2.すてられ勇者と木こりのクマさん
「くしゅん」
厨房に火をいれていると冷たいすきま風に思わず体が震えてしまった。
時の流れは早いもので、あれからもう二ヶ月が経っていた。
城での生活は最初こそばたばたと、くるくるといろいろな変化があったものの。今となってしまえばずいぶんと落ち着いてしまったと言える。
相変わらず綺麗になった厨房では暖かい料理を作っているし、アムさんは料理をよこせとうるさく騒ぐし、モルくんも趣味の園芸を続けている。不思議と冬でも収穫できるものはあるらしい。
魔王さんがむすっと非人間な生活を繰り返しているのは言うまでも無い。掃除こそさせてもらったものの、簡素なベッドがあるきりの部屋でころんと横たわるのは変わらない。そんな中で変わったことといえば、きっと周囲の温度が少し下がったことだろう。
ニンゲンが住んでいた所より北にあるここは、冬の寒さも一段と厳しい。アムさんの話によればもうすぐ雪が降って一面は銀世界になるらしい。
執務室の両脇の部屋は魔王の加護のおかげで快適なのだけれど、そこから出た居間も食堂も、そしてこの厨房だって、すきま風がぴゅーぴゅー入ってとても寒い。厨房の火に手をかざしてしまいたくなるほどだ。
「急に寒くなってきましたねぇ。これで……ここで過ごす冬も三回目ですか」
いやぁ、寒い寒いと指折り冬の回数を数えるアムさんは全然こたえていなさそうな様子でお茶をすする。ふわんと立ち上る湯気は前よりも白くくっきりとしていた。
今いただいているのは緑色をしたお茶。モルくんに言って栽培してもらったものだ。
茶畑に限らず、収穫なんていうのはもっと時間がかかるものなのに、魔王さんの力の張り巡らされた裏庭にはたった一月で見事な茶畑区画ができあがっていた。
そこから摘んできた茶葉はとても良い香りで、体を温めてくれる。
けれど、そんなものがなくたって毛皮でもこもこ覆われているアムさんはあったかそうだった。むしろこの子を抱っこしていれば暖かいんじゃないだろうか。だき枕のかわりにお借りしたいくらいだ。
「もう魔王さんが動き始めてそんなになりますか……」
「がんばってない訳じゃないんですがねぇ。世界はそれだけ広かったというわけですよ」
いちおー世界の半分はもう墜ちているわけですからねぇと緊張感のない声が漏れる。
あれから二ヶ月。それなりに魔王の既死の軍団も死をまき散らしてはいるものの、世界という広大な尺度でみれば、それはごくわずかな侵攻と言わざるを得なかった。
ニンゲンのふるさとがどうなったのか。そこらへんを考えるつもりは元からない。
ふらふらと進んだこの城までの道のりにどれくらいかかったのかなんてわからない。覚えていない。ただ出発した時に迫っていた魔王軍は、もうあの町も飲み込んでしまっているのだろうなというのくらいはわかる。
そんなことよりも、問題なのはあとどれくらいで世界は滅びるのか、といったところだった。魔王さんがいう、仲間もまとめて木っ端微塵が実行されるのがいつなのか、というのが目下ここで暮らす居候としては大切なことだ。
どうせ世界は魔王に滅ぼされる。子供も大人も。庶民も王族も。誰だってそんなことはわかっていて、都合のいい勇者を探してはちっぽけな安心感を得ているだけで、もう人間には魔王をどうのこうのできる力は残ってはいない。この城にたどり着く人間がここ二ヶ月でゼロだというのも、それの証拠といっていいだろう。
「まーこちらとしては少しでも魔王さんの侵攻が遅くあって欲しいですけれどね」
はふぅとお茶を飲みながら、ほふほふと団子を口に入れる。この寒さの中で暖かい団子は格別だった。中からあふれ出す熱は、甘さと共に体に元気を分けてくれる。
モルくんは穀物なんかもせっせと作っていたりするので、こういったお菓子なんかも作れてしまうのはありがたかった。
「ニンゲンさんとしては世界に少しでも長くあって欲しいです?」
「そうですねぇ。アムさんに一日でも長く美味しいご飯を食べさせてあげたいとでも言っておきましょうか?」
くすりと笑いかけられて、アムさんがきょとんと顔を立てに伸ばす。
アムさんからしてみれば、ニンゲンはいちおう曲がりなりにも世界を救うために魔王を退治しにきた勇者1なわけで、世界の存続を願っているものだとでも思っていたのだろう。
けれどニンゲンとて好きで勇者の子孫だったわけではないし、旅立ちだって決していいものではなかった。魔王さんを倒すといったのは成り行きのようなもので、城までついてしまったからとりあえず言ってみたまでのことだ。
そもそも自分の弱さは百も承知で、南の森を越えられただけで驚いているくらいで、あのときは目の前にもやがかかってるような、ぼんやりしたような状態だった。
でもそれからだ。地下牢に入れられて、それから彼と話をしてみると、倒す倒さないという話よりも別の感情のほうが強くなってしまった。
あの引きこもり魔王は許せない。なにってその生活感のなさが許せない。
あの死生観が許せない。あのぐだぐだっぷりが許せない。
つまらなさそうに、酒びたる姿が許せない。
世界が終わることが決まっていたとしても、せめてそれまではあの魔王さんにも生きていることの楽しさを、思い出を持って欲しい。死ぬためにただ時間を過ごすなんて真似はして欲しくないのだ。
死ぬまで勇者であれと言われた我が家のように。
「でも、ここまでで三年となると……あと同じくらいの月日はここで過ごせるってことですよね?」
それならもう、毎日魔王さんのために頑張っちゃいますよ? とニンゲンはたゆんとした頬をほころばせる。以前、町の図書館で見た世界地図と伝聞で家の方に集められていた魔王軍の侵攻具合を見た限りでは、今がちょうど折り返し地点といったところなのだ。
でも、対するアムさんの方はどこか残念そうな様子だった。
