4.怨霊騎士の帰還1
「ほえーこれはまた立派なものができましたねぇ」
いつものようにエントランスの掃き掃除に行ったニンゲンは、吹き抜けの開放階段の中央部に鎮座している魔王の肖像の前に、白い結晶が浮かんでいるのを見上げていた。
まるでクリスタルをそのまま大きくしたようなそれはニンゲンの体よりもやや大きく宙に浮かんでいて、その中には奇妙な文字がぷかぷか浮かんでいる。
「たしか図書館にも似た字のものがありましたか。伍拾壱。数字でしょうかね」
図書館にあったよくわからない名前の本の下の方にそういう形の文字があった気がする。一番左から順番に並んでいたのを見ていけばあれがどの数字なのか、というのもわかるだろうか。たいていあそこは左から順に本を並べているからわかるかもしれない。
「ほっほーなんかでっかいのできてますねぇ」
そんな風にクリスタルを見上げていると、ぽてぽてとアムさんが通りかかった。いちおう死に物であるこの子ならばこれがなんなのかわかるかもしれない。
「ああ、これは滅亡クリスタルとかいうものらしいですよ。今朝翁がそんなことを言ってましたからね。そろそろこの世のおしまいが近づいている、というような」
「あらあら。ついにその刻が来ちゃいましたか」
少しだけ残念そうにニンゲンはつぶやいた。
いつか終わりがくると思っていても、いざそれがくるとなると胸のあたりにつきんと何かがつまったような感じがする。
「それでアムさん。どれくらいで終わっちゃうんですかね?」
「んー、おいらは数字読めないからわからないですねぇ。まー今日明日ってわけじゃないでしょうが」
翁が言うには、あと一歩というところまでいったときにこのクリスタルが出てくるのだという。
「それに数字が読めたところで、それがなにを示すかというのは微妙なところですよね」
それは残りの国の数なのか、人の数なのか、日にちなのか。
さすがにさきほどから数字が変わってないところをみれば、そんなにすぐに減るようなものでもないのだろうけれど、そろそろ終わりそうという程度の情報しかよみとれなかった。
「まあこれがあろうとなかろうと、いつかは終わりがくるもんです。そうなれば我ら死に物も、生き物もすべからく終わって安泰といったところですね」
まーニンゲンさんのご飯が食べられないのは残念ですがと、アムさんはたぷんとお腹を揺らした。死に物であろうと食べているせいでアムさんはここのところふっくらさんだ。おなかをつつくとぷにぷにしてかわいい。
「それはそうですが僕はちょっと残念ですよ。せっかく魔王さんとも打ち解けられたのに」
新しい料理をつくって食卓に並べると、魔王さんはぶすっとしながらも口に運んでくれる。良くも悪くも食事をすることに慣れてくれたのはうれしい進歩だ。
この前描き上げたこの魔王の肖像画だって、うむ、まあまあだなとまで言ってくれた。あの魔王さんにしてみれば最上級のほめ言葉といっていいだろう。壁に額までつけて飾られるとなると恥ずかしいものだけれど、それだけいいできでもあった。
その脇に、アムさんが描いたよくわからないなにかが貼ってあったりするけれど、これはこれでほほえましいのだろう。あのヒトは本当に、この城にいる死に物にとても甘い。
「まぁでも。終わるというならそれは仕方ないですね」
にこりとアムさんに微笑むとにこりと笑いかえしてくれた。もふもふの頬が動いてかわいい。
「おあっ、二人ともなにほけーっと集まってんだよ。そんな余裕かましてる暇なんてないだろうが」
「ああ、モル。滅亡クリスタルを見ていたのですよ」
ほけほけというアムさんに対してモルくんはまったくおまえはと頭を抱えるほどだ。いつもにもまして慌てているのはいったいなんなのだろう。
「そいつも確かにニュースだがな。おまえいま、いつだと思ってるんだよ」
「はぁ。なにかありましたっけ?」
うーんと小さなお手てを胸の前でくんでアムさんは首を傾げた。
「おまえなぁ。嫌なこと忘れる性格はちょっとやばいぞ。姐さんがくる一月前、なにがあった?」
えー一ヶ月前ですかぁと、ほにょほにょしていた顔がぴしりと凍り付いた。しおしおしていたヒゲが一瞬ピンとなったかと思うと、再びへにょりと戻っていつもよりもずーんと下にたれてしまう。
「えええぇ、それは本当のことなんです? おいらなんにも準備してない」
やれやれと羽を額にあてて首を振るモルくんの助言で、ようやくアムさんはなにがどうなっているのかに思い至ったらしい。
先ほどのほてほてした空気は一気に消し飛んで、あーでもないこーでもないと、あわあわ慌て始めてしまった。
