3.ピクニックと黄色い花
寒い季節が終われば芽吹いてくるのは命の萌芽というやつなのはたとえ人間の町であろうと魔王の居城であろうと変わらない。
冷たい風が徐々にその向きを変えると、体をふるわせていなければならなかったこの城もずいぶんと暖かくなって、少し掃除をすればじっとり汗をかくほどだ。
「そろそろ服も替えなきゃですかね」
部屋のすみにちょこんと置かれたタンスの中をいじくり回しながら、うーんと悩ましげな声が上がる。普段のメイド服以外にも衣類がないわけでもなかった。
そう。なんだかんだで魔王さんは頻繁に服を持ってきてくれるのだ。それらは近くの滅んだ町から背格好に合わせて骸骨兵に持ってこさせているようなのだけれど、とりあえずは狙ったように体には合うので不満はない。
「でも、ほんとどうして全部女物なのかがよくわからないです」
タンスの中を埋めない程度にそろえられている服は、町娘の普段着から貴族のドレスまで多岐にわたるけれど、そのどれもがやはり女物なのだ。なんども魔王さんには言っているのだけれども男物の服を用意してくれるつもりはまったくないらしい。
アムさんあたりには、似合ってるからいいじゃないですかと言われてしまったけれど、何かが間違っているような気がしてしまう。
そう。とりあえずすっかりみなに忘れられているけれど、ニンゲンは立派かどうかはともかく男子なのだ。ここまできっぱり言っても、この姿を見てしまえば年頃の女性だと思われてしまいそうだ。
服装が示すイメージというのは実に大きい。
もちろんメイド服をずっと着ていても、この城のヒトたちはニンゲンを「仕えるもの」という待遇にはしない。けれど男というカテゴリからはこれでもかと遠ざかっていってしまっている気がしてならない。この前知り合ったB.B.さんにもお嬢さんなんて呼ばれてしまっているし、どんどん男扱いされなくなってきているような気がする。
「まぁどっちでもいい話ですか」
はふっ。そんなぐるぐるした思いもたったの一息で霧散した。気の抜けた息を漏らすとニンゲンはやる気のない目で衣類を見て回る。
もちろんこれが世間一般でいうところの「女装」で、男子が着れば奇っ怪面妖と言われるのは間違いがないのは知っているし、最初は抵抗もあった。
けれど、もうすでに慣れてしまったのだ。
足下がすーすーして頼りない感じも、ひらひら太ももをなでる布の感触も。
そう。たしかに魔王さん達の行いには疑問がおこるものの、いまさら取り立ててどうとも思わない。着てしまえばなんてことはない。
似合うというのは確かにそうで、こうして姿見の前に立ってみてもいびつな感じなど欠片もない。ほっそりとした腰回りに薄い肩。お尻のラインこそ成熟はしていないものの、それさえ未成熟さとしか映らないのだ。
「似合っていないでちぐはぐならさすがにあれですが」
春物の薄手のグリーンのワンピースを体にあててみて、姿見をのぞき込む。
死に装束だった鎧甲よりは軽いし動きやすいし、それで違和感がないなら十分だ。
そんなことよりももっと大切なことはいっぱいある。
「興味が食べ物ばかりになるというのも、もしやアムさんの影響でしょうか」
口の周りをべたべたにした小さなアライグマを思い出してくすりと笑いが漏れる。
材料が野菜だけという現場でそこまで豪勢な料理もできないものだけれど、彼らはそもそも「人の手の入ったもの」を食べなれてないせいかとても喜んでくれるのだった。
「もうちょっと、ほかの食材も手に入るといいんですがねぇ」
お肉はまだしも、卵や乳くらいあってくれればがらりと料理のレパートリーは広がってくれる。
「まぁそこらへんはモルくんとご相談ですかね」
それよりまずは、とニンゲンは衣装タンスをぱたりと閉めると、今度は思い切り窓を開け放つ。
「ふはー。やっぱり朝の空気はいいものですね」
南に向けられた窓は朝の光を斜めから受け止めて、部屋を明るく照らしてくれる。そのお日様を部屋に入れながら布団を干すのがここのところのニンゲンの日課だ。
もちろん魔王さんの力が巡らされているこの部屋は冬でもあまり寒くはならない。けれど、自然の日の光をぽかぽかと吸ったお布団にくるまるというのも、とても幸せなことなのだ。
「この季節は鮮やかで少し刺激的ですよね」
窓に乗り出して外を見回すと、ずいぶんと景色も変わったものだと思う。つい一月前までは南の森も白銀に染まっていたというのに、今では青々とした絨毯のようになっている。
「はて……」
窓を開けて外を眺めていると、視界の中にちらりと黄色い何かが見えた気がした。
緑ばかりの景色の中で別の色があるのは不思議だ。
いったい何があそこにあるのだろうか。
一度気になりだしてしまうとどうにもそのままにできなくて。
「行ってみたりとかできないものでしょうか……」
暖かい風を浴びながらニンゲンはぽつりとつぶやくのだった。
「というわけで、魔王さん。今日はお酒やめて南の森にでもいきましょう」
朝のこの時間。まだ執務に入っていない魔王さんの寝室を開け放つと、ぬぼーっとした魔王さんが迷惑そうにこちらを半眼で見上げていた。
別に怒っているわけではなく、たんに寝起きで目が開かないだけだ。
「ふあ? なんだいったい」
「だーかーら、ピクニックに行きましょうと言っているんです」
「挽き肉? 人間どもが好んで食べる肉を粉砕したものか」
寝ぼけているのか素なのか。
魔王さんはあからさまにあくびをすると頭をわしわしと掻いた。普通にしていればかっこいいのに、まったくもって魔王の威厳だとか言うものは微塵もない。無精髭が伸びてないだけマシだが、それでもこれほど駄目な魔王というのもどうなのだろう。
