怨霊騎士の帰還2
「あうう。ニンゲンさーん」
朝の食卓を用意しおわると、隣に座るアムさんがふいふいとエプロンドレスの裾をひっぱって涙目をしていた。
ぽんぽんと軽く頭をなでてやってもびくびくしたアムさんはそのままだ。
たしかにこの食卓は重たい。まさかミハエルさん一人がいるだけでここまでも重苦しい食事になるとは思わなかった。
魔王さんもわりと無表情なのだけれど彼の場合、悪意というものがないので気にはならない。
それに比べてミハエルはひどかった。
ぴりぴりしている。そう。全身から不満オーラをまきちらしていて、触れたらすぱっと斬られてしまいそうな感じがするのだ。
「まあまあアムさん。ほらほら今日もちょっと豪勢ですからね。モルくんがつくってくれてる卵をいただいて作ったものですから、珍しいと思いますよ」
「卵! おおぉ。この黄色いのは卵なのですか」
ほほーと、ほ乳類のアムさんは興味をそちらに向けてくれた。
今日のメニューはこれぞブレックファーストといった感じの、パンとスクランブルエッグ、そしてお肉の代わりに豆をよく炒めて甘辛くしたもの。さすがに大豆は畑のお肉というだけあって、油もしっかりとあるし香ばしい香りを放ってくれている。
今度は地下の書庫にあった調理法をつかって、ナットウという食材を作ってみようかとも思っているほどだ。なんとまるで腐ったようで腐ってないというめずらしい食べ物らしい。少なくともニンゲンはいままでそんな食べ物を見たことがない。その本には朝の定番!なんて書かれてあった。
「ご飯は活力ですからね。なんであれしっかり食べましょう」
まあ死霊のみなさまには関係ないですが、と心の中で付け加えてふんわり仕上がったパンの上にスクランブルエッグをのせる。モルくんが育ててる鶏はさすがに人間たちのそれよりもストレスが少ないらしく、過ごしやすいようにと環境を整えているおかげでかなり上質なものになっていた。
意志疎通できるなら卵をとることになにか文句でもあるのかと聞いてみたら、あんまり気にしてなくて卵あったら温めるくらいな感じっぽい、とモルくんには言われてしまった。三歩あるくと忘れる、という格言は事実だったらしい。
「んふー。朝からこれは幸せですねぇ」
はふはふと暖かいスクランブルエッグをのせたパンを頬張ってその食感にため息がでる。思わず頬についてしまった卵の欠片を人差し指でぬぐって口の中に入れる。おいしい。
ブレックファーストといったものの、ニンゲンの自宅での朝食はそこまで充実してはいなかった。卵なんてものは貴族様の食べ物であっておいそれと朝からいただけるものではないのだ。
はたして、ミハエルさんはどういう反応をするだろう。
そう思って手を止めてじーと見ていると、彼はパンにかぶりついて、う、と手を止めた。
「うまい、なんて言った覚えはないぞ」
「そうですかねぇ、今日のもかなり気合いの入ったごちそうだとおも」
ぎろりと睨まれてアムさんがニンゲンさーんとびくびく裾をつかんだ。おびえるアムさんもかわいいけれど、怖がるなら素直に静かにしてて欲しい。
「魔王さんは……いえ、聞かなかったことにしてください」
とりあえず、といった感じでカラになっている皿を見ながらニンゲンは言葉を止めた。相変わらず欠片一つ残すことなくきっちり食べてはくれるのだけれど、最近はあまりおいしいとかいまいちとか、そういったことを言ってくれなくなった。良くも悪くも慣れてしまったのだろう。
「そんなことよりもあれだな。その」
魔王さんの方に注意を向けていたら、むすっとしたミハエルが珍しく声をかけてくる。
仏頂面は変わらないけれど、なにか考えてるような様子だ。
ミハエルの頭には無理難題という言葉が浮かぶ。勇者をどうにかするには彼を困らせてやらないといけない。そして困ったところで颯爽とそれを解決してやるのだ。
その昔、兵士達が話していたことを思い浮かべた。
確か、とても極上で是非とも手に入れたいとかなんとか言っていたものがあったはずだ。
「オンナが食べたい」
「……はぁ」
まじめに言われた言葉にニンゲンは呆けてしまった。
いくらなんでも、その言葉はどうなのか。
いや、魔物だから食生活が……いやいや。ミハエルの元の姿は人間であって。
「さすがに人間を生け捕りに食すというのはちょっと……」
この前、書庫で女体盛りという料理があることは知ったけれど、ニンゲンの感想としてはよくわからないという印象だった。
人の体温の上にナマモノを置くだなんて、どう考えても食材の鮮度も落ちるし、かといって女体のほうに手を入れるのは人道的にありえない。生きて動いて、それを楽しむのだと書かれてあったけど正直わけがわからない。異文化は怖い。
「オンナは極上だという話を聞いた。それは人間のことなのか」
「あなたも、魔王さんに近しいところはあるわけですか」
不機嫌そうに言われた台詞にニンゲンは残念そうに肩を落とす。そもそも聞きかじりの上に、その言葉の意味もさっぱりだというのだから救いようがない。