「あの、モルくん。いったいなにがどうしたんです? 人間が攻めてくるとかそういう話?」
「いや、そんなことはあるわけないんだが。な」
むしろそっちのほうがまだましか、と彼ははふんと吐息を漏らす。
「あいつが帰ってくるんだよ。半年に一回の定期報告をしにな」
「……魔王さんの部下かなにかでしょうかねぇ」
翁さんを語るときとはまた別の反応をする二人に、少しだけ戸惑いが漏れる。
年老いた梟は小うるさい相手、という感じだったのに、今回は完全に怯えきってしまっているのだ。
「いいか。姐さん。今晩の料理は思いっきり豪華にしてくれよな。おれっちの作った野菜達は思う存分いくらでも使っていいから」
「はぁ、豪華ですか」
「あいつを無事に城から追い出すためならおれっちもいくらでも協力するからな」
とびっきり豪華にもてなしてやってくれと、モルくんはくいと帽子のへりをあげて挨拶すると裏の畑へと歩いていった。
大きめな寸胴に入れられた白っぽいスープをかき混ぜると、いつもよりも少しだけねっとりとした感触が伝わってきた。
ここのところニンゲンの料理のレパートリーも確実に増えてきている。あの町でもそれなりに作ってはいたけれど、ここの書庫にはいままで見たこともないような調理法が書かれたものがたくさん存在するのだ。あそこの知識は世界各国にわたる。下手をすればもう昔滅びてしまったような文明のものまでそろっている。
「しかしいつもこれだけいい匂いがしてればアムさんが黙ってるはずないんですがねぇ」
じゃがいもで作ったスープをまわしながら、味見をしてはぅんと息をもらした。
台所の壁面には各種の香辛料が所狭しと並んでいる。これがあるとないとではやはり調理の完成度は極端にかわってくるというものだった。
ここにきた当初は塩が手に入らないのがしんどかった。最初のころは申し訳ないと思いながらも近隣の村から拝借していたのだけれど、今は裏山から岩塩がとれるようになったので不自由はしていない。強奪しているのを申し訳なく思ってると伝えてすぐだったから、もしかしたら魔王さんが何かしてくれたのかもしれない。
そしてモルくんが扱ってる具材の種類もここのところ本当に増えた。
最近のモルくんは園芸のほかに養鶏や牛飼いなどの畜産業までに手を伸ばしていて、それらを使うことでさらにメニューの幅が広がっているのだ。
もちろんお肉そのものを食べるような習慣はまだないのだけれど、牛の乳だったり鶏の卵だったりは食卓にわりと並ぶようになった。滅びた町でさまよっていた家畜をここにつれてくると、魔王の加護なのかとてもよい健康状態になってくれるのだ。
「まー大豆とかがあってよかったといいますかね。ゴマとか菜種とかわりと油を絞れそうなものもたんまりですし」
この前の菜の花の収穫もわりとよかった。
これって食べられるのかとモルくんにも言われたけれど、あれはもう目を喜ばせるだけではなく煮ても絞ってもおいしくいただけるものなのだ。
きれいになった窓枠を見つめながら、じゃがいものスープの他に出すメニューを考える。
モルくんがあそこまで言うのだ。いつもならそこまで品数も用意しないのだけれど、パンとスープとサラダ以外にもなにかをつけよう。牛の乳からつくったデザートなんていうのを試してみてもおもしろいかもしれない。
「卵料理とかもありでしょうかね……と、すごい慌てぶりですねぇ」
あひゃーとぱたぱた厨房の前をいったりきたりしているアムさんを見かけて声をかけた。さっきエントランスで話をしてからあきらかに様子がおかしくなっている。
「なんといいますか……あの方が帰ってくるんですよ」
「さっきモルくんがいってた方ですか」
はて、と小首をかしげているとアムさんはわたわたした手を止めて、くるりとこちらを向いてくれる。
「そう。半年に一回戻ってくあのお方なのです」
あうーと、椅子に座ってテーブルにつっぷすアムさんはもふもふした毛並みを惜しげも無くぺたりとつぶしてしまっていた。力が入らないと言ったような感じだ。
「大変気むずかしい御仁で正直、おいらたちも腫れ物にさわっちゃう? さわっちゃっていい? みたいな感じなのですよ」
「そんなに恐ろしい方なのですか?」
アムさんたちにしては珍しいですねぇと言うと、だってだってぇ、とアムさんはへにょりとしたままで弱々しくつづけた。
「前線できりきり働いている方ですからね。ニンゲンさんも噂くらいは聞いたことあるでしょう? 首なし馬にまたがった少しおっきめなかた」