「南の森に散策にいっておべんと食べるんですよ。挽き肉もあれば使わないでもないですが」
内容がわかってもあからさまに彼は顔をしかめてころりと反対側に体を向けて布団をかぶる。けれどそこらへんはもういちいち気にするつもりはない。いつものことだ。
「めんどうだ」
「そんなこと言わずに。やっと寒さも落ちついてきてだいぶいいお天気なんですよ?」
ねえねえ、魔王さんってば、とベッドに上がり込んでおねだりをしてみても、魔王さんはぷいと視線をそらして今日一番の酒を出現させる。
まったく。この人は新しいことをやろうとすると必ず酒に逃げるのだからどうしようもない。
ニンゲンはため息を漏らすとそれをぶんどって抱え込んだ。
「ちょ、おま……返せ。俺の酒だ」
「嫌です。ピクニックに一緒に行ってくれないと返さないです」
「だだっ子かおまえは」
「だだっ子にもなります。こんなぽかぽかした日に外に出ないなんてもったいないです。そりゃお風呂が嬉しかったりで冬も冬でいいですけど、なんといっても春はほかとは別格なんです。ほかほかなんです。これを見てくださいよ」
魔王の自室の窓を開くと、まぶしい光が部屋の中を照らしていた。
長らく開けずにはめごろされていた窓は、つい一月ほど前にビーしゃんから資材を提供してもらって修繕したところだった。
魔王さんからはうるさいだのなんだの言われたけれど、昼間は執務室にいればいいとキツく言ってやったら、おとなしくしていてくれたのだった。
「確かに暖かくはなったが……それがどうかしたか?」
魔王はその目の前の光景を見たところで特に何を思うでもなく新たに出現させたグラスからゆったりと深いルビー色のワインを口に含んでいた。
まったく。奪ったところで動じないのだから手の出しようがない。
「それすらわからないから直接つれてこうっていうんです。魔王さん本当にひきこもりさんなんだから」
季節の移り変わりがあるっていうのにそれにすら反応しようとしない。
「そうはいっても俺様はろくすっぽ外の景色とか見たことないからな」
どう楽しんでいいかなんてさっぱりわかんねぇと言いつつくぴりと酒をあおる。
その様子に、ニンゲンはきょとんと目を丸めた。
「執務でいちおー世界情勢とかはわかってるんじゃないですか?」
「情報はなにも風景で伝わるとはかぎらんだろう? たとえば敵兵力だったり城の数だったりは数値で知ることも多いんだ」
視覚共有とかもできなくはないが、と魔王は言って、肩をすくめる。
「別に殺す相手のことを深く知ったところで意味などないだろ」
部下はその景色を見ながら殺すにしても魔王がわざわざそれを見る必要がない、というのはなんとなくニンゲンにもわかった。
そんな数万にも渡る映像を渡されたら処理が追いつかないということはきっとないだろうし、ましてや愛着がわいてしまうとかいうこともないだろう。純粋に彼にとって人とは、世界とは興味の対象外なのだ。わざわざそれを見たいという気にすらならないのだろう。
「なら、せめてこのお城の周りの景色くらい見て回りましょうよ」
「ぐぬぬ。おまえはまたそうやって俺を動かせたがるのか……」
まったく面倒なやつだなといって、はっとそこで真顔になる。
「もしやおまえっ、執務室から俺を引きはがせば世界の崩壊が遅れるとかいう算段だなっ! くぅ勇者め……」
ぬぬぬとニンゲンをにらむ魔王はグラスをぐわしとつかんでぷるぷると震えていた。
そんな様子にまたか、とニンゲンは肩をすくめる。
「あーあ。魔王さんってばまた疑いモードですね。そんなこと考えてないですよ。それにたかだか一日二日侵攻が遅れたとしてどうなるんですか?」
まったくもぅ、と面倒くさそうにニンゲンはつぶやいた。
最強の魔王のくせにいちいちニンゲンがやることに疑いの目を向けるのはいったいなぜなのかと思ってしまう。魔王は魔王らしくでんと腰を据えていればいいのだ。
「たとえば、おまえは本当の勇者が現れるまでの時間稼ぎみたいな役割がある……とか」
「ないですって。そんな希望があるならさっさと投入すりゃいいんですよ」
そんな都合のいい話があるはずがないとニンゲンは呆れにも似た深いため息を吐いた。
「魔王さんも知ってるでしょ? 最初の二年くらいでだいたいの優秀な方はあなたがたにやられてるんです。うちの町だって終末思想まっしぐらな雰囲気に包まれていましたよ。僕なんて勇者の子孫なんだからとりあえずいってこいくらいな感じだったんですから」
「その町に、たとえばあと五年したら俺を倒せるような才能があるとかは?」
「ないですよ。あったとしてももう滅んでますって。僕がここに着た頃にはもう、二つとなりの国まで魔王さんの兵がきてたんですから」
さすがに半年もあれば落ちてるでしょうと他人事のようにニンゲンは言った。
そもそも、そんなに魔王の出現にあわせたようにすごい人が現れるなんて都合のいい話があるわけはない。危機的状況になった動物は生存本能が高まり、特異的な個体ができるなんていう話もあると図書館で読んだことはあるけれど、それにしたところであと五年延ばしても子供では魔王さんは倒せないだろう。
「では、おまえの町からその才能が逃げている可能性は?」
「食いつきますね、魔王さんも」
眠そうな目をこすりながら言う魔王さんの前でニンゲンはしょんぼり肩を落とした。
本当にげんなりしてしまう。なにをこの人は疑っているんだろう?
