別人の死体
――ミャアオウーッ。
月夜の晩だった。
遠くで野良猫が鳴いていた。
「こんばんは」
「千加子……」
長い髪、ハイヒール。
茶のレインコートの女が月光を背に佇んでいた。
あの日きていた赤いワンピースと共に。
「サンちゃん、殺した女とは別の人間の死体が上がったんだって?」
新宿署の片隅で、強面を振り向けて加納が三宮に問いかけた。
「若狭の話だとそうらしい。3年前、豪田夏雄は不倫相手の沢松千加子を殺害して失踪した。豪田はその後ホームレスになり放浪していた。ところが昨日、とつぜん豪田が自首してきたんだ。殺した女を目撃したと震えながら……」
「はあっ? 幽霊でも見たのか?」
「さあ……豪田の供述どおりに雑木林を掘ってみると……沢松千加子ではない人間の白骨死体が発見されたんだ。男だ」
「なんだよ、そりゃ?」
「死体は服を着ていた。ポケットの免許証からすぐに身元が判明した。沢松千加子のもう1人の不倫相手、藤原遼一だった。3年前に失踪届けが出ている」
「そりゃまた複雑だな。それで? 沢松千加子の遺体はどうなったんだ?」
「豪田夏雄はパニック状態だ。千加子が生きていて、おれを殺そうとしてると暴れはじめた。病院に入れてある」
「不思議な話だな」
「ところで永ちゃん、その花束は?」
「ちょっとな……」
「繭子さんか?」
「サンちゃんも行くか? 麻子さん、繭子のところで働きはじめたんだろ?」
「繭子さんには感謝してるよ。どうもありがとう。旧田崎邸に住み込みで働かせてもらってる。繭子さんのアシスタントとして雇ってもらったんだ」
「繭子が本当に帰国して弁護士事務所を開くとは思ってもみなかったよ。あいつのご両親も一緒に住んでいるんだよな。息子も……」
「まだ会ってないんだって?」
「ああ……写真はおれによく似てた。繭子も人が悪い。おれにひとこと言ってくれればよかったのに」
「言えなかったんだろ? 察してあげろよ。おれも人のこと言えた義理じゃないけど……おれは今晩はやめとくよ。昨日、麻子にフられたばかりだから……」
「そうか……」
加納は真紅の薔薇の花束を持ち、旧田崎邸、繭子が両親と移り住んだ屋敷へ向かった。
「いらっしゃい……その薔薇は何?」
繭子が出迎えてくれた。
あいかわらず美しい。
真っ黒なボブに真っ赤な唇。
身体のラインも美しく、とても40近い女には見えない。
ストライプのオーバーシャツに白いパンツ姿でラフな格好をしている。
加納は繭子に花束を差し出した。
「繭子……もう1度、け、けっこんしてくれ!」
「ストレートね」
「指輪はまだ用意していない。一緒に買いに行こう!」
「指輪なら持ってるわ。あなたがハタチのときに買ってくれた結婚指輪」
「あんな安物……まだ持っていたのか?」
「あなただって持ってるじゃない? タンスの奥に大事に仕舞われてたわ」
「なら……高価な婚約指輪を買わせてくれ!」
「していくところがないからいいわ。上がって。息子に会いたいでしょ?」
「会わせて……くれるのか……?」
「もちろんよ。どうして?」
「繭子ひとりに育てさせてしまったから……認知させてくれ!」
「わたしが勝手に産んだんでしょ? いいから、上がってよ。両親は食事に行ってるわ。麻子さんは実家に帰ってる」
「そうか……では、お邪魔します」
花束を受け取りスタスタと奥へ歩いて行く繭子を、加納は慌てて追いかけた。
「しーっ……今は寝てるわ。あの子、寝てるときだけはおとなしいの」
繭子がある部屋のドアを開けた。
奥のベビーベッドに子供が寝かされていた。繭子が間接照明をつけた。
暗がりに浮かび上がったその子の顔は、加納に瓜二つだった。
「よく……寝てやがる」
「感想はそれだけ?」
「繭子には、どこも似てないな」
「…………行きましょうか?」
「もうか? もう少し……」
「また来ればいいでしょ? なんなら泊まってく? 部屋ならいっぱい空いてるから、移り住んでくれば?」
「それは……ご両親もいるのに、そんな図々しいことはできない!」
「はい、はい。相変わらず固いのね? 応接間に来て。パンサーの子供を見せるから!」
「ちょっと待ってくれ! 子供の……名前は?」
「永人よ! 永遠の人って書くの。いい名前でしょ?」
「おれの名を……繭子……どうもありがとう」
「行きましょう」
加納は繭子と応接間へ行き、黒猫の子供を3匹見せられた。
――ミャーミャーミャー!
