間章 梟と赤
「ああ、翁。帰ってたんだ?」
こつこつと堅い床を蹴る音はやけに高く固かった。外とはやや異なる材質の床でできている図書館は、高い天井も相まって音をよく響かせる。
それもこんな地下の、誰も近寄らないところならばなおさらだ。
「書庫番さんが出掛けてしまってもよかったのかしら?」
ふぁさり。羽が揺れる音を間近に聞いてニンゲンがいつもとは違う口調で大きな梟に問いかけた。頬杖をついたままとろんとした声音で問いかける様はまるで旧知の間柄のような気安さだ。
「べつにかまわんだろう。わしはただそなたの本体と会いたくなかっただけなのだからな」
ここに拘束されてるわけでもないしの、と翁は悪びれた様子もなくニンゲンのその紅く染まった瞳をのぞき込む。
「で、赤。おまえがそれだけ動けると言うことはもうそろそろというわけか」
「赤って呼び方やめてよね。もっとこうなんていうか素敵な名前が良いわ。紅い瞳はさしずめ燃えるルビーかガーネットかしら?」
どうどう? と彼女は目を大きく開いて彼女生来のその輝く瞳を見せつける。
「さしずめガラス玉じゃろうが。それに名前なんぞ呼称のためのもので、その本人が特定できればそれでよいものじゃ。そなたを赤と呼んで反応が返ってくることこそが大切なのじゃからな」
それだけアピールしても、翁はまるで何の反応もしない。でも赤はその反応を当たり前に受け止める。
何十回このやりとりをやってきたのか。彼の遊びにつきあってきたからわからないではない。
でも女子としては、自分の魅力を鼻で笑われる以前な対応をされればそれなりに傷つく。
「そこらへんは乙女心っていうかぁ。青もそーおもわない?」
虚空への問いかけに返事らしいものは一切ない。ただ声はむなしく空をなぞるだけだ。
「反応はないようじゃぞ。あれには乙女心もわかるまいて」
眠っているのか聞こえているのかはしらんがと翁はおっくうそうに羽を鳴らせる。
「それに貴様を表すならば最強の剣じゃろう? 以前はそういっていた気がするがね」
「あら。そんな物騒なのあたしは嫌よ。せっかくこんなにかわいいのだから、もっと艶やかな華やかな名前が良いわ」
「かわいい……か。よくわからぬな。お主の容姿はニンゲンに依存するというのに」
「だからよ。このコは本当にかわいいんだもの。ほら、どう? まるで一国の姫君だわ。まさかこんな子が男の子だなんて思えない」
「それをいうなら、こんなかわいい子が女の子のはずがないじゃ」
「え、それってなんか変じゃない?」
かわいいっていったら女の子に向ける言葉じゃないの、と赤はきょとんとその紅い瞳をしばたたかせる。
「遠いイカイの言葉じゃ、気にするな」
うむぅ、と赤と呼ばれた緋色の瞳の彼女はうめき声を上げる。ときどき赤にはこの梟の言っていることがわからないことがある。
「しっかしどうしてまいどまいど男の子かね。翁の趣味にもほとほとまいるんだけど」
勇者は男の子ってのは定番かもしれないけどもーと赤は頬を膨らせる。せっかくならかわいい女の子が大きな剣とか持って魔王とぷるんぷるんしながら戦った方が絵になると思うのに、翁は一度とてそんなことを許しはしない。
「ほっほ。イキョウの神はやれソドミィだのとそしるだろうがな。わしの計画には必要なことじゃて」
「そういや、あたしって翁の計画ってやつ詳しく聞いてないかも」
話してたよなぁというのはおぼろげに覚えているものの、難しい話になると眠くなるたちなのだ。
「あのときは青が熱心に聞いてくれたもんじゃわい。おまえさんとちがってあやつは真面目だしの」
「はいはい。どーせあたしは人の話をききませんよーだ」
べーだと舌を出して見せるさまはいつものニンゲンとはまるで違う雰囲気だ。風呂でみせたあの顔ともまた違う。ずいぶん子供っぽい仕草だった。
「ヒトがつがいになるファクターとはなんじゃろうかな」
しかたないのぅとぼやきながら翁は再びかつてしたことのある質問を赤にする。
「殖えるための要因、か。たしか恋愛と気持ちいいことと……あと赤ちゃん、だったっけ」
いまいち実感としてはわからないけれどと首を傾げながら赤は答える。
「おおむね正解じゃの。ヒトがつがいになるには情愛、繁殖、快楽。あと近代では金銭などの富なんかも絡まってきおる」
「あーお金持ちはたしかにいいかも。ビンボーだと結婚できないっていうし」
