6.魔王さんと居候
R18までは行ってないとは思いますが、そういう場面がありますのでご了承を。
兄が逝った日からも、城での生活はなんら変わることはなかった。
朝ご飯の支度をし、掃除をし、夕食の準備をする。
風呂に入る気にはならなかったのでそちらは手つかずだ。魔王さんが入りたければ誰かに薪番をまかせて入るだろう。
思いのほか、一晩という時間は気持ちの整理をするには十分で、思ったよりはまともに動くことができたとニンゲンは思っていた。
ときおり昨日のあの瞬間が浮かんでくるけれど、それは仕方ない。
悲しむことなんてない。もうここは終わる世界。
兄さまがいなくなってしまったのは寂しいことだけれど、けして悲しくはない。
少しだけ先に逝ってしまっただけのこと。
そう思いながらも朝の食卓につくと、テーブルを囲む面々の様子がどこかおかしかった。
ミハエルがいたときのような重たい感じともすこし違う、どこか戸惑ったような様子なのだ。
「う。うーん」
「あ、姐さん?」
小さなお手で器用にスプーンを使いこなすアムさんが、手を止めてうなっている。
それはモルくんも一緒で、戸惑ったような声を上げている。
「あ。うう。いや。新作にしてはちょっと個性的かなと思いやしてね」
ん? と首をかしげながらぱくりと口に運んでそのまま固まってしまった。
「うあっ。砂糖とお塩間違えてます。すぐに作り直してきますね」
「いや、いい」
がたりと立ち上がったところで、魔王さんから制止の声が上がる。
彼は気にせず、シチューをすくっては口に運び続けていた。
そんな様子をみて、ニンゲンも席に戻る。
甘いシチューというのもどうなのか。いまいちバランスに欠けるけれど、魔王さんがそれでいいならこちらとしては何も言うことはない。
自分の分として食べるというなら、失敗作でもなんでもかまわないのだ。
幸い、食べられないというようなレベルではない。アムさんはうぁんと泣きそうに食べているけれど、今日ばかりは勘弁してもらおう。
「明日は失敗しないようにしますから」
なでなでとアムさんの頭を撫でてやると、はうぅんとけむくじゃらの生き物は頭をたれた。
様子がおかしい。
そう思ったのは、先日の件があってすぐのことだった。
さすがにいろいろな事に興味がない魔王ではあるのだが、目の前であんなに大泣きされてしまったらおかしいことには気づける。
あそこで起きたことはそんなたいそうなことじゃない。
本人も一晩休めば大丈夫といっていた。だからそのまま放置していたのだけれど、一晩たってもあのニンゲンの様子は明らかにおかしかった。
気がつけばため息をついているし、ぽーっと空を眺めていたりする時間が増えた。
いつもはきゅこきゅこと窓を拭いていたりして、そのできばえに笑顔をこぼすくらいなのに、それもない。
話しかければこちらを向いてくれる。話してくれる。笑顔にもなる。
でも、離れてしまえば急に雰囲気がかわってしまう。
「最近のあいつの様子はどうなんだ?」
なんか変わったことはないか、と聞くとアムライガはもふもふの手でケトルを持ちあげてお湯をポットに移していた。
そこからお湯を落としていつでもお茶を飲めるようにしてあるのだ。
ニンゲンの提案で低いところにもマキをつかえるコンロをつくったおかげだった。
これならアムライガ一人でもお湯を沸かしてお茶をのめるという寸法らしい。
「どうしておいらなんです?」
ことりと茶飲みを二つテーブルにおいて、ちょこんと椅子に腰をかけると、アムはもう日常の動作のようにほへーと茶をすすりはじめてしまう。
「それはお前がその……一番あいつと一緒にいるだろうが」
なるほどと、アムライガは達観したようすで鼻をひくひくとさせる。たゆたう湯気すら味わっているらしい。
魔王を前にしてこのへにゃっとした姿勢は賞賛に値するだろう。
「そうですねぇ……」
そしてゆっくり言葉を作る。