「怨霊のような騎士がいるとは聞いたことがありますよ」
「怨霊騎士、ミハエル・フォード・Ⅲ世さんです」
あうーやだー、あいたくないー、と突っ伏したまましょんぼりした声をあげるアムさんをみていると、やれやれという気分になる。
仕方ないのでケトルに水を入れて火にかける。暖かいものでも飲めば少しは気も楽になるだろう。
「骨な方々は基本的には守備ってことなんですかね? 細かい噂は聞いたことはないですけど、怨霊騎士さんは筋骨隆々とかって噂は聞いたことがあります。恐怖の対象になってるって」
あの話を聞いたのはいつのころだったか。たしか侵攻がはじまってすぐの事だったような気がする。一つの国を一日で壊滅させた部隊の先頭にたっていた、と。
「魔王様を一回りごっつくした感じでしょうか? 人間タイプの死霊ですね」
首筋のあたりに縫った跡はありますが、とアムさんはむくりと起きあがって首のところにお手々をちょーんとあてる。
「人間タイプですか。でも味方には違いないんでしょう? むしろ魔王さんの部下なんだから彼には逆らえないでしょうに」
「もともと人間だった方ですから。我らと違っていろいろと感情豊かなのですよ」
おそらく一番魔王軍らしい人だとアムさんは言った。
確かにそれは間違いないのかもしれない。むしろこの城の死に物たちがあまりにも魔王軍という印象とは違いすぎる。
「とある貴族だか王族だかに生まれたものの、家督争いの関係で監禁された上にすぱんとお亡くなりになったそうです」
「うわぁ、なんだか人類に恨みたっぷりな感じですね」
そんな死に様であれば、人類を滅ぼせ殺し尽くせみたいになるのもわからないでもない。でも。そういう思考にいくのは彼が人間だったからなのだろうとも思う。恨みを抱けるのは人間の悲しい習性だ。
「そういやニンゲンさんちは家督争いとかなかったんです?」
ことりとお茶をおいてあげると、アムさんはいくらか目の前の恐怖を忘れられたようで、ちょこんと椅子の上に収まって湯呑みを両手で抱えた。
そんな姿にほっとしながら、それでもこの子がいう血筋という言葉に少しだけ胸がつきりとした。
勇者の血族。ある意味、それは一国の王よりも希少価値な存在といえるだろう。魔王が居なくなって数百年がたった今、その血脈はブランド化していてもおかしくはない。だが勇者は栄華を極め、一国の姫をめとり国を取り仕切るようになる。なんてことはまったくなかった。
勇者本人は結局帰ってはこなかった。そして魔王も封印されただけだ。壮絶な戦いがあったのだろう。記録に一切のこらない孤独な戦いが。その末にやっと平和はやってきた。
そして残された血族は、滅ぼしきれなかった魔王の為に日々心身を鍛えることしか考えなかった。そこに私怨や思惑が入る余地なんてまったくない。
むしろ魔王の存在が伝説化するほどの時が経っているのにもかかわらず。世代を重ねて力を磨き。勇者の直系ではないのにもかかわらず、血族というだけで一生を捧げて。いいや。直系では無かったからこそなのか。誰一人勇者の力というものの中身を知らなかったからこそ、力を。なによりも強さを求めた。
「基本的には、先代が引退するときに子供達が一年かけて試合ってその結果で跡継ぎを決めるようになってましたね。必要なのは強さだけですから。おじさまは、あともう少しで勝てたのにと嘆いていましたよ」
「ニンゲンさんの世界では、いっしそうめんとかいいましたか」
「それは一子相伝ですね。一人以外には技を伝えないやり方。さすがにそれはなかったですが」
戦いに負けたものであっても別にいままで培ってきたものを捨てろとは言われない。欲しいのは魔王に抗う力。勇者の血族を名乗ることはできないものの、それなりに武門としては活躍できる。むしろ抗う力は多ければ多いほど良いに決まっている。
実際、有名な騎士や剣士の祖先をたどれば勇者の系譜だったりすることもあるとかないとかいう噂もある。少なくとも親の代ではそうなのだから、あながち嘘とも言い切れない。
そこでふとニンゲンは思う。
兄さま達が成人していればもしかしたらこの忌々しい血から解放されていたのかもしれないと。いってこいなどと言われなくても済んだのではないかと。
けれど。今それを思っても無意味なことだ。自分は結局こうして魔王さんのおうちで居候をしているのだから。
それに彼らは言うだろう。勇者がダメならその近縁を。いいや、なんだっていいのだ。すがれるものがあるなら。それで破滅から救われるのなら。
今の生活が、ずっと続けられるなら。
あれ?
