表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

マラケシュ・マーケット

作者: タナカスズ

 そのゾンビ犬はスラムの少年や足の遅い老人を元気に食い破り、勝ったと思うと次の弱者を標的に定めた。ラドテク生体工学の廃品だろうというのがみんなの見解で、老練なスラム住人たちはつてを当たり、適当な料理屋の裏口なんかに隠れることに成功していた。連中、味方を見捨てて中国の料理人にかくまってもらったのはいいが、若い衆がノックしたときに入れてやるぐらいの甲斐性もないんだ。

 結局まだ十四のクロエが自家製スラグ弾の実包三つをジャケットのポケットに突っ込んで、黒塗りのアフリカ散弾銃を構え、最初の一発でそいつのいみじくも醜い頭をぶっ飛ばしたっていうんで事態は収束した。どこかで仕入れたマイクロ素子を読み出せば、どんな間抜けでも手作り実包のやり方くらい分かるようにできている。マイクロ素子は耳とか首の後ろのソケットに突っ込めば、たいていのことは教えてくれる。

 クロエがさらに残りの三発も使い切り、ゾンビ犬が得体の知れないぞうきんみたいになったところで、おれもそいつを冷やかしに行った。少年たちは興味本位で遠巻きに見ていたが、実のところ生きていたものが死んだのだという風には理解できていないみたいだった。おれだって、そいつが生きてたころにはカラスだったと言われれば信じただろうし、合皮のカバンだったとかでも信じただろう。クロエにたずねてみたところでは、目が白濁していて、全身が傷だらけだったらしい。蘇生実験の被害者だったんだ、とクロエが言ったとき、その技術で蘇るのはごめんだと思った。

 土曜の夕方だった。路地は洗濯物、薄汚いトタン張りの工場、砂埃でくすんだ窓ガラス。スラグ弾が総計四発ぶっ放されたことで、戦場みたいな匂いが立ち込めていた。死人はいなかったが、最悪の一日ということでみんなの感想は一致した。


 冬のマラケシュ・マーケットはソフトウェア故買と薬物で沸き立っていた。スラム人は廃材を漁ってマーケットに持ち込む。あの二億ヘクタールぐらいありそうな廃棄物集積場ではいつでも塩素のどぎつい臭いがおれたちを参らせ、カラスが緑色の涙を流して死んでいるという具合だ。おれは薬も酒も諦めてる。少しでもまともなハードウェアを揃えるのには金が要るからだ。印度大麻を混ぜ込んだ煙草なら買ってもいいが、二世代半も前のミツ電機コンピュータ北米版フレームの隣で、油染みのついたボール紙の上に並べてある数ケースがそれだ。集積場でまじめに働いたおれはまとまった金を手にしたことがあり、その八割がたを注ぎ込んでまとめて買ったのだ。クロエのとこの爺に貢ぐので丸ふたケースなくなり、雑用でうちに寄ったハイエナどもにご馳走してやった分をまとめると三ケースにはなるだろう。あいつら、おれが金持ちだと思っていやがるんだ。あの緑色のカサカサした薄紙でパックにして、裏には安っぽいインクで製造年月日をプリントした箱が全部なくなれば、おれは心底ついてないという気分に落ち込むだろう。どうにかありついたひどい食べ物を流し込みながら。


 こういうのを“転落”と呼ぶ。安請け合いのシステム掃除屋の辞書にはっきりと書かれている。

 あらゆる“間抜け”(これは動詞だ)の結果であり、最初の外乱入力の後の、閉ループ系の最終値が著しく低いことだ。棺桶みたいな数フィート立方のホテルに住んで最新モデルのハード群を鳴らしていたやつが、いつの間にやらこういうひもじい思いをしていることなどがそれにあたる。おれは転落したのだ。転落者は、黒いスーツを着た無名の売人――あのクローンみたいに同じ背格好をしたくそったれのジョンソン諸氏――から仕事をもらうことはできず、最新のハードを揃えることもできず、自らの過ちのためにほとんどの場合死ぬことになっている。生きのびたやつは死んだほうがよかったという気分になりながら生きることになり、おれは生きのびたほうだが、だから何だというのだろう。

 おれはグズの学生がやるようなシステム掃除の仕事で日銭を稼いでいるが、どこかの教授タイプの野郎が大いに粗雑に組み上げたシステムの粗を探し、解釈を交え、ていねいに修復する仕事だ。上がりの半分は家賃に消える。もう半分はハード類の維持費にかかり、これにはおれの肉体の維持費も含まれているというわけだ。

 ソフトウェアのことは自分でできるが、スラム界隈での生活を教えてくれるのはクロエのとこのルーカス爺だった。六十ぐらいの老兵で、フィンランドの攻撃ヘリを撃ち落としたことを今でも誇りにしている。それがいつのことなのか、やつははっきり覚えていて、おれたちが忘れているとすぐに、もう一度覚え込ませようとする。日付どころかやつが撃った弾の数やらその正確な時刻まで、おれたちにはおなじみなのだ。しかし捨て子のクロエを十四になるまで育てたのは立派な行いだったとみんな言っていて、クロエは爺ほど嫌味なやつには育たなかった。これは周辺の住民としては幸せなことだった、あいつは元気があるし物知りだ。やたらに冷戦にばかり詳しいのは先生のせいだろうが。