もともと人間だったというのだから、それなりに人間の常識というものを持っているのかと思いきや、まったくもってダメダメなお方だったようだ。
「女を食べる、というのは、丸かじりというわけではないらしいですよ」
まぁ僕もよく知りませんがとニンゲンは恥ずかしそうに顔を伏せる。女体盛りはともかく、据え膳がどうの、という知識くらいはニンゲンにだってあるのだ。図書館にあった本にだって騎士と姫の秘め事だったり、愛を扱ったものは多くあった。
「なんだ、おまえも知らないのではないか」
そんな些細な機微など目にはいらないようで、彼はふんと鼻をならして、パンにたっぷりのスクランブルエッグをのせる。その卵は半熟に仕上げられていてぷるぷるとしていた。
「ところで魔王の旦那。あんたに言いたいことがある」
さっくりしあげられたトーストを租借しながらミハエルは続けた。
「俺もしばらくここに滞在することにする。なに。もはや世界は終わり間近だ。俺が現場にいなくてもどうとでもなるだろう」
いいだろう? と魔王に問いかける。
「別にどうでもいいぞ。いつまでという枷もないのだしな。おまえが戦場にでてもでなくてもどうでもいい」
「うわ、あんまりな言いぐさですね」
くぴりとワインを飲み下して魔王さんはふんと鼻をならしただけで彼の申し出を受け入れた。心底いろいろなことがどうでもいいらしい。
その申し出を見つめていると袖がくいくいと引っ張られれる。アムさんが涙目をしていたのでとりあえず頭をなでてやった。
おいらたちは、もう終わりました、と小さな声が聞こえた。
「なあボンさん。あんたは今の状況をどう思っているんだ?」
翌日、ミハエルは外で警備をしているボンを見つけるとすぐに声をかけた。
彼はこの城にそれこそ最初から仕える兵士の一人。魔王の親衛隊の長なのだ。この異常事態になにか思うことはないかと思っても当然というものだろう。
「なに、別に気にすることじゃないだろう。世界は終わり、おまえさんは復讐を完了する。それだけだ」
ふぁとのどをかくりとならしてボンは槍に体重を預ける。いつでも臨戦態勢という骨な守備隊とは思えない力の抜き方だ。そんな反応にミハエルは一瞬力が抜けてぐらりと体を揺らす。
「いやしかしだなっ。あんなニンゲンの好きにさせておくなんて、警備の頭としてはどうなんだ」
「別にアレが我らの敵になるとは思わんしなぁ」
「勇者って言ってただろうが。なのになぜ奴を放置しておく」
翁もあの魔王も、あいつを勇者といった。勇者といえば魔王と敵対するものであるのは誰の目にも明らかだ。それであればなんとかしなければならないのが魔王の軍勢というものだろう。こんな馴れ合いを続けていて良い関係ではない。
「あれを見ても、おまえは勇者だと思うのか?」
ちらりと視線を外にやると、壁を掃除している人間の姿が眼にはいる。ロープで上から身をおろして外壁の掃除をしているらしい。
近くにモルッキーがいるところを見ると上から下へはあいつが運んでいるようだ。
「……勇者。しかしだな」
確かにあれは勇者らしくない。ずっと何もない檻の中で暮らしていたミハエルですらそう思えるほどだ。むろん魔王の僕……というわけでもない。あいつはあいつの意志でここにいて好き勝手やっているのだ。いうなれば居候だろうか。
その結果が今も城に刻まれ続けている。
城の外壁のこけが少しずつ払われて。また少しこの城から禍々しさが払われていく。
「まぁ小さいことは気にするなよミハエル。どうせ我々に楯突けるものなどいないのだし、わりと人間の楽しみというやつも愉快なものだぞ」
「そうは言うがな、魔王の城がこれじゃまずいだろう」
魔王っていうのはこう、もっと禍々しくて凶悪でだな。と言いかけて、ミハエルは口をつぐむ。それは人間が描くものだ。生きていた頃に門番が噂していた魔王の姿そのものだ。けれどこの城の中でそれが通じるかといわれれば、疑問でしかなかった。
なんせぐーたら魔王が魔王でございとふんぞりかえっているのが現状なのだ。そうしたものが普通と思われていたら、恐怖がどうのといった話にはならないかもしれない。彼らの目的は世界の破壊。それ以外はどうでもいい。
「そうか? 別段明るくてもわしらはかまわんがな。魔王さまもおっしゃっていたが、光を浴びて朽ちるほど我らは軟弱ではないよ」
通常、死んだものの世界は夜と闇と決まっている。けれど魔王の力を注ぎ込まれている彼らにその概念はまったくもって通用しない。昼夜とわずに全力で働き、人間を駆逐することができるのだ。
「しかも、あいつはわしらの体の骨まで拭いてくれるしな。いやぁ埃と砂だらけだった体が見違えるようにびかびかで部下たちも大喜びだ」
不思議なものでな、とボンはかくかくと骨をならした。
魔王様が言うように今までの城の状態でも十分生活はできたし、骨が汚れていようともちろん支障はないし、別段きれいになったからとて運動性能が上がるわけでもないのだけれど、どことなくほっこりするというか、いい感じがするのだ。
「おいおい、魔王軍ともあろうものが気持ち良さがどうのなんていわないでくれ」