「どうすんだ、こんなに! 子供に悪さでもしたら……」
「心配症ね? この子たち、すごくいい子よ?」
「だけど……」
「だったら……あなたが引き取る?」
「おれは、パンサー1匹だって面倒見切れなかったんだ! 無理に決まってんだろ!」
「はいはい……おなかは空いてない? 何か作りましょうか?」
「空いてる……簡単な物でいい」
「じゃあ、残りご飯でチャーハンでも……」
「あ、いや、待ってくれ。緊急の連絡だ……はい、もしもし……なに? ああ……わかった、すぐに行く」
「どうしたの?」
「昨日、雑木林で白骨死体が見つかったろ? その男と不倫していた女の、旦那だった男が殺された。これから現場へ直行する」
「そう……気をつけて。うちにはいつ来てくれてもいいわよ」
「ありがとう……あの……返事は……」
「また今度ね! 事件が解決したら!」
「事件が解決したら? はあっ……行ってくる」
加納は繭子に軽く手を振り屋敷を後にした。
門のところに三宮が車で待機してくれていた。
「おうっ! サンちゃん、すまない!」
加納が乗り込むと車はすぐに発車した。
「あの……麻子は……」
「麻子さんなら、実家に帰ったらしいぞ?」
「そうか……じゃあ、和解したんだな……」
「サンちゃんからも、麻子さんの実家に口添えしたんだろ?」
「まあな……永ちゃんは? プロポーズは上手くいったのか?」
「その前に事件解決だそうだ」
「事件解決?」
車は15分ほど走り、事件現場のマンションに乗り付けた。
非常線が張られ、パトカーが非常灯を回しながら待機していた。
加納と三宮は野次馬を押し退けながら非常線の中へ踏み込んでいった。
現場は2階でとなりのビルと隣接していた。
「あっ! 先輩方! こっちです!」
若狭が部屋の奥から手を振ってきた。
男がベランダに倒れていた。
「第一発見者は?」
「管理人です。会社から出勤して来ないと問い合わせがあったのでマスターキーで入ったそうです」
「そうか……」
「死亡したのは昨夜から朝方にかけてと思われます。ベランダの花に水を遣っている途中で絞殺された模様です。現場は完全な密室状態でした」
「部屋は? 荒らされているのか?」
「いいえ。現金その他に手を付けられたあともなく、ガイシャに目立った傷も争った様子もありません。死体の首を絞めた凶器は見つかっていません。死亡していたのは沢松寛治45歳。昨日、自首してきた豪田夏雄が殺したと言っていた女の亭主です。真面目な会社員で子供はいません。妻の千加子は夫の同僚の豪田夏雄と、同じマンション内に住む藤原遼一の2人と不倫をしていましたが、3年前に失踪しています」
「はあっ? じゃあ……沢松千加子はダブル不倫なわけか? しかも、浮気相手が2人もいたのか?」
「はい。若いころからかなりの発展家だったそうです」
「永ちゃん、どうする?」
「まずは沢松千加子を殺したと言い張っている豪田夏雄に話しを聞こう」
「そうだな、豪田は病院に収監されているからあしたの朝、行ってみよう」
「そうしよう……くそっ、チャーハンを食いそこねた」
「チャーハン?」
「なんでもない……」




