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5.まれびと

「おかしい」

 食料庫の前の壁によりかかったモルくんはうーんと紙とにらめっこしながらうめいていた。最近の彼は絵を描いたときに作った紙の残りを使って収穫したもののリストを作るようになっていた。

 もちろんリストアップはニンゲンも手伝った。いまあるものと収穫したもの、そしてどれだけ使われたのかを記録することで、自分がどれだけ働いてそれが役に立ったのかが目に見えて楽しいと大喜びなのだ。なんだかんだでモルくんもずいぶんニンゲンらしい行動をするようになったものだと思う。

「どうしたんです?」

「食料が減ってるんだよ」

 そんな様子をほうっておけないニンゲンはおそるおそる声をかける。すると彼はジャガイモに人参に、と数え始めて首をひねった。さすがはモルくんだ。アムさんと違ってきちんと数字を把握できるらしい。

「姐さんが使う以外には減るはずがないんだがなあ」

 勝手に持ってったりしないだろ? と問われて苦々しく首を縦に振った。今までずっとモルくんに欲しいものを伝えて出してもらっていたのだ。それなりに信頼はされているらしい。

「お、おいらじゃないっ。おいらは食べてない」

 誰も視線を向けてないのにふるふると首を振ってアムさんが全力で否定をしはじめる。先ほど作ってあげたパンケーキのバターと蜂蜜でべとべとにした口元で言っても激しく説得力がないのだけれど、この子が食べてないことはニンゲンが一番よくわかっていた。

 アムさんはそのまま食材を丸かじりするよりもきちんと料理されたものを好む。だからニンゲンが途中で必ず絡むことになるのだ。アムさんができることといえば、お茶をいれることくらい。それはそれですごいと感動していたけれど。

「でも、だとしたら誰だろうな。ここにゃ生きてるニンゲンは姐さんだけ。おれっちたちはなんだかんだで食べるようになってるが、本来死に物は食事をとる必要がないわけだしな。アムまで食べてないっていうなら……」

 誰だろうとモルくんは細いお手々を胸元で組んでうめいた。

「というわけで、来てみちゃったわけですけど」

 魔王さんはむすっと頬杖を突きながらワイングラスを揺らしていた。

 いつもむすっとしている人なので、特に不機嫌というわけでもないのだろうが。

 どうにも食料庫の件を訪ねたこと自体が後ろめたいので、彼の反応を悪い方にとってしまう。

「俺だって全知全能ってわけじゃない。部下の視点はそこそこ把握してるが、あやしい奴なんて誰もいやしないぞ」

 原因はさっぱりわからんね、と魔王さんは赤い液体を口にじゃーっと注いだ。こくこくとのどがなって、それは胃袋に納められていく。

 なるほど。魔王さんもこの城の中で起きていることを完全に逐一把握しているわけではないのか。すぐにでもつるし上げられるんじゃないかとドキドキしていたのにまったくの無反応で少しはホっとした。

「ってことはアムさんがさっき食べてたもののこととかはわかるのですか?」

「まあな。パンケーキとかいったか? アムのやつ。魔王さまおいしいですよと全力で視覚情報おくってきやがった。ほかの軍事の情報が見えないだろうってな」

「おれっち達は魔王さまに必要な情報だけを送るようになってるんだよ。逆に必要じゃない情報は送らないってのが基本なのにアムときたら……」

「お、おいらっ、それ必要だと思った! パンケーキさいこー! うまうま」

「まぁ悪くはなさそうだったがな」

 ふっとかすかに魔王さんの口元が緩む。

 半年でここまで柔らかい顔をするようになったとは、これまでの努力もまんざら無駄ではないらしい。

 けれど、そんなことを見逃してしまうほどニンゲンは後ろめたさでいっぱいだった。

 もともと隠し事がうまい方でもない。これで相手が魔王さんでなければすぐにでもばれてしまっていただろう。 

「城の中のことならなんでも把握してるんだと思ってました」

「翁ならそれができるがな。食料庫のことまで逐一把握はせんよ。あれはモルッキーに任せていることだしな」

 そう言われたモルさんはこころなしか嬉しそうだ。羽をぱたぱたさせながら照れている。

「で、でも実際なんかかじられたリンゴが転がってたりボンのおやっさんも変な感じがするって言ってたろ」

 ちらりと扉の外で控えているボンさんを見ると照れ隠しでモルくんは言った。名前を呼ばれたのを聞きつけたのかとうのボンさんは職務を放棄して中に入ってくる。とてもやる気のない警備兵だ。

「ほほう。どんな風に変なんだ?」

 報告は来てなかった気がするがと、魔王さんは退屈そうにボンさんに尋ねた。別に攻める口調じゃないのはそれだけ彼を信じているのだろう。魔王さんはなにげにいろんなことを部下にまかせっきりで楽をしたい人だ。まず自分ではろくに動かない。