「亡くすこと、が実感できたってところじゃないんですかね」
「亡くすこと?」
いまいちよくわからない魔王は、そのまま問い返す。
「ほら、ここって戦いと無縁の場所でしょう? 魔王さまは外の世界の情報とかはいってるかもしれないけど、おいらたちにしてみれば時々攻めてくる人間との戦いくらいしかないわけで、おまけにニンゲンさんが来てから戦いらしい戦いってなかったじゃないですか。そうだとちょっと思っちゃうんですよ。外の世界は平和なんじゃないかって」
まーおいらもう死んじゃってるんで、そこまでではないですが、とおかわりをこぽこぽそそぐ。
「ニンゲンさんもたぶんそーだったと思うんです。おにーさんたちミハエルさんにやられたみたいですけど、実際目の前で朽ちるのを見てるわけじゃないですからね」
見えなければ真実になりにくい。人は自分が見たものしか真実味を味わえないものだ。
「それが突然、目の前であんなことになった、か」
「それで実感できちゃったんじゃないですかね。死んじゃうってこと。あのニンゲンさん、自分のことは割とどーでもいい感じですけど他が死んじゃうの嫌がるところありますし」
そもそも戦闘能力がまるでないあんな人がこの城に来てしまうのだから、保身なんて考えはまるっきりないに違いない。けれど他のモノを気遣う優しさだけはある。あの人ならば死んだものを悼むこともあるのだろう。
むぅ、と魔王はうめくと差し出された茶に手をつける。
普段は酒ばかりなのだが、出されたものはとりあえず手をつけるようにはしているのだ。
裏庭で栽培している茶畑からとったであろう茶はいつもと違う色をしていた。緑色ではなく、琥珀色とでも言えば良いのだろうか。
「ああ、それですか。ニンゲンさんが地下の書庫で発見したお茶の新しい飲み方だそうですよ。ハッコーとかいうのをさせて風味を変えるとかで」
緑のと違ってこっちもこっちで大変すばらしいと新しいものを煎れるたびにアムは鼻をひくひくさせる。確かに香りは高く幾分幸せになれる匂いがする。
「なぁアム。今は楽しいか?」
「そうですねぇ。生きてるときには感じられなかったような楽しさはありますかね」
昔は食べる取る食べられるというような発想しかなかったですしと続ける。
「でもおいらは別に、生きていたいとは思わないですよ。これは幸運。貴方が与えてくれた生活」
だから魔王さまが朽ちるなら一緒に朽ちるし、世界が終わるなら一緒に終わるのです、とアライグマは達観した様子でつげた。
「そか。今が楽しいのはなによりだな。茶までいれられるアライグマは世界を探してもおまえなくらいなものだろう」
「あはは。ほめられちゃいましたか」
おかわりどうです? と勧められると魔王はいや、と席をたった。
「どのみちもう少しで終わる。どうなるにしても、な」
それまでせいぜい楽しく過ごして欲しいと思う。
ニンゲンがもたらした楽しみ。それを一番受け入れたのはあのアライグマだろう。
役割はもっていても部屋の中でころころしたり、草原でころころしたり、森の中でころころしてるだけだった頃とは生活の充実度が違う。
これをもたらしたのがあのニンゲンなのだ。
生きることには楽しみがあると。うるさいくらいに伝えてきたあいつなのだ。
でも。
「せめてあいつと少しでも話をしておくか」
本能は壊せとささやきかける。システムとしての自分は破壊をなすのだと。そればかりが頭を巡る。
王だなどといっても結局は自分の意志すら持てはしない。
壊すことは確定事項だ。それを曲げることはできない。
けれどなぜだろう。このままでは満足に世界の終わりを迎えられない気がする。
終わるまでの時間、少しでも楽しもうといったのはあいつだ。
それができていないのは、胸のあたりがむずむずする。
「ちょっといいか」
こそりと扉をあけると、わずかに開いた隙間から部屋の様子を見る。
開け放たれた窓からは月明かりが差し込んでいた。