「書庫番の翁が言うには、一割を切ったくらいから人間は世界をはかなんで自殺するそうです」
だから三年は持たないのだともふもふ胸のあたりをしょんぼり揺らしながら言う。
人間全体のことはともかく、目の前のニンゲンが悲しむことは嫌なのだと思ってくれているらしい。
「死の恐怖から逃れるために自ら死ぬっていう発想がおいらにはよくわかりません」
どっちみち死ぬんだから、どっちでもいいじゃないですか、とアムさんは不思議そうに小首をかしげる。
「魔王さんに殺されると死後悲惨な目に遭うとか思ってるんでしょうか」
ふと思いついたように、ニンゲンはつぶやいた。
以前どこかでそういった風聞も聞いたような覚えがある。
もちろん死ぬことも嫌だけれど、死んだ後まで呪われてしまうとかなんとか。
魔王に殺されたら生まれ変われないとか、死んでも魂は束縛されて魔王に従わないといけないとか。神の御許にいけないなんていうのもあったような気がする。
「そこらへん微妙ですねぇ。別に魔王さまが殺そうと人間が自分で死のうと、滅びのあとは無です。お亡くなりです。起きあがってくるのは世界に捨てられた死霊だけですから」
おいらたち、別に魔王さまに殺されてこーなったわけじゃないですし、とアムさんは苦笑まじりにもこもこのお手てを振る。かわいい。
「真実は想像力という目隠しで覆われるものだって、確か以前読んだ本に書いてありましたね。ホントの事よりもどうなりそうかっていう予測の方が大切なんですよ、人間っていうのは」
「それであれですか。骨な感じのボンたちは実は心の奥では涙を流しているに違いないだなんて思ってるわけですか」
「あー人間の想像力は確かにそんな感じですね」
あはは、そのとおりですとニンゲンは苦笑をもらす。骸骨兵のみなさんとはそこまで親しく話をしたことは無いけれど、別段そこまで魔王さんを憎んでいるようには見えなかった。でもそれは交流したからこそわかることだ。
人間というものは勝手に悪い想像をして恐怖を増幅させてしまう。
幸せなときはその想像力が希望になったとしても、この状況だと悪いことしか考えられないだろう。希望がないと言うよりは楽観したくてもできないのだ。
「あと翁が言うには、ヤケノヤンパチになった人間は本性をむき出しにして強奪や快楽に身を委ねるのだそうです。それで争いになって自滅するんだとか」
「やけのなんたらがわかりませんが、追いつめられた人間は粗暴になるといいますね。寛大な心は満ち足りた生活から始まるって、ロジャー・エイカーも言っていましたし」
ぞくり、とあのときの光景を思い浮かべて、背中のあたりが震えた。
茶飲みが空になっているのに気づいて、すぐに急須に茶葉を入れると、こぽこぽ熱湯を注いで湯気を鼻のあたりにくゆらせる。これだけで寒さから来る震えが少し楽になるのだから、お茶の力というのは大きい。
「それにしても本当にここの冬は冷えますねぇ。どうして魔王さんは全室の温度をあげないんでしょうか?」
うぅ寒いと体を震わせると、アムさんがおかわりを受け取ってほっぺたに当てていた。ぬくいーと頬をゆるませている。
「それは必要がないからですよ。まー温いのも好きですけど、おいらたちもう死んじゃってますから。体温とか低くても動けるし、そもそも骸骨兵のとっつぁんとか隙間風入りまくりですし」
「そうですねぇ。胃袋ないからご飯はイリマセンとか……いったい何を楽しみに生きていけばいいというのでしょう……」
「そりゃもう残念ですよねぇ。でもニンゲンさんがきてから彼らも残念がってるんですよ? くそぅ、おまえらだけずるいって言われますもん。でもま、われら死んでますゆえ、別にそれがなくても生きていけるのですよ」
ぴゅーと隙間風が吹くと、ニンゲンはことさら体を震わせた。
ただでさえ寒いというのにこの格好だ。
スカートの丈はひざくらいまでしかないから、ふくらはぎが露出されてしまっていて相当に寒い。気温が下がってくるのにあわせて厚手のタイツに変えたのだけれど、それでも寒さは薄れてなどくれなかった。
まだ生者であるニンゲンは体温が下がれば血の巡りも悪くなるし、血の巡りが悪くなれば熱も失われて、手足の先のほうは特に冷えてかちかちになってしまう。
「こう寒いと……お風呂欲しいですねぇ」
先月から考えていたせいか、冷たい風を浴びてぽろりとニンゲンから言葉が漏れた。
実を言えばここに来てしばらくしてから考えていたことだったのだ。
この城には浴室といわれるものが一応ある。近くに井戸もあるなかなかよいものだ。けれどそれは体の汚れを落とす場というようなものであって、入って温まる浴槽は存在していなかった。
もともとここに住んでいた人の文化の違いなのだろう。もしかしたら大昔はこの地はそれほど寒くもなかったのかもしれない。
「ほほーオフロですか。そりゃいったいどういうものなのです?」
アムさんがわくわくしたようすでこちらに問いかけてくる。このもふもふした生き物はなにぶん人間の文化がとてもお気に入りだ。
「大きめの箱にお湯をいれてその中で暖まる行為ですよ。たしか天然の温泉とかだと動物さんもわりと楽しんでるとか聞いたことがありますが」
「うちの山ではそういうのは無かったですねぇ」
冷たい泉とかはありましたが、とアムさんがいまいちよくわからないと小さいお手てを器用に胸の前で組む。
「実際に造ってみればわかりますよ。木材は森から調達できるとか聞きましたけど、確か管理してるのは……」
「ええ、クマのB.B.さんですね」
「ビーさんってどんな方なんですか? クマとなるとわりとワイルドな方なんでしょうか?」
クマときいてニンゲンは少し声を震わせてしまう。実はそれもあって造るのを躊躇していた部分があったのだ。小さいころに森で追い掛け回されたことがあってから、熊という生き物がどうにも苦手なのである。