「時々ものが動いている時があるのですな。椅子とか絵とか。些細すぎて侵入者がいるとまでは判断しなかったんですが」

 気のせいということもありますし、と言われつつちろりとこちらに視線がくる。落ち窪んだ眼窩の奥にこぅと青白い光が灯った。

「たしかにニンゲンの姐さんがいることでちょっとしたずれっていうのはでるんでしょうが、それにしても最近はちょっと腑に落ちない感じではありますな」

 そのわきではやはりごくごくと酒を流し込む魔王の姿がある。

 本当にやる気がない。これはニンゲンにとって嘆くべきなのか喜ばしいのか。無頓着もここまでくると恐ろしい。

「まぁ、あれだ。探すも放置するのも好きにすればいいさ。別に勇者が忍び込んで俺の首を狙ってるというのでもないだろうし」

 まぁ狙われても負ける気しないしと、やはり彼の視線もニンゲンに向く。

「で、でも狙われててもしやられちゃったらどうなるんですか……」

「そいつはあれだ。おまえが言っちゃいかん台詞だろ」

 あきれにも似たため息を漏らしながら魔王は、今度は白い液体をボトルから口にじゃぶじゃぶと注いでいく。いつかお風呂で分けてもらったのと同じ匂いがした。

 ニンゲンは、ううぅとうめいた。

 確かにそうなのだ。魔王さんを倒しますといった自分がその命の心配をしていたらどうしようもない。

「で、でも、ほら魔王さんが死んじゃったらアムさんとかモルくんとかも……」

 言いかけたところで、モルくんがきゅっと手を握って首を振った。

 それはいいっこなしだぜと言わんばかりだ。

「そりゃおいらたちだってニンゲンさんのご飯食べられなくなるのは残念だけど。もー死んじゃってるんだから仕方ないのですよ」

 遅いか早いかの違いはあれ、魔王さまが勝っても死ぬのだし、とアムさんは続ける。

「そういう意味では魔王さまのあり方にサンセーです。どうなってもいいって感じで」

 よく肥えたお腹をどうどうと張ったアムさんはひょこっとお手てをあげて言うのだった。

 それはどうなのかと思うものの、ニンゲンにはなにもかける言葉が見つけられなかった。




 はぁと息を吹きかけながら窓ガラスを拭く。きゅっという音が鳴って窓の埃がとれていく。いつもはあまりやらないのだけれど、ため息を隠すためにはちょうど良い動作だ。

「ため息……この城にきてからあまりでてなかったんですが……」

 まさかこの土壇場でこんなめにあうとは思ってもみなかった。

 昨日は一日どきどきしっぱなしだ。食料庫の一件で魔王さんの前に行ったとき。彼の前にでるだけで視線を浴びるだけでどきどきした。

 後ろめたいということなのだろうか。

 食料庫の数字があわない理由をニンゲンは知っている。それを隠しているのはどうなのか。いいや。本来これで正しいはずなのだ。勇者として魔王を討伐する。最初に言ったことだしそのための活動。

「そのため……か」

 そんなのいいわけに過ぎないのはよくわかっていた。

 兄さまを城で匿っていることそのことよりも、あの人に隠し事をしていることが嫌なのだ。彼とは自然体で接したい。好きなものを好きだと見せて、共感してもらいたい。彼はたとえ隠し事をしていたとしてもそんなことはどうでもいいと言うのだろうけれど、それではこちらが自然体でいられないのだ。

 けれど、あの二人が対面したらどうなる。

 勇者の一族というだけの兄。たしかに贔屓目にみても周辺最強だったろう。でもそれは人の範疇でのことだ。実際ミハエルにはぼこぼこにされてるというし、どう考えても魔王さんに勝てるはずがない。おそらくあのヒトならワインボトルを片手に、だるいとかいって簡単に兄をほふるだろう。

 一度失ったはずの兄をもう一度失うのは嫌だ。

 自分が頼めば住まわせてもらえるのではないか、とも思う。それくらいにはうぬぼれられる。でもそれはあくまでも兄が無害であったなら、だ。有害だと思われればボンさんを筆頭に守備兵のかたがたがわんさか集まって袋叩きになるに決まっている。彼らが直に働いていることをニンゲンは見ていないけれど、ミハエル並には戦えるのだろう。

 それ以前に……いや、よそう。

 二人が争うところなんて考えたくもない。

「ふむ。風呂にいこうかと思うのだが」

 そんな風に思いながら廊下の窓を拭いていると不意に声がかかった。

 まさかこんなところであうとは珍しいと振り向くと、そこには。

 全裸がいた。タオル片手に全裸がいた。

「ちょ、魔王さん。こんなところでなんてかっこうしてるんですか」

「おまえが言ったのではないか。風呂は裸が作法だと」

「だからってこんなところで脱がないでくださいっ」

 顔を背けながらも視線だけは彼の体に向けられる。さすがは魔王。いい筋肉をしている。よく発達した上半身は鋼のようで、ニンゲン一人なんてすっぽりと収まってしまいそうだ。

「そういうものか。ここもあそこも大差ないと思うが。人間というものは不思議なものだな」

 ふん。と鼻をならしつつ、彼は全裸のまま仁王立ちで腕を組んだ。どうやら服を着る気はまったくないらしい。その気になれば一瞬なのに。

「それはそうと、おまえはこんなところでなにをやっているのだ? まさか書庫にいくのではあるまいな?」

 とても嫌そうに顔をしかめた彼の頭の中にはいまだ見たことのない梟の翁の姿がうかんでいるのだろう。こちらが雑巾を持っている姿などまるで見えていないらしい。

 そんなときだった。

 あの暗い螺旋階段の中からぼとりとなにかが落ちるような音が聞こえた。

「物音? ま、まさか翁がでてくるのかっ」

「な、なんでもないですよ、きっと」

 あせあせと音がした方をのぞき込んで問題ないと手をひらひらさせると、魔王さんはそうかと心底ほっとしたようで、逃げるように風呂に向かっていった。

 魔王さんが残念な人で本当によかった。

 すべてのことに興味がないと言うのもこういう場合だけはとても助かる。翁があがってくるならあんな音にはならない。梟という位なのだから羽音になるはずなのだ。でも彼はそれを音というレベルでしか認識しない。