「そういう意味では、家督争いなんて言うのはいろんな力が混ざりあった大変なものなのでしょうね」
一瞬生じた違和感は、お茶のふわりとした香りで消えていった。
「人間の社会というやつも素直にはいかないものなんですねぇ」
あきらめてへにゅへにゅ過ごせばいいですのにぃといいつつ、アムさんはお茶のおかわりを催促してくる。
そんなとき、どすんと城を揺るがすような振動がきた。
「いよぅ。久しぶりに帰ってきたぜ、魔王のだん……な?」
目の前に広がる半年ぶりの城は、かつて記憶に残っていた景色とはまるで変わってしまっていた。壁面やら床やらの輝きは言うまでもなく、ぼろりと薄埃に包まれていた空気が清涼なものに変わってさえいたのだ。
「なんだこれは……」
視線の先には大きく飾られた魔王の絵。
威厳も畏怖もまったくないふてくされた姿は、たしかに忠実にあの魔王そのものを再現していると言ってもいい。だが、そもそもこんなものを飾るという発想を、あの魔王がするはずもないのはイヤになるくらいわかっている。
「なにが起こってるんだ!」
どすどすと足音をあらげて城を進むと、執務室の前の扉で見知った顔に阻まれた。
「規則でな。ミハエル卿。あんたの身元なんざわかっちゃいるんだが、これも人間型のさだめと思って諦めてくれや」
「ちぃ。ボンさんも融通がきかない」
これでいいかとミハエルが頭を引き上げるとボンは突きつけた槍を解く。人間と見分けのつきにくいものはその違いを明確に出さなければここより先には入れない。
「我らの職務は魔王様の守護だ。おまえさんが世界を壊すのと同じく徹底せんとな」
魔王に脅威などもはや存在はしない。そんなことは骸骨兵一同わかりきっている。けれどだからといって仕事をおざなりにできないのは、支配されているものの習性みたいなものかもしれない。それをミハエルもわかっているから、頭を戻した彼はふんと鼻を鳴らしただけで執務室に入った。
「あぁ。もう半年たったんだったか」
ん。とグラスに入った赤い液体を飲み干して魔王は視線だけをミハエルに向ける。
その瞳は以前よりも見事な濁りっぷりで、廃人いっぽ手前といったところだ。あそこにいる間は少なくとも魔王軍の大将であるのに、そんな気概など微塵もない。
畏怖の欠片もないダメ魔王。
そのくせ力だけは本物なのだ。
直接の力がどの程度なのかミハエルは知らない。けれどそこから注がれる力はミハエルを始め多くの死霊兵を強化し、本来の数倍の力を振るえるようにしてくれる。傷の治りも早く、そもそも鎧など着なくてもひ弱な人間の太刀などまるっきりびくともしない皮膚の強度がある。
そう。だからそれさえあれば、数々の諫めも聞かずぐーたら生活を送る魔王個人のことなど、もはやどうでもいいはずだった。
けれど、だ。
「これは、どういうことだ?」
じろりと周囲を睥睨しながら問うと魔王は、ん? と片眉をぴくんとあげた。けれどきれいに磨き込まれた執務室の床を視界にいれながらも、興味なさげにグラスの酒をあおる。
「最近いろいろとここもにぎやかになってな」
あまり答えになっていない答えにミハエルはぎりっと歯を噛みしめる。
薄汚れて廃墟です、といわんばかりのボロ部屋だったここがぴかぴかに磨き込まれていて、かわいい小物なんてものまでおかれている。
花瓶からふわりと漂う甘い香りにくらくらとめまいがした。
空気を消し去るように腕を振るうと軽く風が起こる。つかつか魔王の玉座に近寄るとそのままくいと顎をつかんで無理矢理上を向かせた。ぱりんとワインのグラスが床に落ちて砕ける。いたい。といううめき声が上がるもののそんなものは無視だ。
「なにがあった」
ここ半年でこの変化というのはあまりにもあんまりだった。死と殺戮をまきちらす魔王の本陣がこんなファンシーでどうしろというのだ。これではまるで幸せな人間の空間ではないか。
「これはないだろう。あんたは魔王で、世界を滅ぼすのが目的で」
「それはそうなんだがな。アレが置きたいというんだ。別に俺としてはどっちでもいいしな。好きにさせた」
「アレ?」
そう問い返すと、ちょうど執務室の扉が開いた。はふはふと息をきらしてやってきた二つの影の一つはアムライガだ。あいかわらずへにょへにょした顔をして魔王軍らしくない面構えだ。
そして、もう一つ。
「その方がその……怨霊騎士さんですか?」