それにぽわりと浮かぶ白い姿は夢うつつのようにとろんとしていた。寝間着がいるといわれて持ってこさせた白のネグリジェ姿は月明かりを反射して淡く光っているようにもみえる。
「ああ、魔王さん。珍しいですね」
物音に気づいたのか、ニンゲンは首だけをこちらに向ける。久しぶりに来てみたがニンゲンの部屋は見事に整理がされていて、城のどこよりも愛らしい。
古くなったベッドを新しくしていたりもしたから、魔王のものよりもスプリングもきいていて皮も新しいし、夜風に舞う淡いカーテンは明るい色をしている。ベッドしかない魔王の部屋とは雲泥の差だ。
「少し、話をしようと思ってな」
いいか? と問うとこくりとうなずきがくる。
扉を閉めてから、ずしんと魔王は地に腰を下ろした。
ベッドにという発想はない。正面から相対するならこちらの方がいいだろう。ちょうど良いところに椅子もないしベストな選択のはずだ。
「まったく。魔王さんはそういう座り方大好きですよね」
くすりと笑みが浮かんだ。少し堅めの苦笑。
でも、それからニンゲンはただ魔王を見つめたまま。
なにも語りかけてはくれない。
「いや、あの……だな。その」
「今日は風が気持ちいいですね」
ぺたりとベッドの上に座りながら、外の景色を眺め見るニンゲンの髪が優しく舞った。
確かにもう夏場の暑さもほどよく落ち着いて、涼やかな風がはいってきている。魔王の加護がなくても快適な室温だ。
「あの……だな。最近どうだ?」
「そうですねぇ。新しい料理もできてますし、気候も落ち着いてきましたし、きっとそろそろ南の森も鮮やかになりますよ」
きっと紅葉がきて、燃えるように一面赤く染まるとニンゲンがはにかむ。けれどその視線はそれを映しているようには見えなかった。
「そ、そうか。なら、そうだな。秋にも行くか。ぴく……肉」
「変な魔王さんですね」
くすり。ニンゲンは珍しく魔王があたふたしているのを見て不思議に思った。
世界を壊すシステムがなぜ自分なんかを心配するのだろう。世界のなににも興味のないこのヒトがどうしてそんな顔をするのだろう。
「とりあえず、床に座るのは止めましょうか」
ぽふぽふとベッドを叩いて魔王さんを座らせる。
向かい合うのもいいのだが、やはり隣にいて欲しい。
近くにあると体温が感じられる。兄に感じられなかったものだ。兄はもうすでに終わっていた。城にきた時点で終わっていて。でも。それを認めたくなくて。
けれど確かに兄はああいう形で死んでしまった。
いいやすでに死んでいた。だからあれは。眠ったとでも解釈をすればいいのだ。
でも。
隣にきた魔王に寄りかかるように、その胸元にぽふりと頭をのせる。頑強な胸元はびくともせずにその重さを受け止めてくれた。
「どうすればいいんでしょう?」
終わりの時が近づいている。それは確定している未来。
「わかっていたはずなのに、全然わかってなかった。頭でわかってるのに胸がちりちりするんです」
変ですよね、というとぽふりと魔王の暖かい手が頭にあてられる。それにされるがままニンゲンは魔王に身を埋めた。口からこぼれる嗚咽が少しでも小さくなるように。こぼれる涙が少しでも世界に見えないように。
終わってしまうことを嘆くことができるようになってしまった。
それはきっと幸いなのだろう。惜しめるほどの今があるということ。喪失を悲しめるほど、得た物が多くあって。
心地良いと思える物がいっぱいできてしまった。
魔王はただその嗚咽を隠すように、ニンゲンの小さな体を包んでいた。
「ああ、東の方に人間の反応があるからそっちにいけばいいんじゃね?」
くぴりと酒をのみながら、魔王は執務室で適当に指示を送った。
いまやミハエルを欠いた進駐軍だが、別にアレがいなかろうが進行に何一つ問題など無い。魔王はこの世界のすべてを見通す力を備えている。どこに兵士を起き、どうすれば勝てるか。
そういうことはわかっていても、魔王の顔色はどうにもすぐれなかった。