 世界にいる人々を人間という群でしか認識しないように。

 いい形の後ろ姿が完全に見えなくなるのを待つ。

 彼がいなくなるのを確認すると、こそこそニンゲンは螺旋階段に入った。窓の掃除は途中だがあの音を出した主を何とかしなければならない。

 きょろきょろと周りを見渡しながら進んでいく。すぐに入り口の光は小さくしぼんで、あるのは闇だけだ。前に降りていったそこにはよく見ると下り階段だけではなく、外側にいくつかの小部屋があった。昔は酒や食料品なんかを置いておくカーヴかなにかだったのだろう。

 以前は右手を内側につけて暗がりを進んだから気づかなかったそこは、やはり闇の中だと周囲の壁と同化してしまっている。

 その一室に入るとなにかの気配を感じた。外に漏れる光を防ぐために明かりはつけていないがそれでもその気配がそこに感じられて、ニンゲンはほっと胸をなで下ろした。

 地下回廊は魔王さんが一番近寄らない場所だ。あのヒトなら別に執務室からでること自体があまりないのだけれど、それでも一番安全なところにいてもらうのがいい。

 そしてここは彼の部下も近寄らないところ。梟の翁を嫌って誰も近寄らず、翁自身も図書館から離れないとなると一番潜むには良い場所だった。

「出てこないでくださいよ!」

 ニンゲンは声を潜めながらも攻めるような口調で言う。ここ以外に彼が安全でいられる場所なんてない。ここからでてしまったらどうなるか。そんなの誰でもわかることだ。

「とは言ってもな。魔王だろ? 魔王がいるんだったら俺は戦わないとだろ」

 勇者の子孫なんだからと言いつつぽふんと手が頭に乗せられる。

 ニンゲンはそれを振り払うと、あきれたようなため息をもらした。

「兄さまはなにもわかっていないのです。いいですか。人間があの魔王さんを倒せると本気で思っていますか?」

「いや。思っちゃいないさ。だがな」

 ぎりりと手に力がこもるのが暗闇でも感じられた。

「俺は目の前でエルバを殺されてるんだ。首なし騎士のやろうにな」

「エルバにいさま……」

 なるほど。たしかにあのヒトなら兄さまだろうと倒してしまうだろう。魔王の加護を受けた彼は普通の人間よりも飛び抜けて強い。

 けれど、だ。

 いくら恨みが強かろうと、無理なことはある。思っても届かないことがある。

 そのミハエルでさえも魔王さんに刃向かって砂になって消えた。普段はぶすっと不機嫌にしてるだけの引きこもりさんだけれど、あれはれっきとした魔王なのだ。

「ですが」

「それにな。ここにはおまえがいた。だったらがんばらないとだろう」

 なっ、と頭をぽふぽふなでられるとニンゲンももう言葉を作れなかった。

 その手の感触はイヤに冷たかった。




 それから数日は何事もなく過ぎた。滅亡クリスタルは順調にときを刻んで世界の終わりを数えている。

 数字の減り方はあまりに不安定で、一日で変わるときもあれば数日かかることもある。いまだ正確に世界の終わりを示してはくれない。

 そのことにほっとしながら包丁を磨いていると、アムさんが熱い茶をすすりながら、気遣わしげな声をかけてくれる。

「なんだか最近、ニンゲンさん、やつれたような気がしますねぇ」

「栄養が足りないのかもしれません」

 いやぁ、とおなかをさすっているときゅうと音がこぼれた。この城ゆいいつの生き物であるニンゲンはやはりしっかりとご飯を食べないと成り立っていけない存在なのだ。この前読んだ本によると、食物を分解してTCAサイクルとかいうもので動くための力を作るらしい。細かく仕組みが書いてあったけれど、まるで謎の呪文のようですべてを理解はできなかった。

「はっ、まさかおいらたちがもりもり食べ過ぎちゃってるせいとか……はわわ。ニンゲンさん、ごめんなさい」

「いえいえ、アムさんたちのせいじゃないですよ」

 あはは。と軽く笑うと、ちらりと兄の顔が浮かんだ。

 ここのところの兄との問答もさることながら、やはりご飯の量というのは問題だ。

 作る量は前と変わらない。初日は作りすぎたけれど、今では魔王さんとアムさん、モルくんと自分の分と併せて適量つくるようにしている。余らせるとアムさんたちがまたでっぷりとしてしまう。あるだけ食べてしまうのだから彼らもすごい。

 その量をだいたいモルくんも把握しているから、安易に増やすと言うこともできないのだ。怪しまれる。

 その中からあらかじめ兄の分を取りおいておかなければならないのだから、食べる分は減ってしまうのだ。とはいえきちんと運んであげないとこの前みたいにこっそり抜け出して食料庫から盗んでしまうかもしれない。

 兄を説き伏せる前に見つかってしまったらどうしようもない。

 そう。兄さえ打倒魔王に燃えていなければ万事解決なのだ。あのゆるーい魔王さんなら別に敵じゃないなら世界の滅びまでいればいいとあっさりと言うに違いないのだから。

「でも、少々おなかが空いてるのもたしかです。だからちょっと考えてることがあるんですよ」

 みんなが幸せになる答えをね、と言ったところで、とてとてとモルくんがかごを担いでやってきてくれた。あんな羽根のついたお手てでよくあんな大きな物をもてると関心してしまう。