ニンゲンはただこの人と残りの日々を楽しくゆったり過ごしたいだけだというのに。
「僕の町は勇者の加護のある町だというのはもう知っているでしょ? そこで……勇者の系譜以外の才能を必要としますか?」
「それは……」
「魔王を封印した勇者以外の才能があったとして誰がそこに頼ります? しかも開花するまで数年かかる才能なんて」
実際には勇者の血族以外にも希有な才能というものは転がっているだろう。
けれど問題なのは期待値のほう。たとえ力があっても周りから見向きされなければ意味がない。未来を期待される子がそれを伸ばして力を得るのだ。
あのころ勇者の血族であるニンゲンの家にすら将来有望な子の情報は流れてきたことはなかった。勇者の家は道場としても機能していたし、門弟だって少なくはなかったのだ。そんな子がいたのなら真っ先にうちにくるだろう。
そして、勇者の家が魔王討伐に失敗した今ならどうだろう。むしろ逃がすよりも前にさっさと戦ってこいと町の人々は言うだろう。たとえそれがどんなに子供であろうと。五年後の安定よりも二つ隣まで迫った脅威。そちらのほうに人々は視線を向けてしまうものだから。世界の安寧より自分たちの生活の方が大切だから。
「時間稼ぎなんてするつもりはまったくないです。するとしたら……そうですね。今の生活を少しでも長引かせるため、です。世界のためにどうのなんてどうでもいいですよ」
まったく、とキッパリ言い切ると、魔王さんはなぜかきょとんとした様子でこちらを見つめていた。
勇者の子孫が世界なんてどうでもいいと言うのに面でも食らっているのかもしれない。
「そこまで言い切るなら、まぁいい。きさまが言うように一日くらいあそこから離れたところで我が軍に支障はないしな」
玉座から離れたとしても魔王の力は世界に降り注ぐのだと魔王さんは高らかにふははははと笑った。当然ニンゲンはそれに動揺なんてしない。
あの魔王さんならそれくらいのことは平気でやってのけるだろう。弱点らしい弱点のひと欠片もない存在なのだから。
そんなことよりも魔王さんと森を歩けることのほうが嬉しかった。
引きこもり魔王をついにこの城から出すことができるのだ。もちろん二人きりというわけもない。アムさんはうまいもん探すといきりたっているし、モルくんも森に生える自生の食材を探したいと言っていた。
できればそのままうまいこと自分の農園にもってきてしまえという腹らしい。
それでも魔王さんが外に出る、ということにとても大切な意味があるとニンゲンは思う。
「それじゃーさっそくおでかけしましょうかね。おべんととかはばっちり作ったので、いい場所あったら一緒に食べましょう」
ね? と言ってみると、魔王さんはなぜか言葉を失いながら、うぐぐとうめいた。
春のピクニックというものが存在することを、実を言えばニンゲンは十歳になるまで知らなかった。
隣に住んでいた同い年の女の子が、今日はピクニックなのだと大きめなバスケットをもって嬉しそうにほほえんでいたのに小首をかしげる始末だった。そう、ニンゲンは一度たりとてピクニックなどというものに行ったことがなかったのだ。
勇者の家系はいつだって魔王のためにあった。
いつかくるかもしれない魔王の脅威。それに対応するために、満足に遊びらしい遊びをしたことがなかった。そんな暇があるならまず鍛錬だ。もしかしたら親の世代からずっとそういう行楽とは無縁の生活をしていたのかもしれない。
前の魔王が現れてから数百年。いく代もへた先に勇者の剣としての自覚はより強固なものになっていったのだ。そう。魔王は滅ぼされたのではなく封印されただけ。それはいつかほころびてこの世に仇なすに決まっている。だからそのために。血族である我らはただ自分の身を鍛える以外にはなかった。それ以外のすべてを投げ捨てたとしても。
いくつもの世代を経てもそれはやはり緩むことはなく。
父はいつだって武芸の話をしていたし、それに興味と才能を見せないニンゲンを醒めた目で見ていた。もはやそれは失望ですらなかった。望みをかけるまでもなく、ニンゲンは勇者としての資質の欠片すら見せることがなかったのだから。
ちょうど鍛錬が無駄だと悟った頃が、ピクニックの時期と同じころだったかもしれない。
そうだ、思い出してきた。
おまえはもう鍛錬をしなくて良いとどこか投げやりに父に言われて道場の外にでたときにそんな家族の姿を見たのだった。
お弁当が詰まったバスケットと空のバスケット。
帰ってくる頃には、片方は空になり、片方はいっぱいになっていた。
そしてなにより帰ってきたときの彼女の顔がとてもまぶしくて。すごく楽しかったのだと告げていて。そんな姿を勇者の子孫としての資質を持たない自分は羨ましく思っていたのだ。
そんなイベントがいつかできるといいと。ずっと思っていた。
「ねえねえニンゲンさんニンゲンさん。ピクニックって実際どんなことをすればいいんです?」
アムさんにちょいちょいとスカートのすそをひっぱられて問われても、うーんと小首を傾げることしかできない。一度も行ったことがないのだから答えようがない。
「どうもこうもないですよ。ただありのままに興味が向かったものにひかれていけばいいだけです」
とはいえ、さっぱり知りませんと言うのも、発案者としてはためらわれた。
魔王さんあたりにそんなことを言ったらじゃあ帰るぞなんて言い出しかねない。
それにきっと正しいマナーみたいなものなんてないのだろう。ようはそこにいる人が楽しくなれればそれでいいのだ。
何よりも目の前には春の景色が広がっている。青々と茂った木々たちから立ち上る青い空気を吸うだけで気持ちが楽になる。
「あ……アムさんとかって呼吸してないんでしたっけ?」
そこまでして、ふと当然の疑問が浮かんだ。
食事がとれるのはわかっているけれど、それ以外の体の機能はいったいどうなっているのだろう。
「うーん。まあ正直あまり必要とはしてないですね。我ら死に物ですゆえ。でも食べ物と一緒で吸おうと思えば吸えるものですよ」