 おれがクロエのとこの爺をぶん殴って息の根を止めてしまわないのは、ひとえにやつが、流れのおれに親切にしてくれたからであり、そのささやかなコネクションの内側に取り込んでくれたからだった。やつを怒らせるということは、残りの三十人ぐらいのお仲間を怒らせることになるのだ。こんな生活でもおれには全てだし、まだ、失うわけにはいかないのだ。

 土曜の夜。おれは今やっている水道局の制御系の、見飽きたような記述から顔を上げて、来客を迎えた。爺だった。

 赤や青の薄手のターバンを巻き込んで、裾が床にまで付きそうなばかでっかいジャケットを着ている。砂漠の現住民族で、金品を強奪し、正規軍ジープのタイヤをパンクさせてる連中の一員と思われても仕方がないような格好だ。爺は銀髪を後ろでまとめて、ひげは三日分ぐらい残っている。隣には勇者クロエを従えていたが、例のアフリカ散弾銃は消えている。この老兵、ルーカスは金と銀の入れ歯をずんぐり光らせて笑った。

「よう、ルーカス」

「仕事はどうだね、ブルース……」

「最低」

 言って、おれは肩をすくめた。

「何か用……」

「怪我人が大勢出た。手伝って欲しいんだ」

「なあ、今とっても忙しくて――」

 クロエの非難したような目と出会って、それからルーカスをあらためて見た。やつめ、幸福そうに微笑を浮かべているんだ。行き場のないおれがコミュニティに逆らって袋叩きにされ、追い出されるところでも想像しているのだろう。おれは頷き、立ち上がる。

「五分待ってもらえるかい……」

「いいとも。広場へ来てくれ」


 仕事を中断して広場に出ると、確かに怪我人がたくさんいた。ほとんどは子供か老人で、動ける大人は自分で手当てをしていた。ルーカスは仕事はしないが、村長として本当にうまく役割を果たしていた。クロエは数人の大人たちに褒め称えられていたけれど、おれはあんな薄汚い格好をしたやつらにちやほやされても嬉しくないだろう、と思った。しかしクロエは年齢相応に笑っているので、あれがよほど精巧な嘘でないなら、彼女は喜んでいるということになる。

 包帯や薬品を持っているやつらはそれを持ち寄り、それら全てが公共の目的で使用された。おれはひそかに鎮痛剤を五錠とダウン系麻薬数グラムを隠し持っていたが、持ってくる気にはなれなかった。顔も知らない“家族たち”に包帯を巻いてやり、消毒液を塗ってやるあいだも、おれの頭は仕事のことでいっぱいだった。

 麻布を引っかぶって占い師の老婆みたいになっている女がいたので、次はこいつだった。よほど恥ずかしがり屋なのか、顔を隠すほど深く麻布をかぶっていて、妙に小綺麗な革パンツと、麻を掴む真っ白い手だけが見えていた。

「怪我を見せてくれ」

「しーっ、静かに」

 女が言った。おれはそのことだけで唐突に理解したが、こいつは怪我人じゃない。いかにも好戦的なこの声、こいつは笑みを浮かべていやがるんだ。それにくそったれの黒スーツどもと同じ匂い、つまり企業、職業、そして商売が匂う。

「お前さん、犬を見なかったかい……」

「おい、あんた――」

「質問に答えな。二度と歩けなくしてやろうか……、それともけつが好みかね……」

 麻布の間から、ちょろっと顔を出したものがあった。ぎらぎらに光るナンブ拳銃の銃口だった。おれはすくみ上がった。

「見た、見たとも。黒い犬で、目が白いやつだ」

 女はたっぷり時間をかけて銃を引っ込める。嫌味な笑いが目に見えるようだ。しゃがみさえすれば、こいつの生っちょろい顔面が拝めるのだが、おれにはそんな勇気はないのだ。間抜けエンジニアのブルース氏には。

 それから女は言った。

「その犬、どうやら死んじまったようだね……」

「ああ、クロエが撃った。これだけ怪我人が出てるんだ、当然始末するさ」

 女は笑った。

「あれは誰かにとっては大事な研究材料だった。そいつを持ち帰るのがあたしの仕事。仕事だった、ってとこね」

 おれはこの女に同情するよりなかった。こいつはしくじったんだ。でかい企業の外注をしくじり、持ち帰れと命令されたものを、持ち帰れないことになったのだ。おれはおそるおそる言った。