「よぅ姐さん。依頼のものもってきてやったぜ。でもこんな時間にどうしたんで? まだ夕方までは時間があるってぇのに」

「最近ちょっとお腹がやたらと空くのです」

「おいらたちのせいじゃないとすると……はっ、まさかニンゲンさん。お腹に魔王さまとの子供がいるとかっ」

 ほら、子供に栄養とられちゃうからお産のときはいっぱい食べなきゃいけないっていいますし、とアムさんがお腹をさすさすしながらいう。

 いくらなんでもその勘違いには無理がある。

「ちっがっいっまっす。そもそもこれでも僕は男なんですからね。お腹に子供をはらむなんてできるわけないじゃないですか」

「なに言ってるんです? 魔王さまならどんな無茶だってできるに決まってるじゃないですか」

 世界を滅ぼせるだけの力をもったもの。死者を黄泉がえらせ、使役できるもの。

 なら、男に子供を産ませることくらい造作もないのかもしれない。

「そうかもしれませんけど、これは違いますっ。そういうのじゃないんですからっ」

「じゃあ、体調不良ってやつですかい? いけませんぜ。おいらの作った野菜でもいっぱい食べて元気になってくだせぇ」

 ぽすりとかごを手渡されて、モルくんの言葉にうるりと涙がでそうになる。

「モルくんのつくる野菜はとても質がいいですからね。大事に使わせてもらいますよ」

 もうそのためにこんな時間に持ってきてもらったのだ。

 この空腹感をなんとかする方法。それは単純に昼も料理を作って食べようというわけで。それで必要な栄養をとろうという寸法なのだ。

 朝と夜は兄へ自分の分の一部を差し入れして昼は自分で全部食べる。そして昼に関しては冒険じみたメニューを試してみようと思っているのだ。

 魔王さんとの夕餉に出すにしても、自分で一回食べてみてから出したいというのが本音なのだった。それくらいこの城の書庫には料理の本が集まっている。

 モルくんにお願いしていた材料を並べると、書庫でメモしてきた紙を広げる。レシピの一覧だ。

「今回はどんな料理になるんで?」

「らぅめんという料理だそうです。食材からとった出汁と味付けでスープをつくって、その中に小麦粉で作った麺というものを入れていただくそうですよ」

 本場では動物の骨とかから出汁をとったり、ちゃぁしゅうとかいう豚のお肉をとろとろにしたものを乗せるらしいのだけれど、今日入れてあるのは野菜をベースにしたものばかり。半熟な卵というのは作ってあるけれど、やはりお肉の代わりにはよく煮込んだ大豆さんの登場だ。

 たしかにあそこに書いてあるように、豚さんや鳥さんを使えば、汁に透明なトロリとしたものが浮かんであまうまいのだろうけれど、ここではもちろんそんなわけにもいかない。鶏さんをきゅとしたり、牛さんをざくっとしたりしてしまったところをアムさんたちに見られでもしたら、もう彼らは怖がるに違いないのだから。

 魔王さんが、この城では殺しは敵しかしないといっていた理由が今ならよくわかる。

「うお。楽しみです。おいらたちも食べちゃっていいんですかねぇ」

「そういうだろうと思って多めに作ろうと思ってますよ」

 さて、とりあえずは出汁というものからですかと、想像で書いたレシピ通りに野菜を鍋に入れていく。感覚としてはブイヤベースとかに似ている物にすればいいのだろう。

 煮込んでいる間に作るのは、小麦粉から作る麺と言うもの。

「おっほう。もちもちでもにょもにょですねぇ」

 生地をこねているとアムさんがうずうずしていたので、一部を切り分けてそちらをこねてもらう。

 そんな無邪気な姿を見ると、ニンゲンの胸はちくりと痛むのだった。




「はずれも時々ありますがおおむね美味しいものばかりなのですよねぇ」

 はぅうんと図書館のレシピ本をめくっていると、あのアムさんのほよーんとした顔が浮かんだ。昼のご飯はもちろんアムさんたちにも好評で、次はどんなのです? と裾をちょいちょいと引っ張られてしまうほどだった。

 たしかに、書庫にあった冒険的なメニューはどれも見たことがないもので、きらきら見た目がいい物ばかりだった。

 特に八宝菜というものは表面がてゅるてゅる輝いていて想像以上に冷めにくく、口に入れる度にはふはふしてしまうほどで、あの熱々はおいしかった。

 烏賊とか海老というものはどういう物かわからなかったので適当にあいそうな物を用意したのだけれども、初めての舌触り。そう。調理法そのものがまったくニンゲンが体験したことのないものばかりだったのだ。そういう場合はそれに関する書籍をとってきて調べてから作っている。最初に適当にやったらはずれてしまったので。

 おかげでお腹が鳴くのも収まったし、すこしゆるゆるだったメイド服のお腹周りも元に戻った。

「今日はなににしますかねぇ。たこ焼き? ああ、これは前に作りましたよね。蛸という生き物がいまいちわかりませんでしたが」

 調理器具に関してはビーしゃんの工具置き場においてあったのでそれを使わせてもらっている。なければ魔王さんに作ってもらおうとも思ったのだけど、今のところどんな料理にも対応できてしまっている。さすがは万能な魔王の城だ。