匂いとかだってわかりますもん、とアムさんがもこもこの鼻をぴくぴく動かした。
そういえばミネストローネの匂いを最初に気に入ったのはこの子だった。
「おぉ。それでその質問なわけですね。さすがはニンゲンさんです」
森の空気を感じ取ったのか、アムさんはひくひくと鼻をさらに動かすとはぅーと息を吐いて脱力していた。そうとう気に入ったのだろう。
「懐かしい感じがします。そういやこの匂いがするとそろそろ暖かくなっていくんですよね。食べ物も増えるしうれしい匂いです」
まあ狩られる可能性もあった季節ですが、と言いつつそのほよんとした顔を見せられてしまうと、彼らにとっても春というのはうれしいものなのだろうと思った。
「魔王さんはお城から出た感想はどうです?」
前でぱたぱたと動き回っているアムさんやモルくんからいったん目を離して、無言で後ろからついてくる魔王さんに声をかける。
彼は相変わらず。そう、相変わらずお酒のグラスを片手に、くぴくぴ呑みながら後をついてきていた。外に出てまで飲み続けるというのはもはやどうしようもない。
「まあ、森だな。骸骨兵どももしっかりと見張りをしているようだし、盤石な要塞じゃないか」
「うぅ、魔王さんに聞いた僕が馬鹿でした……」
ふむ、と満足そうにくぴりと酒を煽る魔王さんの前で、ニンゲンはどうしてそっちの感想になるかな、とため息を漏らした。
「それ以外にどういう感想があると?」
「すがすがしいとか、じめっとしてるとか、木の葉のささめきが心地いいとかいろいろあるじゃないですか」
「……そうは言われてもなぁ。初めてすぎて良いんだか悪いんだか」
いまいちわからんという顔をしながら魔王さんはくぴりと二口、酒をあおった。
本当に心の底から自然の景色がすばらしいという感覚がないらしい。
やれやれとため息をつきながらニンゲンは魔王の眼前にたつ。
「では魔王さん。なにも考えずにただ感じてみてください。耳をすませて周りを見てみてください」
なにが見えますか? と正面から尋ねると魔王はびくりと体をふるわせる。
「べ、別に森があっておまえ等がいるだけだ」
それ以上でもない、という魔王さんはどこかいつもと様子が違うようだった。
これはもしかしたら、もう一押しなのかもしれない。
ニンゲンがそう思っていると隣でちょこちょこと歩いていたモルくんがそんな様子をじーっと見つめていた。意外な魔王の一面を見て驚いているのかもしれない。
「し、しかしまーみんなそろって城を出るなんて、翁のじーさまが知ったらうるさいだろうな」
その視線になにか感じたのか、魔王さんはあたふたとそっぽを向きながら、まったく別の話題をもってくる。
「翁……さん?」
そういえば以前どこかで聞いたものの、実物にはいまだに会うことができていない方だ。
「書庫番をしている方ですよ。ニンゲンさんはあそこには用がないはずですから、まだお会いしてないはずです」
「やっぱりその方も、魔王さんがお拾いになったのです?」
アムさんとモルくんが並んでとことこしているとそうとうかわいらしい。
あの城にすんでいるヒトたちはみんなとてもかわいいのだ。
そんなところにもうひとかた、すんでいる物がいるのだと言う。その方もきっとさぞかしかわいいのだろう。
「いや……あいつは前の戦いのときの生き残りだ」
だから俺もあんまり強いこと言えないんだよなぁと魔王さんは弱々しくうめいた。
「見た目はフクロウなんですけどねぇ。怒らなくてもおっかないのですよ。ニンゲンさんが想像しているような愛らしい感じなんてさっぱりないです」
うえ、といやそーな顔を珍しくしているのはアムさんだ。いつものほほんとしているこの子にそこまで言わしめるとは相当な物なのだろう。
「まぁおまえが会うこともないだろうよ。人間にはあそこの本は無用の長物なのだからな」
まぁ俺とてそうそう入ったこともないんだが、と魔王さんも嫌そうな顔をする。そうとう翁という相手が苦手らしい。
「って別に俺は翁が苦手ではなくてだな、たんにあそこの知識を必要としてないだけだ」
「本には知識という名の宝石がたんまりなのですよ。それを使えば生活がぐっと」
おたおたと顔を逸らす魔王さんに近づいて拳をにぎるとさらに彼はぷいと視線をそらしてしまった。
「いいんだよ。俺様は力という名の落石で世界を滅ぼせるのだから」
「うう、魔王さんがめずらしく言い回しなんてものを使っています」
そこまでして書庫を嫌うのは果たして翁が嫌なのか、それとも本そのものが嫌なのか。
「それに、俺がどうのこうのしなくてもおまえが勝手にあれやこれやするだろうが。俺様は酒飲んで寝ていたいのに」
くぴり。グラスの中身がまた少し減った。あれやこれやしてもお酒だけは手放さないのだから彼の酒びたり具合も相当なものだ。それをもうニンゲンは注意しない。彼の酒依存はどうしようもないところまでいってしまっているのだ。
「それでニンゲンさん。我らはどこに向かっているのです?」
南の森を抜けて進軍でもしてみますか? と冗談交じりの声を向けられてもニンゲンは内緒です、と人差し指を口に当ててぱちりとウインクしてみせる。
方角としては間違っていないはずだ。今朝見えた景色が間違いでなければきっとそこはとてもすごいものに違いない。
それから少し歩いたところで突然に視界が開いた。
背の高い木々はいっきに姿を消して、その代わりに目に飛び込んでくるのは視界一面の黄色。菜の花だ。
「ここに来たかったのですよ。きっと近くで見たら鮮やかで綺麗だろうなって思って」
正解でしたね、と満足そうな笑顔が漏れた。
隣で息をのんでいる魔王さんの姿まで見れたのだから、これはもう堪らないことだろう。
色というのは、唐突に変えられると刺激になるものだ。
いままでの緑ばかりの景色からこれだけ鮮やかなものを見せられてしまえば、いくらあの魔王さんでも気持ちを動かさないわけにはいかない。
「こいつぁ立派なもんだな。姐さん。これは食用になるものなのかい?」
「うぅ。モルくん。とりあえずは美しさを鑑賞しましょう」