「どうすればいいのでしょう、か」
風呂から上がってからのことだ。
ニンゲンがなぜかこちらに手を伸ばしていて、そして砂が散っていた。
部下が砂になる姿を見るのは初めてではない。
魔王が動き始めた頃、世界の破滅を願わないものは砂となって消えた。
自分の身を呪い、そしてそれにあらがい、そして魔王に敵対するという選択肢をとって消えていった。
魔王が強要したわけではない。この魔王がそんなことをするはずがない。
逆らった者はただ塵に。灰に。戻っていっただけのことだ。
それをただ、魔王は見ていた。今回もまた。それと同じこと。黄泉がえったものの意志まで魔王は奪わない。
世界の終わりにふさわしければ残り、そうでなければ終わるだけのこと。
でもそれがニンゲンには負担になってしまっていたことを知った。
ニンゲンはくちた灰を抱えながら泣いていた。
いくら脅しても、その命を奪おうとされても涙一つみせなかったニンゲンが初めてどうしようもない悲しみをあらわにしたのだ。
あの顔ばかりがちらついた。ニンゲンに興味なんてないはずなのに。
「ほほ。そんなに悩むとは、魔王さまらしくないですな」
ほうほう、と久しぶりに聞くその声はあざけるように鳴いていた。梟の翁だ。こいつはいつだってこういうヒトを小馬鹿にしたようにしか受け取れない鳴き声をする。
「別に。それよりお前が書庫からでてくるなんて珍しいこともあるものだな」
ちらと、そちらを見ただけで、魔王はいつもよりも度数の高い酒を右手に出現させる。
「いいえ。悩んでいますぞ。世界を壊すための貴方がいまでは別のことを考えていらっしゃる」
すいと顔をのぞき込まれて魔王は苦々しそうに瞳を歪める。
いつだってこの翁という存在は自分のすべてを見通している。まるで魔王の業務を監視するためだけにいる監査役のように。
「そんなに言うなら、一つ問うぞ」
その鋭い瞳はまるで自らが魔王であるかのように凜と輝いている。
その瞳を受け流せる者なんてこの城には誰一人いない。魔王であろうともそれは例外ではない。
魔王は背もたれに逃れながら、翁におずおずと問いかけた。
「世界の滅亡。やめることはできんのか?」
聞くものが聞けば、その言葉に不信を抱いただろう。
今までの戦いのすべてを否定せざるを得ないこと、それこそ大将である魔王自らがそれを言っているのだから。
「それができないのはあなた様が一番わかっているはずですが」
なにを言っているんだか、と翁はふぁさりと翼をゆらせた。
心底他人を馬鹿にすることになれているのが翁という生き物だ。
「そんなに心悩ませるなら、いっそ壊してしまえばいいのです。殺害ですな」
さ・つ・が・い。一言ずつ区切るようにしていわれた言葉に頭が痛んだ。
翁には魔王の心情などわかりきっているのだろう。気がついたときにすでに存在した部下。部下と呼ぶのも適切かはわからないその梟はいつだって超然的に目の前にいた。
「どうせ世界の終わりにはあやつだって死ぬのです。早いか遅いか。それくらいの違いしかない。魔王様の心を揺らす存在ならばなおのことです。さっさとその首、かっきってまいりましょう」
「まっ」
がたりと椅子が鳴った。
その勢いで普段酒を置いている小さな机から一つの本がこぼれおちる。いつの間に置かれていたのか、魔王が見知らぬその本は、黒い装丁に金糸で魔王というタイトルが刻まれていた。
「これは?」
ふむっ、と珍しく魔王がその本に興味を示す。なにものにも縛られない、興味という概念を持たないシステムの魔王がだ。
「人間が読もうとして読めなかった本ですじゃ」
そろそろ頃合いかと思いましてなと、翁は魔王の前に向き合う。
「思い出して欲しいものですな。貴方が魔王であることを。そしてなんのために存在するのかを」
ほほ。
ふぁさりと軽い羽音をのこして翁は執務室から姿を消した。
一方人間もその頃、地下の書庫で黒い装丁の本の前に座していた。