「しかしここの書庫の料理はすごいですね。見たことがない物ばっかりで。しかも今まで読めないと思ってた本も、変な機械につっこめば読み上げてくれるようになりましたし」

 いつのまにか書庫の一角にできていた小部屋は読めない本の情報を与えてくれる。やたらリアルな料理の絵の描いてあるものをいれるとそれの作り方がわかるのだ。

 いつこれができたのかは知らないけれど、魔王さんが気を利かせてくれたのならばそうとうに嬉しい。

 さて、次の本を、と手にとったところで不意に背後に気配が生まれた。

「おまえは……本に囲まれてるときが一番うれしそうだなぁ」

「兄さま! でて来ちゃだめですってば」

 あわあわと周りを見渡しながら、こそこそ声を潜める。さいわい今日も翁はいないようでほっと胸をなで下ろした。

 たいていニンゲンがいるときは翁はでてこないし、彼を嫌っている城の物たちも寄りつかないにしても、ここが危ないことには違いない。いつ翁と出くわすかわからないのだ。

「まあ、そう言うな。俺だってあんな暗闇に潜んでたらおかしくなっちまう」

「そりゃわかりますが……ここだって安全とは言えないんです」

 兄さまはこの城としては敵なんですから、といってもザルツは動じる様子もなく、ニンゲンの姿をただ見つめていた。

 光の中で見る久しぶりの弟の姿だ。メイド服を着込んでいて髪もずいぶんあの頃よりも伸びた。肩くらいまでだった赤茶の髪はすでに肩胛骨のあたりまである。

「あぅ。別にこれは、しかたなく伸ばしてるだけですからね。前髪はきれるけど後ろはさすがに自分じゃ無理ですから」

 そんな視線に気づいてニンゲンは恥ずかしそうに両手であわあわと髪を隠す。小さい頃から長すぎるといつもからかわれたのだ。

「いいや。きれいに伸びてるじゃないか。恥ずかしがることはない」

 きれいだよ、と言われて少し頬が染まる。

 いままでからかわれたことはあっても、面と向かって兄にそんなことを言われたことはない。今朝の食事でなにかおかしなことを言ってしまうような食材が入ってなかったか思考が巡る。うん。大丈夫。

「それにしてもおまえはどうしてそんなに、この城のやつらの為に必死なんだ?」

 わざわざそんなに料理を振る舞わなくても、とザルツは思う。死霊兵は戦った経験からも、食事をとる必要がないのはわかっている。それなのにわざわざ食べさせるだなんて酔狂もいいところだ。

「自分のためというところも確かに大きいです。それと、やっぱり誰かが喜んでくれるのって嬉しいじゃないですか」

「それが敵でもか?」

「死霊でもですね。みんな仲良くしてくださいますから」

 敵という言葉を言い換えて、ニンゲンは答えた。

 うまい、って言ってくれたらそれだけで嬉しいし、アムさんたちみたいにもっと寄こせーと言われたら、もうたまらない。料理していてそこまで食べてもらえるのは嬉しくてしかたがないのだ。

「兄さまたちだって、そうだった。父さまはむすっとしてたけど、兄さまたちはいつだっておいしそうに食べてくれたじゃないですか」

 それと何か違うんですか? きょとんとした顔を見せられて、くっとザルツは歯をかみしめる。

 今、自分たちがいた場所には敵がいる。世界を滅ぼすにっくき敵。勇者の系譜が倒さなければならない相手を、弟はまるで身内のように扱っているのだ。

「じゃあ、そろそろ戻ってくれますか?」

「おいおいたった数分だろうが」

 そりゃあないぜと言わんばかりの兄に、ぎらりとを睨みをきかせる。

 あんまり人様を睨み慣れてないので効果のほどはよくわからない。

 だから、兄が必ずここを去るであろう言葉をニンゲンは使った。

「兄さまにもしっかりご飯食べさせてあげてるんですし、これ以上ここにいるなら、明日は兄さまのきらいな人参料理フルコースにしますよ」

「ううぅ。それは勘弁だ」

 ちょうどできたばかりの野菜を思い浮かべて兄に伝えると、いやそうな顔をしてすたすたと階段の隠し部屋へと戻っていった。

 あのオレンジ色のやつらが攻めてくると、つぶやいている声が聞こえた。

 それでいい。魔王討伐を諦めるまでは兄には引きこもっていてもらわなければならないのだから。

 



 夢を見た。

 世界が終わる夢。

 荒廃しきった、見慣れた風景の中で。一人ザルツは立ち尽くす。

 もう、終わってしまった。

 弟が魔王の元にいってしまった。

 ドレス姿で、無能なあなたのそばにはいられません、強くてかっこいい魔王さんのところに嫁ぎますと冷たく言い放って、魔王の二の腕に抱きつく姿は、どうしようもなく幸せそうでかわいらしい。

 まだ見ぬ魔王は、いかにもごつい感じの魔物で、その黒くて太い野蛮な手は弟の華奢な腰をいまにもへし折ってしまいそうだった。

 弟の元に駆けつけたい。そう思っても足は鉛よりも重く伸ばした手は。

 そのままぼろぼろと消し炭のように崩れていった。荒い息とは裏腹に体は芯まで冷え切ってしまっている。

 弟の名を呼んだところで目が覚めた。

 そんな夢が現実になってはならない。

 ここのところ密かに衛兵たちの会話を盗み聞きしたところによると魔王は執務室にいるのだという。この城の古い見取り図からすると正面の階段を上がってすぐのところ、今いる螺旋階段の真反対ということになる。

 魔王はそこから滅多にでることはなく、隣に隣接している部屋で夜は休むのだそうだ。他の死霊兵は寝ずに動いているというのに、大将はのんきなものである。

 特殊な魔法か、仕掛けでもあるのか。そこをでないということは、魔王なりの自己防衛なのだろう。ならば狙うのはそこから離れたとき。魔王が執務室を離れるのは、風呂に入るときくらいなものだ。毎日ではないものの彼は城の端のほうにある浴室へと足を運ぶらしい。