食用にもなりますけれどね、と言いつつその一房を軽くなでる。
柔らかな穂はゆっくりたわんで震えていた。人が植えたものか自然の産物か。どちらにしてもこの広大な黄色は圧倒するように視界にはいってくる。
「さて、それじゃあお弁当にしましょうかね」
その景色を見ていたらきゅうとお腹が鳴った。基本魔王の城の方々は食事の時間という概念を持たないので一緒に生活しているとついニンゲンもそれを忘れそうになる。
あまり菜の花が咲いてなさそうなところにシートを引こうとしていると、おいらもおいらもとアムさんが小さなお手てで手伝ってくれた。
もちろん魔王さんはしっかりと大地に腰を下ろそうとしたのだけれど、風情も何もないのでやめてもらった。
そりゃ彼の力を持ってすれば、その盤石な肉体に傷一つつかないのだろうけど、そういう問題でもない。魔王さんは逐一そういった生活感が欠けてしまっている。
「おお。今日は特別豪勢じゃないですか」
「魔王さんを引っ張り出すためにいろいろがんばったのですよ」
おびき寄せるために必要なものって知ってます? と聞くとアムさんは、おいら知ってると手をあげてくれた。
「いや、俺が連れ出されたのはこいつが酒をぶんどるからでだな……」
けして弁当に引かれたわけではないぞ、と魔王さんはぷぃと顔を背けた。ずいぶんと彼も丸くなったと思う。
「じゃあ。このお弁当は僕たちだけで食べてしまってかまわないですね?」
「う……それは……」
顔を背けたまま彼はうむむと頬をひくひくとさせた。
「せっかくのおれっちの野菜達が残念ですぜ旦那。今日も食べてやってくださいよ」
モルくんに助け船を出されると、まあそこまでいうならと咳払いをして彼はあぐらをかいた。
「さすがにちょっと用意しすぎちゃいましたか」
ふぃ、お腹いっぱいですと腹部をなでている横では、相変わらず魔王さんはくぴりとワイングラスを傾けていた。お弁当は十分な量があったけれど、きちんと魔王さんも食べてくれたので今ではもうすっからかんだ。
食後のお茶を水筒から注いでいると、ほんわかした気分になる。
もちろん城の中も時間が止まったようにゆったりしているけれど、これはこれで黄色い景色の中でのんびりできるのはいいことだと思う。
視界の先ではアムさんが芋虫を掘りあてたり、モルくんが遊覧飛行を楽しんだりしていた。もともとコウモリなんて昼間は苦手な印象の上、アンデッドというこれまた光に弱そうな属性までついているのに、まるっきり光をいやがりもせず、黒いもふもふした体を空へと滑空させていく。
「腹はふくれたが。その、なんだな。やはり俺様にはこういうのはあれだな」
そんなほのぼのした景色を前に、珍しく魔王さんは申し訳なさそうに肩を落としていた。
いままでなら無感動でいることに動揺したりもしなかったのに今ではそこに思い至るのだからかなりの進歩なのだと思う。
「ちょっとずつでいいと思います。いきなりこんなところに連れてきて、さぁ綺麗だろう、綺麗だと感じろなんて言う気はないですよ」
ふふと笑いながらニンゲンは魔王さんに食後のデザートをすすめる。森の木からとってきた林檎だ。
こしこしと服で拭うと、りんごの皮はつやつやと輝いていた。
「ただ、この景色の中でおいしいご飯が食べられたらいいなって、そう僕が思っただけですから」
これは僕のわがままなんですと顔をふせる。ただそれに魔王さんが乗ってくれただけでも嬉しいのだ。遠くに広がる黄色の正体をみんなで探しにこれたのが嬉しい。
「ニンゲンさんニンゲンさん。こっちきてくださいよ」
「はいはい」
芋虫を掘っていたはずのアムさんがちょこちょこと手を振ってくる。
ちらりと魔王さんにほほえむとニンゲンは起き上がった。
一人とり残された彼がいったい自分たちを見てどう思うのか、なんて思いながら。
あえてニンゲンは振りかえらずに、アムさんの手招きのままに黄色い絨毯の上を歩いて行く。
その姿は太陽の光に照らされて白く輝いて、めまいがするほど現実感とは遠かった。
「それで、いったいどうしたんです? おっきい芋虫がとれたとかいうなら僕は魔王さんのところに帰っちゃいますよ?」
冗談まじりに言うと、アムさんはまぁまぁとぽてぽて歩いていく。
土いじりの果てに出てくるものといったら、芋か虫か。土仕事も苦ではないニンゲンだけれどさすがにそれを見せられるために呼び出されたのでは残念な気分にもなる。
「いやぁ、みっけたのは、おれっちです。空を泳いでいたら偶然ね」
アムじゃあるまいし土の下をほじくりかえすよーなことはしないとモルくんが胸を張った。嫌そうな顔がどうもでてしまっていたらしい。
「小屋……ですか」
ぽてぽてとアムさんたちにつれてこられた場所には木の陰にかくれて見えなかった古びた小屋がたてられていた。
なんとか人が住めるといった程度のこぢんまりとしたものだ。建物自体もだいぶ痛んでいてすでに人が使っているような気配はない。
「こいつは人間の建物なのですよね?」
「家というほどのものでもないようですが……倉庫かなにかですかね」
がらりと戸をあけると埃のにおいがすんと鼻に入った。魔王さんちに入ったときよりももっとひどい、本当に廃墟な感じの埃のたまり方だ。
「に、にんげんとか……いないです? いないです?」
アムさんがスカートの裾に隠れながらきょろきょろ周りを見回している。
彼らからしてみれば滅多に訪れることのない外の建物だ。それなりに緊張なんてものもするのかもしれない。
「うーん、今はもういないんじゃないですかね。どうやらここ、誰かのアトリエだったみたいですし」
「あとりえってぇと、すぐれた点とかって意味でしたっけ?」
「それは、取り柄ってやつですね。簡単に言えば絵を描くところです。絵はわかりますよね?」
「そりゃまぁ。城にもいくつか絵がありますから。もちろんはがして倉庫行きですけどもね」
なるほど。それであの城はどこか物足りない感じがしたのか、と今更ながらにニンゲンは思い至る。普通の大きめな城に必ずあるもの。それはそこの家の主の肖像画やら旗やらだ。たいていは入り口のエントランスにでーんと置かれている。
