プロローグ
――パタン。
午後11時『ムーンマジック』
「亜子ちゃん、こんばんわー、イノッチいる?」
「お邪魔するよ」
くたびれ果てた様子で、加納永吉と三宮刑事が入ってきた。
「……いらっしゃいませ。カウンターの奥にいます……」
不機嫌な様子で、バーテンダー見習いの亜子が答えた。
「なんだ? 元気ないな……あれ……」
加納永吉が店の奥を見やると、猪熊吾朗探偵が美しい女とスツールに腰掛けていた。
「サンちゃん、悪い……」
「ああ……」
加納は三宮に詫びを入れ1人奥へと向かい、猪熊の肩をトントンと叩き、急いで立ち上がる彼の代わりにカウンターに座った。
「亜子ちゃん、シーバスをロックで頼むよ」
三宮が手前のカウンターに腰掛け注文した。
「……はい」
亜子は相変わらず渋い顔をしたまま、ロックの準備をはじめた。氷を削るナイフの切っ先に殺意が宿る。
「三宮刑事! 亜子さんはイノッチ先輩が美女と一緒なんで機嫌が悪いんです!」
バーテン見習いの佐藤榮太郎が、亜子の代わりに大きな声で耳打ちしてきた。イケメンでソツのない彼は『ムーンマジック』のアイドル的な存在だ。
亜子が榮太郎を、ギロリとにらみつけた。
「美女って……あれはだって……」
「……だって?」
「永ちゃんの元の女房だよ。名前は繭子。神宮寺繭子。37歳の女弁護士。ときどきテレビに出てるだろう?」
いつの間に来ていたのか、猪熊が三宮の隣に座りながら、彼の代わりに答えた。
「そういえば……見たことある! 実物のほうがずっと美人だ。ですって! 亜子さん、よかったですね?」
「……おめえは……黙ってグラスでも磨いとけ……」
亜子が低い声で命令をした。
「……はい」
そそくさと退場する榮太郎と入れ代わりに、亜子が三宮にシーバスのロックとナッツを差し出した。ロックの氷がいびつになっている。
「亜子ちゃん、ありがとう」
笑顔で三宮は受け取りながら、今度からロックは他の人に頼もうとチラッとマスターを見た。そ知らぬ顔でグラスを磨いている。さすがプロだ。
「亜子ちゃん、おれもサンちゃんと同じシーバス。シングルで!」
「はい!」
すっかり機嫌のよくなった亜子が、猪熊にスコッチと共にナッツとミネラルウォーターを差し出した。世話女房のようだ。この2人、これで付き合うどころか告白もまだだというから驚く。
「サンちゃん、繭子さんとは久しぶりだろ? あいさつしなくていいのか」
猪熊がグラスを舐めながら話しかけてきた。猪熊も三宮も酒があまり強くない。
「いいよ。相棒の別れた女房になんてあいさつするんだ? 新しい男はできましたかってか。あの2人、まだ気持ちが残ってんだろ」
「ときどき会ってるみたいだぜ?」
「会えるだけいいよ。おれの女房なんて行方知れずだ……離婚もできないよ」
「探してもいないくせに」
「現実を見たくないんだ……永ちゃんは、別れてどれぐらいだ?」
「5年だろ?」
「おれは3年だ……5年は長いな。繭子さん、今はニューヨークにいるんだろ?」
「ああ……永ちゃんに会いに、ときどき日本に帰ってくるみたいだぜ? あの2人にとっちゃ5年なんてあっという間さ。永ちゃんは12歳のころから、繭子さんに夢中だった」
「中等部のころからずっとか……2コ上の先輩だったんだろ? いつから付き合いはじめたんだ? イノッチと永ちゃんは小学校から一緒だから、詳しいんだろ?」
「繭子先輩は眼鏡におかっぱの地味な女の子だったんだ。でも、すごく優秀で生徒会長やってたから、おれたちの入学式であいさつをしたんだよ。永ちゃんがひとめぼれしてね。猛アタックの末、永ちゃんが中学を卒業するころにやっと付き合ってもらえた。大学生のときに学生結婚したんだ。繭子さんは法曹一家で、大学院のあとアメリカのロースクールまでいったんだぜ。永ちゃんはバリバリの警察官の家系でさ。夫婦揃って法学部を出たよ。仲がすごくよかったんだけどな……ところで今日はどうした? 火曜の夜なのに、遅くないか?」
「現場検証が長引いてね……例のラブホテルの殺人事件だ。新宿のキャバ嬢が、タオルで首を絞められて殺されていた……」
「そういえば、朝からテレビでやってるな。朝方、客と帰ったんだろ?」
「それが……その客は駅前で別れているんだよ」
「監視カメラは?」
「別々にホテルに入っているんだが、男は終始、黒のキャップ帽をかぶっていて、顔が判別できないんだ。眼鏡も掛けているし……ジーンズに黒のTシャツ。靴跡も大手量販店のものだ」
「じゃあ、証拠は何もないのか……動機は?」
「何もないよ。キャバ嬢は29歳。特別売れてもいないし、売れてなくもない。特別美人でも、美人でなくもない。つまり目立たない存在だ。借金はないが男に貢いでいる節があった。他にトラブルはない」
「その貢いでいる男は?」
「ばっちり、アリバイがある……こりゃあ、長引く事件だな。明日、早朝から会議あるんだ。すぐに帰らないと……」
「あなたは相変わらず、モルトのダブルなのね……」
繭子が美しいまなじりを上げ、加納の強面を見すえた。ショートボブに地味な紺のスーツと白のブラウスでも、充分に華やかさを演出できる女だ。クッキリと描いた黒のアイラインと真っ赤な唇が、外国のキャリアウーマンであることを物語っていた。
「最近はヤマザキもいけるぜ? 繭子……香水つけるのやめたのな……男か?」
「……男……性別は男よ」
「……今夜は飲もう! 瞳さん、もう1杯たのむ。んっ? 酒豪の繭子がカクテル? 赤ワインの『カーディナル』か」
「『やさしい嘘』って意味があるわね」
「嘘か……」
5年前、加納は繭子に嘘をついた。それが原因で2人は別れた。
繭子は単身ニューヨークへ渡った。
加納はその飛行機を、成田にほど近い工場の寂れたフェンスから見送った。
――ザアアアアー、ザアアアアー。
水の音で目が覚めた。ところどころにシミの浮き出た見慣れた古い天井だ。築40年のマンションなんてこんなものだろう。
いや、違う。誰かがシャワーを浴びている!
それに、部屋がきれい過ぎる。おれの部屋のわけがない!
加納はいそいで飛び起きた! 毛布の下は、何も身に付けていない。素っ裸だ!
――キイッ。
そのとき、バスルームのドアが開いた。
「お目覚めかしら?」
バスタオル1枚の繭子が姿を現した。




