それこそが彼女の驚異的な跳躍力の実態。
朱羽の持つ《力》、《鉄風》を《武器化》した姿だ。
《鉄風》とは、キャスターとの《シンクロ》で得られる《波動》の大半を脚へ、つまりブーツへと送り込む事で絶大な脚力と破壊力を得るというものだ。
また、《波動》を《具現化》して放出する《波力攻撃》の技術を応用し、足先から放出する事で長時間の滞空を可能とする。
床を蹴り、宙で身を翻して秋透へと突っ込む。
盛大な衝撃音が室内を包み込んだ。
しかし秋透は、《護鬼》の刀で朱羽の攻撃を弾く。
そのまま二撃目を繰り出す。
この攻撃は、朱羽のものより速い。
だが反応速度は朱羽が勝っていた。
振り下ろされた秋透の刀。
その峰を朱羽は更に蹴り下ろし、その反動を利用して天高く舞い上がり、距離を取る。
お互いに呼吸は乱れ、方を上下させている。
消耗しているのは明らかだ。
それでも、戦闘は再開される。
そんな二人を離れた位置から見守る二人の男。
秀静と悠だ。
そしてその二人に、詩帆が歩み寄っていく。
詩帆に気付くと悠はニコリと微笑み、言った。
「やあ、詩帆ちゃん。早かったね?」
というのも、悠と秀静は詩帆がシャワーから戻ってきたという事を知っているのだ。
無論、二人も行って、先に済まして帰ってきたのだが。
三元帥から特別任務を任せられてから、既に数日が経過している。
どの部隊も連日訓練に明け暮れていた。
現在時刻は早朝七時半。
秋透と朱羽はかれこれ一時間近く攻防を続けているが、その前に三人も交代で訓練をしていたのだ。
一段落してシャワーを浴び、そして現在に至る。
「……詩帆ちゃん。湯冷めするから、髪、しっかり乾かしといで」
悠は詩帆の髪を見てそう言った。
その通り、詩帆の髪はやや水分を含んだ状態で、無造作に束ねられたまま肩の上に流れている。
いくら七月と言えど、基地内には冷房が掛かっており、また、訓練場内は更に冷やされているのだ。
それは訓練者に合わせた設定温度であり、傍に立っているだけの者にとってはやや肌寒い室温なのである。
詩帆は悠の言葉に、少しだけ不満げに彼を見上げた。
詩帆も二人の攻防が見たいのだ。
次いで訓練中の二人を見遣った。
悠は苦笑すると、
「大丈夫でしょ。多分もう少し掛かるから……」
しかしその考えは、
「いや、もう終わった」
と次いで発せられた秀静の言葉に打ち消された。
同時に、室内に響いた爆音。
詩帆は一瞬身体を強張らせたが、秀静と悠はただ爆風の中心を見詰めていた。
そこにあったのは、膝を付いてしゃがみこむ朱羽と、刀の先を床に突き立てて立つ秋透の姿だった。
勝敗は、誰の目にも明らかだった。
「……八雲。秋透と戦ってどうだった?」
その秀静の言葉に、朱羽は息を荒げながらも立ち上がり、秀静に向き直った。
しかし、苦悶の表情を浮かべて。
「……悔しいですが、彼の実力は…私より上です……」
「ふむ」
腕を組んで頷くと、秀静は続きを促す。
「けれど、攻撃が素直過ぎると思いました」
「……成る程、確かにそうだ」
秀静の同意に、しかし朱羽は下唇を噛んで、答える。
「はい。駆け引きを習得すれば、彼は一層強くなれる……。仲間としてはそれを応援しますが……同期としては、やはり負けたくないです……っ」
朱羽の声は段々と弱々しくなり、最後には申し訳なさそうに目を伏せてしまった。
彼女は幼少の頃より【八雲】としての高度な訓練をしてきた筈だ。
《軍十家》として。
《三大名家》を支える者として。
そして朱羽がかなり優秀である事は、皆分かっていた。
実際、秋透自身も危うい場面は幾度となくあったのだから。
だからこそ、新人に負けた朱羽の悔しさは計り知れなかった。
「なら、次は勝って見せろよ」
「!」
秀静は不意にそんな事を言った。
朱羽は目を見開き、しかしすぐに微笑むと、真剣な眼差しを秋透に向け、言う。
「当然です」
その声には闘志と、確固たる決意が含まれていた。
そしてその場の全員が、朱羽の再戦を心待ちに思い、各々微笑んだ。
「よし。演習はこれで終わりにするが、午前中の自主訓練は許可する。だが午後は明日に備えて休め。以上」
秀静はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。