それは人間の価値観だ。それともあれなのだろうか。ボンさんたちにも人間だったころの習慣みたいなものが残っているのだろうか。それこそ骨の髄にまでしみこんだものが、ぽろりと表にでてきてしまったのだろうか。
「ミハエル。貴様はやることがあるからいいかもしれんが、わしらの退屈っぷりといったらないのだぞ」
「むぅ。それはわからないでもないが」
この城に数日いて、それは確かにわかった。
近衛兵の隊長である彼はもとより部下に至っても警備をしているだけで最近はめっきりと戦っていないのだ。最初のうちは城や南の森に人間が攻めいったりということもあったが、さすがにここまで来てしまえばそれもない。有力な戦力は最初の頃にすでにあらかた滅ぼしている。
「むしろわしらの方がわからんよ。わざわざ好きな戦いを放ってまでこんなところに留まるなんてな」
以前のミハエルなら考えられないとボンは首をひねる。魔王様のあり方を諦めてからというもの、もうこの城に興味なんてないはずだった。半年に一度の直接的な報告以外彼は城に寄りつかなかったのだ。
「お主もなにかが気になってるのだろう? あんなへなちょこな勇者の姿のどこかが」
「ふんっ。俺は別に気になってなんかいない。気になるとしたらこの城の変化だけだ。あいつのせいで変わってしまったここがな」
「気にするほどのこともないとは思うがね。この些細な変化が我らを揺るがすとでも?」
いちいちもっともなボンの言葉にミハエルは口をつぐまざるを得なかった。
慢心ではなく客観的にそう思える。ここからの大逆転が人間にできるかといわれると、無理に違いない。
唯一あるとすれば、それはそう。魔王の心変わり、といったところかもしれない。彼が世界の破壊をやめると言えば戦いは終わる。世界も続く。
しかし。あの勇者そのものがもう世界の終わりを受け入れている。
そんなやつが魔王をどうこうできるとも思えない。
「しかしこのままというのもどうなのだろうな」
「ちょっかいをかけるなら別にかまわんよ。魔王様は別にどうでもいいって言うだろうしな」
我らには関係ないことだし、とボンはつるつるの頭をなでた。
「暇つぶしにあのニンゲンで遊ぶというのもありかもしれんな。我らはアレにながされるようにいろいろとやってるがこちらから働きかけてもいいのかもしれん」
どうせ労働力も足りてるしな、とボンはかくかく顎をならす。
暇つぶし、という単語がでている時点ですでに価値観そのものが変わってしまっていることを、この城の死に物は全く気づいていないのだった。
城の中をうろうろと歩き回りながらミハエルはうなり声を上げていた。
場所は翁の地下書庫だ。他の場所はボンたち骸骨兵がうろうろしているし、あまり不穏な動きも見せられない。ここならこの城のヤツは滅多にやってこないので安心だ。あのニンゲンもこの時間にここを使うことはない。
翁はあの人間を虜にするか殺してしまうかできればいいと言っていた。
ただし、勇者の討伐は最終手段といっていいだろう。
少なくとも彼は魔王の庇護を受けている。勇者のくせにだ。あいつを害そうとすれば他の連中が黙ってはいないだろう。動物たちはともかくボンさんたちは厄介だ。まともにぶつかって負ける気はしないが、勇者をどうにかする前に反逆者の烙印を押される可能性もある。同士討ちはまずい。
まったく。あの勇者が城のものたちの心を握っているというのがいらだたしい。
「悩んでいるようだのう。やはり魔王になりかわるなど、主には荷が勝ちすぎたかのう」
ほほ。あざ笑うような鳴き声が不意に背後から聞こえた。
振り向いてもそこには誰もいない。
「うおっ」
そして再び前を向くと突然翁の顔が視界一面を覆った。おもわずミハエルはのけぞって尻餅をついてしまう。
「ほっほ。主もまだまだだのう。雑念があるからそうやって足下をすくわれるんじゃろうて」
いきなり顔にへばりついてくるお前が悪いと言いたいものの、なにも言えずにミハエルは起き上がった。
「それで、あの勇者をなんとかする方法は見つかったかの?」
ふぁさりと机の上にとまって羽根をこしこしふるわせながら、ついでといったようすで問いかける。
「それが解ればこんなところに居やしないだろうが」
「ほほ。その通りじゃのう」
小馬鹿にしたような鳴き声がミハエルに突き刺さった。
この梟はいつだってそうだ。すべてを見透かしたように超然的な態度をとるせいで、城の死に者はとにかく嫌がってここに寄りつかないのだ。
「力尽くがダメなら頭を使わんといかんな。主が一番苦手としてるところだの」
ほほほとやはりバカにするような鳴き声がなる。
ひどい。いくらミハエルが腕力に頼った戦いしかしてこなかったとはいえ、言い方というものがあるだろう。
しかし、この梟じいさまの言うことも一部は正しい。ミハエルには力づく以外の方法がさっぱり浮かばない。
「そのための知識はここにいくらでもある。探せばよかろう」
「本を読めと? この俺に言うのか」
本なんてものをミハエルが読んだことは一度もない。そもそもあの暗い牢屋にあったのは、薄闇と湿気と衛兵の無駄話くらいな物だ。