以前見つけたときに読もうと思って読めなかった本。
新しい調理のレシピでもと思った矢先に再び見つけたこれをニンゲンはスルーする事ができなかった。
この世界はもうおしまい。みんな死んで木っ端みじん。その生きざまをニンゲンも受け入れていたはずだった。実際、知っている町が飲まれても、ミハエルが砂になってもなにも感じはしなかった。仕方ないとあきらめられた。
兄の時だってそう。気にしないとは思っていた。でもたしかに動揺はあるのだろう。
世界の終わり。そう言われてしまえば納得はできても、今の生活の終わりは寂しい。
魔王。世界を壊すもの。
終わりというものを間近で見てしまったから。
そして、終わって欲しくない今ができてしまったから。
世界なんてどうでもいいと思っていたのに、ここはこんなに愛おしい。
兄が消えたとき、思ってしまった。今が消えて欲しくないと。
自分が消えることは怖くない。恐ろしくなんてない。
でも、今の生活がなくなるのは、この関係がなくなるのは寂しい。
世界と今の生活は別だと思っていた。勇者の生活が自分とは離れているように。
でも、もう目を背けられない。世界の終わりは目の前の魔王さんにある。
方法があるなら、なんとかこのまま。
魔王さんとみんなと一緒に暮らせないかと思ってしまうのだ。
ここで生活をしていると時々錯覚してしまう。
すでに死んでしまっているみなさんとのまったりした生活は、あまりにも当たり前な日常で。ともすれば人間同士の諍いのある生活よりも円滑で。
人間を殺すことはあくまでも、彼の本能。決められた定めのようなもの。けして好き好んで殺しているわけではなく、それはあたりまえで、事務的にこなされるものだ。
人間が人間を殺す理由なんていうのとはまるで違う。
怨恨も搾取もない。
この城は自給自足ができてしまっているし、あえて人間から奪うものなんてないのだ。奪うとしたらそう。命だけ。
勇者が作れないのは唯一、命と未来。
魔王が壊せないものは、未来の命。
そのためにはあの存在を理解しなければならない。
魔王さんとしての人柄はある程度わかっている。ずぼらでぐーたらでお酒におぼれていて。夜は簡素な毛布にくるまって横になる哀れな感じなんて、一度見たら忘れられない。
いろいろなことに興味がなくて、適当で。でも自分が誘うとしぶしぶ乗ってくれる優しいひと。
でも、魔王の存在というものに関しては、さっぱりといってわからない。力を世界に送ってるという程度しかわからない。
どうやって生まれて、どうやって今のようになったのか。その存在の理由がわかれば、あるいは対処のしようもあるかもしれない。
ぱらぱらと進められる手はよどむことなく進んでいく。
読み物になれているニンゲンはまったくつまることなく魔王というものがどういうものであるのかを読み終えた。
「魔王さんのことはわかりましたが……」
ぱたりと本を読み終えて、ニンゲンは脱力しながら天を仰ぐ。
「でも、じゃあ、どうしろというのです」
そのつぶやきは静かな図書館の中で、呆然と響いていた。
こぽこぽとポットにお湯を注ぐとふわりと周りにさわやかな香りが広がった。
晩餐もそろそろ終盤にさしかかっていて、そろそろ食後のお茶を楽しむ時間だ。
けれど、そんなところで、不意にアムさんから声があがった。
「よし。それじゃおいらは、そろそろ失礼しますね」
ニンゲンさん。
アムさんがもふもふの体をちょこんと膝の上にのっけてきゅっと抱きついてくる。
体温も鼓動も伝わってこなくても、その毛並みはふわふわで、気遣いが感じられた。
今日の夕飯は失敗しなかったけれど、アムさんも兄の一件を心配してくれてるのだろう。
「それは、失礼の意味が違うような気がする」
やれやれと、モルくんが首をふった。
「いえ。最後にちょっとだけ抱きついておきたかっただけですよ」
にこりとアムさんがほほえんで、ぺろぺろとほっぺたをなめてくる。