アムライガの脇で不思議そうな顔を浮かべているメイド服の人間がいるのが見えた。
「なっ……なぜ人間がここにいる!? アレは生きてるだろうが」
「余興の一つとでも思ってくれ。なにぶんここに座りっぱなしというのも退屈でな」
違う。ミハエルは瞬時にそう思った。
彼はもともと興というものすらないがしろにする男だ。そんなものが少しでもあるなら、この城はもう少しほの暗い魔王の城らしさを持っていただろう。
「それで?」
魔王はその人間に話をふる。その光景にミハエルははっと眼を見開いた。ただでさえ何事にも興味を持たないはずの彼が自分から進んで声をかけるなんてあるはずがない。
「夕餉の支度をしてたのですが物音がしたので。とりあえずご挨拶だけでもしておこうかなって」
「まだ夕食までは時間があるしな。モルッキーたちもいってただろうが、せいぜいがんばって食事を作るといい」
にやりと一瞬人の悪そうな笑みまで浮かんだ。ニンゲンはやれやれ仕方ないですねと言いながらぺこりと頭を下げると厨房という名前の部屋に戻っていった。
今まで話を聞いていてもさっぱりなにがどうなっているのかがわからない。けれど困惑気味のミハエルの感情など、魔王が敢えてくみ取ることがないのは重々承知している。それこそが魔王という存在の本来のあり方だ。
「おまえが不思議がるのも無理はないが」
新たに出現させたワインをくいと飲み干しながら、彼は続けた。
「とりあえず夕餉でもとるといい。勇者特性の、な」
「ゆう……しゃ?」
変なものでも食べたのではないかと言わんばかりの魔王の言葉に、ミハエルはただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
気がつくとそこは見覚えのある壁だった。埃にくすんでざらついた石の壁はさわるとぱらぱらと砂がこぼれ舞う。その隙間から射し込む光はほんのわずかで、部屋の輪郭をわずかに映すくらいの役割しかない。
それはあまりにも薄暗い当たり前の日常。
昨日も一昨日も、そして明日や明後日もかわらずある景色。
それはあまりにも日常で、その頃はそれがどんなにひどいことかなんてわかりもしなかった。
日に二度「食事」が与えられた。
それは味がしない柔らかい何かだったけれど、別段それに不満もなかった。
それが食べ物であって身体がそれを欲しているのは学ばずともわかったし、腹が鳴るのが収まるのだから、ただこなされる日常の一つとなった。
そんな生活の中で興味をそそられるのはいつも衛兵の無駄話だった。
こちらの存在など元からないかのように、彼らは退屈な檻守の時間を潰していったのだ。
なぜ彼らがそこにいるのか当時は理解ができなかったけれど、話している内容はなんとなくわかった。固有名詞はわからない。言葉は知らない。それでも話している内容からそれが楽しいものなのか苦しいものなのか。そういった区別くらいはついた。
彼らの話で言葉を覚えたのだ。
その姿はぱっと変わっていき、みるみるうちに五度目に変わった衛兵達の姿となる。
さすがは夢の中。時間のすすみも唐突だ。
「やぁ。はじめまして。本当にそっくりでおどろいちゃうね」
檻のさきに、いささか毛色の違う人間が座り込んでいた。こちらをのぞき込むようにした彼の瞳は好奇心にきらきらと輝いていた。
「だ、れ、だ」
「あれ、言葉がわかるのかい。すごいねぇ。誰に教わったわけでもないだろうに」
さすがに優秀だと彼は感心すると、今度は食事のトレイを見て顔をしかめた。
「でもそれ以外はひどいものだ。よくこんなところで生活ができていたね……」
今にもはきそうに顔をしかめる少年は、知らないはずなのになぜか前にあったことがあるように感じられた。
「僕の片割れにこんな仕打ちをするだなんて本当にひどいものだね」
とりあえず、これ、と言って差し出された物はこがね色をしたほんわりしたものだった。
ひくひくと鼻を近づける。
差しこまれるものといわれたら食事と相場は決まっているので、それをかじってみる。
いつもの食事とはまるで違う食感が口の中に広がった。あまりにもいままでのでろでろした何かがひどい物なのだと感じられた。
ああ、これはなんだ。食事ではないのか。
一日に二回与えられるアレは。このこがね色のふわふわしたものとはまるで違うではないか。