「ほほ。最初から最後まで残念な奴だのう。しかたない。本を読み上げる装置も貸してやろう」
いくつかある机の一角が音を立てて姿を変えていった。
ヒト一人がすっぽり入れるように遮蔽されたそこには、本を置く場所が備えられている。そこにセットすると最初から読み上げて、左右の壁面から音が流れる仕組みになっているのだ。
「で?」
その変形を見つつもミハエルはいまだによくわからないという声を上げる。
「で、ではないわっ。さっさと本を探してこい」
「そう言われても、選べないだろう」
文字が読めないのなら本の背表紙も判読はできない。この膨大な蔵書を全部装置につっこむのはさすがに無理がある。
「うう。もうわし人選を間違えたんじゃないかと思う」
ぐすっと翁が泣きマネをする。嫌みったらしい奴だ。
全知を司る参謀がそれではどうしようもない。
「ほれ。この束から適当にとって読め」
右羽を軽くふぁさりと揺らすと、すぐに本棚からばらばらと本が集まってくる。それらのすべてがあの勇者をどうにかするための方法だという。
「あのニンゲンにおまえさんが憧れられればいいわけじゃし」
まぁ、一流の騎士にはできて当然のことじゃろうといいおいて、その梟は姿を消した。
それから数日の間。ミハエルは書庫に入り浸り、対策をきいてはそれを試していった。
作戦1。ものでつる。
ミハエルが一番気に入ってる、とある王国を落としたときに奪った槍を渡そうとしたら重くていらないといわれ、ではやはりとある国を滅ぼしたときに拾ったきらびやかなネックレスを渡したら僕はさすがにそこまではつけられませんと拒絶された。似合いそうだったのに。
作戦2。雰囲気のあるシチュエーションを作る。
本に書いてあったような眺めのいいテラスも、ゆったりとした音楽もなかった。眼下に広がる光の群といわれても、わけがわからない。とりあえず星空の見えるテラスにつれていったら、まさかこんなに掃除ができていないところがあったとはと変な反応をされた。
作戦3。やさしさをアピール。
ジェントルマンはレディーファースト。さりげなく車道側を歩きましょう。食事のときは椅子をさりげなく引いてあげると好感度アップっ、なんて書いてあったから椅子を引いたら思い切り豪快にヤツが尻餅をついて、なんてことをするんですかと怒られた。
作戦4。剣士として師弟関係をもつ。
どうしようもないくらいに、ダメ剣士でミハエルのほうが教える気力を失った。まさかこれで勇者とかありえない。
作戦5。裸のつきあいをしてみる。
裸で仁王立ちしてみたら、変態といわれてしばらく口をきいてくれなかった。
「これ以上、どうしろと……」
めちゃモテ、彼氏がめろめろになるもてかわメイク、なんていう本まででてきたが、さすがに訳がわからずに少しきいてやめてしまった。
翁が示した本のことごとくはまったく役に立たなかった。もうあのとき示された本も三分の二が消化されてしまっていた。
こんなものをわざわざ建造する余裕があるなら、もうちょっと効率的に世界を壊せばいいのにとミハエルはがっくりしてしまう。
「なんというか……あれだの」
そんなミハエルを見つめながら、もう一つがっくりきてる姿があった。
「知識とはそれを行使するだけの基礎力を必要とする、ということがよくわかった気がするんじゃよ……」
がっくりと翁は珍しく前かがみに崩れ落ちていた。
全知を司る参謀らしからないその姿は、もはや涙でも流しそうな勢いだ。
「お、おまえが出した本がいけないんだろうがっ。俺はやるだけのことはやったのに」
そんな翁の姿が腹立たしくてミハエルは声をあらげる。たしかに自分は学がたりないかもしれない。戦う以外に能がないかもしれない。けれど。
魔王になるために必死に努力をした。それを否定されては気がおさまらない。
「お主がどうしようもないスカポンタンだからいかんのじゃろうが。もうやめじゃよやめやめ。お主は魔王の器じゃなかったんじゃよ」
「ふざけるなっ」
「では、主になにができるというのじゃ?」
あんなニンゲンのひ弱な小僧一人どうにもできんとは。
侮蔑のこもった視線がミハエルに向いた。
そう言われると、返す言葉はない。やるだけのことはやったが、実際に成果はでていないのだ。勇者の気の一つも引けていない現実はかわらない。
「よかろう。ならばこそこそとせず堂々といこうではないか」
いちかばち、という電撃作戦が本には載っていた。
「それでばちならどうするんじゃ?」
面白くもなさそうに翁は鼻を鳴らす。
ミハエルは少し思案して答えた。
「それでだめなら、この手で」
もうやれることはやりつくした。あとは実力行使をするだけだ。
拳を握りしめるとミハエルは宣言した。
「我こそが魔王にふさわしきもの。あの勇者をほふり、みごと魔王になってみせよう」
その声は地下図書館からこぼれでることはなく。
隔離された世界の中でだけ響いていた。
「うぅ。こんなものに従う義理はなかったですかねぇ」
ニンゲンは南の森で取り出した手紙を見返しながら、ううぅんとうめき声を上げていた。
厨房で今日はなんにしようかと鍋のふたを開けたら紙が入っていたのだ。それも書物の切り抜きを張り合わせたようなたどたどしいもの。