終わりが近づいている今、少しでもふれあいを持っていたいと思ってくれているのだろうか。
「あはは。くすぐったいですよ。アムさんったら」
「まったく。アムのやつ……うらやましいことを」
モルくんは食器を器用に持ち上げながら、とことこと台所に運んでくれる。
いつもはニンゲンが片付けているのに珍しい。
「いや、姐さんが元気なさそうだからな。おれっちも気にしているのさ」
食器洗いはまかせますがね、といいながら、モルくんは夜の農園を見てくると、飛んでいってしまった。
「それじゃ、おいらもそろそろいくとしますか」
やっぱりアムさんもかちゃりと自分の食器と、もう空になっている食器を台所へと運んでくれる。
残ったのは紅茶のカップだけ。
「ニンゲンさん。いつも美味しいご飯ありがとうございます。おいら、ニンゲンさんと一緒にいられて楽しかったですよ」
ちょこちょこと食器を洗い始めるアムさんの様子はいつもとどこか違っていた。
「まったくおかしな二人ですね。いったいどうしたというんでしょう」
「みんなお前を気にしてるということだ」
酒ではなくカップに注がれた紅茶を飲みながら、魔王さんはちらりとニンゲンを見据えた。
少し肩を落としている姿は、いつものニンゲンの姿とは違うようだった。
「魔王さんも……ですか?」
少しだけ上目遣いの視線を向けられると、魔王はいたたまれない気持ちになる。
それは。その笑顔の目的は。
「ああ。確かに気になるな。お前がどうしたいのか」
「僕はただ、ずっとこうしていたい……それだけです」
ご飯を食べて掃除をして、お布団を干して。
ときどきお風呂に入って、森をお散歩して。
魔王さんと、この城のみんなと。ずっと一緒にいたいだけ。
「お前はそれがどれだけ無茶なことなのかわかっているのか?」
「……わかって、います。わかってしまったんです」
魔王さんの存在意義もなにもかも。
潤んだ碧の瞳が魔王に向けられる。
どうにもならないとわかっていた。世界の終わりはどうしようもないと思っていた。
けれど、方法があるのならと思ってしまった。そう思うようになってしまった。
砂になって消える。あの様。
大切な人との直接的な別れは、諦めきれないなにかを感じさせる。
そして。
もう、ここで暮らしているみんなは大切なものになってしまったのだ。
「お前はその姿で俺をたぶらかした」
「それは……ちがいますっ! 僕はそんなつもりじゃ!」
そもそもこういう格好をさせたのは魔王さん本人だ。
「とにかく今日はもうここまでだ。話をしたところでどうにもならないからな」
勇者と魔王は相容れない。共存することなどもともと不可能なのだ。
魔王は酒のボトルを出現させると、くぃとそのまま飲みながら寝室のほうへと向かっていった。
まだ世界の終わりには時間がある。まだ生き残っている人間は居て、それを倒し尽くすまではこのままで。
けれど、ごろんと横になった魔王の部屋の扉が開いた。
かちゃりと。薄闇の中に紅い輝きが二つ。
「あらあら、魔王さまったら。まだ夜は長いのにもう寝てしまうだなんて」
「無粋な……」
白い小さな手のひらが彼の頬を撫でた。
それはもうすでに知っている感触。けれどいつものニンゲンのそれとは明らかに別物だ。
「魔王さまだって読んだんでしょ? その力は神の膨らみすぎた力の余剰なんだって。あふれ、暴れる力を効率よく保持するために形が与えられてるだけだって」
可哀想な魔王さま。
あむりと耳たぶを噛むと、そのまま耳元でささやき続ける。
「あなたは、ただの貯蔵庫で神の莫大な力の掃き溜めにすぎないんだって」
別にいいじゃない。もともと世界を破壊するためのシステムだと思ってたのが掃き溜めだっただけ。
神は確かに傍若無人で、余波だけで世界を壊すけれど。
「そんなことより」
ね。気持ちいいことしようよ。ふっと軽く熱い息を吹き込みながら首筋を撫でる。
忘れさせてあげる。