「あんた、あんまり遅過ぎたんだ」

「みたいね」

 女は言い、決心したようにすくと立ち上がった。麻布の下から出てきたのは、何やら上下を同じ黒の合皮に揃え、蹴り殺すために作ったようなブーツを履いた、細身の女だった。しかもこいつは、レディというほどの年齢に達していないのだ、十七もあるかなしだろう。このご時世だ、中身が五十台の男性である可能性は否定できないが。ジャケットの下には白のシャツがあって、汚くて読めない字で何やらステンシル書きされている。あからさまに移植と分かる銀の瞳は没個性的な生体工学の品物で、若手向けの大衆ブティックで染めたらしい飴色の髪は、肩まで届く柔らかなウェーヴ型だった。ナンブは消えている。

「死体のとこまで案内してくれるかい……」

「クロエに訊かなきゃ分からん」

「それじゃ、訊いてきな。あたしはそこで待ってる」

 と、薄暗い路地を親指で差す。この妙な女とのやり取りを気にかけるものはなかった。というよりも、立ち入ることを恐れているだけなのだ。どう考えたってこの女とこの先、単位マイクロ秒でもお付き合いを続けていれば、面倒に巻き込まれるのは目に見えている。おれはクロエを探すあいだ逃げ出すことを何度か考えたが、あいつはコミュニティの人間じゃないから、気に食わない男ひとり、平気で撃ち殺すだろう。あのぎらぎらのナンブを使ってだ。

 クロエを捕まえて犬の死体の場所をたずねる。ルーカスは町場から出てきた怪しい女が消えたほうを注意深く見つめてはいたが、手に余ることとして諦めたようだった。おれが手伝いを放棄していることも帳消しにしてくれているのだ。どっちにしたってすぐ出て行くさ、と説明しようかとさんざん考えたが、おれはやめた。何にせよこの老人に自分の意見を申し上げるのは、いつだって気が引けたのだ。

 クロエは首を振る。

「置いたまま。元の場所」

 おれは頷いた。

「オーケイ、ありがと」


 元の場所に確かに犬はまだいた。暗いせいでよく見えなかったが、もう羽虫がわいていた。かわいそうにこいつら、この肉を食ったせいで死んじまうんだろう。これを見たときの女の唾の吐き方は最悪だったが、それから、彼女は通信機を投げ捨てた。

「上に連絡すりゃ、情状酌量の余地もあるんじゃないのかい」

「失敗したと言えば、通信機で位置がばれるんだよ。あのお星様たちにも見張られてるって話だぜ……」

 と、女はストリートの夜空を見上げた。星なんかほとんど見えやしない。おれは目がよくないし、そうでなくたって東に少し行けば都市の光芒が溢れ返っているのだ。ここに星空はない。おれは眉をひそめた。

「どっちにしたってこのストリートにいることは分かってるんだろ……」

「そうとも」

 女は笑った。

「だから逃げる。今すぐ」

「隠れ家が必要なら――」

 とおれは奇妙な恍惚感の中で淀みなく言っている。まるで修辞的な挨拶――二度と会わないことを常識として知りながら、いつかまた、と言うときのような無責任さで、おれは言っているのだった。

「おれの部屋を使えばいい。地下にあるし」

 他人の金でばくちをやっているみたいな妙な気分だった。自分には何の害もありゃしないけれど、誰かにとっては大損になる可能性もある、というような。そしてその誰かさんというのが自分だということに、おれはまだ気付けないままなのだ。

「地下……」

 女が言った。興味を持ったようだった。

「ここに地下があるのかい……」

「ある。小さいところだけど」

 女はしばらく考え込んだ。不自然なほど長く、長く迷っているようだった。

 しかし何かを決心したように顔を上げると、また獰猛に笑っている。

「なら、見せてもらおうじゃないの――」


 今になっても、どういう理由でこの女を連れ込む気になったものだか、さっぱり分からない。こいつを助けることでおれが幸せな気持ちになれるとは全然思えないのだった。

 しかし確かな恍惚が、この奇妙に全てを投げ打ったという恍惚だけが、おれを動かしたのだった。そこから引き出される負債の重さなどおれには想像も付かない。自分の中にこれほどの病が育っていたとは驚きだが、まるで皮膚炎の患者が、かゆくてたまらない皮膚を血が出るほどかきむしるというような否応のなさで、おれは自分の安寧をかきむしったのだ。転がり込んできた面倒ごとに喜んで食い付き、自分から首を突っ込んだのだ。そして皮膚炎の患者にとってその血と傷跡は忌むべきものであるように、おれにとってもこれから抱える負債はまさしく忌むべきものなのだ。もう“転落者”どころの騒ぎではなくなってしまうかもしれない。そして血を出した患者が疼きを抑えられなかったことをやがては後悔するように、やがて来る痛みが今の恍惚を食う段になれば、おれも思う存分後悔することだろう。