つよい愛があればできなくもないがのと翁はフォローを入れた。それもファクターの一つにすぎないのだ。要因が複雑に絡まってつがいができるのは、動物から一つ飛び越えた人間という種の特徴とも言える。
「そして勇者が女であったなら、繁殖と快楽ばかりが大きくなってしまうわけじゃよね」
「あらま。繁殖ってダメなことなの?」
産めよ増やせよは、動物としての本能。それを否定してしまってこの梟はなにをしたいのかがわからない。
「わしがみたいのは愛だからの」
愛の形というよりは愛の種類が違うのだろう。翁が望んでいるのは情愛だけということだ。けれどなぜ彼がそこにこだわるかが赤にはわからない。
「繁殖やら快楽やらというのはもともとヒトが持っている本能。動物にも通じるところじゃ。それらは見張るまでもなく「すでにある」もの。あえて望む必要もなかろうて」
機能として本来持っているもの。あえて望まなくてもそこらへんにごろごろしているものだからすでに見飽きてしまっているというのはわかる。では愛は違うというのだろうか。
「本能からではない、ヒトが自ら発生させる感情。それが愛。絆によって生まれるものが情愛じゃ。それは奇跡的に生み出されたいわば天然物。滅多に見られんものじゃ」
ふぁさりと羽を一回羽ばたかせる翁をちらりとみながら、ふむ、と赤は吐息をもらした。
「でも、そんなに違うもんかねぇ。男女だってしっかり情愛は得られると思うんだけどな」
「それは赤。お主が男側にたったことがないからいえる台詞だの。女の体はいわば蜜みたいなもんじゃよ。蠱惑の蜜。その形だけで男の欲望を刺激するもんじゃ。本能的にの」
そういう風に創られているのだからしかたないと翁は肩をすくめた。そうでなければ生物は繁殖ができないのだ。増えるようにプログラムされている物を自我で押さえるのは難しい。
「って、ことは今まであたし……すさまじいハンデ背負ってたってこと?」
はっと思いついたかのように赤は立ち上がった。がたりと椅子が耳障りな音を立てる。男の体で魔王を落とすのはすなわち、肉体の魅力を使えないということだ。
「ほほ。それでもお主、わしとの勝負にそこそこ勝利しとるじゃないかのう」
むしろ分が悪いのはこっちじゃと言わんばかりに翁は左羽で泣きまねをしてみせた。
「うー。そうだけどやっぱりかわいい女の子がいいのー。ぎとぎとと恋愛したいのー」
「それよりも、先の問の答えがまだなんじゃが?」
ばさりと羽をならして、フクロウの翁は赤に問いかける。赤の愚痴は全力で無視だ。
「むぅ。翁なら全部お見通しなんじゃないの? この城の中も外のことも、ね」
赤は不満げにうめき声を漏らしながら、知らないもーんとぷぃっとそっぽをむいた。
翁はそんな仕草を向けられても微動だにせず、無言を通す。
先に根負けしたのは赤の方だ。やれやれと肩をすくめながら唇を開く。
「今回はこの子がこの本みつけちゃったから。非常時でもあるわけよ。翁てきには見られちゃいけないでしょ? まだ」
ぴらぴらと黒い装丁の魔王の本をみせて、赤い唇を軽くぬらす。
「忌々しいことにな。確かにいまは時ではない。その人間がそれを見るのはいささか不都合というものだ。しかし……」
「そうでなくてもそろそろお時間よ。お風呂の時と違ってある程度は自由がきく。青と違ってあたしは子守の為にいるわけじゃないんだもの」
そろそろ動き出さないとね、と赤は魔王の本をぱらぱらとめくる。
「終わりの終わりがそろそろはじまる」
さて、果たして今回はどっちが勝のかしら。塗れるような赤い唇がわずかに笑みの形を作った。
「ではわしのほうもそろそろ次の手を打つとしようか。ちょうどあやつも帰ってくることだしの」
「どんなやつがこようと、あたし達の敵じゃないわ」
勇者が勝つか、魔王が勝つか。
これからが勝負の本番なのだから。
「今回の勇者は果たしてどこまでやれるのか。翁。観測者のあんたは黙って見てればいい」
「ほっほ。楽しみじゃのう。まぁお手並み拝見といこうじゃないか」
翁はぱしりと魔王の本を鍵爪につかむと音もなくふわりと浮かび上がった。
間違えて別のシリーズのほうに次話投稿して、消し方ってどうやんの!? みたいにきょどってしまいました。なんとか無事に削除はできましたけど、気をつけねばですね。そして続きをさっくり乗っけないとですねっ。