いいや。たどたどしい、というよりも怖い。めちゃくちゃ怖い。脅迫文みたいだ。
ー南ノもリへこい。黄色のとこロ。一人でー
いや実際脅迫文なんだろうか。でも脅迫するような相手が思い浮かばない。
人間っていうのはまず考えられない。南の森を越えてきた者はニンゲンの後には一人もいない。
そしてもちろん骸骨なかたがたや、動物系のアムさんたちに脅迫されるような覚えもない。
たとえばもっとご飯をゴージャスにして欲しいのなら、ちんちんお皿を鳴らしてうまいものーって騒ぐはずだ。
「それにしても場所の指定がざっくり過ぎです。黄色ってあの菜の花畑でしょうか」
他に黄色と想像すると、せいぜいモルくんの畑くらいなものだけれど、やはり彼なら呼び出しなんかしないで直接言ってくるだろう。
「愛の告白にしては風情がないですしね。まあ僕もそういうのはあんまりわからないですが」
手紙で呼び出しといえば自ずと告白と相場は決まっているものだけれど、勇者の系譜はあまり恋愛に関与しないところだ。どちらかというと頑強で立派な子供を産める女性を妻へと迎える。
母さまはそれでも幸せよと微笑んでいたからそれが可哀想なことでもないのだろうけれど、町中で微笑ましいカップルさんなんかを見た日には、そういうものもあるのかと思ったものだ。
よく通っていた町の図書館で、本の間に手紙を仕込んでつきあいを始めたカップルもいるという話を聞いたことがある。手紙を見た瞬間にその子は驚きの声をあげて、そこが図書館であることに気づいて我に返ったそうだ。
「それがこんな文章なら別の意味合いで悲鳴をあげちゃいますよね」
まったくと苦笑をうかべながら進むと頭上を覆っていた木々が一気に晴れて、くあっと強い日差しが肌をやいた。
もう季節は夏を間近にしているところだ。あのとき広がっていた黄色はもうすっかりと落ちてしまって、いまでは青々とした草原に変わってしまっている。
そんな草たちに埋もれるようにして、彼はいた。
「この手紙ってミハエルさんだったんですか」
ふんと仏頂面で草に埋もれていたミハエルにあきれ顔でニンゲンは声をかける。まったくどうしてあの城の男どもときたらこう、どかりと大地に座りたがるのだろうか。
ますます果たし状の雰囲気がまんまんだ。
「わざわざこんなところまで来てもらってすまんな。テガミが無事に届いてよかった」
「い、一戦交えようというなら、う、受けてたちますよ」
ううぅ、ととても嫌そうな声をあげて身構えたとたん、うおぉぉっとミハエルが立ち上がって手を伸ばしてくる。
捕まれるっ、と思った瞬間にその手は途中でとまった。その先には大きな手に比べればとても小さい一輪の花が握られている。
内心、ほっとした。果たし状というわけではなかったらしい。
ここで死んでしまったところで、致し方ない気もする。けれどできれば最後まで。せめて世界の終わりまでは彼と一緒にいたい。
「男か。金か。それとも極上といえる女か。なんだって手に入れてやるぞ、さぁ俺の物になるがいい」
けれど、そんな考えは彼の申し出の前に吹き飛んでしまった。
はて。この死霊兵はいったいなにを言い出しているのだろう。
「はぁ。突然どうしたんですか。こんなところに呼び出してそんなことを言いたかったのですか?」
「そうだ。俺はお前のことが気に入った。だから手に入れたい」
無表情もここに極まれりといった様子のミハエルは、まるっきり告白とは別のベクトルの感情を持っているように見えた。
「本心からそう言ってくれるなら、僕も嬉しいんですがね」
いままでさんざん嫌がらせをしてきてこれとは本当に訳が分からない。それともあれなのだろうか。小さな男の子がやる、好きな相手にはいじわるをする、とかいうことだったのだろうか。
「俺は魔王になりたい。あの力をこの手にしたい。そのためには勇者の力がいるのだ」
「は?」
けれどミハエルが言うことはそれの斜め上を行っていた。魔王と勇者は対になるものだから何らかの関わりがあるのかもしれないが、それが自分と関係あるのかと言われればそんなものはない。あるはずがない。
「バカですかあなたは。僕が勇者? そんなわけないでしょう」
どうすれば僕を勇者だと思えるんですかと言ってやると、ミハエルはうぐぅと言葉につまった。ほらこの通り。そういう申し出をしてきたミハエルですらニンゲンを勇者だなんて思っていない。いままでそんな風に見てきたものなんてそれこそ一人もいない。
自分はただ、勇者の末裔の絞りカスとして勇者にしたてられただけの、たんなる生け贄に過ぎないのだ。
「でも翁が」
「担がれたんですよ。翁さんはいじわるだってみんな嫌そーな顔してますよ」
きっとそういう冗談が多いんじゃないんですかね。と言葉にしてみるとさもありなんと思った。実際、翁がどういうことをするのか、ニンゲンはまったく知らないものの、あのアムさんたちがああまで嫌がるのだ。退屈しのぎにニンゲンを仲間に狩らせるという遊戯に走っても不思議ではない。
「そもそもあなたが魔王だなんてそっちのほうがよっぽどないですよ」