「二つ余ったから持ってきたんだ。乳母にはなんですか、胸でもできましたかと言われたけど、僕はそれを隠してここまできたんだよ」
二つ。もう一つを彼がほうばるのを見て衝動がわいた。
それをよこせ。それもよこせ。もっとよこせ。
「ああ、一個じゃ足りなかったかな。僕は君と一緒にご飯を食べたかったのだけど。しかたない」
そこそこお腹もいっぱいだし、と彼は食べかけの小麦パンを牢に投げ入れた。それを奪い取るようにキャッチすると口の中に入れる。
「はははっ、気にいってもらえたようだ。そんなものでよければまた持ってくるよ」
これが食事。
初めてミハエルは食事というものがどういうものなのかを知った。
ただ、なにかわからないものを体内に入れるだけじゃない。
味覚も嗅覚も満足させてこそ食事だと。
それを知ってからというもの、普段のあのでろでろした何かが食えなくなった。
二日に一回は空腹に耐えかねてそのでろでろしたものを口に入れた。
これがまずいと言うものかと思った。小麦でできたパン。彼が持ってきたあれはとても暖かい味がした。それに比べたらこれはどうだ。
ぬるぬるした食感。味一つないこれは、食べるに値するものか。
このとき初めてミハエルは、うまい、と、まずいを覚えたのだ。
五番目の衛兵達はいままでと違って食事が減らないことを不思議がっていた。
けれど仕方が無い。
それからというもの、あの少年がくるのを待ちわびた。あのあたたかいふわふわなものを待ちわびた。彼を待ったわけじゃない。最初は彼のパンが目当てだった。でも週に一度訪れる彼が話す外のことに興味がでた。どれほど世界が広いのか。どれほど世界が明るいのか。外の話をせがむと彼は綺麗な世界の姿を語ってくれた。
彼がもたらす外の情報は彼をひどくいらだたせた。
外を知り、そして己を知った。不遇を知った。
外の世界とはどんなところなのだろう。
明るさとはどんなものなのだろう。
しずかな肉片は感情を持った。
彼は自分が知っているすべてを教えてくれた。外の世界のすばらしさを。
そして彼は言ったのだ。「いつか外に出してあげる」と。
そんな日々は半年ほどは続いただろうか。
週に一度だった訪問は日に日に減っていった。夜を数える回数も増えていった。
そしてしばらく一人の時間が過ぎた頃。でろでろしたものを嫌々食べながら一月が過ぎた頃。
檻の先にぽつんとたつ人影があった。
いつもならばすぐさま近くに寄って衛兵を下がらせる彼はしばらくそのまま。暗い顔をしながら立ち尽くしていた。
「ごめん、ごめん」と何度も彼は涙でぐしゃぐしゃになった顔でつぶやいていた。
そして衛兵が牢の鍵を開ける。長いこと使われていないそれはなかなか開かないようで、力任せに動かすとガギンと大きな音が鳴る。
そこから、色が変わった。
外の世界は確かにとても明るくて。薄闇の中で育った身にはとても眩しくて。
きらきらと輝いていた。
今まで想像もできなかった色とりどりの人々。薄暗い鈍色しかない世界とは違う、これでもかというくらいの鮮やかな世界。
「これが、そら」
どこまでも突き抜けるような青が視界をうめ尽くしていた。
呆けたように見上げていたら無理矢理なにかの板の上のようなところに這いつくばらされた。
その視界の先にはいままで見たこともない数の人間がいた。
そしてそこで。唐突に。命はとぎれた。
ぶちんと。まるでランプを消すかのように。
それからどれだけの時間がたったのか、ミハエルは知らない。
雨が降っていたかもしれない。カラカラと乾いた日差しが降り注いでいたかもしれない。
ただ気がついたら、とある新月の夜に彼は確かに目を覚ましたのだった。
周りは荒廃した町。けれどその景色は彼の心を動かさない。
心の中にあるのはあの日の景色。
晴れやかな蒼と断罪の声。
忌み子。災いの元はすぐに滅ぶべし。
魔王の訪れ。世界の終わり。呪いの源。
彼らはすべての災厄を自分のせいにして葬りさってしまいたいらしかった。
ならばお望み通りに滅びの元となってやろう。
「我を災いとよびたいなら呼ぶがいい。その名にふさわしい災いを、人間どもに降らせてやろう」
その叫びは二つ隣の国まで響いた。
久しぶりに夢を見た。生きていた頃の夢だ。
眠らずに戦い続けていたから夢を見ること自体なかったのだが、どうしてこの城にきたら急に睡魔なんてものがきてしまったのだろう?