「では、それを見ればあの城の前の持ち主のこととかわかっちゃうわけですね」
「別にそんなの知らなくても、おいらたちはゆったりぐだぐだに余生を過ごせるんじゃないですかねぇ」
アムさん達はお城の持ち主にはほとんど興味がない様子で、部屋の中を物色し始めた。
テーブルの上に指をはわせて、指で字が書けますと脳天気な様子だ。びくびくするそばからそうなのだからよくわからない。けれどこの子も人の気配のなさを感じ取っているのかもしれない。もっさりとたまった埃と泥は人が住んでいた名残を完全に消してしまっている。
けれど、少ししてアムさんが足下に飛びついてきた。もふもふの毛並みがふとももにくすぐったい。
「おおぉ、ニンゲンさん。ここここ、ここだけなんか埃がないですよ」
ちょいちょいと隠れながらもふもふのお手てを指すのがかわいらしい。
そんなことを思いながら部屋の一角をみると、たしかにそこは他とは違って埃もさほど溜まっておらずきれいな色をしていた。
「風かなにかで倒れたんですかね。アトリエといったらキャンバスでしょうし」
少しの衝撃で倒れそうなものもいっぱいですもんねと、ニンゲンはつぶやいた。
ちょうどキャンバスが倒れていなければ影になるあたりの埃だけがほかよりも薄かったのだ。
絵描き道具はどれも軽いものばかり。それがすきま風で動いたところで不思議はない。
「でも、普通ニンゲンさんが部屋をたつならある程度きれいにしていくものじゃないんです? ここ、どう見ても荒れすぎなんじゃ……」
いやま、おいらたちならこれで全然きにならないけど、とアムさんがもっともらしいことを言う。
そう言われると、確かにこの廃墟は不自然なほどに廃墟すぎる気はする。
風雨や砂埃の影響は自然に起こるにしても、本来なら置かれてあるはずのない絵画の道具が散らばっているのは不自然にも見える。それこそ忽然と持ち主が消え去ってしまったかのような荒れっぷりだ。
でも、そこでふとああとニンゲンは根本的なところに気づいた。
「もしかしたら、魔王さんが現れてとるものもとらず逃げたのかもしれないですよ? 整理する時間がなかっただけ、ってこともね」
おびただしい数の死霊兵がわいてでたって言うじゃないですか、というとアムさんはうううぅとスカートに込める力を強める。
三年前。ここからほど近い、それこそ歩いてこれるような場所に魔王さんは現れたのだ。空が黒く染まったと言うほどの死霊兵が飛び立ったというのだから、普通なら逃げるだろう。逃げ切れたかどうかは知らないけれど。
「まぁここらへんはボンのおやっさんが守ってるしな。ただの人間はすぐに逃げてるかはたまた土の下かだろ」
モルくんも安心させるようにぽふぽふとアムさんの頭をなでた。
そんな愛らしい姿を見せられてしまうともっと和ませてあげてやりたくなる。
「じゃあ、僕はいったい……」
いかにも傷つきました、といった風でモルくんの台詞に愕然としたふりをしてみせる。
「姐さんはただの人間じゃなくて、敵にすらならないだめニンゲンだし」
「あう……」
狙ったようにモルくんから望む答えが引き出せた。自虐ネタではあるけれど敵にすらならないのは事実なので仕方ない。
「違いますよモル。ニンゲンさんはすごい人なのです。料理に掃除にと完璧なのです。戦いの方はそりゃもうどうしようもないですけど」
「ううぅ、アムさんまで……」
はううぅとうめいてやるとアムさんたちは笑い出す。どうやら体の力も抜けたらしい。スカートをつかんでいた手が離れた。
「さぁさっさと物色して帰らねぇと、魔王の旦那を待たせちまいますぜ」
「そうですね。魔王さんのことですから、きっとワインでも飲みながらぽーっとしてるんでしょうけど」
ふむ、とニンゲンは胸の前で腕をくむと頭を巡らせた。
せっかく人間の文化の残っているところにきたのだから、役立つものがあればもって帰りたい。ここのところ穏やかな日常が繰り返されていてあまりにも変化に乏しいところなのだ。
「それは?」
「絵描き道具ですね」
埃を軽く払った鞄を開くと、中には鉛色のチューブに入った絵の具一式と、つかいさしの絵筆がしまわれていた。デッサンをとるためなのか、鉛筆なんかもころころと何本か入っている。
「それなりに使い込まれた古いものみたいですが……保管がよかったんですかね。まだ使えそうですよ」
絵の具のチューブを軽く触るとぶにぶにとした感触が伝わってくる。未だかぴかぴに乾燥していない証拠だ。
「ほえーニンゲンさん、絵もかけるんです?」
アムさんがとことこ足跡をつけながら、絵の具セットをのぞき込む。
「それなりにはってところですね。それほど描いてる時間もなかったんで上手くはないですよ」
またまた謙遜なんじゃないんですかぁと、アムさんの肉球にぽふぽふされると意識せずに苦笑が漏れる。
近所の子が描いた絵。それは両親にほめられて、その子はうれしそうで。
だから真似をして描いてみた。
自分でも上手くかけたと思った。でも。それを見せにいったら。
そんなことをやっている暇があったら一回でも多く剣をふれ、と言われたのだった。そう、あれはまだ父さまたちが自分を勇者失格として諦めていなかった頃のことだ。
「なら、今度は本気で描いてみてはどうだ? 城の掃除もとりあえずはひと段落だろう」
「おわっ、魔王さんったらいつのまに」
がさごそ物色に集中していたからなのか、入り口付近の気配にまったく気づかなかった。
魔王さんはばつが悪そうに、暇だったんでなと頭をかいていた。
「でもどうしましょうか。もしかしたら魔王さんが世界を壊すまでにできあがらないかも」
キャンバスを見下ろしながら、残りの時間を思う。もうのこり二年もないだろう。その間に満足のいくものがかけるだろうか。
「それならそれだ。おまえが言ったのだろう。どうせ死ぬからといってなにもやらないことは駄目なのだと」
「そうでしたね」
そんな風に素直に自分の言葉を受け入れてくれている魔王さんがうれしい。