「なっ。貴様がなぜそう言い切れるのだ」
ふざけるなとミハエルはいきり立った。よほど自分の方が魔王的だと彼は言う。
そう。一般的な人間の感覚でいえばそれは間違いではないだろう。
魔王は狂気の中で世界を滅ぼす。そういうものだとみんな言うだろうし、かつての魔王だってそういう風に描かれていた。どの本を見てもそうだ。
でもニンゲンはもう身近であの魔王という存在がどういうものなのかを知ってしまっている。それでも成り代わりたいと願う彼を見ているとあまりにも可哀想で、無意識にその頬に手のひらをあてていた。かさついた肌。戦ってきた戦士の肌だ。魔王を目指す理由を持つ肌。
「それはあなたが欲望のままに破壊を尽くすからです。恨みを晴らすために力を欲しているからです」
「それのなにが悪い」
ぎろりと刺さるような視線を向けられてももう怖くは無かった。
それよりもどうしようもない悲しさのほうが出てしまう。
「いいですか? 僕はもう人間の世界を諦めていますし、魔王さんにいたっては考えてすらいない。ただ無機質に命を刈り取るだけ」
それが魔王。
「あなたは私情を挟みすぎています。人間が憎いから狩るというのなら、それはただの人間同士の小競り合いにすぎません。魔王のやることじゃあない」
魔王とはなにか。そばにいればよくわかる。あれはとても残念な人だ。いいや人とすらいえない。
人間の摂理を遙かに越えるもの。
愛憎なくただ終焉を導くけもの。
そんなものにただの人間がなれるはずがない。
「人間であるあなたは魔王にはなれない」
「きさまあっ」
無意識だった。ミハエルの大きな手ががしりとニンゲンの首をつかんで背後の木に叩きつける。
そこで我に返ったミハエルは力を緩めずに思った。
もうこの勇者を懐柔することなど不可能だ。ならばもう、いっそ。
翁は言っていただろう。魔王を倒せるのは勇者だけ、そして勇者を倒せるのもまた魔王だけだと。幸い周りには見張りの骸骨兵の姿もない。城の連中とやりあうこともないだろう。
こいつさえ倒してしまえばすなわちこれは魔王ということだ。あの力をもっと有意義に使いこなせるようになる。人間どもをもっと効率よく殺し尽くすことができる。
力は。持つべきものが持つべきなのだ。
やる気の無いものが力を持つこと。やる気があるのに力がないこと。
いつだって悲劇はそういったときに起きるのだ。
魔王の在り方? そんなものは知らない。ただあの莫大な力が手に入ればいい。
この手に力を。我が手に力を。
世界を壊し尽くす力を。魔王の力を。
「死ねぃっ!」
丸太ほどもある二の腕がびきりとなった。大きな質量を持つ大剣は突き刺すような動作でニンゲンの顔を確かに狙っていた。
「翁もずいぶんと悪趣味なもんだ」
けれど。それは顔に届く前に無造作にニンゲンの手で握り止められた。
いままでのぽわぽわした印象は消え、いつのまにかその表情はすっと険のこもったものに変わっている。その瞳の輝きは蒼。先ほどまで碧がかっていた瞳の色が変わるだけで印象はがらりと変貌していた。
握っていた剣をまるで棒きれでも放るかのように払うだけでミハエルは剣ごと後ろに吹き飛ばされる。ほっそりした腕からは想像も出来ないほどの莫大な力だ。
彼は、青い瞳の青年は握られていた首のあたりを軽く触りながら、ゆっくりとミハエルに歩み寄った。
「ああ、はじめましてかな。ミハエル卿。ボクはそうだね。青とでも呼んでもらおうかな。まあどうせ刹那的なつきあいだし別にいいよね」
名前なんてどうでもいいと翁も言ってたし、ボクは別にそれでいいよ、とがらりとかわった口調で彼は言った。
「しかし、この格好はどうにかならないものかな。ボクはこれでも男だというのにね。まるでどこかのお姫様じゃないか」
まあかわいいのは嫌いじゃないけどね、と彼はぽふぽふと胸やら肩やらを軽く叩いてみせる。口調がボーイッシュなせいか、はたまた彼の持つ印象か。今まで似合っていたはずのメイド服はどこかいびつさを際立たせている。
「さて、ボクが表に出ているということは、ミハエル卿。君はボクの命を取ろうとしているということだ。それでいいよね?」
「なにを言ってるんだ……」
「つまり、ボクの宿主を害そうとしている君を排除しようとしているのさ」
かかっておいでよ、とけだるい言葉がかけられるとミハエルの身体が小刻みに震えた。
まさか。まさかこんな相手が本当に勇者だとは。
半信半疑だった。翁の言葉の全部を信じたわけじゃない。けれど城を変えてしまうニンゲンを駆逐できるならそれはそれでいいとも思っていた。
けれど、この力。
確かに。この相手を倒せば自分は魔王となれる。
愚かな人類どもをこの手で根絶やしにする権利を得る。
「おもしろい。ならばその障害、我が力で打ち破って見せよう」
巨体に本来の力が生まれる。先ほどの比では無いほどの重さと速度の乗った剣が青の頭上を奔る。
それはどこから取り出したのか、青の短剣にはじかれて軌道を変えた。きぃんと高く澄んだ音が聞こえる。まともに受けたらその短剣はすぐにでも折れてしまいそうだが、青は刃が触れた瞬間に力を外に逃がすように短剣を滑らす。