魔王にいわれるままに仕方なく夕食をとったからだろうか。
食事。それは生者どもの悪習だ。
それがなければ生きていけない弱い生き物の行為だ。
暖かい食事なんてミハエルはもともと食べたことがない。唯一食べたのはそう、あの小麦パンくらいなものだ。
「ふんっ」
そんなもののどこに価値があるというのだ。
食事とはエネルギーを得るためのもの。ずっとミハエルにとってはそうだった。そして今ではそれすら必要としない体になった。この無敵の体にだ。
この城の連中だってもとはそうだった。埃のつもった厨房に火がともったことなど一度もない。
それが今ではどうだ。この城は変わってしまった。その変化にこの城の死に者はまったく反応しない。
変わってもどうでもいい。それでいいのか、と思う。魔王は破壊の象徴だ。世界を滅ぼすもの。仲良く城の中でニンゲンごっこなんてやっていていいはずがない。
「くそっ」
城の中をあてどなくうろうろと歩いていたら、見慣れない通路に入ってしまったのに気づいた。他の部屋よりもかなり薄暗い道は階段になっていて、まるで吸い込まれそうなくらいの闇が満ちていた。
引き返そうとも思うものの、気がつけば元来た道の光は失われ、あるのはただごっぽりとした闇だけだ。
こんな場所は知らない。もともとほとんど城にいつかないミハエルはそこまでこの城の構造を知りはしない。夜目が利くミハエルとしては別段暗がりの階段なんて苦ではないものの、降りても降りても変化の無い景色にはいらだちのようなものはあった。
「どこまで続くんだ」
吐き捨てるような口調には隠す気のない怒気がこもっている。
それからどれくらい強い足音が続いただろうか。
ぽぅと明るい光が灯るのが見えた。少し目を細めただけでミハエルはその中に足を踏み入れる。
「これはまた珍しいお客人だのう」
光の中に聞こえた声にミハエルはあからさまに顔をしかめた。
なるほど。ここが翁の書庫だというわけか。
暗闇の中に灯る図書館があるという話を以前きいたことがある。そのときはなぜ破壊者の魔王が書庫など必要とするのかと思ったものだったが、翁の眼孔に射すくめられるとミハエルであっても疑問することはできなかった。
「ほほう。まさか主がここにくるとは。異常事態とすら言えるじゃろうて」
ばさりと羽音がすると不意に死角に一羽の梟が姿を現した。まったく気配を感じさせずに溶けだしたような翁の様子にいまさらミハエルは驚かない。
「ふん。俺だって外にばかりいるってわけでもないんでな」
「迷ったな」
「そんなことはない。ただ足がこっちに向いただけだ。それより翁。聞いておきたいことがある」
ついでといった様子のミハエルを一瞥して、翁はふぁさりと司書席の上に置かれている枝に枯れ木のような足をのせた。羽をこしこしとこする。
「半年でなにがあった」
魔王に尋ねたのと同じことをこの参謀の鳥にも問う。
「勇者が魔王の城に現れた。それだけのこと」
ほぅほぅといかにもわざとらしい梟のような鳴き声があがる。バカにされている気分だ。
「あんなちんちくりんが勇者だというのか」
「ほふふ。たしかにアレを見せられてはそう思うじゃろうな。でもアレはまぎれもなく勇者。なによりかのものは唯一魔王の興味を引いている。それこそ勇者の資質」
おぬしになかった資質じゃよ、と言われて、うぬぅとミハエルはうめいた。
たしかにミハエルにはこの城をこんなに変えることはできなかったし、魔王そのものになにかをさせるだなんて一度たりとてできなかった。
あの濁った眼。どうしようもない、やる気のない、ただしかたなくやってるだけ、というおざなりな世界侵略を変えることなんてできなかった。
「それをいうなら翁だってそうだろうが、いつも煙たがられてるだろう」
「なんでも許容する魔王とて多少の好き嫌いはある。我はそんなところで嫌われているだけじゃ」
けれど勇者のそれは違う。それはアムライガたち動物達への愛護とも違う。