「ここなら安全だと思えるから、あんたはここにいるのかい」

「そうとも、兄弟。いや、その話はしたくないね」

 女はおれのベッドの上で恩知らずの悪がきみたいに寝転がり、興味を引くのでもなさそうな古雑誌を広げていた。

「あんたが、あたしやあんたの先行きを案じているってんなら、安心して欲しい、とだけ言っておく。しかしそれについて詳細を並べ立てるほどあたしは神経質じゃないんだよ」

「おれは神経質なんだよ」

 おれはそう反論しながら、フライパンの上で卵が固まるのを見下ろしている。塩がほとんど残っていないが、誰かにもらうのは耐えられない。なぜならおれは、面倒ごとを自室に持ち帰った大間抜けであり、みんなに災厄をもたらす愚か者としてすでに最低の地位を確立しているからだ。みんながおれをそしり、陰口を言い合った。しかし夢遊病患者が知らず知らずに四輪だの輪タクだのの進路を妨害したといったって、誰が本人の道徳を悪く言うことができるだろう。本人は知らないでやっているのだ。おれだって知らないうちにこの女を連れ込んだと言っても過言ではないのだ、これは転落者に付きものの病理、その症状のひとつに過ぎない。おれは否応なく、この面倒ごとに首を突っ込まずにはいられなかったのだ。

 そして女はついさっき、彼女を追い出そうとしゃしゃり出てきた英雄ふたりの手首を簡単に外し、言ったのだった。

「叩きゃ治る。しかし二度目はないよ」

 おれは目を白黒させながら、こいつの先導を続けていた。クロエが険しい目でおれを見ていたけれど、それは怒りではなく、集落の将来への不安を表していたのだ。

「なあ、あの犬――」

 と、おれは話題を変えたくなって言った。

「ありゃ、どこのだい」

「ラドテク生体工学」

 誰かが言っていたことは本当だったのだ。というのも、この近くにその工場があるからだが。

「でもどうして、逃げおおせることができたんだい、あの犬……」

「内部で何やかや。多分、研究者たちの反乱のようなもんだと思うけど」

 しかし女は、この話題もお気に召さなかったようだ。それもそうだろう、彼女はあの犬のせいで大きな失敗をやったのだ。逃げつ隠れつをやっているということは、殺される心配があるということだ。自分が命を狙われるはめになった元凶の事件についてなど、いつまでも詳しく話していたいわけがない。今度は女が訊く番だった。

「ねえ、あの犬、撃ったのは誰だっけ……」

「クロエだ」

 女は興味もなさそうに、あいまいに頷いた。

 おれはガスを止めると卵を皿に移し変え、ひしゃげたナイフとフォークとを取り出して、ベッドの隣のコンピュータの前に座った。お粗末な小型スクリーンにはまだ、作業の続きが表示されている。こいつらを全部消去して発注者に送り返してやりたいという衝動をどうにか無視しながら、おれは卵を食べ始めた。塩は少ないが悪いものではなかった。

「それ、とんだ骨董品だね」

 女は雑誌の下からこちらを見すえている。旧式のミツのコンピュータことだ。おれは本当の、日常から来る怒りのために答えた。

「そうとも。こんなもの、くその役にも立ちやしない」

「でも、買い換える金はないわけだ」

「いつか買い換えるさ。そんときゃ元の仕事に逆戻りだ」

 おもしろそうに鼻を鳴らして、女はまた雑誌に戻った。この無言のあいだに、ずいぶんとおれたちはたくさん会話を交わした気がする。彼女の呼吸の音や体温がごく身近に感じられたし、おれは幼少期の恥ずかしがり屋の少年に戻ったみたいだった。そしてこの手の無言の会話のあとにゆっくりと訪れるべき了解をおれは蹴飛ばして、阿呆みたいに鼻歌なぞ歌いながら、作業に戻ったのだった。この行為に女は腹を立てはしなかったが、どうしてということまでは分からないようだった。

 おれははっきりと説明できる。こんな厄介ものの、絶望の淵での慰み者になるのはごめんなのだ。おれはばくちがやりたいから女を部屋に入れてやったが、本当のところ女が目の前で死のうがどうでもよかった。おれにはとんでもない危険に首を突っ込んだという事実だけが重要なのであり、この女を助けたくて部屋を案内したんじゃない。また女自身が心のどこかでは最悪の場合を考えているとしても、やはり同じことだった。この女は自分が遠からず消される運命にあると知っていて、それならと一晩ぐらいは気の利いた、助けてやると部屋を貸してくれるような優しい男で気を紛らそうとでも考えているかもしれない。しかしそんなことに利用されるのはまっぴらだ。おれだって本当は、そこまで心が広いわけではない。

 このような妙に突っぱねたような気分で、おれはほとんど優雅とさえ思える数分を作業に費やした。くだらないことだった。人生がすっかり浪費されているのを、おれは感じたのだ。