けれどこれだけ寒いとさすがにそんなことも言っていられない。この城のものは敵以外は殺さないというので、とりあえずそれを信じてみようかとも思う。
「ワイルドではありますね。わりと損傷もひどいですし、あの格好で斧とか持ってますし」
彼の仕事は森の管理だ。余計な木を切り倒したり、枝葉を刈ったりして林業を営んでいる。大きな体に斧なんて持っていてはそれはもう凶悪そうという言葉がとてもよく似合うに違いなかった。
「うぅ。その方にお会いしないといけないんですよねぇ。うーん」
「そんなに怖がることもないですよ。ほら。一緒にいきましょう」
さぁ、さっそくさっそくとアムさんにつれられて、ニンゲンは城の外の森へと足を踏み入れた。
ぴゅぅと冷たい風が吹きかかり、全身が凍えるようだった。外にでるために貸してもらっているマントをはおっても、それだけではどうにもならないようだ。
それにしても、クマか……と考える。
人の言葉を話す上に襲ってはこないとわかっていても、やはり少し足がすくんでしまう。
普通の人ならばクマより死霊兵のほうが怖いだろうと言いそうだけれど、彼らに襲われたことのないニンゲンにとっては、森をもそもそ移動する巨体の方が恐ろしい。
「こちらが、B.B.さんです」
「はぁ……これは……なんとも」
びくびくとアムさんに連れられていくと、紹介されていきなりニンゲンは言葉をなくしていた。
恐怖に身がすくんでしまった、というわけではない。むしろその逆だ。
先ほどまであれほど怖がっていたというのに、いざ会ってみるとこうなのだからこの城は常識が通用しない。
「あは。これはずいぶんと大きな方ですねぇ」
そう。目の前にいたそのお相手。それはクマはクマでも茶色いぬいぐるみのくましゃんだった。ところどころがかわいそうにもげていたりするし、頭からは少し綿がこぼれていたりするのだけれど、特にそれが動きに影響することもないらしい。
大きさは普通のクマくらいはあるんだろうか? ちっちゃい子が抱きついてもなお余るくらいのサイズのお方なのだ。
「あの……」
「あん? どうしたってんだい、お嬢さん」
「お嬢さんじゃないですけど、まぁそれはいいでしょう」
問いかけると、斧を担いだB.B.さんは真っ黒でつぶらな瞳をこちらに向けた。
黒くてつやつやしていて。それを見ただけでもう、お嬢さんと言われるのも気にならないくらいに愛らしい。
「で? 俺になんか用なのかい?」
「とりあえず、きゅっと抱きついてもいいですか?」
「……うぅ。ニンゲンさんがいきなりビーしゃんになついていますねぇ」
おいらにすら抱きついてくれなかったといいますのに、とアムさんはなぜか少しだけしょんぼりと地面におちている石を蹴っ飛ばしていた。
「お、俺は別にかまわないが……」
「じゃあ、遠慮なく」
きゅっと抱きつくと、すんと鼻に埃の臭いがした。けれどその大きさともふもふさといえば最高級だ。毛並みもけして悪くはないし、背中をさすさすすると、
「くぉっ、そんなところ、ああ、だめ」
あふっと、くまのビーしゃんは艶っぽい声を漏らした。
「あは。やっぱりかわいらしい方ですね」
にこりと極上の笑顔を向けられると、くましゃんはうっすら頬を染めた。
「ニンゲンさん、ニンゲンさん。そんなことしてないで本題、本題」
アムさんがちょいちょいと裾をひっぱって続きを促してくる。さすがにじゃれてばっかりいるわけにもいかない。
そうでしたそうでしたと、名残惜しそうにビーしゃんから離れると、ニンゲンは彼へのお願いを切り出した。
「ちょっと木材を分けて欲しいのです。そうとうな量があるという話を聞きましたので」
「まーそれなりにはあるな。ここ二年くらいは森の育ちもよくなって収穫もひとしおだ。切り倒したものは城の保管庫においてある」
中にあるものは勝手に使っていいぞ、どうせ他の木のために切っていてどうせ使わないし、といわれると人間は嬉しくなってぺこりと頭をさげた。余っているといっても、くましゃんが収穫したものだ。こんな愛らしいくましゃんに好きにしていいだなんて言われたら嬉しくてしかたない。
「それではビーさん。完成したらまた声をおかけしますね」
「ああ、そうだ。なんか造るなら倉庫にいいものがある。そいつも自由に使っていいからな」
クマのB.B.さんは斧をひょいとかつぎ上げると、ぽてぽて森の中に入っていった。
「それで、ニンゲンさん。実際どうするんです? 荷物は持ってきたもののまさか大工作業をニンゲンさんがするんです?」
浴室のある部屋の隣に資材を運び終えたころ、アムさんが不思議そうな声をあげていた。小さなお手てを胸の前でくんでいる姿がやはりかわいらしい。
「まーそれなりに僕だって日曜大工くらいはできるのですよ? 家の風呂釜の管理をしたこともありましたし、それはもう勇者のなりそこないは普通の人以上に多くの仕事をしなきゃいけなかったのです」
「……ニンゲンさんもわりとハードな人生を送っていたんですねぇ」
「それだけ勇者っていうのは重たいということなのです。その資格が僕にはないんだから、普通以上に働いて当然なのですよ」
働かざるもの、食うべからず、です。
その当たり前だった言葉が空虚に胸の中を通り過ぎていった。
小さいころからずっとそうだったから、自身は当たり前だと思っていた。
けれど実際はどうだ。自分ほど働かなくても立派に家族に愛されて暮らしている人なんて山ほどいる。彼らは期待はされない代わりに、失望もされない。
勇者の血族であるというだけで期待値があがってしまう現実。戦いだけを求められた小さな頃は本当にだめな子だったけれど、それから解放されてからは多くを学んで多くを行ってきたつもりだ。たとえそれが勇者の家の人間として評価されなくても。
「まぁそんなスキルがここで役に立つならそれはそれでいいんですけど」