 風呂といえば全裸が基本だ。魔王に基本は通じないかもしれないが、城の中を全裸で歩き回っていたというのだからきっと風呂も全裸だろう。あの変態め。

 そのときを狙えば魔王だろうと油断するにちがいない。

 そもそも風呂などという贅沢品がここにあるということ自体がおかしい。弟は風呂窯の修理ができるけれど、自宅にあったのはそんなに広さもなにもない、それこそ湯を体にかける程度のものでしかなかったのだ。

 いや。しかしあの弟なら作れるかもしれない。何かを作り出すことだけは得意な弟なのだ。

 しかもその風呂に魔王は、弟と一緒に入ったとかいうではないか。

 ゆるせない。

 あの柔肌をなめ回すように視姦して、抱きしめて、しまいには首筋をくんかくんかしてあの甘い香りを楽しんでいたに違いないのだ。

 ああ。あの魔王をなんとしてでも倒さなければ。これ以上弟がけがされてしまう前に。

 そして。




「ニンゲンさぁーん」

 あうあうーと涙声がした。それは当然もこもこなアムさんのものに違いない。けれどいつものへたれた感じの声とは響きがどこか違う。

 声がしたほうに視線を向けるとそこにはアムさんがちょこんと立っていた。そして。

 その後ろにはどこでぶんどったのか、ボンさんたちが使っているサーベルを持った兄の姿があった。

 左手でアムさんの首根っこをつかんで、刃の切っ先を向けている。

「アムさん?! なにをしてるんです!」

 放してくださいといっても、ザルツは聞く耳を持たずに進んでくる。

「そこをどけっ。俺は魔王を倒さなきゃならない」

 どうすればいい。魔王さんはしばらく風呂を楽しんでいるだろうけれど、いずれは出てきてしまう。

 それにアムさんがびくびく怯えているのは可哀相すぎる。

「アムさんを放してください」

 ならば。できることは一つだけだ。

 倉庫で研いできたばかりの包丁に力を込める。

「放さないなら力づくで行きます」

 手が震えていた。戦いは嫌いだ。けれどいくら勝てないとわかっていてもこの状況を放ってはおけない。

「おまえが冗談をいうとは、ずいぶん変わったものだ」

 変えられてしまったのかと、ザルツはぎりりと歯をかみしめる。大切な弟を変えてしまったものがいる。この扉の向こうにいるのだ。少しくらい弟に怪我をさせたとしても、そちらを何とかしなければ。

 もこもこした小動物を捕まえながら、サーベルの切っ先を弟に向ける。

 もちろんザルツも弟を切ろうとは思わない。軽く牽制して柄の部分で昏倒させるつもりだ。ザルツの刃がニンゲンの前へ降り注ぐ。触れるはずのない間合いの刃はなぜか圧力を感じさせた。硬質的な刃が交わる手応え。そしてそれは不意に緩められ体のバランスが崩される。

「アムさんは放してもらいます」

「なっ。どういうことだ」

 ふっと耳元に声が聞こえたかと思うと軽く左手をはじかれて、その衝撃でもこもこしたものを手放してしまう。

 たったそれだけの隙にあの末の弟とは思えない速さで小動物は奪い返されてしまった。

「どういうことでしょうね。驚くほど体が軽いんです」

 まさか魔王さんの加護ですかねとニンゲンは苦笑いをしている。

 いいや。そんなはずはない。生者に魔王の加護は届かない。

 そう思ってニンゲンの顔を見上げると、瞳の色が変わっているのが見えた。左の目がいつもとは違う、蒼に輝いている。

「なるほど。勇者の家の末の弟が本当に勇者だったってことか」

 笑えない。あれだけ錬磨して届かなかったところに弟がいる。

 けれど思い返してみればおかしな話だった。

 勇者の系譜は誰も、勇者と呼ばれるほどの絶大な力など持ってはいなかった。せいぜいが聖騎士。人間の常識の範囲内の最強でしかなかった。

 それは魔王の部下と戦ったからわかる。部下であの強さだ。まともに渡り合うことさえ出来ずにザルツでさえ一方的にやられてしまった。その王とまともに相対できるのが勇者なのだとしたら、それはもはや人外と言ってもよいだろう。