赤にとっては関係ない。神の計画も勇者と魔王のサーガも関係ない。ほしいのは温度。肌の温もりとそれ以上の熱さだ。ただその瞬間のためにここに存在する。
伸ばされた手は頬から首へ、そして胸へと移動してそこで、ぴくりと止められた。
「なんだ。やらないのか? お前は勇者なのだろう?」
魔王は止められた手を怪訝に思いながら、勇者の変化を見つめていた。
「だめです……そもそもなんで万能の神が、余剰なんてもてあますんですか。あんなのうそっぱちです」
「あらあら、がんばるじゃない勇者。たかがニンゲンのくせにあたしの邪魔をするだなんて」
目の前には、紅と碧の瞳があった。ちらちらと紅を侵食する碧の瞳は苦しそうに歪められている。
「おまえのせいですか。どうしてこんなこと」
「なにいってるの。あたしの使命はあんたも知ってるとおり魔王の慰撫。神の余剰を鎮めること。それにはちょっとばかり。特別な方法があるってわけ」
同じ口から発せられるその言葉は、声音も印象もまるで違う。
魔王はただそれを見つめていた。引きはがすこともなく、その気になればはじき飛ばすことさえできるはずなのに、したことと言えば窓を開けたことくらいだ。月明かりでその瞳の色がよく見えるように。
「考えたことはある? 天使といえば両性具有だけれども、神ってだいたいは雄個体。対して女神っていうじゃない? じゃあその神の余剰はどうやって解き放てばいいのか。ああ、ここは神の概念が薄いところだったっけ。gkbrだ。神を信奉できない民族は野蛮だと誰かにいわれたっけね」
まあ、あんなじいさまをカミと信奉はしたくないけどといやそうな顔をする。
けれどその右手は魔王の胸元をさわり、その下へと進んでいく。厚い胸板。割れた腹筋。そして。
「それ以上はだめです」
まだ自由になる左手でその手を押さえる。感覚こそその熱も感触もあるくせにまったく自由に動きはしない。
「愛したくて愛したくてたまらない。だからこんなことになってるのだもの。卑猥というなら言えばいいわ。ニンゲンなんてどこまで行ってもそういうもんじゃない。つがいを作って子を孕んでいく。私だってそういうのにあこがれるの。ぐちゅぐちゅぬるぬるしたいの」
だってそれはサガだもの。
どこにでも転がっている。
あのカミが望まぬほどに普通なこと。
けれど。
「でもそれをしたら魔王さんはどうなるのです」
「余剰をとき放てば消えるに決まってるでしょ? そうして勇者が魔王に勝って世界には平和が訪れるの。みんなそれを望んでいるの」
崩壊を望むバカがどこにいる。
魔王を倒さなければ続かない世界なら、殺さなければならない。ヒトは続かなければならない。ほろびは許されない。人はどこまでいってもずっと生きていたいのだ。大切な者と別れたくない。守るためならなんでもする。
今ならわかる。町の人たちの形相の理由が。町を、生活を守りたくて仕方なくて。勇者の末裔の家を頼りにして。
「でも、あたしが望んでるのはそんなことじゃあないわけよ」
世界なんてどうなったってかまわない。
それは勇者も赤も同じだ。
けれど。
「ただ欲しいの。この人が。ただこの体に抱かれたいの。あなただって望んでいたじゃない。このヒトにすべてをさらすことを」
「ちがいますっ。僕はべつにそんなこと」
「ちがわないわよ」
ほぅら。
赤は自由になる手で魔王の手を引いた。それはメイド服のエプロン部分をすり抜けて胸元へとすすんでいく。
「うれしいと思ってる癖に」
ふれられたところが、ぴくりとうずいた。
指先が胸元の先端にふれるだけで、そこが熱くうずいていく。
「好きな人にさわられたら。そうなって当たり前。男の子でもニンゲンだものね。あら。どちらかというと女の子よりなのかしら。もともと同じモノから出来てる卑猥な生き物に違いは無いわ」
ほら、次はどこを触って欲しいの? ほら、言ってご覧なさいよと言われて、意識を奪われそうになる。
僕が魔王さんを……求めてる?