さすがに魔王さんのお城に人間の職人は呼べない。そうなってくるとなにか人間らしいことをしたいと思えば自ずと自分でなんとかするしかない。今までのことがまさかこんな形で生かせるとは思っていなかった。
「しかし木を水につけておいたら腐ってしまうんじゃないんですかね?」
アムさんがさすさすと丸太をさすりながら疑問符を浮かべた。森での生活でも思い出しているのかもしれない。長く水没した木々は確かに腐って朽ちていくものだ。
「最低でも二年くらいはもってくれると思いますよ。それくらいでちょうどこの世界はお亡くなりになるのだから、十分だとは思いますが」
「さすがにそれくらいあれば侵攻も終わるでしょうねぇ」
ほんわかと話しているものの、その内容ときたら物騒きわまりなかった。
ニンゲンとしてはもう世界の終わりは確定事項みたいなものなのだ。自分が抗おうが、自分以外が抗おうがあの魔王さんはびくともしないに違いない。
ただそれまでの間。あと二年にも満たない間をあの人と一緒にいたい。
あの人に少しでも生きる楽しみを知ってもらいたい。
「くぅう。ニンゲンさんは器用ですねぇ」
ちゅいいんという耳障りな音が途切れたところで、アムさんが感嘆の吐息をもらしていた。無理もない。動物ではこうやって物を加工することは難しいのだろう。
「チェーンソーがあったのは大助かりでした。あのかわいらしい方のことだから素手で木とか倒していそうな気がしていましたが」
工具が置いてあるといわれた倉庫にはこれまたすごい量の道具がそろっていたのだった。おそらく魔王さんが人類の技術をぼろっと盗み出してその力で生み出したものなのだろう。
きゅいんと物騒な音をたてて回転する刃が丸太をごろりと削っていく。
それはきれいな直線を描いて丸太を角材へと変えていった。
「でもそれ、最初見たときは驚きましたねぇ。人間の技術は恐ろしいものです」
「ビーしゃんが持ってたら、だいぶスプラッタですよね」
大きなクマのぬいぐるみがチェーンソーを持って襲ってきたらさすがに怖いに違いない。しかもあれだけぼろぼろになってしまったくましゃんなのだからなおさらだ。
「でも、ビーしゃんは基本的にはあの斧しか使ってないみたいですよ。実際おいらもその道具が動いているの初めて見ますし」
「あのお手てではちょっと動かすの難しいのかもしれないですね」
よいしょととりあえず必要な量の角材が完成する。外側の皮がむければもう薄い象牙色のつやつやした肌が見えてくる。あとはこれを削って滑らかにしつつ、表面に樹液をぬって防水性を高めていけばいい。
「さて、それじゃアムさん。カンナをかけてもらいましょうか」
「え、おいらにもできるんです?」
「そりゃまぁ、ものは挑戦といいますし」
ほらほら、とカンナを渡すとアムさんは小さいお手てでそれを抑えておそるおそる木にあてていった。
しょり。本当に薄く木が削れてはがれた。
「おおおぉ。おいらが人間の道具を使ってる……驚きです」
「それじゃ、表面をとりあえず綺麗にしておいてくださいね」
できるだけ平らにしてくださいねーと伝えると、がんばっちゃいますよーとうきうきした返事が聞こえた。
彼らは本当になにか仕事を指示すると喜んでくれるのだから面白い。
けれどそれは、ニンゲンも同じだったのかもしれない。
必要とされることは、そしてその力を持てるということはとても嬉しいことなのだ。
「魔王さんは、必要とされたことってあるんでしょうかねぇ」
それすら考えたことはなさそうだなと思いながら、ニンゲンもカンナを動かし始めた。
「完成しましたね」
ふぃーと一息ついたのは三日後の夕方だった。
城の掃除を一切やめてこちらに注力しているにしても、晩ご飯の準備はしなければならないので一気に完成というわけにもいかなかったのだ。
今日はそろそろ完成しそうだったのでつい時間を延ばして頑張ってしまったのだった。少しだけご飯が手抜きになるけれどそこは勘弁してもらおう。
「もーアムさんにも手伝ってもらいましたし、無事にできて良かったです」
「おいらも楽しかったですよ。まさかこんなものが出来てしまうとは、いやはやニンゲンさんはすごいです」
「またまたぁ、おだててもなにも出ませんよー」
ふふふ。アムさんに褒められると本当に嬉しくなってしまう。
そしてお風呂のできのほうもそうとう満足なものだった。ここ三日間の苦労が報われたといった感じがするのだ。
「おぉ。これはまた立派なものができたな」
二人でまだお湯の張られていない浴槽を見ていると、ぽふぽふとクマのぬいぐるみのビーしゃんが姿を現した。斧は小屋に置いてきたらしく見るからに可愛らしいくましゃんの姿だ。
「すごいでしょう? おいらも一杯手伝ったんですよ」
アムさんがこれみよがしにもふもふの胸を張った。
「この広さなら、俺でも入れるのかもしれないな」
よいせ、となぜかビーしゃんが木をまたいで浴槽の中へとぽふぽふな身体を入れる。水は入っていないけれど、あの大きさのビーしゃんがはいってもまだ十分な余裕があった。
「それはそうとビーしゃんさん。その頭から半分出てるものって直しちゃったりしちゃだめです?」
針とか刺すと痛いのかなぁとニンゲンが言った。まるで今思い出したかのような口ぶりにアムさんがきょとんとする。
「痛覚はないから問題ない。というかこのままでも別にいいけどな」
「なら、ぱぱっと直しちゃいましょう。ビーしゃんさんはおっきなもふもふなのですから、綺麗でいないと」
そういうと、ニンゲンは倉庫で発見したソーイングセットを取り出した。
とりあえず半分もげてる耳の修繕にかかる。脇の下あたりも糸がほつれていて今にもぱっくりと中身の綿がでてきそうな勢いだ。
「な、なんでそんなに優しくしてくれるんだ?」