あのニンゲンだけは確かに魔王と会話をすることができる。
「とはいえ、おぬしが言いたいこともわからんではないよ。人間風情にこの城の中を好き勝手されるのはわしとて好ましいとは思っておらんしの」
「どうしようもないことだ。我らはただの兵士にすぎん。俺の言葉をあいつが素直に聞くわけがないしな」
奴が自分の意思で人間を保護しているのならば、何を言っても無駄なのは十分に思い知らされている。あの魔王は部下の言葉など意に介さない。
この城にきた当初はあれこれと城のこと、戦いのこととさんざん魔王にくってかかったものだった。それこそ何日も根気をかけて。
軍議の必要性やら戦の効率的な方法だの、いろいろと説いた。
けれど彼はそれらを面倒くさいと一蹴してしまったのだ。いまさら人間となれ合うなといったところであいつは心を動かしはしない。
「ほうほう。おまえさんがそんなに弱気とは。ずいぶんと諦めているもんじゃのう。まるで誰かさんのようじゃて」
「あいつのダメっぷりに匙をなげてるだけだ」
あの大馬鹿に何を言っても無駄なのは誰よりも翁の方がわかっているだろう。なのになぜ今更そんな話をするのか。いつだってわかりにくい翁の話だが、今回ばかりはさらにその真意がつかめない。
けれど彼はほぅほぅと愉快そうに笑いミハエルの肩の上に止まった。
「なぜ、あれが魔王になれたのか、おぬしは疑問に思ったことはないかの」
「魔王に、なる?」
耳元でささやかれたその言葉にミハエルは眉を上げる。
自分がこうなる前にすでに魔王はいた。だから漠然と魔王はそう生まれたものだと思っていた。けれど翁の言い方だとそうではないことになる。
「さよう。魔王とは称号。あるものではなく、なるものだ」
「なるほど。お前はあいつが魔王になった瞬間を知っているわけか」
ほほ、と梟の鳴き声が漏れる。それは肯定の声なのだろう。
「なら、聞いてやろう。魔王のなり方というやつをな」
魔王の力は絶大だ。死霊に力を与え既死の軍勢を作り出す。
それが先天的に与えられたものでないのだとしたら。別のだれかでもそれを自由に使えるとしたら。
何度思っただろう。こんなやつではなく自分にその力があったならと。あんな腑抜けのひきこもりになぜあの絶大な力が与えられているのかと。
「なに。あのニンゲンにおまえさんが干渉できればいい。メロメロにさせようと殺そうと。さすればおまえは魔王の力を手にいれる」
「な……」
「あれは勇者。魔王に仇なすもの」
魔王を惑わし、その力を失わせようとするもの。
「わし等の敵」
耳に差し込む声は、低く憎悪すらこもっている。
「本気であんなのを勇者だというのか」
「さよう。魔王を倒せるのが勇者だけのように、勇者に干渉できるものは魔王ということになる」
それはささめくように。梟の声音はミハエルをとらえた。
「しかし……魔王になりかわるだなんて」
ぐぅとミハエルはうめき声を上げた。
その提案は魅力的だ。あの小娘が勇者かどうかは別として、魔王の力がこの手にあればあんな引きこもりよりもよほど迅速に人間どもを根絶やしにできるだろう。
けれどそれをやったらどうなるのか。
主人に刃を向ければ滅びるのがすでに死んでいるものの宿命だ。
どうする? あんなのでも世界は壊せる。復讐は果たせる。世界の終わりをこの目で見ることができる。
「なに。別に直接反逆するわけでもないしの」
むしろ魔王軍としては順当な作戦じゃないかのうといわれて、たしかにそうだと思わされる。勇者と魔王の関係があまりにも親密なのでつい失念しそうになるが、あの小娘は人間なのだ。我らが駆逐するべき相手だ。おまけに勇者なのだとしたら、一番の仇敵ということになる。
「すべてはおまえさん次第じゃよ。勇者を落とすもよし、あやつを殺してしまってもよし。むろん戦線に戻ってもよい」
どのみち世界は変わらんからのう。
ミハエルの耳にはその翁の小馬鹿にしたような声音がいつまでもこびりついていた。