 しかし女はついに言った。

「どうしたね、あんた、性的に不能か何かかい……」

「お前さんに向かってという意味ならそうなる」

 おれは即答した。知らないうちに、事前に考えておいた文句でもあるかのようだった。

「あんた、そういうつもりなら出て行ったらどうだね。銃を持った女と寝るのなんかごめんだ」

「いいや」

 女は雑誌を静かに置いて、仰向けに目を閉じた。

「ご友人をゴルフに誘うのは悪いことかね。あんたがゴルフを知らないってなら、あたしゃ誘ったことを謝るとも。そして別の楽しみを見つけようじゃないの」

「それじゃ、コーヒーを淹れる。あんたカフェインで誘発される致死性分子とか埋め込んでないよな」

「コーヒーを飲んだら七時間で心臓が止まるかね。それとも脳が壊れるか。まさか。禁酒法の時代でもあるまいに」

「冗談さ」

 と、それこそ不要な返事をしてから、おれは立ち上がった。

「でも、ある種の特殊な物質を取り込めば死ぬように埋め込みを施すってのはよくある手法だ。部下や契約者が自分にちゃんと服従するように仕向けるためにな」

「契約のたびにそいつを埋め込まれてるんで、あたしは数十種類の物質に対して非常に敏感なのさ。やつら、契約終了後の血液交換で受容体は完全に排出されたと言うけど、どうだか」

 おれはコーヒーメーカーの周辺をうろちょろしながら、この興味深い話に耳を傾けていた。この女、やはりやり手ではあったらしい。数十の契約というのが誇張した表現でなければだが。やつが、やつの言うところのゴルフを諦めたのはいい選択だったと思う。おれは女と仕事の話をした。

「幸いなことに今回は、トリガー物質も体内に蓄えさせておいて、衛星経由でボタンを押せば物質が血中に流れ込むという風にはなってない。やつらは直接あたしにガスを吸わせなきゃ死なせることはできない、ときた。もうしばらく自由な時間が持てるってことさ」

 おれが驚いたのは、この女、はっきりと自分が死ぬだろうことを隠しもせずに言うのだった。

 コーヒーができあがって、おれは急に眠くなった。あの犬のことで今日は疲れていたのだ。ちょっとばかり走り回っただけだが、それがこの体にはこたえた。コーヒーを飲んだくせにおれは椅子の上でうとうとしはじめ、しまいには目を閉じていた。


 目が覚めたのは深夜の二時だった。ドアが開く音だった。

 おれはその一瞬で侵入者たちの存在を感じ、おれたちの人生が終わったと思った。

 しかし目を開けてみれば、女が部屋に戻っただけだった。

「どこに行ってたんだね……」

「ちょっと偵察に。起こしちまったかい。出るときゃ、少しも気付かなかったようだけど」

 おれは大した感動もなく頷いて、しかしもう一度眠りに入るまでには少し時間が必要だと感じた。心のうちでは飛び上がるほどびっくりしていたので、気持ちを落ち着かせたかったのだ。少ししてから、おれにもまともな思考が戻り、こうたずねることができた。

「大丈夫なのかい」

 女は首を振った。

「情けないことだけど、分からない。夜は静かだったよ。でも、やつらが人を始末するとき、最後のその一瞬まで、何ひとつ聞こえやしないよ」

 おれは分かり切ったことをたずねた。

「あんたもそうなのかい」

「そうだとも」

 女は驚くほど静かに、人間的に答えた。さっきまでの何十倍も近くに感じられた。おれはこいつが女であることをようやく思い出した。

 そしてこいつが偵察をやったかどうかは別にして、そんなものは何ということのない方便に過ぎず、この女は確かに別の目的をやり遂げてきたのだろうことが察せられた。

「クロエは見つかったかい」

 おれはたずねる。女は笑わなかった。

 しかしその無言で、本当にはっきりとした返事になっているのだった。おれはクロエのことが好きだったし、彼女を大切に育てていたルーカス爺のことを考えると心が痛んだ。そしてこの女の馬鹿さ加減にもほとほと参ってしまった。この女は自分を破滅に追いやった最大の犯人として、クロエを殺したのだ。たった十四の女の子をだ。しかしこういう風に考えることもできた。この女はクロエを拷問したりやたらに痛め付けたりはしなかったはずだ、と。それだけは彼女なりの道徳の結果なのだ、と。

「あんたはあたしを非難したいかね」

 女は飴色に染めた柔らかな髪の間から、非人間的な冷たさの、銀の瞳でこちらを見つめた。

 おれはクロエが死んだことが悲しく、それをルーカスが悲しむだろうということも悲しかった。しかし同じくらい、自分と女とのことで悲しんでもいたのだ。女はおれの返事を待つのをやめて、さらに言った。