ビーしゃんはくすぐったそうにしながら、それでもぶっきらぼうに視線をそらして問いかける。あまり優しくされてはこなかったのだろう。こんなに大きくてかわいいのに残念なことだ。
「はて……まぁあれじゃないですかね」
そんな様子を見ながら、ニンゲンはわざととぼけたように視線をそらす。
よいせと、糸を切るとクマのビーしゃんの耳と脇の下はきちんと縫われて中身が見えることもなくなっていた。
「ビーしゃんさんはお風呂に入れなくてかわいそうだから、ということにしておきましょうか?」
「え?」
「ちょ、それどういうことですか?」
アムさんまでが不思議そうに声を上げる。
「だってビーしゃんさん、ぬいぐるみさんでしょう? お風呂なんかにはいったら綿がおもいっきり水分をすって何倍も体重増えちゃいますよ?」
それで歩けるんでしょうか? というとふらりと軽い体がよろめいた。かなりオフロという言葉の響きに期待していたのだろう。作業中もちらちらと窓からのぞき込んでいたのはニンゲンも知っている。
「くぅ、我らいまいちままならぬ存在ですねえ。ならこうしましょう。ビーしゃんが風呂に入ったら、こーぐりんと干す方向で。昔やったみたいに」
アムさんの提案にビーしゃんのぎろりとした視線が飛んだ。
後で聞いた話ではどうにも実際に何回かやってみたことがあるらしい。
あれだけおっきい子が洗濯ばさみで肩の辺りをちょんとつままれて干されている様は、かわいいというよりはむしろシュールだ。しかも足の先っぽからはぴちゃぴちゃと水滴まで落ちていたら可哀想な気になる。
「まあまあ、お風呂は無理としてもなにかしらできることはやっていきましょう。残り時間は限られているんですから」
そんなに気を落とすことはないですよ、というとビーしゃんはぐったりしながら浴槽から大きな体を小さくして外に出てくれた。
たとえ言葉を交わせて動けたとしても、ビーしゃんは人間がやれることまるまるできるわけじゃないのだと痛感してしまう。なんせ食事もとれないしお風呂もダメと来てしまっているのだ。お風呂も一緒、寝るのも一緒というわけにもいかない。
なにかしらあとでビーしゃんにも楽しんでやれることを考えていかないといけないのかもしれない。林業も楽しそうだけれどみんなでわいわい何かができるといいと思う。
「さて、キリもいいところだし、そろそろ夕飯の準備をしましょうかね」
無意識にビーしゃんの腰のあたりをさすさすしながら、二人の顔を見回してみる。
するとアムさんはあからさまにうずうずした様子で、ぎゅっと体を前に乗り出してきた。
「ニンゲンさん、ここまでやっといて試しに入ってみたりしないんです?」
「でももうこんな時間ですしねぇ。遅くなっちゃ魔王さんに悪いですし」
「そうですか? 魔王さまなら別にそこらへん気にしないですよ」
それよりほら、これほら。試してみましょうよぅとアムさんにそでをさすさすひっぱられてしまうと、うーんとニンゲンは首をひねる。
正直、まだそこまでお腹もすいていないし、自分のためだけというなら料理に手間をかけるつもりもない。さすがに最初の日に食べさせられたぐにょっとした何かは勘弁だけれど。煮込んだりといったスープ系をやめればまだ十分時間はある。
「たしかにいつもとりあえず食べてるって感じですもんねぇ彼」
食べてくれるだけでニンゲンとしては嬉しいのだけれど、もう少し反応が欲しいと思ってしまうのはわがままというものなのだろうか。どうにも最初の時以来、あまり表情を変えてくれないのだ。
「それなら……こっちにかまけちゃってもいいんでしょうか」
うーんと胸の前で腕を組むと人間はうめき声を上げ始める。
せっかく食事というものに少しでも興味がでてきてくれたところで、それをおざなりにして別のことをというのに躊躇してしまうのだ。
「だいじょうぶだいじょうぶ。魔王さまだって新しいこと始めれば興味の一つも示しますって」
さぁさぁ、オフロオフロとアムさんはいつのまにやら手ぬぐいを取り出して頭の上にちょこんとのせた。かわいい。
「そこまで言うなら、そうですねぇ。お試しですがアムさんも入ります?」
「うぅん、どうしましょう。これだけ大きいと入れそうですが……」
まぁビーしゃんは残念なことになってますがね、とアムさんが哀愁ただよう背中をなでなでしていた。
実際、浴槽がかなり大きく作れたのには満足だった。
浴室自体がわりと広いつくりになっていたのでそこに入るサイズにしたら大きくなったのだ。潤沢な木材もあったしそしてなによりこの城には普通ではあり得ないほどのアレがある。ここまでの大きさのものなんてよっぽどの上宿にでもいかなければお目にかかれないだろう。
これならば三、四人が一緒に入っても窮屈な感じがしない。
「でも、今回は魔王さまには声をかけないのです?」
そんな中でアムさんがちょこんと小首をかしげて、そういえばといったような感じでたずねてきた。いつもは魔王さん優先だからそれを不思議に思っているのだろう。
「まー今回は魔王さんのためというよりも自分のためなところが大きいですし。ほんとお風呂とか入らなさそうですもんね、あの方」
それでいて匂わないんですから、まったく便利な方だとは思うのですがと苦笑混じりに答える。それに正直、料理とは違って風呂はそんなに造り慣れているものでもないし、一度自分で入ってチェックしてみたいという所もあった。勧めるのはきちんと完成してからでも遅くはない。
「そう言うならまあいいです。おいらは外で火の番しますから、ニンゲンさんゆっくり入るといいですよ」
「いや、火の番は俺がするよ。おまえは魔王さまに風呂ができたことを伝えてくるといい」
一人で夕飯をまたせるのも悪いからなと、灰色になっていたビーしゃんがぶっきらぼうにそういうと、アムさんはそれじゃお願いしますねとちょこちょこ歩いていってしまった。