にぱりと笑顔を向けると、魔王さんはふいと視線をそらせた。
「じゃーおいらもなんか描きたい」
アムさんがお手てをあげる。
あいかわらずこのもふもふした生き物は人間の文化への興味がつきない。
「なら魔王さまのことでも描けばいいんじゃないですかい」
「おおっ。それはいいですね。いつも執務室にいらっしゃいますし」
良いモデルじゃないですか、とアムさんはおおはしゃぎだ。
「でもその前になにかでちょっと練習でもしてみましょうか」
さすがにぐにょっとした何かを魔王さんです、といってしまうのも悪い気がしてしまう。
「それじゃ、ここの家主さんには悪いですが」
れっつ強奪です、と苦笑を漏らす。
魔王さんと一緒にこんなことをしていたら本当に悪いことをしているようにも思えてしまう。本当はただの廃品回収にすぎないことなのに。でもたとえ悪いことだったとしてもまぁいいかと思えてしまう。
魔王さんが少しでもなにかに興味をもってくれるなら。
ニンゲンがしたいと思うことになにか関心を持ってくれるならうれしい。
「それじゃ、ここらへん、もってくださいね?」
ほい、とキャンバスやら筆やら絵の具やらをひょいひょいと渡すと嫌そうにしながらも受け止めてくれる。
さすがは肉体派。これだけの荷物を軽々と運ぶ様はうらやましいくらいだ。
「俺にばっかりもたせないでおまえも持てよな……」
「僕にはピクニック道具の後かたづけがあるのですよ」
こちらにはこちらのお仕事がね、というと彼はしぶしぶ口をつぐんだ。
そんな姿を見ながらくすりと笑うと、確かにいっぱいになったものをもって帰れるものなんだ、とそう思った。
「いまいち上手くいかないものですねぇ」
うーんと鉛筆を縦にのぞき込みながらニンゲンはキャンバスに向かい合っていた。しっかりとした布のものではなく画用紙なのだけれど、練習用なのでまずはこういうところから始めるのがよいのだろう。
モデルとなるのは、モルくんの畑から拝借してきた果物、野菜各種だ。
カボチャやニンジン、タマネギにジャガイモといった、今晩のおかずはシチューですか、と言わんばかりの盛り合わせセットをかごの上に配置してああでもないこうでもないと手を動かしている。もちろん夕飯はそのままシチューになるわけだけれど、この城でそれを気にするようなものはいない。
とりあえずのデッサンをしてみて、こうやって全体を眺めてみたりしているのだけれども、どうにもいまいちぱっとしない。アムさんはとりあえず何かを描き上げたことに満足して今はどこかに行ってしまっているけれど、さすがにそこまでほほえましい生き方はニンゲンにはできそうにないのだった。
小さいころは描いたものの出来に満足できていたのに、どうやら今では十分すぎる審美眼というものが一応にもついてしまったらしい。
やはり絵を描くにも技術というものが必要で、一から工夫して描いていくには絵の具にもキャンバスにも限りがありそうだった。木材が大量にあるからそこから紙でも造れないかと思いつつも、さすがにニンゲンも製紙まではやったことがない。
「そういえば書庫があるという話でしたが」
もしかしたら専門書のたぐいのようなものもあるかもしれない。絵の本もだが、ともかく今は紙の問題をどうにかしたいところだ。
「とはいえ、噂の翁さんがいるんですよね……」
あのモルくんでさえ、顔をしかめる相手をいったいどうやってやり過ごそうか。
そうは思っても、書庫という響きに純粋に興味を引かれる部分もある。
あの本のすんとしたにおい。インクが乾いたにおい。それら全部が静寂の中を漂うさまはニンゲンにとっては落ち着く光景なのだ。
「ええい、どのみち行かねばならないなら、早めに行ってしまいましょう」
うんうんと、太陽の位置を確認してから立ち上がる。
まだまだ日は高くて夕飯の準備をするにはたっぷりと時間がある。毎日が大掃除だった当初にくらべて、そうとうに時間に余裕ができるようになったのはありがたい。
城の中を巡回している骸骨兵さんに書庫の場所を訪ねると、かたかた歯をゆらしながらあっちと指をさして教えてくれた。
たしかにまだニンゲンの行ったことのない、城の中での裏側というのだろうか?
正面玄関のちょうど真裏に位置するところにその扉はあった。
「ここの下ってことですよね……」
脇には地下回廊というおどろおどろしい文字が浮かび上がっている。扉を開いたら確かにそこにはぽっかりと薄暗い闇が広がっていた。下に続く螺旋階段と、そしてその先には闇が広がっている。
「うえぇ、暗いですー」
廊下から下に降りていく階段は本当に暗くて、どうしようもない。
最初は地上からの光が差し込めていたからマシだったものの、それがどんどん遠ざかるにつれて光の固まりはしぼんで粒ほどになってしまった。
普通、こんな暗がりならば明かりをいくつも用意しておくはずなのに、それらしいものはまったくない。魔王さん自体がどうでもいい、もしくは近寄りたくない場所と思っているからこんな扱いなのかもしれない。
かつかつ。ぱらり。歩を進めるたびに怪しい音が耳につく。今にも階段が崩れそうな予感をさせる小さな小石がはねる音。けれどニンゲンはまぁいいかと右手を壁面につけながら慎重に一歩ずつ先へと進んでいく。
崩れたなら崩れたでそれまでのことだ。
どれほどぐるぐると暗闇を回っただろうか。右手にふれる感触だけを頼りに降りてきたさき。真っ暗な視界の先にぽぅと小さな灯りがともった。
それはずんずん進んでいくと次第に大きくなって、そして。
「ふわっ……」
四角い通路を抜けると、いきなり景色が変わった。
地下にあるくせにここだけまるで外にいるかのような光が射し込んでいた。いままでの暗がりになれた目には強烈に光ったものだけれど、実際は木漏れ日のようにほんのりした光。少し目をしばたたかせると、それが本を読むのにちょうどよい明るさなのがわかる。「こんな書庫、王立図書館でもないと思う」
そういえば翁という人がいないなと周りを見回す。書庫番のはずなのに入り口付近にある机は空になっていた。