「今、あたしがここを出れば、あんたは前の生活に戻れる。でもあたしは出たくないし、あんたも出やしない。分かる……」

「ああ」

「やつらがここを嗅ぎ付けるまでに、どれくらいかかると思う」

「誰かが最初に密告すればそれで済むことさ。おれたちの居場所はみんな知ってるだろ……」

 我ながら恐ろしい理論だった。その通りなのだ。

「探索チームがマーケットに到着しだい、おれたちはおしまいさ」

 女は眉をひそめた。まるで非難するような色だった。

「どうしてあんたは部屋を出ない。今逃げれば助かる」

「助からないんだよ、殺し屋さん」

 おれはぶっきらぼうに答えた。他人のことを話しているみたいに愉快な気分だった。

「おれはこのスラムを敵に回した。もう何もないんだよ。おれにとって安全なのは今、あんたのいるこの部屋だけなんだ」

 女は首を振り、もはやおれに同情するのをやめた。ベッドに戻って腰かけ、ナンブとは別の銃をテーブルに置いた。消音器が付いていて、握り潰せそうなほど小さな銃だ。こんなもの、機構を作るのも大変なら、組み立てるのも難しそうだ。少なくともおれが見たことのないやつだった。女は銃をテーブルの真ん中まで滑らして、ベッドに倒れ込む。

「それでやったのかい」

「そうだよ。あの村長、あいつもね」

 おれは何か大きいものが抜け落ちるのを感じた。純粋な喪失感だった。おれたちのルーカスが死んだんだ。

「あいつ、軍隊経験者だね。あたしが部屋に入る手前で、あいつは起き上がろうとしてた。ドアを開けたらちょうど、すごい顔でこっちを睨み付けててさ。武器さえ手近にありゃ、確実に撃っただろうね。でもあたしだってプロなんだから、心臓と頭に一発ずつ。暗い中でも、この目なら見えるし。静かに死んだよ、あの男」

 それから女は首を振る。

「女の子のほうは、男が死んでもぐっすり寝てた。何かいいことでもあったみたいに、さ。だから頭にくっ付けて、一発でよかった」

 おれは何だかとても悲しくなり、もしかするとこの女をぶん殴ってやったほうがいいのではと疑い始めた。だができそうもない、この女は確かにプロの戦闘経験者だった。音もなく、このスラム一帯のリーダーと、今日付けで守護者になった女の子とを殺したのだった。もうマラケシュ・マーケットのスラム人たちに帰属すべき国家はなかった。彼らはみんな指導者を失ったのだ。

「気分はどうだね」

「復讐を遂げた気分かい」

「女の子を殺した気分さ」

 女はようやく、少しだけ笑った。

「嬉しかないよ。でもこんなことが、人生でただ一度あるかなしの悲劇だと思ったら、それは勘違いってもんだ」

 おれにも女の言いたいことが分かった。この女は数十回に渡って有力企業群の仕事を引き受けている。その中には、あらゆる種類の理不尽な殺しが含まれていたことだろう。

「しかしあんたには、わざわざ教える必要もないと思うね」

「同感だよ」

 おれだって哀れな標的の死、平穏な人生の喪失についてなど聞きたくなかったのだ。


 それから、女はもう一度ベッドにちゃんと座って、いろいろな昔話なんかを聞かせてくれた。

 彼女の過去は、おれには驚くべきものだった。最初に驚いたのは、彼女が確かに十八歳ということだ。

 ざっと言えば、企業が実験体を必要としていて、彼女はそれに志願したのだった。各種の埋め込みをまとめてテストするための実験体で、彼女は視覚や聴覚に大幅な改良を加えられているという。それが十四のときのことで、そのまま実験体であり続けながら、殺しやら雑用をやればもっと金が入るという誘いを受けて、そういう仕事も始めたのだ。彼女は恒常的に機能向上の薬物を投与している状態にあり、だからたいていのことは素早く高度にこなすことができる。その副作用として、どうしても好戦的になってしまい、精神を制御するのは難しいコツでもある。

 彼女がそこまでして金を稼いでいるのは、最初は軽度の貧困からだったが、今ではこんな生活をさっぱり抜け出すためなのだ。いつの間にやら自分を取り巻いていたさまざまな借金、例えば戦闘向けの自主的な手術に使った分などだが、これらを完済すれば、まともな生活に戻れる。闇医療ではとんでもない額を使ったが、あと数度の仕事で返済は済むとも言った。

 おれはすっかり面食らっていたが、彼女は自分の人生が万もあるうちのひとつに過ぎないとはっきり悟っているようだった。その価値観は家族のためにと肉体を捧げた最初のときから、不自然に成長したのだろう。今では彼女の思想は完成し、殺したければ殺す、ということになっているようだ。

 おれは二十台も後半の男で、よくある集合住宅暮らしのがきだった、初等教育の時点でシステム関係をやることは決められており、その通りになったがしくじったのだ、ということだけ話した。おれには話せることがそれしかなかったのだ。学校でどんな青春を送ったかということなど、今のおれたちに必要な情報ではなかった。大事なのは客観的に見た人生の質と価値であり、おれが自分の人生をどう思っているかということではないのだ。そしておれたちふたりの間に並んだふたつの人生は、かたや鋭利にして薄幸であり、かたや地味でおもしろみに欠ける、その上で落ちぶれていて救いようもないという具合だった。おれたちは互いの過去を開示することで、人生の品評会を始めたも同然だった。今日ここで終わり、やがて忘れ去られるふたつの人生を、生きるに値するものだったかどうか確かめるために。