とりあえずニンゲンが先に入るということで話はついてしまったらしい。
「まったくみなさんときたら」
魔物らしさがないんだからとニンゲンは軽く息を吐いた。
「いいお湯です」
かぽーん。お風呂の効果音といったらこれだよね、という音がなった。
ちゃぷりと両手で透明な水をすくい上げると、じゃぱりと落としてみる。
湯の温度は少しぬるめだ。ニンゲンはあまり熱い湯には入らない。ゆったりとぬくぬく時間をかけて入るのが贅沢というものなのだった。
「だって、本当にときどきしかお風呂なんて入れないんですもん」
熱い湯に入り続けるのはしんどいし、だったらぬるい湯にゆっくりつかるほうが極楽だ。
ちなみに湯に関しては外でドラムで沸かして栓をはずすと熱湯がこぼれ出るような仕掛けにしてある。冷めてきてしまったら足す。そんな風に温度調節をしている。
外ではマキを炊いて湯を沸かす番が必要になるのだけれど、この城の死に物さん達にお願いすれば大喜びでやってくれるので大助かりだ。
「ドラムのまま……という選択肢もあったにはありましたが、木材ではちょっと不安ですからねぇ」
せっかく資材も多くあるのだからと、頑張った甲斐はあったものだと思う。
そもそもこの世界。風呂というもの自体は贅沢品だ。
湯を温める燃料の問題もさることながら水の確保もいちいち大変だったりする。
でもその点、魔王さんの城は豊富な水と燃料になる材木が山ほどあって、それも簡単に引いてこれるというのだから至れり尽くせりだった。
「はぁ……こんなに極楽でいいんでしょうかねぇ」
それとも、本当は自分は死んでしまっていて、ここはもうあちら側の世界なのではとすら思ってしまう。
あれからたった二ヶ月だ。最初こそごたごたはあったものの、徐々に環境は良くなってきている。部屋の掃除、料理とすすみ、いつのまにかお風呂まで作ってしまった。
食材やら材木やらが過不足なく供給できてしまう環境はそれこそなんでもできてしまうほどに潤沢だ。世界に死をまき散らす魔王の城がこんなに潤っているのだから、世界というのはどこか歪んでいるのだと思う。
そう。これが強奪ではなく、彼らの力によるものだという部分がだ。
滅ぼす力は確かにあるのだろう。それは嫌になるくらいに身にしみている。
魔王は破壊の象徴だ。滅びは北からやってきて、すべてを根こそぎ屠っていく。
一度だけ連れて行ってもらった旅行先の王国もいまではガレキの下なのだという。
親切にしてくれた人も。お嬢ちゃんはかわいいから、と美味しいあめ玉をくれたおじちゃんも。
もう、生きてはいない。
「まー、こんだけゆったりしたお風呂に入ってるならそんなこたぁどうでもよくなっちゃうわけですけどー」
はぅーと不謹慎なことを言ってのけると、ニンゲンはじゃぽりと身体をお湯の中にゆだねた。これほどにぬくい湯に包まれていれば、洗濯されたみたいに心も体もすっきりしてしまうのはしょうがない。
きっと風呂というものは、心の澱を蕩かすためのものなのだ。
でもそれは風呂だけじゃない。この城そのものがそんな空気に満たされている。
人を滅ぼす魔王といったところで、こっちがなにかをすると本当に困ったような顔をするし、仕事を終えればベッドにまるまって寝るだけの魔王なんて全然それらしくない。
もちろん外の世界では蹂躙やら殺戮やらが絶え間なく起きているんだろう。
けれどその情報がほとんど入ってこない城の中にいると、まるで世界の破滅なんて絵空事に思えてくる。
「ああいう仕打ちをした彼らに感謝、と言ったところですかね。でもどうなのでしょうねぇうちの町もそろそろ陥落してるんでしょうかね」
たった数ヶ月前のはずなのに遠い昔のように思い出す。
すさまじい量の人垣が家の前に集まっていた。入り口を取り囲むようにして彼らは勇者の家を覆っていた。
そう。旅立つあの日のこと。もう勇者の系譜としては、しぼりかすである自分しかいないことを誰しもがわかっていて。それでも彼らにはそんなことしかできなかった。
重い兜を両手でかかえて外に出ると周囲の視線がささった。
ひゅんと石が投げられ、それで。
さっさとイっちまえと罵倒がとんだ。
息が詰まる。
その石は目のわきをかすめて。
今はもうそのときの痕は残ってはいないけれど。
もうそれは、ここにくるまでの時間で治ってしまったけれど。
あのときの感覚は覚えている。
石の痛みは気にはならなかった。気にしている余裕なんてなかった。
あのときのことを思い出して、少しだけ熱い湯を浴槽に注ぎ込む。
父さまは自分も勇者の子孫に違いないのだと兄達の後を追った。
それから数ヶ月が経って。結局魔王の脅威はさらず父は戻らなかった。
皆は次第にどんよりと沈み、勇者の子孫の町は追いつめられていった。
追いつめられた人間はなにをするのか。そんなのは簡単だ。
恥知らず、妬ましい。失望した。あんなに期待してやったのに。
戦える戦士が居なくなった家は、それこそ周囲の厄介者という扱いに変わっていった。外に出ればそれはもう誰しもが舌打ちをし、時には侮蔑の言葉も投げられた。
お前達のせいでこの世界はおしまいだ。
勇者の子孫としての恩恵を受けていたのに、その義務を果たせないとは情けない。
望みの失せた家には失望の言葉ばかりが向けられた。
しかたない。魔王軍は強いのだから。
次善策が見つからなければ人は。ただ悪者探しをして気を紛らわすしかない。
「勇者の子孫で良いことがあったかといわれると疑問ですがね」
あるのは権利よりも義務ばかりだったような気がする。
自分は兄さま達のような優秀な騎士ではない。けれど兄さま達だってそれほど勇者の子孫だからといってなにか恵まれたことがあったわけでもなかったと思う。
敬意という名の重荷を乗せられただけで、期待を寄せられただけで。
でもそんな敬意は他の騎士達に向けられるものとさほど変わらない。