今日は既に七月九日。
明日、特別任務が決行される。
三元帥からの任務を受けてから、皆訓練に集中して取り組んできた。
体術。
呪術。
戦術。
得手不得手関係なく、全員が己を高めるべく努力してきたのだ。
それら全てが、明日、発揮される。
時刻は八時の少し前。
特別任務に参加するコネクターは皆一様に、防音機能のある訓練場を訪れており、同じく志願したサポーターの大半が事前調査の為出払っている。
また、非志願者の者等は、志願者が抜けた分の任務を分担して行っている。
お陰で殆どの人員が出払っているのだ。
その為、基地内はいつになく閑散としている。
「……静か、ですね……」
ポツリ、と呟いたのは詩帆だった。
その表情は何処か寂しげで、憂いを帯びているようだった。
「そう、だね。今は少し、仕方がないのかな……」
悠も少し、寂しげだった。
訓練場のある区域を出ると、すぐそこはロビーになっている。
ロビーは殆どの場所へと繋がっている為、普段ならば最も人が行き交う場所なのだ。
食堂やカフェテリアに向かう者。そこから出てきた者。
訓練場の使用許可をフロントで取る者。
訓練場に向かう者。出てきた者。
任務に向かう者。帰ってきたもの。その迎えをする者。
多くの人が行き交い、賑わっていたロビーですら、フロントに居る千里以外の人気はない。
その光景に、現在の殺伐とした状況をより一層強く、突き付けられている気さえしてくる。
悠は俯く詩帆の頭を撫で、彼女を宥めるように言った。
「……任務が終わったら、皆で打ち上げをしよう? 父上達にも協力してもらってさ。ね?」
詩帆はゆっくりと顔を上げると、潤んだ瞳を目一杯細めて、微笑んだ。
悠も笑みを浮かべると、振り返った。
「秋透君、朱羽ちゃん。朝食、行くでしょ?」
ニコッ、といつも通りの気さくな笑みを浮かべる悠。
秋透と朱羽は顔を見合わせ、それからふっ、と笑みを零した。
「言われてみれば、腹減りましたね」
「そうですね。ご一緒しても宜しいですか?」
詩帆はパッ、と振り向くと、笑顔で答えた。
「はい、勿論です!」
どうしてなのか。
戦地へとこれから赴くというのに、どうしてこれ程までに、落ち着いて居られるのだろうか。
寂しさはある。
広々とした空間に、聞き慣れた騒がしさがない。見慣れた人影が、ない。
しかし、恐怖はなかった。
死への恐怖。
生への渇望。
未来への執着。
そんなものは、微塵も存在しなかった。
仲間の為なら。
仲間の為になら、自分の命を懸ける事に、何の躊躇いもなかった。
その為なら、何の不安もなかったのだ。
けれど仲間の為に、生きよう。
そう、思えた。
詩帆は内心で、思い出していた。
記憶の中の、今は亡き、最愛の兄の言葉を。
”仲間の為に死んでも悔いはないけど、俺が死んで悲しんでくれる人が居る。だから、生きるんだよ。……詩帆にもいつか、分かる日が来るよ”
(……はい、お兄様。今なら、分かります)
兄のその言葉こそが詩帆の核であり、彼女が自分に課した存在意義なのである。
決戦を目前にして、彼等は普段通りの生活を送っていた。
* * *
【調査経過報告。
捜索対象発見。
協力要請への合意を確認。
これより帰投する。 】
簡素な文字列を眺める三人の男女、もとい三元帥。
「これが、”彼等”が生きて帰投出来た最大の理由か……」
愉快げに微笑む時和。
その隣では帆春が顔を覆い、咲儀が瞳を伏せていた。
”彼等”とは、秋透、秀静、和真の事である。
ゼロに近いとされていた彼等の生存帰投。
それを可能にしたのは、彼等を助けた謎の集団であった。
公にはされていない機密事項の為、この事は詩帆と悠も知らない。
知っているのは当人三人と、三元帥。そしてこれを調査しに行った第一部隊の五人だけだ。
そしてその集団は、間違いなく戦況を大きく左右する。
だからこそ三元帥は慎重に、しかし楽しげに、事を進めていた。
【第九章】も書き終わり、ついに次章は決戦!
となりました。
描写が段々と難しくなってきておりますし、話の結末が纏まらず混乱ばかりの今日この頃……。
何はともあれ、どうか最後までお付き合いください!
読んでくださりありがとうございました!!