 けれどもおれたちは、自分たちの人生が生きるに値するなどと決して大声では言わなかったが、それほどひどいものだとも思っていない風なところがあった。おれたちは結局、この問題については一度も語り合わず、あいまいなままにしておいたのだ。


 スクリーンの端に表示される時計が朝の五時半を指すころ、おれは町の朝焼けを想った。まだ日の出まではたっぷり時間がありそうなものだが、少なからず不安と警戒とに張り詰めていた夜が終わり、朝が来ようとしているのだった。おれたちは最も気詰まりな夜を、奇妙に打ち解けた昔語りによって乗り切ったのだ。おれたちは不思議なほどさわやかな気分になり、それを共有していた。女は涼しげに、まるでおれたちが数年来の友人だったみたいに冗談を言い、笑い、いろいろな感想を述べ立てた。おれたちの会話はどう考えても楽しいものだった。

 その楽しさを決して妨げないような何気なさで、女はおれにナンブを手渡した。

「必要なら使うがいいよ。あたしゃ地獄の底まで逃げたって追われる身だけど、あんたは違うもの。使い方は分かるの……」

「素子なら」

 おれは基本的な武器の使い方が分かるように、一般的なマイクロ素子を持っていた。ソケットさえ埋め込んでいれば誰だって持っているようなやつだ。買い手が付かないという理由でだが、質に入れていなくてよかった。おれは素子を取り出してきて、耳の後ろのソケットに差し込んだ。急にナンブの曲線や撃鉄が意味を持ち始め、忘れかけていた宝物のように意識される。

「もう撃てるぜ」

 女は心底不安そうに眉を吊り上げたが、この表情には女性的な魅力があったと認めてもいい。しかし同じくらい、おれも気の利いた話し相手を演じたつもりだった。

「やつら――」

 とは追っ手のことだろう。

「しくじった下働きのことは、見せしめのためにちゃんと殺すわ。でも、その隣で座ってただけのあんたを殺す必要って、全然ないんだもの。その銃は地元民があんたを袋叩きにしてやろうって段になったら、護身のために使いな。それからどこへでも流れていくがいいよ」

「みんながおれを逃がしてくれるとは思えないな」

「どう見たって銃だぜ。このスラムに銃を持ってるやつがほかにいるのかい……」

 おれは首を傾げた。ひとりだけ持っていたやつを知っているが、死んでしまった。でも十四歳の女の子が持っていたのだ、みんな持っているかもしれない。

「分からない」

 おれは答えながら、この銃の全く別の使い方ばかりを想像していたのだ。

「まあ、逃げられるように努めるさ」

 女は初めてにこりと笑った。まともな笑顔だった。それから立ち上がり、ドアの前まできびきびと歩いた。そのドアは緑のペンキで塗った鉄製だが、地上へ出る階段に通じている。

 まるで神の啓示を受けた聖人みたいに崇高な足取りだった。やつは死に呼ばれ、その瞬間、もうあの少女の人格は別のものへと昇華してしまったのだと思う。そこには唾を吐いたり十四歳の女の子を撃ち殺したり、借金を返すために働いたりする十八歳の少女はいなくなっていた。女はドアを開け、丸腰であることを示すように両手を掲げていた。おれのほうを振り返りもしなかった。あの微笑こそが、おれに女が最後に贈ったものだったのだ。

 白い光が階段の上から部屋を照らした。女が千余に千切れて部屋中に散らかるのをおれは見た。

 次には防弾プレートやら通信機やら、暗視スコープやらで重装備した特殊部隊がなだれ込んできた。血と肉とを踏み分け、おれに銃を向ける。おれはとっさにナンブを床に投げ捨てて、両手を挙げていた。部隊員が三人も入れば部屋は狭かった。何と言ったってやつらは、普通の人間よりずっとでかいのだ。そして遅れて、優雅な足取りで何やら、黒いスーツを着た男が現れた。

 おれは直感した。こいつはくそったれのジョンソン氏――匿名で、クローンのようで、おれたち下働きに仕事を届ける役の人間なのだ。黒いスーツ、黒いグラス、黒い靴。男はこちらを一度だけ見て、それから足元に転がる女を見下ろした。

「確かに死んだな」

 男は言った。隊員が頷く。マスクや暗視スコープのせいで表情は分からなかった。

 それから男はおれに向き直り、ナンブに目を落とし、またおれを見た。

「その銃で我々を撃とうなどと思わないように。部屋を汚して申し訳ないが、それを言うなら、この女を知ってか知らずか招き入れた君が愚かだったのさ」

 落ち着き払った声だった。おもしろいほど、おれに対して敵意を抱いていないらしかった。おれはこいつと今からダンスクラブにだって出かけられそうな気がしていた。おれは間違って撃ち殺されてもかなわないので、はっきり答えた。