護衛の報酬に多少の色をつけてもらえるとか、野菜が多くできすぎたから分けてもらえるとか、それくらいのこと。
けれど米粒一つの恩恵が、周りの人間には敬意に変わる。
あれほど与えてやったのに、と狂気がつけば言ってしまうのが人間なのだ。
少しでもいいがかりをつけるだけのきっかけがあれば。
あんな環境だ。命をもぎとられるようなあの状態ではしかたないのだろう。
「それすら感じない僕は……もはやイキモノではないんでしょうかね」
自分は、生きたいと思う気持ちをどこかに取りこぼしてしまった。
石をなげられたあの日も。悔しいとは思っても、自分の命が捨てられることに別段なにも感じなかった。
魔王が現れたから、というわけでもない。
それはきっと勇者の系譜に生まれてしまったから。それがこんなへなちょこ子孫だったからの話なのだろう。
強くあれとしか言われない環境で、その価値観しか許されない環境で。いくら他のことを頑張ったって認めてはもらえないようなところで育った。
おまえは自由にしていい(いらない)と言われて、なにをしていいかわからなくて。少しでも誉めてもらいたくて常人を遙かに超えるような仕事を多くこなせるようになってしまった。
でも、いつしかそれは普通に埋もれて、日常の中で溶けてしまった。勇者の子孫に求められるのはやはり、強さだけだった。自分などいつ死のうがどうでもいいのだ。
「はは。僕もなんら魔王さんと変わらないじゃないですか」
だからついあんな魔王さんに声をかけてしまうのかもしれない。
日常を義務と怠惰で過ごすあの生活。
「でも、今は違いますよ」
この城へと向かわせられて、彼らにあって。自分にもできることがあるとわかった。喜んでもらえることができると知った。
アムさんはこちらがやることにいちいち感動してくれるし、モルくんだって自分の仕事をつなぐ役目をする自分に好意を寄せてくれている。
行動が義務から発せられることはきっと苦痛なのだろう。
でもそれが、喜びから発せられるなら。
とても働いていて嬉しい。生きていて嬉しいと思えるのだ。
あと何年ここにいられるかわからないけれど、みんなのためにあれもこれもとやりたくなってしまうのだ。
少ない余生を精一杯楽しめるように。
「魔王さんにもそういう思いを持てるようにというのは無理というものでしょうか」
ぷくぷくと唇を水面につけて息を吐いてみる。
まだ汚れていない綺麗な水でこんなことができるだなんてとても幸せだ。
「ひやっ」
そんなゆったりしたところで突然扉ががらりと開いた。
湯気のはざまから人影が浮かび上がっているのが見えて思わずニンゲンは後ろを向いてしまう。その影の形を見れば誰が来たのかすぐにわかる。
「な、ななな、なんで魔王さんが入ってくるんですか」
「あ……いや、あいつらが風呂がどうのと話をしていたからな。様子でも見てみようかと」
「……よ、様子ってそんなの……のぞきじゃないですかぁ」
あう、と顔を赤くしながら首だけ振り返る。
ここまで堂々としたのぞきが未だかつてあっただろうか。
一緒に入るのならまだわかるものの、魔王さんはあからさまに服のままで、本当に様子を見に来ただけのようなのだ。まるっきり悪びれもせず。さも散歩にきましたよ、という風に。
それなら入浴中じゃなくてもっと別の時にしてほしい。
「ほぅ、風呂とは湯の中につかることを言うのだな。どれそれなら俺も」
「ま、まってください。服を着たままお風呂に入らないでくださいよ」
非常識にもほどがある。魔王さんはそれこそブーツすら脱がないままに浴槽の中に侵入してこようとしたのだ。
「なら、服を脱げばいいのか」
よいせと、ほとんど時間を空けずに魔王は衣類を脱ぎはなった。
脱ぐ、というよりは消失させてしまったといった方がいいだろうか。
「うぁ……」
いきなり飛び込んできた裸体に、ニンゲンはなんともいえない戸惑いの声を上げた。
均整のとれた身体なのだと思う。理想的といってしまうとさすがにそれは筋肉フェチになってしまうだろうか。戦士としての理想的な姿といえばいいのかもしれない。
ほどよく締まった身体。
それが浴槽の湯をかきわけると、湯の栓をあけていないのに少しだけ水温が上がったような気がした。
「ふむ。まぁ悪くはない」
ふぅと胸元まで身体を湯につけながら魔王は息を漏らす。ほどよく力が抜けてリラックスできているらしい。
「しかし湯の調達はめんどうそうだな。外で沸かしているのか?」
「そうです。今はビーしゃんに番をしてもらってますよ」
くいと、軽く栓を開いて、外からの熱湯をそそぎ込んでみせる。水温がさらに少しあがって湯気が舞った。
「熱を一定に保つくらい我が力を使えば造作もないが……まぁいいか。あいつらも楽しそうだからな」
ふふっ。不意に優しい魔王さんの微笑が見えた。
いつもは表情をあまり動かさないから、その笑顔はあまりにも珍しい。
「魔王さんはその……彼らに役割を与えてるんですよね」
「あ? まあな。あいつら拾ってみたのはいいものの、兵士って柄じゃないし、かといって城にただ居させるのもなんか違うだろう」
「そうですね。あの子たちなんだかんだで働くの好きですもんね」
「ああ、ただ保護するって形じゃ、あいつらが存在している意味がなくなっちまうからな」
アムさんたちを見ていると本当にそう思う。
もちろん名目上の役目でしかなかったとしても、役割があるということ自体が生きている意味になってくれるのだ。それは彼らがもう生き物ではないからなおさらだろう。
生存することを目的とした動物の活動は、もはや彼らにとっては存在しない。そうなれば、より生きる目的というものは必要となってしまう。
「そういう魔王さん自体は、存在してる意味……持とうとしてないんですね」