「あなたも無理しないで一緒に魔王様を慰撫しようよ。絶対気持ちいいよ。あんっ、もうこんなに体がちりちりする」
ひくりと小さなからだが震えた。その震えにあわせるように魔王の体にも力がこもる。
「あたしこそが勇者。あなたをゆっくり眠らせてあげられるもの」
きゅぅと体を抱きしめられて、顔を胸に埋められて、魔王の太い腕が自然と腰のあたりに回される。
「ねぇあなた。最初から生きるのに飽いているのでしょう? それならもう、あたしの手にかかってしまいましょうよ。勇者は魔王を慰撫する巫女。余剰なあなたを鎮めてあげる」
さぁ、逝ってしまおう?
そうして伸ばされた手は魔王の胸元を優しく撫でる。
「身体は正直……だなんて普通は逆の言葉かしら。男が女にかけるものだといいつつ、正直なのは男の身体のほうってね」
ちょんと先端をつつくと、屹立したそれはぴくりと小刻みに震えた。
「女の身体だったらいくらでも演技がきくものね。あは。まあ今のあたしは男の子の身体してるわけだけれど」
「させない」
紅と碧の瞳が混ざり合う。
「だめです。魔王さん……」
くぅ、と彼の体を押しのけて、ニンゲンは体を浮かせる。
ぼたぼたと暖かい液体がこぼれ落ちていた。
「僕はまだ魔王さんと一緒にいたい……すごく気持ちよくなりたいのに、それが魔王さんとのお別れになるんなら……そんなのヤだ……」
神を慰撫するための巫女。
それが勇者。そしてそれをすれば神の余剰である魔王が滅びるというのであれば、それは許せることなんかじゃない。
魔王さんが消えてしまうだなんて許せるはずがない。
「僕は魔王を倒すための勇者じゃない。魔王のそばにいるただの居候でいたい」
けれど、ふと訪れたのは優しい口づけ。
浴場でのそれとは違う、彼からしてくれる口づけだ。
「……ばか」
「きっと昔の俺も、勇者を愛していたのだろうな。そいつを消したくないって思うほどに」
終わってしまう……
すべてが終わってしまう。
世界? そんなものはどうだっていい。
なのになぜだろう。どうしてだろう。
「だめ……だめだよぅ……」
鈍い痛みが腰のあたりをじんとしびれさせる。
頭ではわかっているのに、身体はその快楽の先を求めてしまう。
「んっ……っはぁう。もぅ、やめ……だめ……」
(だから、身をゆだねてしまえばいいのに)
心の中で何かがささやいている。ひくひく震える体はもうどうしようもないくらいに彼を求めてる。
けれど。
させない。
させてはならない。
茫洋とした視界のすみに一昨日飾った花瓶が見えた。ビーしゃんと一緒に作った花瓶だ。それを使うのは忍びないけれど、そうもいっていられない。
自由になる左手で毛布を投げた。わずかに蒼い輝きが瞳にともる。狙ったように花瓶は砕けて近くに破片をまき散らした。
「ちょっと、あんたなにを……」
「こうするんですよ」
躊躇することなくそれを真っ白な太股に突き刺した。
とがった破片はそれほど深くは傷を作らないが、それでも明確な痛みと出血をもたらす。
真っ白な太股に赤い花が散る。
「バカだおまえは……」
つぅっと息を潜めているニンゲンをしりめに、魔王はこぼれ落ちる鮮血をなめとった。暖かい舌が太股をなでる。
痛みと熱。そして。
くちゅりと卑猥な音を立て始める。
すでに赤の拘束はとけていた。気付けがきいたのかニンゲンのほうはもう大丈夫だ。けれど。
眼下にある姿。太ももの血をなめとる魔王さんの様子がおかしい。
先ほどまであんなに落ち着いていたというのに、止血のための口づけは血をなめとっただけではおさまらず、そのままむさぼるように血を吸われている。
このままではいけない。きっと赤はもう大丈夫だと思って身を引いたのだ。
血を契機に変わってしまった魔王さんは、訳がわからないようになりながら太ももをなめている。優しくついばむように。
それはきっとこの体を求めてくるのだろう。
それでは魔王は封印されてしまう。この城だけが滅んでしまう。
なら、正気に戻すにはどうする。
「がつんと味わってもらいましょう」
勇者は魔王の顔を両手でつかむとそのまま、その赤い血で濡れた唇をうばった。
最後はその後と終章ってやつですね。