それが幾度続いたか。振り下ろし、振り上げ、切り上げ、なぎ払う。
すべての動作から生まれる剣戟を、青は鼻歌交じりにいなしていく。ミハエルの剣戟をただただ受けいなしていく。スカートの裾が柔らかに踊り、巨剣を軽々とさばくたびにまばゆい光が飛び散った。
「弱いよ。弱い弱い。それで魔王を名乗ろうなんてとても残念だ。アレはたかが人間の死に損ないがどうこうできる代物じゃないんだよ。そういう風につくられているんだからしかたないよね」
ああ、死に損ないどころかもう死んでるんだったかな。
薄い唇から笑みがこぼれる。
それはもう、いつもほわほわと笑っていたニンゲンの姿とはかけ離れていた。
「この程度じゃ、聖剣を使う必要もないよね。まったくご大層な装備があるわりに本当に出番が無い。本当にこのシナリオはどうにかならないものかな」
それとも、使ってしまおうかと青は思う。
どうせ魔王討伐は彼の役目じゃない。いつも裏方に徹する彼に与えられた力はたいていの場合使われないで終わってしまうのだ。勇者を守るのが青の契約。他がどうなろうと問題にはならないはずだ。多少地形が変わろうが、青としてはどうでもいい。ならばいつか自分の手に収まるこの力を振るってしまってもいいのかもしれない。
「およっとっ」
スカートの裾がふわりとひるがえる。
ついうっかり、受けるだけではなく、蹴りがでてしまった。
軽く見える蹴りはミハエルの巨体を背後に吹き飛ばす。砂煙がもうもうと上がり、衝撃で首がごろりともげた。怨霊騎士は首のない体をなんとか立ち上がらせる。その姿に、ええーと青が不満げな声を上げた。
考え事をしていた青も悪かったのだが、無意識に攻撃してしまうくらいにミハエルが消耗していたのもいけない。あれだけスキだらけでは、攻撃してくださいと言わんばかりだ。そして一度だけの攻撃はもう、ミハエルから戦う力の大半を奪ってしまった。
その体はもうボロボロで、聖剣を使うのをためらわせるには十分すぎるほど弱ってしまっている。もう少し粘ってくれるならば全力を出せるというのに。ミハエルですらそこらの骸骨兵と変わらない。彼我の力の差が大きすぎる。
「まだやる? まあいいけど。ボクの役割を全うするだけだからね。結局おいしいところは赤まかせだから、せめてこれくらいはさせてもらわないと」
今回は本当につまんないんだよねぇと蒼い瞳の彼はぼやく。いつもに比べて今回はとことん青の見せ場はない。なさすぎる。
「勇者が弱そうに見えたから魔王軍全般襲わずにあまつさえ居候を許すだなんて、すさまじい質の魔王だよね。もっとこうこの子が危険の連続でわくわくどきどきになると思ってたのに」
甘さを通り過ぎて喜劇だよねと青は言う。
本当の魔王はもっと残忍で、残酷で。世界のすべてを黒い炎で焼き尽くして笑い声を上げるようなやつなのに。
「貴様はなんなんだ!?」
首をごきりとはめると、ミハエルは尋ねずにはいられなかった。
これは勇者というものだという。そんなことは元からわかりきっている。翁がそう言った。そしてその力の片鱗も見せつけられた。では。
どうして、この勇者はのうのうと。これだけの力を持っていながら魔王に刃を向けないのか。勇者は魔王を屠るもの。潜んだままあのへたれを表に出しておく意味がさっぱりわからない。
「ああ、言っとくけどボクは勇者じゃないよ。たんなる勇者の護衛。勇者が不慮の事故で死なないようにいつもこの身を守ってるのさ。あんなへたれ勇者じゃ、それこそボクがいないと物語の冒頭で倒されちゃうじゃないか」
骸骨兵一体にかすり傷一つつけられずにお陀仏だよという青の台詞は、普段のニンゲンの姿からすれば当たり前な物言いだった。
それはミハエルすらそう思う。あの勇者は弱い。戦う力を持たないただの小娘だ。
だが、これほどの相手が彼を勇者だと呼び守護している。ならばやることは変わらない。
「ふんっ。つまりあいつが勇者なのは間違いないということか。ならば倒すまでだ!」
体がどうの、護衛がどうのという話はわからない。けれど目の前の敵を倒さなければならないのだけは変わらない。ミハエルは刃こぼれのした巨剣の柄を握りしめる。
「無駄無駄。君じゃ勝てないって。そういうのをヤケのやんぱちと言うんだ」
ああ、この文化圏じゃ、やんぱちはないか。やんごろう? それもないかと青は意味不明の言葉を作る。
そもそもミハエルにはそれを聞くだけの余裕すら残っていない。
最初の勢いすら無いミハエルの剣はもはや短剣を握ってない方の手の甲で軽々とはじかれる。そしてその時に生じた風がミハエルの大きな体を跳ね上げた。
「さて、まだやるかな? それとももう、終わってしまうかな?」
それとも逝ってしまうかい? ボクの力でね。くすりと笑いが風に溶ける。
けれどそれを聞く骸はもう立ち上がることすらできないでいた。
さすがにもう限界だろう。
「まぁほっとけば魔王の力で再生するのだろうけど。どうしたもんかね。それとも裏切りものの君がその力を受け取る資格を持つかどうかといわれたら謎……かな」