 技を伝え少しでも強くなろうと努力をして至ったのが今の力。こんな人間の限界の力では、勇者と魔王の間に割って入ることなど出来やしない。

「確かになれないわけだ。鍛錬ではなく血筋に眠っているだけの力。俺たちは持たざる者でおまえは持つ者だった」

 他の者が届かなかったところ。

 そこに至るのは剣の技を鍛える者ではなかった。

 他とは存在を異にする者。まったくのイレギュラー。

 それなら勇者の子孫の家の意味は。その血脈の意味は。必死に磨いてきた物の意味は。

 いいや。意味ならある。

「たとえ勇者があらわれても、魔王を倒すのが俺の役目だ」

 それは変わらない。弟は勇者の力を魔王討伐には使えないだろう。あそこまで気を許してしまっている魔王と戦うことなんてできはしない。この心優しき弟は。

「魔王さんには手をふれさせません」

 ぽぅと、蒼と翠のオッドアイが輝いている。小動物を背後にかばうようにして、輝く蒼い瞳は悲しむように目の前を向いた。

「おまえは自分がなにをやっているのか、わかっているのか」

「わかっています」

 兄に言われるまでもない。ニンゲンがしていることは間違いなく人類への反逆。

 続く世界を否定する行為だ。

「兄さまが魔王さんを倒そうとしてることだってわかっています」

「ならなぜ」

 呆然としながら、それでも兄は末の弟に疑問する。

「なぜ? そんなの決まってるじゃないですか。兄さまを殺させないためです」

「負けると思ってるのか!」

「違いません。負けるでしょう。でもそうじゃない。兄さまはきっと戦うことすらできない」

「なっ」

 息がつまった。

 この城にきて初めて浮かべる悲しそうな顔。弟がそんな顔をしたのはもう訓練をしなくていいと言われたとき以来だろうか。

「だって兄さまはもう死んでしまっているのだから」

「なん、だと」

 からんとサーベルが地に落ちた。

 あまりの衝撃に指が震えた。その手は極端に冷たくて。

 けれど彼は戦士の習慣ですぐに獲物を拾い上げる。それでもサーベルの柄を握る力は弱い。

「兄さまはもう、魔王軍の兵士なのだといっているのです」

「そんなことがあるかっ! 俺はっ、俺はっ」

 くぅ、とうめきながら、よろよろとザルツはニンゲンに近づくとサーベルを振り下ろす。力の入らないぽすりという剣戟はニンゲンの左手にあっさりと掴まれる。

「操られてなんかいない、ですか。ミハエルさんもそうでしたよ。彼は好きで人を殺していた。恨んでいたから」

 死霊は魔王に洗脳されるという話が最もらしく人間の世界には広まっている。けれどもこの城で暮らしていれば嫌になるくらいにわかる。彼らは自分の意思で動いて、自ら魔王さんに従っているのだ。

「でも彼の終わりは兄さまも見たでしょう? 砂になって消えていったことも」

 あれは、魔王にさからった魔王の軍勢の末路なのだという。モルくんが教えてくれた。命の根源を与えた者に敵対したら死ぬのは当たり前だと。

「終わりの日までは生きていて欲しい。そう思ってなにが悪いんですか。僕は終わりがくることをわかってるけど。それを受け入れてしまっているけれど。すぐに来て欲しいだなんて思っちゃいないんです」

 この城で過ごした時間も。兄様たちと一緒にいた時間だって、十分に大切なものだった。今すぐすべてが朽ち果てて良いだなんて、もったいなさ過ぎてニンゲンには言えない。

 惜しめるだけの生活。その輪の中に兄にもいて欲しい。そう思ってしまって悪いはずがないじゃないか。

「魔王さまに反逆した、という体裁ではなく勇者と戦っている、という構図をとった……っか」

 騒ぎを聞きつけてとことこやってきたモルくんがもっともらしくクワを片手につぶやく。のどかだ。とくに驚く様子もない。ひぃとびくびく震えるアムさんは、モルくんの後ろに隠れていて対照的だった。

「そうです。僕はどうやら勇者らしい。誰からそう言われずとも魔王を倒せるもの。そうでなくても僕は人間です。だから兄さま。魔王の部下として再誕したあなたは戦わなければならない。僕と戦って、生き延びなければならない」

 ニンゲンはザルツのサーベルを放すと、包丁を構える。さあ戦えと実の兄に迫る。

 そして、諦めて欲しいのだと願う。世界よりも自分の生活を優先してくれと願う。

「しかしっ」

太の死く(たのしく)過ごしてなにが悪いんです。この城はみんな愉快で優しい。いつ終わるかと嘆き悲しむ者でなければ、それを享受できるのです」

 終わりまでの楽園。

 区切りのある楽園。

 そんなのひどいと人は言うかもしれないけれど、もともとそんなものはいくらだって世界に広がっている。人は誰しも終わりを迎える。家族も、国も。なにもかもが古いものは終わり、新しいものが生まれる。

 死と終わりは誰にだってくる。

 ここはただ、新しいものが生まれて続いていけぬところ。

 次の世代が残らないと言うだけのこと。

 なら精一杯終わりまで楽しく生きればいいのだ。

 永劫に繁栄していかなければならないなんて、ない。

 自分の生だけを必死になって生きることだって大切なことなのだ。

 たとえそれが世界の終わりであろうとも。世界に荒れた大地だけが残ることになろうとも。

「おまえは毒されている! あの魔王と一緒に暮らして終わりを受け入れすぎている!」

「毒されているのは兄さまです! なにが勇者ですか。その役目を押しつけられていつまでそうしているのです」

 いまさら、勇者の子孫として戦う必要なんてまったくない。それなのに兄はサーベルを捨てる様子はなく、自分がすでに死霊であることを振り払うかのようにニンゲンに向かってくる。

 身体が羽のように軽い。

 今まで横から見ていてさえ目で追えなかった兄の剣線に正面からでも反応できる。これほどまでに兄と剣を交えたことなど小さな頃から一度もない。

 はっ。息を軽く吐く。息があがってるわけじゃない。ただ少し冷静になるために息を吐く。

「魔王を倒すための剣たれ。ふざけるなですよ。兄さま達はそれでどれだけ自分を犠牲にしたのですか。父さまはどれだけ傷ついたのですか。お二人が帰ってこなかったとき、うちでなにがあったかわかりますか。勇者なんてたんなる呪いなんですよ。人間という種族全体を生かすための掃き溜めなんです。なぜ続くことがそんなにめでたいのですか。子孫が生きることがどうしてそんなに大事なんですか」

 追い回されて殺されて死ぬ。やりのこしたことがいっぱいあったのに。そういう場合はたしかに無念も残るだろう。残念でもある。ただその場合、魔王さんの性格なら復活はさせたはずだ。死霊として。

 そう。そのかりそめの生を受け入れさえすれば、世界の終わりまでは生きていけたはずなのだ。

 もちろんそこに子孫は残らない。崩壊の時は決まっていて、そのときこの世界は終わるのだ。ただ少なくとも魔王に刃向かわなければ。そのあり方を否定しなければ、ほのぼのとした余生を生きることはできる。城のみんながそうであるように。そうであればもはや死霊も生者も関係がない。

