プロローグ
「こういう者ですが……お伺いしたいことがありまして」
女は目の前に差し出された警察手帳を見ると、白い手袋の中で震える指を占いテーブルで隠した。
「あの……なにか……」
「ああ! そんなに脅えないでください。露天の取締まりをしているわけではありませんから」
「そ……そうですか……」
「お仕事中すみません。わたくし新宿署の三宮、こちらは若狭と申します」
サラリーマン風のくたびれた刑事のうしろで、若い刑事が会釈した。女も俯いたまま、軽く頭を下げた。
「そこの路地の奥で人が殺されていたものですから。新聞配達員に発見されたのは朝方ですが、死亡推定時刻は昨日の夜中です。袋小路だから、犯人はあそこからしか逃げられなかったはず。このあたりは防犯カメラが無くて……不審な人物を目撃するか、不審な物音を聴いてはいませんか」
三宮が、道路を挟んで二メートルほどの向こうにある、正面の細い路地を指差した。街灯が壊れているため路地の奥は真っ暗だ。
「あ、あの……は、犯人はお、男ですか」
「いえ、そうとも限りません。男と女、両面から捜査しています」
「そうですか……あの……特に何も……まだ勉強中の身で……本を見ていましたので……下を向いていたから……」
「昨夜は何時ごろまで、ここにいらっしゃいましたか?」
「……夜中近くまで居ました。あの……すみません。深夜営業の許可を取っていなくて……それで……」
「ああ、そんなことは気にしないでください。新宿でもこのあたりは治安が良いほうですからね」
「ありがとうございます……あの……終電が無くなる前に帰りたいのですが……」
女は占いテーブルの下で、己の指をもう片方の自分の手でしっかりと握りしめた。そうでもしていないと、テーブルがガタガタと鳴り出してしまうほど体全体が震えていたからだ。
「ああ! すみませんでした。もうすぐ終電の時間でしたね。それでは、少しでも何か思い出したら警察に知らせてください。些細なことでもかまいませんから」
「わ……わかりました」
三宮は俯いたままシドロモドロになる女を見て、これではらちがあかないなという顔で若狭と顔を見合わせると、警察手帳をポケットにしまった。
「明日の晩、またお話を伺いに参ります」
三宮と若狭は頭を下げると、女の左手に広がる繁華街へと消えていった。
刑事たちが繁華街の向こうまで完全に立ち去るのを確認すると、女はほっと息を吐いた。カツラと眼鏡をはずし、帰り支度をすると手袋も脱いで立ち上がった。
「占って欲しい」
女は飛び上がってしまった。
左斜め前方に男が立っていた。街灯に曝け出されたその姿は、今風の黒いジーンズに人工皮のベスト、白いTシャツを着て顎ヒゲを生やした若者だった。男は黙って女の正面に座った。女も仕方なく席に着き、手元の卓上ランプを点灯した。
「彼女がいなくなった」
「そういうことは、占いでは……」
「いいんだ。どうせ、おれに嫌気がさして出て行ったんだ。気晴らしに占ってくれ」
「……わかりました」
女は正式な占い師ではない。通信教育で少し習っただけだ。それが不安で仕方がなかった。男と恋人の生年月日と出生地を訊くと、テーブルの下でスマホを取り出し相手にわからないように検索をはじめた。占いの概略がわかれば、あとは本を見ながら適当な言葉を付け加えればよい。占い師というだけで客は勝手に当たっていると思い込み、金をつぎ込んで帰っていく。
「あら? あなたはわたしと同じ魚座ね? ここ数ヶ月は魚座はツキがないわ。ジッと我慢のときよ。8月から9月にかけて火星のサポートが入るからそこまで待つことね。お相手の彼女は……今月が誕生日の蟹座ね。水同士で相性はいいわよ。でも、今は彼女の星周りが悪いみたい」
「いつになったら、聡子の星周りが良くなるんだよ」
「えーと……蟹座にいる木星が離れる9月9日あたりかしら……。あっ! 木星は魚座にも重なっているわ。木星はパートナーという意味がある星よ。それに、9月15日のお月見のころに、あなた個人に変化があると暗示が出ているわ」
「聡子とは、9月にまた会えるということか?」
「可能性はあるわね。でも、あくまで占いだから……」
「わかった……あと3ヶ月だな。それを信じて待つとしよう。おれ、あっちの通りのパチンコ屋で働いてんだ。おねえさんもやるんだろ? 指にパチだこがあるもんな。来たら声をかけてくれよ、出してやるから。人の顔を覚えるのは得意なんだ。おねえさんの顔もバッチリ覚えた!」
「……ありがとうございました」
「……3ヶ月後に聡子とまた来る。邪魔したな」
愛想のない女に呆れながらも、占いの結果に気を良くした男がテーブルに万札を置いていった。3ヵ月後、占いがハズレたと男が怒鳴り込んできても女はここにはいない。いまだけの臨時営業だからだ。
ランプを消して再び帰り支度をはじめた女の頭上を、一陣の風が通り過ぎた。6月の夜はまだ少し肌寒い。雲が取り払われ満月が顔を覗かせても、正面の路地の奥は真暗闇のままだった。