さぁどう転ぶかね、と彼は体についた埃をぽふぽふと払いはじめた。
もう戦いはおしまいと言わんばかりの彼をミハエルは睨み付ける。
懐に入り込めれば勝機はある。
「おのれ……おのれおのれおのれっ!」
ミハエルはむんずと自分の頭をつかんで、首のつなぎ目を自分ではぎ取った。
そして首が。高速で青の首筋に迫る。柔らかい首筋ならば攻撃が通ると見越しての奇襲だ。手は剣をも素手で握れるほどに堅いようだが、さすがにここを鍛えることはできまい。
ばきんっ。堅いものが折れる音が響いた。
「ボクが使ってるときはこの体自体が硬くなるんだよね。赤のときはやわらかいみたいだけどさ」
残念だね。と青はミハエルの髪を無造作に引っ張る。ぼろりとかけた歯が地面に散らばった。その数は約20。ほとんどの歯が抜け落ちてしまったといっていい。
「じゃあさようならだ。ちょっとばかりは見せ場をくれてありがとうね」
ほいと捨てるようにミハエルの首を投げると、それはすぽりと体とくっついた。
体は動かないでも無い。でも歯と共に抗う意志までもが砕けてしまった。
そして、ニンゲンの瞳の色が蒼から碧に変わった。あたかも、戦いはおしまい、というかのように。
「はわ。ミハエルさん!?」
突然、めのまえの巨体が膝をついた。
その体は全身がぼろぼろであらゆるところが傷ついていた。
自然に治るかと思いきや、時間をおうごとにそれらは広がっていく。
小さなひび割れのようなものが無数にでき、肌が石化していくのが見えた。
「どうやら、魔王に逆らった僕はこうなるらしいな」
魔王の力によってつなぎ止められていた命だ。逆らえばこうなることなんて考えなくてもわかっていた。
勇者と戦うことが魔王への反逆なのか、というのにはいささか納得はいかないものの、もう用済みとでも判断されたのだろう。どのみちミハエルはここまでだ。
「はははっ。とぼけた勇者に引きこもり魔王か。いつだって世界はままならん」
世界の前に自分が滅びる。二度目の終わりが目の前に迫っている。
腕がぽとりと落ちて砂になっていく。足が消えてかくんと体勢が崩れる。
そして視界が。あのときのようにスパンと黒くなって。
「いきなり滅びられても困るのですが……」
こんなところで一人きり取り残されても……とニンゲンは途方にくれていた。
あまりにも突然のことだから頭がついていかない、というのは当然あるにしても、ミハエルのことはさほど気にはならなかった。もともと終わりを確約されている世界だ。こういうことだって当然起こりえるだろう。
それよりもどうしても気になるのは、いきなり変わってしまった景色と帰り道の方だ。
南の森のどこかなのだろうが、菜の花があった場所からは離れてしまっている。いつのまに動いたのか、はたまたミハエルにつれてこられたのか、どのみち帰り道はさっぱりわからない。
きょろきょろと周りを見渡して、警備の死霊兵さんがいないかを見回してみる。守り担当の彼らならば、敵意を持たない自分のことを攻撃はしてこないだろう。
あらかたの算段がつくと、ふとミハエルだったものが落ちているあたりが視界に入った。そこだけ周りの土の色とは異なった灰色の砂の塊が出来ている。
「魔王になる夢を抱く人間ですか。よっぽど過酷な一生だったのでしょうね」
まったくバカなんですからと無意識に声が漏れた。
彼は魔王に歯向かったものの末路といった。彼と言い争いをしていたことは覚えていても、その前後のことはどうにも記憶がぼんやりしておぼつかない。けれども彼は魔王の庇護を受けているニンゲンにたいしてなにかをしようとして、罰を受けたのだろう。
彼は勇者だなんだと言っていたが、魔王の庇護を受けている自分がそんなものなはずないじゃないか。
「僕はただの、終わってしまったニンゲンに過ぎないんですよ」
けれどその声はもうミハエルには届かない。
彼だったものをそっとすくうと指の隙間からさらさらした砂がこぼれた。
まっとうに世界を壊そうとしていればこんなことにはならなかったのに。過ぎた願いをすればあるのは早すぎる破滅だけだ。世界はなるようにしかならず、流れに乗って自分らしく生きることしかできやしない。
どこかで納得して、満足して、逝くしかないのだ。
ミハエルだった灰は背後からの強い風にのって、吹き散らされてしまった。
そんな景色を見つめていると、視界に一軒の廃墟が入る。
「あそこでしたか」
春に訪れたそこは、まるで原型を留めておらず、地震かなにかで崩れたかのように屋根は剥がれ、壁は崩れ、さんざんな有様だった。それも今崩れたかのような様子なのだ。
そんながれきの一部が不自然にぼろりと崩れた。
「また敵……ですか?」
びくりとニンゲンが身構えると、崩れたところに砂煙がまった。
そして、それをかき分けるように人影が現れたのだった。
「おまえ……××××なのか」
「兄さま?」
砂煙をかき分けるようにして現れたのは、懐かしい顔だった。
モテかわメイクはちょっとニンゲンさんにやって欲しいところです。もちろん私はナチュラルな方が好みなのですけれどね! お風呂に入っても崩れません。はい。