「早く出ちまってくれ。この通りおれだってやり合うつもりは毛頭ないんだから」

 と、ナンブを蹴飛ばす。

 スーツ男は背を向けて、部隊に何やらハンドサインを送って出ていった。隊員の最後のひとりはおれに銃を向け続けていたが、やがていなくなり、階段を駆け上がっていった。すっかり全てが静かになり、血の匂いは鼻についたが、おれは賭けに勝ったのだという新たな充実感によってそれほど気にも留めなかった。話してみれば女はいいやつだった。けれどそれも、一夜の話し相手がいて、もう会わないというだけのこと。

 そしてナンブを拾い上げ、おれは待つことにした。

 やがて朝が来て、怒り狂ったスラムの人間たちがなだれ込むだろう。怒りに任せておれを痛め付けるために。そのときにおれは、この銃を最もいいと思った方法で使う。苦しみを生じるのはこの脳だ。こいつを潰してしまえば、おれは幸福のうちに死ぬことができるのだ。




 時計が朝の七時を打って、ようやく最初の来客があった。おれは待ちくたびれていた。どうしてみんな、すぐに降りてこないんだ。まだルーカスが死んだことを誰も知らないのか。ようやく客があったとき、おれは心底ほっとしたのだ。ようやくこの引き金を正しく引くことができる、おれは自分の一晩分と一生分との過ちを、この銃で綺麗さっぱり洗い流すことができる。

 しかし階段を駆け下りてきたのは、思いも寄らぬ人物だった。おれは大男が三人ばかり出てきて、おれをぶちのめすつもりでいるんだろうとばかり期待していた。そのために、早くもナンブをこめかみに押し当て、引き金に指をかけて待っていたのだ。

 それだというのに、その人物というのはクロエだったのだ。死んだはずのクロエがいて、おれを睨み付けている。

「ねえ、ブルース。この女……」

 と言って、クロエはまずおれの手の中の拳銃とその銃口の向きに気が付いた。かなり面食らっていたが、おれが面食らったほどじゃないはずだ。階段を降りてくるときにすでに女の死体は見ていたのだろうが、クロエは改めてこの、何とも言いがたい代物を見下ろしている。そしておれに向き直ると、必死の形相で訴えた。

「ねえ、ブルース。みんながいない」

 おれは思わず眉をひそめた。美しかった自分の最期が、不恰好な現実によっておかしくなっていくのを感じたのだ。クロエは続けた。

「ルーカスはこの女に殺されたし、私、怖くて泣いてたの。そしたら最初は私のこと撃とうとしたんだけど、やっぱりやめるんだって言って。そしたら殴られて、私は気を失った」

 おれは女がクロエを殺したものとばかり思っていた。いや、やつはぎりぎりまでそのつもりだったのだ。しかしドアを開けて老兵ルーカスを始末したあとで、予定を変更したのだ。なおもクロエは続けた。おれはその一言ずつによってずたずたにされるような気分を味わった。

「起きて、それでこの女に復讐してやろうとして、出てきてみたら、誰もいない。戦える人はみんな。みんな死んでたの――」

 クロエが怒り心頭、おれの目の前までずかずかと入ってきた。

 こんなことを言ったら不謹慎かもしれないが、クロエ自身、怒りをぶつける相手がいなくて困っているみたいだった。道理を考えるなら、クロエはおれを憎んでいいはずだった。女にしつこく関わろうとしたのはおれだったからだ。だが、ルーカスが死んだことが本当におれのせいかどうかは分からないのだ。そして唯一の頼りだった女はもう死んでしまった。

 そしてクロエはおれに掴みかかろうとした。おれはクロエをゆっくりと押しのけて、失意のうちに立ち上がった。ナンブを今渡せば、こいつはおれを撃つかもしれない。あんまり痛いのは恐ろしいのだった。そしておれはナンブを握ったまま、心底、無力な気分で部屋を出た。女は夜のうちにルーカスを殺したが、クロエへの復讐はやめてしまった。そしてルーカスが死んだことによっておれを襲うかもしれない連中をできるだけたくさん殺しておいた。やつはおれのために人殺しをした。

 おれはあの賭けの意味を知った。わざわざ危険に首を突っ込んだ理由をだ。おれは生きたくなどなかったのだ。うまく死ねる方法を探しているだけだったのだ。だが今では、全てを投げ打つことで輝いた躁状態の生を失い、おれを憎み殺そうとするやつらの目の前でという、最良の死をも失い、しかもおれは孤独だった。もうおれは、この銃で自分を撃てそうにもないし、これから新しい生活を始めなければいけない。今まで積み上げたささやかなものも失われた。それを考えると気が滅入りそうだった。

 やつはおれに身を守れと言ってナンブを手渡したが、こんなものは必要じゃなかったのだ。クロエのすすり泣きを背後に聞いたが、もうおれは階段を上り始めていた。路地に出るとまだ、空は暗く青いだけだった。あの女と運命を共にし、すっかり死ぬつもりだったおれは、結局のところかする程度の怪我さえしていない。ベルトにナンブを突っ込み、歩き出す。おれは死んだ女がこのナンブの代わりに、全てを跳ねのけておれを守ったことを思い知った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