「んあ? 俺さまは立派に役目を果たしているだろう? システムとして立派に機能する。それだけでいい」
やることをやって、酒を呑んでそして終わりを待つのさと、彼はどこから取り出したかわからない酒をあおった。
「ああっ、また呑んでるんですね……」
「お前も飲むか?」
風呂と酒は相性が良さそうだと魔王さんが勧めてくる。
いつもならば断るのに、風呂だからということもあるのだろうか。おそるおそるこくりと肯いてしまった。
今までろくにお酒なんて呑んだことはない。
でも以前、酒というものは気恥ずかしさも取ってくれるというのを聞いたことがある。それを呑んでしまえば、一緒にお風呂に入って感じているもやもやしたものも取れるだろうか。
「ま、魔王さんはどうしてそんなにお酒ばっかり呑んでいるのです?」
なるべくその身体を見ないようにしながら淡い琥珀色をした酒を受け取った。
コップに鼻を近づけるだけでもわりとアルコールの匂いが感じられる。
度数ばかりが高い酒だ。
「どうせやりたいこともないしな」
酒はいいぞと魔王さんはくぴりと自分のグラスを傾ける。
どうしようもないぐーたら魔王だ。まったく味わっている風でもないその呑み方はお酒というものを冒涜していると言っても良かった。
「うぅ。やっぱり魔王さんは残念な感じです」
「無理そうなら呑まないほうがいいぞ。これは大人の呑み物だからな」
「もう僕だって大人なんです。せっかくもらったのだから呑みます」
両の手のひらでコップを抱え込むと、少しだけそれを口に含む。
「ふわ……」
一口だけで、ふわりと身体がかしずいた。
どうしようもなく強い酒だ。けれど、その味わいときたらどうだろう。
アルコール特有の苦重い舌触りは一切なく、澄んだ甘露のようにねっとりとした味わいは極上といえるような代物だった。
こんなものを魔王さんはぐびぐびと単なるアルコールとして消費しているというのだろうか。
「おいしい……けど」
もう一口呑んでしまいたい。でもそれをしてしまってはいけないような気もする。
少し悩んで、ニンゲンはくぴりともう一口だけその液体を口に含んだ。
やはり口や舌は熱くなる。でもその味わいはとても心地よくて、そのまま呑み下してしまうのをためらってしまうくらいだ。
「ほぅ。おまえはこれの味がわかるのだな」
意外だと眼をまるめる魔王さんの姿をみせられると、本当に彼がこれをただがぶ呑みしていただけなのがよくわかる。
でも、それ以上に。
体がほわほわとしてくるのがわかった。
なにがどうなっているのかよくわからない。
風呂の湯気は相変わらずゆらりと揺れているけれど、それがぐるぐるまわっているようにも見える。
ふにゅあり。
「あっと。たったそんだけでかよ」
膝に力がはいらなくなってぐらりと体が揺れた。
すんでのところで魔王がニンゲンの身体を抱きかかえる。なんとか浴槽の中に沈まないで済んだらしい。
「やはりニンゲンは軟弱だな」
魔王は一人あきれかえりながら、宙に浮いているグラスを無視して、ボトルに口をつけてくぴくぴと酒をあおりはじめる。
どれくらいそのままだっただろうか。
彼がおぼれないようにそのまま肩を貸したままにする。ニンゲンの細い体がもたれかかっているけれど、魔王にすればこの程度の重さはどうということもない。
こぽこぽと湯を足してみたりしながら酒を呑む。湯の温度の変化にあまり敏感にはなれないものの、肩口にかかる吐息の色が変わるのは感じられた。
「ねぇ……魔王さま? ちゅーして?」
寝ていたはずのニンゲンは、もたれかかる力を強くして首に手を回す。
「これが酔っ払いというものか」
ふむ、と魔王は動じること無く、以前翁から聞いた言葉を思い出していた。
酒に負けた人間がなるという脆弱さの現れのことだ。ふらふらして顔が赤くなってわけがわからない状態になるという。
まったく酒なんぞに負けて役目を果たせないだなんて人間は本当に弱い生き物だ。
「だからぁ~ちゅーしよーよ、ねっ?」
「ちゅーってなんだ?」
「そんなことも知らないのね。魔王さまったら」
かわいいっ、とニンゲンは甘い吐息を漏らす。その目の輝きは紅く怪しく輝いている。
文字通り人が変わってしまったかのようだった。
「ちゅーっていうのは親愛の証なの。唇同士をね、こうやって」
ちゅっ。二つの唇が軽くふれあう。
「今度は魔王さまからして?」
魔王はぎこちなく顔を突き出すと、ニンゲンの唇を奪う。ほとんど流れのようなもので、言われるままの接吻は器用さの欠片もない。
「あはっ、なんだかこんなことしてるとどんどん変な気持ちになっちゃうね」
魔王さまはどう? 人二人分くらいの間を開けて、その人間の潤んだ紅い瞳が魔王を見据えていた。軽く上目遣いになっているのは狙っての角度なのだろう。
聞かれて魔王は自分に現れている変化に困惑しながら口を開く。
「不思議な……感じがする」
「もっと感じてよ」
せっかく二人でお風呂に入っているんですもの。
その少女は魔王の胸板に頬を埋めると、その強靱な肌を優しくなでる。
まるで宝物をなでるかのように愛おしく。優しく。
そう、それはもうニンゲンの人格ではない。少女としかいえないものの口調だった。
「気持ちのいいものだな」
それは唇の感触に向けられたものか、暖かな風呂に向けられたものなのか。
「でも少し湯が冷めてきたようだぞ」
くぃっと栓をあけるともくもくと湯気をまとった湯がこぽこぽと浴槽に注がれていく。
風呂の温度が一気にあがった。
「まったく魔王さまったら、うぶなんだから」
避けるようにして体を引く魔王にくすくすと笑いを浮かべながら少女は両手を頭の上に伸ばすと、んーと、まったくひらべったい胸をはった。
「時間切れ……かな。まぁ予定外だししゃーないか」
んじゃ、またね、とその少女はもう一度ほっぺたにちゅーをするとそのままもたれかかるように目を閉じた。