 死を認識するかどうか。終わりを受け入れるかどうか。

 身近ではなさすぎる死を人は感覚として理解できない。祖先の死、先達の死を通ったとしてもなお、自分が死ぬとは思えないのが人間と言うものだ。

 だからそれまでの時間を無駄に浪費してしまう。それなら刻限(リミット)を区切ったほうがよっぽどいい生活ができないだろうか。楽しく愉快に。終わりの時に悔いがないように。

「ただ、笑っていたいだけじゃダメなんですか。どうしてひきづられなきゃいけないんですか。僕はこの城での生活が気に入ってます。後代にたとえ続かなくても。生きた証なんて残らなくてもいい。今が幸せならそれでいい」

 あの頃。ずっと鍛錬に明け暮れていたころ。彼らはなにを思って剣を振るっていたのだろう。

 ニンゲンはただ、求めに応じたくて、でもできなくて。役立たずで、苦しかった。

 勇者の血族は享楽を許さない。強さだけしか求められない。それも魔王とのみ戦う剣。魔王が現れなければ、鍛錬し続け、次代に技をつがせて終わりだ。

 魔王に届く剣を磨くだけの歯車。

 その一生に何の価値がある。どこに満足がある。

 ナマクラは見向きもされず、錆びた剣は放置される。折れた剣は捨てられ、使い終わった剣はようなしになる。まるで道具だ。

 そしてなにより。使いどきのない剣はひたすら研がれたまま。封印されて終わる。

 先代たちは、満足していたのだろうか? やれることはやったと子供たちの顔を見ながら逝ったのだろうか。

 結果が見えなかった彼らは、それだけで幸せなんだろうか。

 勇者の子孫としての重責。使命。彼らはそんなもののためにだけ、技を磨いてきたのか。

「じいさまの死に際は……おまえは覚えていないか。ちいさかったからな」

 包丁とサーベルの切っ先がかさなって火花を散らした。

「勇者の子孫の役目を果たしたと満足そうに死んでいったよ。たとえ呪いだろうと、じいさまは確かに俺たちや親父に過去を引き継いでくれた。そのこと自体が幸いだった」

「兄さまたちは才があったからそう言えるんです。蚊帳の外から見ていたら、外の暮らしの方がずっと人間らしくて楽しそうだった」

「まあな」

 ザルツは自嘲的な笑みを漏らす。

 勇者の真実を知ってしまった今、一気に色あせる世界がある。

 そして末の弟の生活を見ていれば、あの場を好くことなど無理に違いない。

 けれど、言う。

「ただ、それは誇りだった。技術と肉体を継承することこそが我が家の満足だ」

 それがたとえ、後付けで作られたまがい物であろうと。

 魔王の部下にすら届かない剣であろうと。

 磨いた技を生かして戦って来たのだ。魔王のためではなく人のために。

 ザルツだってそう。魔王を倒したい理由はただひとつ。

「魔王のしもべと化してるならそれもいい。その力を使ってでもおまえを越えて、魔王を打つ!」

 ザルツの体が一回り大きくなったような気がした。勇者を倒すため、その骸は魔王の力を受ける。

 ぎじぎじとサーベルの勢いを包丁が受け止める。

 両者の力が拮抗する。青の本来の力の半分も出せていないのだ。ミハエルを屠ったときのようにはいかない。

 けれど。

「騒がしいな。いったいなにをしているんだ」

「なっ、ちょっと」

 どうしてこんなときばかり周りを気にするのか。

 魔王さんは風呂上がりですと言わんばかりの全裸に湯気をまとわりつかせていた。ホカホカと上る蒸気は戦いとはまるで場違いだ。

 そのとき一瞬ニンゲンの注意がザルツからそれる。 

「魔王!」

 兄の体が二歩。

 左腕がふりあげた右手のサーベルに添えられる。

 いけない。そう思った瞬間だ。

 兄の身体はそこで。ぴくりとも動かなくなった。

「ぐぅっ」

 それで末路だと言わんばかりに。

 いびつな命を与えられたものはその主に刃向かえば命そのものをかき消されてしまう。

「にいさま!」

 それを生み出したであろう魔王さんは、なにが起こったのかわからないまま。タオルを片手に仁王立ちだ。ん? と不思議そうな視線だけをこちらに向ける。

「ま……おうっ!」

「やめてください!」

 もうやめてと兄に抱きつくと、夏なのにひんやりとした体温が伝わってくる。けれどそれ以上に、前へ進もうとする意志ばかりが叩きつけられる。

 そしてその手がぽとりと落ち、片足が灰に還る。すとんとニンゲンに抱えられるようにザルツは体をよせた。

 もはや立ち向かうことのできないザルツは唇だけを動かす。

「おまえは、勇者の楔からはなれて、しあわせを」

 鍛錬だけの毎日でもいつもそばには家族がいて、なによりこの愛くるしい弟がいた。いつも申し訳なさそうにしている愛らしい弟にいつか自由を、本当の笑顔をと、もういない弟ともよく話したものだった。守るための力を得ることに不満などまったくない。だからその弟はせめて、あの頃与えられなかった幸せを。

 柔らかい包容とともに、ザルツの体は砂となって溶けた。

 そこにはかすかに、おまえはもう笑ってるのだな、とだけ。声が残っていた。

かわいい弟が男の娘で、別の男と一緒とかだいぶ可哀相ですよね。

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