「勝手におじゃまして後で怒られないでしょうか……」
きょろきょろと見回しながらもアムさんたちのイヤそうな顔を思い出した。あの話が本当だとすれば翁という相手はそうとう気むずかしいのだろう。
「でも、これだけの書庫となると……うぅ」
まあ魔王さんは好き勝手見て良いぞと言っていたわけだしと、ゆらゆらと足が本棚のほうに向かってしまった。
本はニンゲンにとって知識をむさぼるために必要な源だった。なんせ勇者としての期待がなくなったあとのニンゲンにはかまってくれる相手などいなかったのだから。
なんでも覚えるのは本を片手だった。
稽古をしなくなった膨大な時間をまず町の図書館ですごしたものだった。
やくたたず、できそこないと蔑まれながらだ。町の人たちは遠巻きにニンゲンを見ていたし、声をかけてくる者などいない。下手に接触をして勇者の家と関わりを持ちたくないといったところだろう。
町にある図書館の実用的な本はあらかた読んで、それを元に家のことをやりはじめたのはいつのことだっただろうか。
厨房で母の背中をあまりにも見つめていたら、やってみる? とさそわれて。あの頃はまだ魔王さんもいなくて平和だった頃の話だ。
「いろんな本があるものですねぇ。読めそうにないのもありますが」
膨大な蔵書の背表紙をざらりとなでながら、一つ一つの文字を追っていく。
よくわからない図形のようなもので書かれたものやら、蛇がのたうち回ったような文字のようなもので書かれているものもあった。もはやそれは本というよりも魔道書のたぐいといってしまった方がよいような気もする。
「勇者と魔王の物語……こんなのまでおいちゃってるんですね。魔王さん完全に悪役なのになぁ」
そんな中で小さい頃に読んだことがある本をみつけて、くすりと微笑が漏れる。
兄さまたちと一緒に読んだ本。家においてある数少ない娯楽だ。
勇者の系譜としては押さえておきたい一冊ということであったものなのだろう。それはよくある昔話。勇者が世界に君臨する魔王をなんとか倒したというような話だ。ただ一つ違うのは、それが討伐ではなくて封印だったということだけ。
「料理に科学に、宗教の本なんかもありますね……ほんとここを作った人は節操がないというか……」
本ならとりあえずどんどん蒐集しようという感じなのだろうか。
城の地下にこれほどの面積の書庫を作れるのだから、もしかしたら魔王さんの力の一つというやつなのかもしれない。前にすんでいた人の趣味としてはいささか新しすぎるものも多い。
「さて、製紙の本となるとここらへんですかね」
カミの作り方。製紙のいろいろ。お家でできる紙漉。
何冊か見繕って、閲覧用の席に着いた。
もちろんその中には野菜で作るホットなスープなんていうタイトルのものも入っていたのだけれど、それは余裕があったら読もうと思ったまでのものだ。
「ここらへんならこの城の設備でもできますかね……」
ぱらぱらと飛ばし読みをして選んだ中からさらに、なるべく基本的な、専門の設備がなくてもできそうなものを選ぶ。
「まー木材はたんまりありますしねぇ。皮をつかうといい……ですか。お風呂作ったときにはがしたのがそういや倉庫にありましたか……」
まるで時が止まったかのようになっているあの倉庫の中に入っているものは入れた状態で保管されているので、あのときの皮も端の方にちょこんと袋詰めしてあったりする。
あくまでも練習用の紙をということだから、そこまで見栄えがする立派なものになる必要もないのだしなんとかなりそうだ。
木の種類なんかも影響するというから、もしあの残りでうまくいかなかったらビーしゃんに相談をすればいい。木の名前はわからなくても特徴を言えば手に入れてくれることだろう。
「さて、目星がついたところで、今度は絵の方の本でも読んでみましょうか……」
それとも、と背表紙のタイトルが気になって持ってきた本をちらりと見た。
そこに書かれた文字はたったの二つ。
「魔王」
著者の名前もなにも書かれていないその本は今までどこの図書館でも見たことのないものだ。豪奢な金の縁取りのついたいかつい黒い本で、見ただけでこれぞ魔王というような印象をうかがわせる。
その中に書かれてるものがいったいなんなのかが気になってつい持ってきてしまったのだ。あの魔王さんが覚えていないという昔の事でも書かれているのか、はたまた魔王さんの肉体美を納めた絵画集だったらどうしよう。
「ははっ、それはさすがにないですかね」
あの魔王さんが自分を誇示するような本をわざわざ作るとは思えない。あそこまで多くのことに興味の無い、生きる気力の無い魔王さんなのだ。面倒だといって終わりだろう。
おそらくこれは、無難な線で、魔王さんの記録が書かれたものなのだろう。
魔王に関する記述書は実はかなりに上る。
とはいえ、それはほとんどが古書であり、平和な時代が続いた今は新たなものが発行されるということもない。魔王研究の学徒は生活ができないと言われていたし、やっていても本業の合間の趣味程度のものが大半だった。
また。いざ魔王さんがよみがえった後は、もはや研究するだけの余裕が人間側にはまったくなかった。というよりも、彼らは魔王軍の兵士を見ていたのであって、魔王そのものを見たものなどいなかったのだ。
「まぁ、引きこもりですしね」
彼らの脅威はあくまでも目の前で凶刃をふるう魔物であって、それを操る正体不明の魔王ではなかったのだ。
そんな中でこの本だけはなぜか古書というには古くもなく、ましてや新しすぎもしないという不思議な印象を受ける。これを目に留めてしまえば、読書家としては気になって仕方がなかった。
なによりここには魔王さんのことが書かれているのだ。魔王城にある魔王さんのための本。それはニンゲンが識っている以上のことをもたらしてくれるかもしれない。
「これくらいの本なら、夕飯作りに支障はないですよね」
おそるおそる、その黒の装丁の本を開いた。
そして、何ページ目か読み下したところで。
いつのまにか意識が遠くなっていた。




